ラームモーハン・ローイ(1772-1833)は近代インドの父と
いわれる。M.ガンディーはインド独立の父だが、偉大な思想家であり行動の人であった点で、ガンディーの先駆者的存在と言える。バラモンカーストだが、
ローイは生涯を掛けて社会的、宗教的、知的、政治的改革に尽力する。彼はカーストと因習が支配する同時代のインド社会の停滞と腐敗に心を痛めた。彼の生き
た時代、民衆の宗教は迷信に満ち、無知で腐敗した祭官によって食い物にされており、上層階級は己の利己的な利害のため社会的利益を踏みにじっていた。
社会、宗教的改革を目指したといえ、ローイは東洋の伝統的な哲学に対し多大の愛と敬意を持っていた。ローイは東洋と西欧の思想の融合を象徴しており、サン スクリット、ペルシア、アラビア語、英語、フランス、ラテン、ギリシア、ヘブライ語を含む十以上の言語に精通した学者でもあった。1814年にカルカッタ に居を定めた彼は、これ以降ベンガルのヒンドゥーの間に広まっていた宗教的・社会的悪習に対する根気強い闘いを続けていくことになる。
ローイに は西欧の宣教師の友人もいたが、彼のヒンドゥーの因習に対する批判姿勢を見た西欧人が期待したようにキリスト教に改宗はせず、近代合理主義精神をキリスト 教にも適用すること(例えば奇跡に関する物語)を譲らなかったため、宣教師たちからは失望よりも敵意をかった。彼は西欧人宣教師による愚かな攻撃から、ヒ ンドゥーの宗教と哲学を断固として擁護する。同時に彼はヒンドゥー以外の宗教に対し、極めて友好的な姿勢を取った。ローイは基本的にどの宗教も共通した メッセージを説いているのであり、どの宗教に従う者も全て同胞であると信じていたのだ。
ローイが生涯掛けて取り組んだ社会悪に対する戦いの典型は、サティー(未亡人殉死)廃止運動だっ た。1818年を皮切りに、彼はこの問題への世論を喚起することに乗り出す。サティーは18世紀末から19世紀初頭にベンガル地域で特に多く行われた。 1815-28年の間、同地域で8,136件のサティーが記録されている。主にバラモンを中心とする高カーストの習慣であるが、シュードラカーストでも皆 無ではなかった。
ローイの義姉もサティーの犠牲者だった。バラモンカーストに属するローイの兄の妻は未亡人となったので、習慣に従い殉 死を決意する。ローイは反対したが、義姉の決意は変わらなかった。たとえ若くして未亡人となったバラモン女性は再婚も許されず、一生婚家で不吉な存在とし て食事もろくに与えられず、肩身の狭い思いで暮らさなければならなかったのだ。その生き地獄のような生活から抜け出すため、サティーを選んだ女性も少なく なかった。
ローイは義姉のサティーに立ち会っているが、その光景は生涯忘れられないほどの記憶を彼に刻み付ける。いかに決意したといえ、全身炎 に焼かれるのだから、苦痛のあまり絶叫し、火の燃えている薪から逃れようとするものの、親族の男たちが棒で義姉を炎に追いやり、側に控えていた楽隊の大楽 音が彼女の悲鳴をかき消す。慕っていた義姉の惨い死は、ローイにサティー廃止を決意させたといわれる。
ローイは最も古い聖典を引用しな がらヒンドゥー教の最良の教えはサティーの慣習に反対していると主張する一方、彼は人々の理性、人間性、憐れみの心に訴えた。また、カルカッタにある遺体 を焼く場を訪れ、寡婦の縁者たちに殉死の計画を放棄するよう説得に努めた。彼はサティーの遂行を監視し、寡婦へのサティー強制を防ぐため、考えを同じくす る人々を組織する。彼らの活動がついに実を結び、1829年ついにインド総督ベンティンクは、条例でサティーを禁止する。正統派ヒンドゥーは総督の措置を 認可しないようイギリス議会に嘆願書を出すが、ローイは対抗的な嘆願書への署名を開明的なヒンドゥーから募る。
彼は女性の権利の断固たる支持者 だった。女性の従属化を弾劾し、女性は知性や道徳面で男より劣っているという、一般的に見られた考えに反対した。一夫多妻や寡婦がしばしば追いやられた惨 めな状況にも彼の批判は向けられた。女性の地位向上のため、女に相続権と財産権が与えられるべきだ、とも主張する。
生涯に亘りローイは自己の大胆な改革運動のため、大きな犠牲を払った。正統派ヒンドゥーは彼の偶像崇拝批判やキリスト教、イスラムを哲学面で賛美したことを非難する。彼らはローイに対し社会的なボイコットを組織したが、それには彼の母親までが加わった!彼は異端者、アウトカーストという烙印を押された。
だが、彼は正しき大義を支持することを躊躇わなかった。一生を通じ彼は個人的な損失や苦難を省みずに、社会的な不正や不平等と戦った。社会のために捧げた 人生の中で、彼は自分の家族、富裕な地主、有力な宣教師たち、高官や外国の権威と衝突することも度々あった。しかし彼は決して怯まず、自ら選び取った道か ら一歩も引かなかった。
“マハートマー”偉大なる魂、といえばガンディーを思い出される方々が大半だが、ローイもまたその精神に劣らない。「インド独立の父」に隠れた存在だが、もう少し知られてもよさそうな人物である。
※参考:「近代インドの歴史」山川出版社、ビパン・チャンドラ著
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社会、宗教的改革を目指したといえ、ローイは東洋の伝統的な哲学に対し多大の愛と敬意を持っていた。ローイは東洋と西欧の思想の融合を象徴しており、サン スクリット、ペルシア、アラビア語、英語、フランス、ラテン、ギリシア、ヘブライ語を含む十以上の言語に精通した学者でもあった。1814年にカルカッタ に居を定めた彼は、これ以降ベンガルのヒンドゥーの間に広まっていた宗教的・社会的悪習に対する根気強い闘いを続けていくことになる。
ローイに は西欧の宣教師の友人もいたが、彼のヒンドゥーの因習に対する批判姿勢を見た西欧人が期待したようにキリスト教に改宗はせず、近代合理主義精神をキリスト 教にも適用すること(例えば奇跡に関する物語)を譲らなかったため、宣教師たちからは失望よりも敵意をかった。彼は西欧人宣教師による愚かな攻撃から、ヒ ンドゥーの宗教と哲学を断固として擁護する。同時に彼はヒンドゥー以外の宗教に対し、極めて友好的な姿勢を取った。ローイは基本的にどの宗教も共通した メッセージを説いているのであり、どの宗教に従う者も全て同胞であると信じていたのだ。
ローイが生涯掛けて取り組んだ社会悪に対する戦いの典型は、サティー(未亡人殉死)廃止運動だっ た。1818年を皮切りに、彼はこの問題への世論を喚起することに乗り出す。サティーは18世紀末から19世紀初頭にベンガル地域で特に多く行われた。 1815-28年の間、同地域で8,136件のサティーが記録されている。主にバラモンを中心とする高カーストの習慣であるが、シュードラカーストでも皆 無ではなかった。
ローイの義姉もサティーの犠牲者だった。バラモンカーストに属するローイの兄の妻は未亡人となったので、習慣に従い殉 死を決意する。ローイは反対したが、義姉の決意は変わらなかった。たとえ若くして未亡人となったバラモン女性は再婚も許されず、一生婚家で不吉な存在とし て食事もろくに与えられず、肩身の狭い思いで暮らさなければならなかったのだ。その生き地獄のような生活から抜け出すため、サティーを選んだ女性も少なく なかった。
ローイは義姉のサティーに立ち会っているが、その光景は生涯忘れられないほどの記憶を彼に刻み付ける。いかに決意したといえ、全身炎 に焼かれるのだから、苦痛のあまり絶叫し、火の燃えている薪から逃れようとするものの、親族の男たちが棒で義姉を炎に追いやり、側に控えていた楽隊の大楽 音が彼女の悲鳴をかき消す。慕っていた義姉の惨い死は、ローイにサティー廃止を決意させたといわれる。
ローイは最も古い聖典を引用しな がらヒンドゥー教の最良の教えはサティーの慣習に反対していると主張する一方、彼は人々の理性、人間性、憐れみの心に訴えた。また、カルカッタにある遺体 を焼く場を訪れ、寡婦の縁者たちに殉死の計画を放棄するよう説得に努めた。彼はサティーの遂行を監視し、寡婦へのサティー強制を防ぐため、考えを同じくす る人々を組織する。彼らの活動がついに実を結び、1829年ついにインド総督ベンティンクは、条例でサティーを禁止する。正統派ヒンドゥーは総督の措置を 認可しないようイギリス議会に嘆願書を出すが、ローイは対抗的な嘆願書への署名を開明的なヒンドゥーから募る。
彼は女性の権利の断固たる支持者 だった。女性の従属化を弾劾し、女性は知性や道徳面で男より劣っているという、一般的に見られた考えに反対した。一夫多妻や寡婦がしばしば追いやられた惨 めな状況にも彼の批判は向けられた。女性の地位向上のため、女に相続権と財産権が与えられるべきだ、とも主張する。
生涯に亘りローイは自己の大胆な改革運動のため、大きな犠牲を払った。正統派ヒンドゥーは彼の偶像崇拝批判やキリスト教、イスラムを哲学面で賛美したことを非難する。彼らはローイに対し社会的なボイコットを組織したが、それには彼の母親までが加わった!彼は異端者、アウトカーストという烙印を押された。
だが、彼は正しき大義を支持することを躊躇わなかった。一生を通じ彼は個人的な損失や苦難を省みずに、社会的な不正や不平等と戦った。社会のために捧げた 人生の中で、彼は自分の家族、富裕な地主、有力な宣教師たち、高官や外国の権威と衝突することも度々あった。しかし彼は決して怯まず、自ら選び取った道か ら一歩も引かなかった。
“マハートマー”偉大なる魂、といえばガンディーを思い出される方々が大半だが、ローイもまたその精神に劣らない。「インド独立の父」に隠れた存在だが、もう少し知られてもよさそうな人物である。
※参考:「近代インドの歴史」山川出版社、ビパン・チャンドラ著
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いい記事を読ませていただきました。
立派な人もいたものだ、と、検索したのですが、困った時のWikiすらヒットせず、ゆえにここの記事はたいへん貴重だと思いました。
人間、特権を享受する側にいれば、虐げられたものの痛み苦しみを思いやるのは容易ではないでしょうに、たいした人物です。
義姉のサティーに立ち会ったのがきっかけとはいえ、同じ光景を見ても何の痛痒も感じなかった男たちがほとんであったことを思えば、奇跡のような存在に思えます。
いい人物の存在を知ることができました。
感謝ですw
この人物に関してはwikiの英語版では紹介されています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ram_Mohan_Roy
私もたまたま図書館にあった『近代インドの歴史』(山川出版社、ビパン・チャンドラ著)を見なければ、ラームモーハン・ローイのことを知らなかったでしょう。彼の他にもインドの社会改革運動家の中には、身内の女性をサティーで亡くした人物がいたのです。
記事にも書いたとおり、ローイは西欧の学問もある大変なインテリです。にも拘らずサティー廃止に奔走したというのはスゴイ。当時のバラモンには「教育を受けた女は未亡人になる」と説いていた者も少なくありませんでしたが、ローイのような人物もいたのは救いです。
サティーとは貞女の意味もあり、「貞女、二夫にまみえず」などモロに男のエゴですよね。ローイのような身分ならばいくらでも男のエゴを貫けたはず。それを放棄してまで“近代インドの父”になったのだから、インド史上でも稀有な人物でしょう。
本文でもある通り凄い教養の持ち主で社会的地位も
高いのにもかかわらず、大事なものを沢山失うようなマネまでして本当に大したものです。
>「貞女、二夫にまみえず」などモロに男のエゴですよね
正直子の感覚イマイチ理解できないんですよね。
生きてるうちは(実際やらないけど)いい女とっかえひっかえしつつ、正妻もきっちり確保しておくぜ!みたいな願望は理解できるんですけど、
死んだら、一緒にいたいと思うくらい好きな人物なのだから自分が死んだ後も相応に幸せになってもらいたいというのが大多数だと思うんですよね
輪廻転生の国だから速やかに死んでもらって、速やかに生まれ変わって、速やかに夫婦にまたなろう!
という願望なのでしょうか?夫の家族にしたって
何年も暮せば嫁にだって相応に親しみや愛情も湧く
でしょうに。持参金の問題もあるは理解できますが
何とも承服できない因習ですねえ。
サティーについて書いたことがありますが、この背景には宗教や伝統以外に金銭が強く絡んでいるのです。夫が男児を儲ける前に死ぬと、慣習として未亡人は財産相続の権利を持ちますが、サティーにより剥奪が出来るのです。金銭が絡めば解決は難しいでしょう。