真田氏を調べながら、つい横道にそれて
なぜか信玄公を調べ出したりして・・・
武田信玄公と勝頼公については
劇団本公演「川中島、カケル!」の執筆で
随分調べたんだけどね。
今回改めて興味を持ったのは信玄公の名言。
『 およそ軍勝五分をもって上となし、
七分を中となし、
十分をもって下となす。
そのゆえは、五分は励みを生じ、
七分は怠りを生じ、
十分は驕りを生ずるがゆえ、
たとえいくさに十分の勝ちを得るとも
驕りを生ずれば、次には必ず敗れるものなり。
すべて戦いに限らず、世の中のこと、
この心がけ肝要なり。 』
この遺訓、どこかで聞いたことはあったけど
インプットしていなかった。
勝負はぎりぎりで勝つのがちょうど良いと。
次は負けてしまうかもしれないと思い
稽古に力が入るからだとか。
圧勝すると、油断や甘えが生まれ
次は負ける確率が上がるそうで。
腹八分目は知ってるけど、軍勝五分とは・・・
五分は引き分けで勝負つかず・・・だと思ってた。
が、勝てば奢る心が生じるのは世の習い。
奢らず、常に次なる高みを目指し精進を重ねる――
何にでも通じることですね。
この遺訓が生まれた背景には下記の僧侶の教えが!
■快川(かいせん)紹喜
美濃国出身。
長良の崇福寺で修業、臨済宗の妙心寺でも修業を重ねた名僧。
信玄の要請で1555年、恵林寺住持として入山。
一年余りの滞在で崇福寺に戻るが
信玄の再度の要請で崇福寺住持を辞し恵林寺に再入山。
快川は晩年の信玄の心の支えとなり
また禅学の師として人間形成に大きな影響を与えた。
上記遺訓は、快川が説く、ゆとりの思想の表れでもある。
武田の軍旗とされ「風林火山の旗」の名で親しまれる孫子の旗は
この快川紹喜の筆によるものと伝えられる。
快川和尚は、恵林寺で織田軍の焼き打ちにあったとき
心頭を滅卻すれば 火も自ら涼し
と言い、燃え盛る炎の中で静かにあの世へ・・・
実は「マレビト」に登場した和尚さんに
言わせた台詞だったりする。
快川和尚はこの逸話が有名だが
信玄公にも多大な影響を与えていた。
人は、環境によって形成される。
人は、影響を受けて形成される。
どんな人と縁して、どんな環境に身を置くか―
あーっ!
真田氏に戻らねば…
なぜか信玄公を調べ出したりして・・・
武田信玄公と勝頼公については
劇団本公演「川中島、カケル!」の執筆で
随分調べたんだけどね。
今回改めて興味を持ったのは信玄公の名言。
『 およそ軍勝五分をもって上となし、
七分を中となし、
十分をもって下となす。
そのゆえは、五分は励みを生じ、
七分は怠りを生じ、
十分は驕りを生ずるがゆえ、
たとえいくさに十分の勝ちを得るとも
驕りを生ずれば、次には必ず敗れるものなり。
すべて戦いに限らず、世の中のこと、
この心がけ肝要なり。 』
この遺訓、どこかで聞いたことはあったけど
インプットしていなかった。
勝負はぎりぎりで勝つのがちょうど良いと。
次は負けてしまうかもしれないと思い
稽古に力が入るからだとか。
圧勝すると、油断や甘えが生まれ
次は負ける確率が上がるそうで。
腹八分目は知ってるけど、軍勝五分とは・・・
五分は引き分けで勝負つかず・・・だと思ってた。
が、勝てば奢る心が生じるのは世の習い。
奢らず、常に次なる高みを目指し精進を重ねる――
何にでも通じることですね。
この遺訓が生まれた背景には下記の僧侶の教えが!
■快川(かいせん)紹喜
美濃国出身。
長良の崇福寺で修業、臨済宗の妙心寺でも修業を重ねた名僧。
信玄の要請で1555年、恵林寺住持として入山。
一年余りの滞在で崇福寺に戻るが
信玄の再度の要請で崇福寺住持を辞し恵林寺に再入山。
快川は晩年の信玄の心の支えとなり
また禅学の師として人間形成に大きな影響を与えた。
上記遺訓は、快川が説く、ゆとりの思想の表れでもある。
武田の軍旗とされ「風林火山の旗」の名で親しまれる孫子の旗は
この快川紹喜の筆によるものと伝えられる。
快川和尚は、恵林寺で織田軍の焼き打ちにあったとき
心頭を滅卻すれば 火も自ら涼し
と言い、燃え盛る炎の中で静かにあの世へ・・・
実は「マレビト」に登場した和尚さんに
言わせた台詞だったりする。
快川和尚はこの逸話が有名だが
信玄公にも多大な影響を与えていた。
人は、環境によって形成される。
人は、影響を受けて形成される。
どんな人と縁して、どんな環境に身を置くか―
あーっ!
真田氏に戻らねば…