政治家「又市征治」という男

元政治記者の私が最も興味を持った政治家、それが又市征治だった。その知られざる人物像に迫る。

野党共闘の実現

2007年07月16日 | Weblog
 又市征治の平和への思いは強い。
 しかし、又市が社民党の幹事長に就任した平成15年から、社民党は衆議院でも参議院でも議席数は一ケタという少数政党になっていた。
 又市は労働組合で培った経験から、闘い方を良く知っていた。
 ただでさえ小さな勢力が巨大与党に立ち向かおうとするとき、バラバラに闘ったのでは、すぐに突き崩される。力を合わせて立ち向かわなければならない。
 平成15年末に社民党幹事長に就任してから、ますます又市は野党共闘に力を注いでいった。課題別にではあるが、与党の横暴に対し、野党が一致してこれに当たろうと又市は奔走した。

 これは言うのは簡単だが、実際には多くの障害があった。
 当時の民主党の代表は岡田克也。「政策ロボ」とあだ名されるほどの政策通だが、自分の理念ばかりを先行させ、喧嘩の仕方を知らない「優等生」タイプの堅物である。自民党出身である岡田が理念を先行させれば、結局は自民党に引きずり込まれる。平成16年の年金制度改革では、自民、公明との三党協議に巻き込まれた挙句、衆議院では民主党は年金法案に賛成したほどである。自民にとっては扱いやすい相手だった。
 一方の共産党は相変わらずの「唯我独尊」路線で、他党と同じテーブルに着こうとはしない。
 普通ならば野党共闘など、あり得ない話だった。

 しかし又市はあきらめなかった。止めなくてはならないことが多くあったのだ。
 平成16年6月、イラクに派遣されていた自衛隊が多国籍軍に編入された。サマワの宿営地に、たびたび迫撃砲弾やロケット砲弾が撃ち込まれ、派遣部隊の隊員は危険にさらされていた。10月にはイラク暫定政府がイラク全土に非常事態宣言を発令し、イラク全土が「戦闘地域」となっていた。翌11月には、日本人男性が惨殺されたが当時、小泉純一郎はアメリカの要求に従い、12月までとなっていたイラクへの派遣期間を1年間延長しようとしていた。

 民主党はこの間、態度を二転三転させていた。イラクからの撤退を主張したかと思えば、今は撤退する時期ではないと言い出す。ところが、すぐ後にまた即時撤退を要求するなど、支離滅裂な迷走を続けていた。民主党もまた政権を意識するあまり、アメリカの顔色を窺うようになっていたのだ。
 しかし世論は圧倒的に「撤退」を支持していた。又市は民主党にこう迫った。

 「イラク特措法そのものを廃止する法案を出すべきだ。世論を喚起するためにも共産も含め3党で廃止法案を出そうじゃないか。」

 イラク特措法では、派遣の基本計画の変更は国会にかける必要があるが、報告だけで良く、承認を得る必要はなかった。その特措法そのものを廃止してしまえば自衛隊のイラク派遣は根拠を失う。民主党は迷ったが、世論の「撤退」の声を逃がしたくなかった。
 一方で又市は、共産党へも働きかけた。共産党は民主党と一緒にやることを渋ったが、又市は逆にこう突き放した。

 「分かった。では2党だけでやってもいい。せいぜい取り残されないようにするがいい。」

 共産は痛いところを突かれた。共産と同じく、一貫してイラク派遣に反対してきた社民が、民主の態度も決めさせた。そこに乗り遅れれば、共産は取り残されてしまう。共産はあわてて追いすがり、仲間に入れてもらう形になった。

 ついに又市は、3野党による幹事長・国対委員長会談を実現させた。民主の川端、共産の市田、そして社民の又市らが一同に会し、イラク特措法の廃止法案を3党共同で提出することを発表した。さらに極めて異例なことに、この問題についての議論を避ける小泉内閣に対して、野党の側から臨時国会の会期延長を求めた。

 この動きに対して小泉は逃げまわった。
 野党が結束して法案まで出してきた。その法案に世論の大多数が賛成している。もう「自衛隊のいるところが非戦闘地域」などという詭弁は通用しなかった。
 小泉は、国会の会期延長を拒否し、野党の法案についても審議を拒み続けた。そして会期末を待って、ようやく派遣期間の延長を閣議決定した。臨時国会が終わってから翌年の通常国会までは約1ヵ月半。その間ひたすら逃げ、この話が風化するのを待って国会に報告しようという姑息な魂胆だった。
 
 又市征治が描き、奔走して実現させた野党共闘は、あの小泉をそこまで追い込んだのだ。
(敬称略)

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平和への思い

2007年07月11日 | Weblog
 前にも書いたが、又市征治の幼少期は苦難と貧困の日々だった。又市の父は戦争中、軍のトラックによる事故で脚を奪われ、さらに翌年の空襲で家は焼失した。苦労を一身に背負い、必死で家族を支えてきた母は又市が7歳のときに病死した。又市の妻は長崎の原爆で父を亡くし、そのために幼くして二度、養女に出されている。

 「自分たちのような思いを、絶対に子どもや孫の世代に味わわせたくない。」

 又市はその一念で、長く護憲運動、平和運動に取り組んできた。憲法記念日によく見かける意見広告運動も、ずいぶん前から地元で、又市が中心となって地元で取り組んでいた運動が、各地に広がったものだという。
 国会議員となり、後に党幹事長になってからも、国会の内外を問わずこの運動に取り組んできたのは言うまでもない。ただし「護憲」「平和」を掲げるにしても並みの議員とは違うのが、又市征治という男である。

 又市は平成16年5月、社民党訪中団の団長として中国へ向かった。社民党と中国共産党とは長い付き合いであることは言うまでもないが、又市は「仲良しこよし」のために行った訳ではない。正に「主張する外交」のために行ったのだ。

 又市は憲法9条を守るためには、ただ「守れ」ではなく、周辺諸国との関係を良好なものにし、「攻められたらどうする」というような不安や、そう国民に思わせる条件を取り除くことが重要だと考えていた。
 社民党には以前から「北東アジア総合安全保障構想」というビジョンがある。平たく言えば、お互いに攻撃しないという約束を多国間で行い、あくまで話し合いでの問題解決を図るという内容である。
 又市はこの構想を「六者会合(六カ国協議)」に取り入れようと、議長国である中国に対し、またも直談判に及んだのである。

 応対したのは、中国共産党の外交政策を司る王家瑞、同党の最高幹部級の呉官正など、そうそうたる顔ぶれだった。
 もちろん、一労組役員だった時代に自民党幹事長に直談判に出るような又市である。相手が誰であろうと気後れはない。又市は自らの主張を堂々と述べ、3日がかりで交渉を重ねた。3日目、呉官正が次のように言った。

 「私たちは、あなたの主張を全面的に支持する。」

 又市は中国を説き伏せたのだ。

 翌17年8月末、六者会合の議長を務める武大偉が社民党本部を訪れ、こう言った。

 「今度の会合に6カ国の共同声明を出す予定だが、そのときに又市幹事長が言っておられた構想を実現するための項目を盛り込む予定だ。その報告と感謝を申し上げるために来た。」

 この日、武大偉が訪れたのは自民党と社民党だけ、他の政党は蚊帳の外だった。

 しかし武大偉が会いたがっていた又市はそのとき、総選挙の応援で地方を飛び回っていたため会談は実現しなかった。武大偉はそのことをとても残念がった。

 総選挙が終わった翌週、共同声明に次の項目が盛り込まれた。

 「六者は、北東アジア地域の永続的な平和と安定のための共同の努力を約束した。」
 「直接の当事者は、適当な話合いの場で、朝鮮半島における恒久的な平和体制について協議する。」
 「六者は、北東アジア地域における安全保障面の協力を促進するための方策について探求していくことに合意した。」

 この共同声明の「合意」は、あくまで「六者」である。又市は中国を説得しただけでなく、日本も韓国も北朝鮮もロシアも、そしてアメリカまでも動かしたのである。
 又市は、外交面でも卓抜した政治家なのだ。

 「憲法9条を守ろう」と言うだけの議員ならば、今も多くいるが、その主張は、緊張が残る東アジア地域では非現実的だという批判を受けることがある。
 又市は、その根本的な問題である「緊張」を緩和するために自ら他国と交渉し、その条件整備を進め、実効ある成果を挙げてきた。
 又市を見ていると「護憲」や「平和」は決して非現実的なものではないと思えてくるし、又市らの主張を批判する人々が、「緊張」という問題の解決を、初めからあきらめてしまっている、情けない存在に思えてくる。

 又市のような気概を持つ議員や外交官が増えれば、外交力で平和を維持することも決して困難ではないだろう。
(敬称略)

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又市征治の素顔

2007年07月09日 | Weblog
 又市征治と言えば、厳しい顔のイメージが強い。特に、テレビの国会中継や討論番組で、政府与党を追及する姿は本当に厳しいものがある。
 だが、本当の又市を知ったとき、その厳しさの本当の理由を知ることができるだろう。

 又市征治が国会議員になったのは平成13年の夏だった。その秋、又市の妻の養父、つまり義父が急に入院することになった。義父は風邪気味だったが、肺炎を併発していたという。80代半ばの人間にとって肺炎は致命的である。義父は鼻腔に酸素吸入のチューブを差し込まれ、点滴を数箇所に差し込まれた状態で、富山の日本赤十字病院のベッドに横たえられていたという。

 幸い命は取りとめたものの、意識は朦朧としたままだ。義父は眠っていないときは、苦しみのあまり呻き声をあげ、チューブや点滴の管を引きちぎろうとした。24時間体制の付き添いが必要だった。
 昼間は、又市の妻と義母が交代で付き添ったが、問題は夜だった。又市はすすんで義父の付き添いをした。折りしも臨時国会は終わり国会は閉会中だったが、だからといって決して暇なわけではない。国政報告会や講演など朝から晩までスケジュールはびっしりと詰まっていた。それでも、又市は日程を終えるとすぐに病院に駆けつけ、幾晩も泊り込んで義父の看病をした。もちろん、ほとんど寝る時間はなかった。

 医師は当初、義父の命について「最善を尽くしますが、もしものときは・・・」と覚悟を促したが、又市やその家族の献身的な看護の甲斐あってか、義父は一命を取りとめたばかりか、数ヵ月後には退院し、今は元気に過ごしているという。
  
 このように情に厚い又市の一面を、私は生で見たことがある。それは平成17年の夏の出来事だった。
 ある暑い日、国会議事堂をデモ隊が取り囲んでいた。しかしその光景は見なれたデモの姿ではなかった。いわゆる「障害者自立支援法案」に反対する障がい者とその家族の列だったのである。

 又市はその日、彼らを激励するために参議院側の議員面会所に立っていた。横には、同じ社民党の近藤正道や、他の野党の議員が並んでいた。デモ参加者はこう懇願していた。

 「お願いです。私たちの生活を守ってください。こんな法律、やめさせてください。お願いします。」

 又市はハンドマイクで彼らを激励していた。が、与党に対してよどみなく追及をぶつける、いつもの又市の姿は、そこにはなかった。又市は話し終えるとすぐに後ろを向き、眼鏡を上げてハンカチで何度も顔を拭っていた。汗を拭いていたのでないことはすぐに分かった。

 あの又市征治が泣いていたのだ。

 暑さの中、全国から何千人もの人々が車椅子に乗り、あるいはその車椅子を押し、国会の周りをまわっている。ここまで来るまでも大変だっただろう。
 又市の父親も、又市が生まれる直前に事故で脚を失っている。そのために苦しい生活を経験してきたし、又市にはその家族の気持ちは痛いほど分かるのだろう。そのことが辛かったのか、それとも政府与党が、このような非道な法案を押し通そうとしていることへの怒りだったのか、私には分からない。

 一つ言えることは、又市が国民の痛みに心の底から涙を流す政治家だということである。だからこそ福祉財源に充てるために懸命だったのだ。
 このような政治家が何人いるだろうか。

 もしもっと多くいれば、あのような法案は成立しなかっただろうし、今のような社会になっていなかっただろう。
(敬称略)

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20兆円の男

2007年07月08日 | Weblog
 又市征治は、福祉予算をひねり出そうと、特別会計を徹底的に調べ上げた。
 調べれば調べるほど出てくるのは、驚くほどずさんな実態だった。国会もまともに監視をしない莫大な金は、大きな腐敗も生んでいた。この特別会計は、各省庁が既得権益として抱え込んだ「余剰金」「積立金」「繰越金」など様々な名目の金が埋められていた。また不透明な金の流れは、利権や天下りの温床となっていた。

 「これだけの金をまわせば、増税や負担増などしなくても良い。いや、もっと国民の生活に還元できる。いま苦しんでいる人々を救うことができる。」又市はそう確信していた。

 又市の試算では、少なく見積もっても10年間で総額65兆円を繰り出すことが可能だった。これは一般会計の純支出の約2年間分に匹敵するほどの膨大な金額である。

 しかし前述の通り、自民・公明・民主はこれに消極的だったし、共産党も、防衛費と公共事業の見直しというワンパターンの主張を繰り返すだけだった。彼らを動かさなければ、折角の財源も動かすことはできなかった。

 又市が最初に特別会計に注目したのは、行政監視委員会に所属していたときだった。この行政監視委員会は、幅広く行政をチェックすることを目的とし、どの大臣にでも質問をすることができた。そこで、又市は省庁の無駄遣いや天下りについて追及を重ねたが、そこで必ず背後に浮かび上がる特別会計の存在に目を向けるようになったのだ。
 その後、同じ党の田嶋陽子の辞職により、又市は田嶋が担当していた決算委員会に所属することになる。予算で優位権を持つ衆議院に対して、参議院は決算を重視する。そこで又市は、決算という「実際に金がどう使われたか」を徹底的に調べ上げていったのだ。

 又市は毎回のように特別会計に関して質問に立ち、徹底的に追及した。又市は質問回数が多い議員だが、その中でも特別会計についてだけで計50回以上の質問を行っている。
 こうした又市の質問には最初、与党などからは心ないヤジが飛んだが、次第に雰囲気は変わっていったという。又市が具体的な問題点を次々と明らかにするたび、逆に与党からも「本当か」「そりゃひどい」という声が漏れ始めた。それどころか、又市の発言中、しきりにメモを取る他党の議員も目に付くようになった。それほど又市の追及は説得力を持っていたし、影響力を持つようになっていた。
 
 そこで又市は各党に、ある提案をする。
 委員会としての「警告決議」と「措置要求決議」をあげようとしたのである。決算は否決したところで復元することはできない。与党が多数であり否決されることもないが、今のままではダメだということは誰もが感じていた。又市はそれを形にして内閣に突きつけようとしたのだ。

 「警告決議」が採択されれば、内閣は次の予算編成でこの決議内容を反映させなければならないことになる。また「措置要求決議」は警告よりは弱いが、これも無視はできない。それほど重要な決議だった。

 ただし、この決議は委員長による提案、全会一致が原則だった。つまり与党も納得させなければ効力を持たないのだ。又市はこの決議をまとめるために奔走した。もちろん難色を示す議員もいたが、この問題に徹底的に取り組んできた又市の知識と説得力は、並みの議員の及ぶところではない。
 結果、平成16年、17年の2度にわたって、参議院決算委員会は、内閣に対する警告決議と措置要求決議を採択した。もちろん自民から共産、無所属まで全会一致の決議だった。 

 その決議を反映させた平成18年度予算には、5年間で合計20兆円を特別会計から一般会計に繰り入れることが盛り込まれた。
 又市は、実に20兆円もの財源を捻出したのだ。又市の特別会計への着目については以前、自民党幹事長だった武部勤が「無駄はない。」と断言し、公明党幹事長だった冬柴鐵三が「一円も出ない。」と笑ったことがあったが、それから、僅か1年半で又市は、これだけの金を繰り出すことを政府与党に認めさせたのである。

 その数年前「100億の男」とかいうテレビドラマがあったが、私は密かに又市を「20兆円の男」と呼んでいる。増税も負担増も国民に課すことなく、20兆円もの財源を生み出す、これは偉業と言うしかない。

 ときの総理だった小泉純一郎は「改革の成果だ」と胸を張ったが、財務大臣の谷垣禎一は本当の功労者を知っていた。谷垣は又市に感謝を述べたという。

 「この財源は、又市さんのおかげです。ありがとうございました。」

 財務官僚も次々にお礼を言いに又市のもとを訪れた。しかし又市の答えはこうだった。

 「あなた方に、礼など言われたくない。」
 
 又市は怒っていたのだ。
 なぜか。又市がこの特別会計に切り込んだのは、福祉のためであり、国民生活を守るためだった。ところが財務省は、この20兆円を全て国の借金の返済に充ててしまい、一円も国民に還元しなかったのである。

 年金の国庫負担率を法律どおり、3分の1から2分の1に引き上げるのに年間2兆5千億円が必要だというが、又市の捻出した財源はそれを上回る年間4兆円である。ただちに国庫負担率を引き上げてもまだ1兆5千億円ものお釣りが来るはずだった。しかも、又市が主張したのは、5年で20兆円ではなく、10年で65兆円である。それを結局、省庁の抵抗で大きく目減りさせておきながら「成果だ」と誇る小泉内閣に、又市は怒っていたのだった。

 私は長く取材をしてきたが、又市征治ほど、国民の暮らしを真剣に考えている政治家はいない。
 幼い頃から苦労に苦労を重ねてきた人間だからこそ、今そこにある国民の苦しみが分かるのだろう。その又市が、まだ特別会計には財源が埋まっているという。

 何の苦労にも縁のない生活をおくってきた二世・三世の政治家たちが、一層の増税で、まだ国民を苦しめようと企てるようなご時世だからこそ、又市の存在は重要さを増していると言えるだろう。
(敬称略)

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国民生活と財源

2007年07月07日 | Weblog
 初当選を果たした又市征治は選挙中、「国民が求める改革とは、雇用創出と年金・医療・介護や福祉の拡充を中心とした《国民生活優先の政治》だ」と説いた。

 しかし、小泉構造改革によって大量のリストラ・失業が生み出されていった。また年金・医療・介護や福祉は「拡充」どころか、国民の負担は増やされ、給付は減らされていった。
 その後さらに定率減税の廃止、各種控除の見直しなども行われていく。

 又市は、地方の労働組合の一役員に過ぎなかった時代から、福祉に執念を燃やしてきた男である。このようなことを黙っていられるわけがなかった。

 「消費税を年金などの財源に」というのはよく聞くが、一定の財源さえ確保できれば、何も消費税を上げる必要はない。逆に充分な財源があれば、小泉が切り下げてきた年金や医療や介護、障がい者福祉などを回復することもできる。

 野党はその財源として、法人や高額所得者への減税措置をやめることや、防衛費削減や公共事業の見直しなどを挙げてきた。しかしこれらの策を導入しようとすれば与党は必死で抵抗するであろう。それこそ政権交代でもなければ無理だ。

 今そこで国民が苦しんでいる。そしてもっと苦しめられようとしている。悠長なことは言っていられない。そこで又市は特別会計に着目した。

 通常、国会で審議される国の予算は、一般会計と呼ばれるものである。金額にして約80兆円、純支出で35兆円弱のものである。しかし、これとは別に、長期的に取り組まなければならない事業などに充てるための特別会計という予算もある。この特別会計は金額にして約460兆円、純支出で約225兆円という膨大な予算なのだ。一般会計を表とし、特別会計を裏とするならば、裏が表の7~8倍という規模になる。これだけの予算が国会でろくに審議もなく執行されているのである。

 しかし、又市以外の議員は、これまでこの特別会計には触れようとしなかった。まず、この特別会計は恐ろしく複雑で難解だったのだ。どこからどう金が来て、どこへ行き、どう使われるのかということが、一見しただけでは全く分からないようになっている。さらにこれに触れようとすれば、特別会計を食い物にしてきた省庁や官僚たちの抵抗は大きい。どのような反撃が待っているかも分からない。さらに、特別会計には利権が絡むものも多くある。特定の企業へのばらまき補助金のようなものも多く潜んでいる。自民党や民主党のように政治献金を得ることに血道をあげるような政党ならば、そこにメスを入れるより、そこから献金を受け取る道を選ぶだろう。

 実際、自民党や公明党、民主党は、この特別会計に切り込むことに難色を示した。
 テレビの討論番組で、「特別会計に切り込んで、その無駄を国民に還元すべきだ。」と唱える又市に、自民党の幹事長だった武部勤は、「そのような無駄は一切ありません。」と即座に否定した。公明党の幹事長だった冬柴鐵三は、「どれだけやってみたって、一円も出てきませんよ。」と小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

 その頃、民主党の代表だった前原誠司にも、又市は「民主党は公務員給与2割削減と言うが、国の人件費を2割削っても1兆円しか出てこない。特別会計に切り込めば何兆円も出てくる。これを国民生活の向上に充てるべきじゃないか。」と言って協力を打診したことがある。これに対する前原の答えはこうだった。「そんなことより、公務員を叩いた方が票になりますから。」この前原をはじめ多くの民主党議員は、実際の効果より、票になるかならないか、ということにしか興味を示さない。

 こうした彼らの言動が又市の闘志に火をつけ、それをさらに燃えたぎらせていた。
 自身が唱えた《国民生活優先の政治》という「本当の改革」のために、又市は力を注いでいったのである。
(敬称略)

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新たなたたかいの舞台へ

2007年07月06日 | Weblog
 小泉フィーバーの下で行われた平成13年の参院選は、与党側の圧勝だった。
 自民党候補は、小泉と自分が映るポスターを掲げて、「一緒に改革を進めます」とさえ言えば票になった。
 開票作業の前から、各選挙区で自民党候補の当選確実が伝えられた。比例代表でも、桝添要一、大仁田厚、橋本聖子など知名度の高い候補者をそろえた自民党が大量得票を得た。

 比例代表は他党も著名人を出していた。民主党の大橋巨泉(後に辞職)、保守党の扇千景(現・議長)などタレント出身者が得票数のトップだった。社民党の比例代表候補にも田嶋陽子(後に辞職)、大田昌秀、田英夫という知名度の高い候補が名を連ねた。彼らに比べ、又市の知名度はお世辞にも高いとは言えなかった。
 社民党の比例代表の議席は3議席だった。50万票超を得た田嶋、40万票超を集めた大田が早々と当選確実を決めた。残る1議席は又市と田の接戦だった。

 ようやく又市の当確が報じられたのは、翌朝6時半頃だったという。
 このように大変な苦戦の末、又市は14万8千票を得て初当選を果たした。もちろんこれは又市にとってはゴールではなく、国会を舞台にしての新たなたたかいの始まりだった。
(敬称略)

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本当に怖いこと

2007年07月05日 | Weblog
 平成13年、又市征治が出馬を決意して全国を駆け回っているとき、低支持率にあえいでいた森喜朗内閣が退陣を表明する。夏の参院選に向けて民主党をはじめ野党は「押せ押せ」の感があった。
 そこに「本当の敵」が登場することになる。小泉純一郎である。

 4月、小泉は「自民党をぶっ壊してでも改革を!」と叫んで世論を味方につけ、総理総裁におさまる。組閣では、ワイドショー受けする田中眞紀子を外相に就け、ますます人気を博していく。

 このときの民主党の代表は鳩山由紀夫だった。それまで鳩山は「改革」を訴えて来たのに、小泉にお株を奪われた形となった。鳩山は「小泉さんのは本当の改革ではない」「私たちこそ本当の改革が実現できる」などと繰り返したが、その存在はかすんでいった。

 そもそも彼らの言う「改革」は、漠然としてとらえどころのない代物だった。何を変えるのか、どう変えるのかという議論もなく、「改革」といえば良いことだと思わされ、「改革に反対する者は抵抗勢力」という小泉に手を叩いた。まるでかつてのソ連や中国の「革命」「反革命」のようなものだったのだが、当時の国民はすっかり小泉の催眠術にかかっていた。

 しかし、又市はその頃、いち早くその「改革」の本質を見抜き、警鐘を鳴らしていた。

 「小泉首相の言う『改革』とは、国際的競争力のためと称して、あらゆる産業でリストラを徹底することであり《弱肉強食の競争社会づくり》をおし進める一方、憲法9条の改悪による《戦争のできる国づくり》を進めるものだ。」

 「いま国民が求める改革とは、雇用創出と年金・医療・介護や福祉の拡充を中心とした《国民生活優先の政治》と、世界政治の趨勢である《平和憲法を守り活かしていく政治》の実現だ。」
 
 又市が所属する社民党も、この参院選にあたってテレビCMを作った。そこには次のフレーズがあった。

 「本当に怖いことは最初、人気者の顔をしてやってくる。」「今しかない。戦前に戻らない道を。」 

 世論の、小泉小泉の大合唱の中、民放各局はこのCMの放映を拒否した。その頃、テレビでも、また新聞雑誌でも、小泉人気に水を差すものは敬遠されていた。
 今ほどインターネットも普及しておらずブログなどもない時代である。どれほど的を得た批判や評論であっても、メディアで取り上げられなければ注目されることはなかった。
 マスメディアを味方に付けた小泉純一郎という「本当の敵」は、大変な強敵だった。

 こうして平成13年の参院選は、与党優位のまま投票日を迎えることになる。
(敬称略)

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本当の敵

2007年07月03日 | Weblog
 平成13年正月、又市征治が初めて比例代表候補として参院選への出馬を決意したとき、自治労の内部は上を下への大騒ぎとなったという。「民主党の現職がいるのに、又市が社民党から出るとは何事か。」というわけである。

 自治労本部は又市らを抑え込もうとした。社民党から又市に出馬要請に行った当時の渕上貞雄幹事長に対して「要請を取り消せ」と激しく抗議した。そして又市は「異端」扱いだった。

 経歴を比べてみれば、民主党の現職だった朝日は医者であり労働運動とは縁遠い人物である。一方、又市は40年近い歳月を労働運動に費やし、30歳の頃から書記長として活躍し、貢献してきた「たたき上げ」である。どちらが組合員を守ってくれる人間であるかは一目瞭然だと思うが、だからこそ自治労本部は、支持を集めかねない又市という男の存在に神経を尖らせていたのかもしれない。

 走り出したら止まらないのが又市である。腹をくくった以上、期待を裏切るわけにはいかない。とにかく駆け回って支持を訴えるしかなかった。
 200日間、又市は休む間もなく日本中を飛び回った。1人や2人の職場から1万人の集会まで、その訪問先は6千8百余りにのぼったという。何しろ日本中、移動だけでも大変である。交替で受け持つ二十代、三十代の随行者でも一週間が限界という強行スケジュールを、又市は気力で乗り切った。もとより、小学生の頃から不眠不休で働き続けてきた又市である。使命感を糧として、正に東奔西走を続けた。

 ある組合を訪ねて行ったときのことである。民主党支持者たちが又市を入れさせまいと入口を塞ぎ、又市は足止めをくった。こうしたことは、あちこちであった。当然、周囲の者は怒りをあらわにしたが、又市はこうなだめたという。

 「同じ組合員、同じ働く仲間じゃないか。いがみ合ってどうする。彼らだってそれだけ一所懸命なんだ。いいじゃないか。本当の敵は別のところにいるだろう。」

 そして又市は、行く手を阻む相手に「ご苦労様です。」と言って立ち去ったという。

 又市は豪胆で喧嘩の仕方も知っている。しかし同時に大局を見ることができる男である。
 又市にとっても、民主側についた人々にとっても、本当の敵は政権与党だった。又市は福祉や平和、そして仲間のことを考えたとき、その「本当の敵」である与党と本当に対決することができる社民党を選んだだけだ。

 そこで又市を排除しようと頑張る人々も、又市にとっては「守るべき仲間」だったのである。

 そうした又市の思いをよそに、又市は自治労「たたき上げ」でありながら、いまだに「異端」扱いされ、自治労から「公認(協力議員)」扱いされず、そのために連合からも推薦されていないという。

 彼らは自分たちの「本当の敵」を見誤っていた。又市の動きに神経を尖らせるあまり、「本当の敵」がすぐそこまで迫って来ていることを見落としていたのだ。
(敬称略)

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押し出すはずが、押し出され

2007年07月02日 | Weblog
 平成12年の法改正によって、参議院比例代表選挙は候補者名を書く制度となったが、これにより各政党は数万~数十万人に名前を書いてもらえるような候補者を擁立する必要に迫られた。結局は、タレントなどの著名人か、それなりの支持団体を持つ人かに絞られていく。

 支持団体といえば労働組合も挙げられるが、当時、連合に加盟する多くの労働組合が民主党支持へと流れていった。又市征治がいた自治労も、本部をはじめ多くの組織が民主党に流れたが、又市の地元・富山をはじめ十数県の県本部では、「保守政党化し、まともに与党と対決しない民主党では組合員を守ることはできない」ということから社民党支持を打ち出していた。民間でも、まじめに運動に取り組んでいたところほど、社民党支持を貫いていたようである。

 社民党は、こうした労働組合の支持を集めることができる候補を望んでいた。またその頃、又市ら労働組合側の有志も候補者を出さなければならないと考え、候補者擁立に向けて協議を重ねていた。
 しかしこのとき又市は、自らが候補者になるとは全く考えていなかったという。

 又市は、30代半ば頃から、国政選・地方選を問わず、何度も出馬するのではないかと取り沙汰されてきた。本人にその欲があれば、とっくに議員になっていただろう。だが、いつも又市は自分の役回りをこう語って笑ったという。

 「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人。…俺は駕籠に乗る人間じゃないよ。」

 実際、又市は多くの候補者を支えてきた。何ヶ月も事務所に詰め、候補者以上に走り回り、寝食を忘れて選挙に取り組むことも珍しくなかった。

 候補者の擁立について集まった面々は口々に「誰にするのか」と言っていたが、ほとんどが「又市しかいない」と思っていたという。若い頃から粘り強く組織を作り、運動を作り、仲間を守ることに体を張ってきた又市は、それだけ抜きん出ていたのだ。ところが当の又市だけは、いつもの選対の側に立って「誰を出せば良いか。」「どういう選挙の組み立て方をしようか。」と真面目に考えをめぐらせていたのだった。

 ある日、自分なりに物事を整理して、いざ打ち合わせに出かけていくと、そのメンバーが揃って「又さん、皆であんたに決めたから。」と言った。又市は、初めは彼らが何を言っているのか分からなかったが、すぐに「しまった。」と思った。いつの間にか自分の知らない内に、皆で意思統一してしまっていたのだった。又市は「ちょっと相談させてほしい。」と言った。又市はそのとき自治労富山県本部の委員長、すなわち責任者である。立場上、軽々しい返事はできなかった。

 又市は富山に帰り、富山県本部の役員たちに相談した。そこで又市は再び驚かされた。彼らはもうそのことを知っており、「全力で支えるから一緒に頑張ろう」と、逆に又市を励ます始末。もうそこまで手が回っていたのだった。

 又市は家に帰ってこのことを話したが、家族も反対しないどころか、驚きもしなかったという。又市を見てきた家族は、いつかこのような日が来ると予想していたのだった。

 そう言えば、この数ヶ月前に又市と会った早坂茂三はこう語っていた。

 「(社民党について)何とかその灯を消したくないと、純な思いからそう叫ぶ又市さんの後味はとてもさわやかだ。」

 議員を「押し出す」ことに力を注いできた又市にも、「押し出される」ときがやってきた。
 ついに又市は、参議院議員の比例代表に出馬する決意を固めるのだった。
(敬称略)

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不祥事続きの森内閣

2007年07月01日 | Weblog
 労働運動にとどまらず、知事の公認外しのために自民党本部に乗り込むという離れ業をやってのけた又市征治という男。
 先に紹介した早坂茂三が、その又市と会い、「初心を忘れ、労働貴族になる連中を見てきたが、又市さんは一味も二味も違った。」「久しぶりに、すがすがしい男に会った」「又市さんの原点は、はじめにイデオロギーありきではなく、仕事に密着した正義感だ。」「さらにいいところは55歳になっても胸の炎が燃え続けていることだね。みごとだ。」と絶賛したのも、ちょうどこの頃である。

 さてその頃、永田町では波乱が起きていた。脳梗塞で倒れた小渕恵三の後を受けて、森喜朗が総理に就いたものの、その森内閣は惨憺たる内閣だったのだ。
 「神の国」発言で非難を浴び、解散総選挙にまで及ぶが、その後も森は失言を繰り返していった。
 また、選挙後の改造内閣で官房長官となった中川秀直(現・自民党幹事長)は、右翼団体との交際や、警察の捜査対象だった自分の愛人に捜査情報を漏らしたことが発覚し、そのときの録音テープまで公開され、約3ヵ月で辞任した。
 このように森内閣の不祥事を挙げればキリがないのだが、参議院の選挙制度が変わったのも一つの不祥事がきっかけだった。

 それまでの参議院比例代表の選挙は、投票用紙に政党名を書く制度だった。そこから政党ごとの当選者数を割り出し、あらかじめ政党が提出した名簿の順位にしたがって当選が決まる制度だった。
 しかし、久世公堯という自民党議員が大手企業に多額の党費を肩代わりしてもらい、名簿の順位を上げてもらっていた事実が発覚した。つまり久世は自民党への「上納金」で順位を買い、当選を買ったようなものだったのだ。

 これがきっかけで選挙制度は変わった。候補者名で投票し、その得票の多かった候補者から順に当選していくという現在の制度になったのである。

 この制度に限らず、選挙制度というものは与党に有利になるよう作られていくものだが、この制度もそうだった。自民党には多くの支援団体がある。各団体が自民党に対して候補者を出してくるのだが、名簿順位を決めるのは簡単な作業ではなかった。
 ある団体が推す候補が名簿の上位であれば、その候補の当選は間違いないということで、その団体は手抜きをする。また別の団体が推す候補が名簿の下位であれば、その団体は推薦候補の当選をあきらめてしまい、動かなくなるのだ。

 改定後の制度では、それぞれがゼロからの出発だ。締め付けを行わなくても、それぞれが競い合って票を稼ぎ出す。落選した候補者にも、「あなたがたの努力が足りなかったのだ。」と言えばそれまでである。

 自民党の不祥事発覚から生まれた選挙制度の変更は、その後の又市征治の人生にも大きな影響を及ぼすことになるのだった。
(敬称略)

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