旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

民衆

2006年02月02日 21時34分45秒 | Weblog


農業とまではいきませんが土いじりが好きです。いい野菜を育てるには、経験の蓄積が必要です。想像ばかりで申し訳ないのですが、稲作の経験を蓄積できる農民が、ただひたすら農業にのみ専念したとは思えません。

例えば縄文の昔から、人間は現代人並みの知性を備えていたのではないのかと想像してしまいます。だって、統治する側とされる側の双方に合意がないと統治は成り立ちません。統治を受け入れた側にも統治を受け入れるだけの準備というものが必要なはずですから。牛やブタなら、強権というか暴力で手なずけることができるでしょうが、人間ともなるとそうはいかない。

統治とできるだけ関わらない生活というものもあるわけで、農民というのはその典型ではないかと・・・。そして、その生活の中でせっせと稼ぐ。夜這いをする。子作りに励む。子供を育てる。祭りで騒ぐ。身内が死ねば悲しむ。飢饉でもおこれば悲惨ですが、年貢を適当にちょろまかし、腹の中では侍たちを馬鹿にする。百姓というと貧乏な水呑百姓を想像しますが、「7人の侍」に登場する左ト全のような貧乏百姓はむしろ例外であったのではないかとすら思えます。土地に縛り付けられているにせよ住めば都で、今時の若者ですら田舎にUターンです。

先般お話をした、中国から出稼ぎに来たねえちゃんや、日本のばか者たちを見るにつけ、いつの世でも統治者が思うほど、統治される側は権力を評価していないということじゃないでしょうか。最近、わたしは江戸時代に行きたくて仕方がない。自然の香りが溢れる田んぼや畑の中で好きなように農作物を作れるって、健康にもいいのではないでしょうか?政治も安定しているし。

以上のような妄想は、史実に反して不謹慎でしょうか?民衆史といいますか、日本人の生活史といいますか、このあたりに関心が高いのです。民族資料館に足を運んで、陳列された農機具なんかを眺めながら当時の農作業や農民の生活ぶりを想像してみるのが好きでたまりません。歴史のアマチュアもここに極まれり・・・でしょうか?

頼山陽

2006年02月02日 00時31分11秒 | Weblog
確かに史実がどうであったのかということは、映画というフィクションの世界には殆ど関わりがありません。しかし、イーモウ監督が描いた始皇帝像は、多少知的な経営者やビジネスマンの心を揺さぶったことでしょう。始皇帝がああいう知的な人間であって欲しいという願望がありますから、「うーん、納得!」というわけです。昨日の「戦国自衛隊」というドラマの中で、徳川イエス?が同じ台詞を吐いていました。
昔の歴史家といえば殆どが御用学者、しかも、御用学者にしか資料が集まらない。歴史学には素人ですが、少なくとも日本でいうと江戸以前の歴史書は、かなり怪しいと見ています。会社の近くに「頼山陽」資料館があります。陳列された資料はまるで偉人伝さながらです。