本作のテーマは、家父長制文化の中で女性の従属的位置を認める”ロマンティック・ラブ・イデオロギー”である。
SAYURI
ロブ・マーシャル監督の前作「シカゴ」は、男性優位の文化に意義申し立てをするという内容だった。ハリウッドのミュージカルは”カーニバル”という概念を内包している。”カーニバル”には、疎外され抑圧されている者たちが、自らの文化を創出しうる力を持つという側面がある。
「SAYURI」はミュージカルではないけれど、社会の周縁に置かれている女性 が主人公であることから、期待して観に行ったが・・・。
「シカゴ」では、ライバルである女性殺人犯の二人、レニー・ゼルウィガー演ずるロキシーとキャサリン・ゼタ・ジョーンズ演ずるヴェルマは、殺人者でありながら事件を武器にしてスターになる。「1人2役はラクじゃない。助け合えば成功する」とヴェルマは歌い、ロキシーはしぶしぶその戦略に乗る。お互いが食いものにされつつも、活用しあっている。そのしたたかさがカッコよかった。
しかし、本作では、さゆりの姉貴分の芸者二人が、出世(?)争いのために妹分まで巻き込んで、しつこいほど裏切りや足の引っ張り合い、いじめを繰り返す。そればかりか、奉公時代に一緒に苦労した同輩までも、最後の最後に、嫉妬にかられてさゆりを陥れる。
とはいえ、これらの女性たちも、男性に対しては忠節を守り、純愛を捧げているのだ。
人身売買の対象となるほど貧しい女性たち=弱者の醜い争いを徹底的に描く一方で、強者である金持ちの男性の多くが、友情や恩義を重んじる禁欲的で礼儀正しい人間として表現されている。
彼らは、家庭の内と外で異なる性を楽しみながら、双方の女性を分断・対立させているのに。さらに、男性同士の連帯(ホモソーシャル)は、同性愛嫌悪と女性蔑視を秘めており、”女性のモノ化=交換”を通じて家父長制文化を温存させているのに・・・。
ここでは、女性は男性の視線の対象として差し出され、処女神話を通して欲望を喚起され、”甲斐性のある ”男性と結ばれることがゴールとなる。
本作の時代から半世紀以上経った現代でも、女性たちにこうした志向が多く見られるのは残念である。
なぜ、未だにそうなのか?
これは、長年の男性中心社会の中で、女性自身が無意識のうちに”男性による女性蔑視”を内面化し反復して、”女性=マイナスイメージ”を事実として受け入れてしまうからである。女性たちはいつのまにか流されてしまって、”男性の視点”で女性自身を見ているのだ。
本作は、表層的には国際色豊かな俳優陣と、新しい日本趣味の味付けで、斬新さを装っているが、内容は既存の家父長制文化の追認である。
社会的にも文化的にも影響の大きい映画という芸術には、既存の意味の問い直しや新たな意味を見出すこと=問題提起の視点が不可欠だと思う。
本作でいえば 芸者たちが芸道や教養を究める厳しい生活や、仲間としてお互いを活かしつつ将来を切り開いていく心意気など、特殊な世界ならではの美学も掘り下げてほしかった。
「自分の力で生きたいの」と語ったさゆりの、努力しながらたくましく働く姿をきちんと描いてほしかった。
彼女の子ども時代の描写が長かっただけに、芸者になってからの努力が見えてこない。純愛に生きるけなげな女性のハッピーエンド物語とはいっても、金持ちの愛人になるのではねえ・・・。
外人から見たジャパネスク=懐古趣味だけでは、観客の心を捉えることはできないのである。★★(★5つで満点)
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SAYURI
ロブ・マーシャル監督の前作「シカゴ」は、男性優位の文化に意義申し立てをするという内容だった。ハリウッドのミュージカルは”カーニバル”という概念を内包している。”カーニバル”には、疎外され抑圧されている者たちが、自らの文化を創出しうる力を持つという側面がある。
「SAYURI」はミュージカルではないけれど、社会の周縁に置かれている女性 が主人公であることから、期待して観に行ったが・・・。
「シカゴ」では、ライバルである女性殺人犯の二人、レニー・ゼルウィガー演ずるロキシーとキャサリン・ゼタ・ジョーンズ演ずるヴェルマは、殺人者でありながら事件を武器にしてスターになる。「1人2役はラクじゃない。助け合えば成功する」とヴェルマは歌い、ロキシーはしぶしぶその戦略に乗る。お互いが食いものにされつつも、活用しあっている。そのしたたかさがカッコよかった。
しかし、本作では、さゆりの姉貴分の芸者二人が、出世(?)争いのために妹分まで巻き込んで、しつこいほど裏切りや足の引っ張り合い、いじめを繰り返す。そればかりか、奉公時代に一緒に苦労した同輩までも、最後の最後に、嫉妬にかられてさゆりを陥れる。
とはいえ、これらの女性たちも、男性に対しては忠節を守り、純愛を捧げているのだ。
人身売買の対象となるほど貧しい女性たち=弱者の醜い争いを徹底的に描く一方で、強者である金持ちの男性の多くが、友情や恩義を重んじる禁欲的で礼儀正しい人間として表現されている。
彼らは、家庭の内と外で異なる性を楽しみながら、双方の女性を分断・対立させているのに。さらに、男性同士の連帯(ホモソーシャル)は、同性愛嫌悪と女性蔑視を秘めており、”女性のモノ化=交換”を通じて家父長制文化を温存させているのに・・・。
ここでは、女性は男性の視線の対象として差し出され、処女神話を通して欲望を喚起され、”甲斐性のある ”男性と結ばれることがゴールとなる。
本作の時代から半世紀以上経った現代でも、女性たちにこうした志向が多く見られるのは残念である。
なぜ、未だにそうなのか?
これは、長年の男性中心社会の中で、女性自身が無意識のうちに”男性による女性蔑視”を内面化し反復して、”女性=マイナスイメージ”を事実として受け入れてしまうからである。女性たちはいつのまにか流されてしまって、”男性の視点”で女性自身を見ているのだ。
本作は、表層的には国際色豊かな俳優陣と、新しい日本趣味の味付けで、斬新さを装っているが、内容は既存の家父長制文化の追認である。
社会的にも文化的にも影響の大きい映画という芸術には、既存の意味の問い直しや新たな意味を見出すこと=問題提起の視点が不可欠だと思う。
本作でいえば 芸者たちが芸道や教養を究める厳しい生活や、仲間としてお互いを活かしつつ将来を切り開いていく心意気など、特殊な世界ならではの美学も掘り下げてほしかった。
「自分の力で生きたいの」と語ったさゆりの、努力しながらたくましく働く姿をきちんと描いてほしかった。
彼女の子ども時代の描写が長かっただけに、芸者になってからの努力が見えてこない。純愛に生きるけなげな女性のハッピーエンド物語とはいっても、金持ちの愛人になるのではねえ・・・。
外人から見たジャパネスク=懐古趣味だけでは、観客の心を捉えることはできないのである。★★(★5つで満点)
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TBありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします
大後寿々花ちゃんの演技は素晴らしかったですが、子供時代が長すぎてさゆりの芸者になってからの努力部分が少なかったですよね。
簡単になれちゃうみたいで・・。
>家庭の内と外で異なる性を楽しみながら、双方の女性を分断・対立させている
これって現代男性もそうなんでしょうか。
男性の意識ってあまり変わっていないのかもしれませんね。
欲望とエゴがうまく描けた作品だと思います。
TBありがとうございました。
なんだか釈然としない映画だな,と思っていたら…。そう,子供時代が長すぎて,努力するさゆりの姿がなくて共感できなかったのですね。
もう少し別の描き方はなかったのだろうか…
クニコさんの評を拝見してうなってしまいました。
DVDや映画を選ぶときの参考に
またお邪魔したいと思います。
>外人から見たジャパネスク=懐古趣味だけでは、観
>客の心を捉えることはできないのである
おっしゃる通りでございます・・。
これが、日本人が制作監督したものなら
もっと、ガッカリしましたが、ハリウッド制作と
いうことで、
「ほほ~~う~ん、しゃあない」
アキラメにも似た気持ちが・・・
TBお返ししました。
フラリと遊びに寄らせて頂きました。
確かに、戦後の混乱期を逞しく生き抜く姿をもっとしっかり描いて欲しかったですね。アメリカの立場では描きづらいのかなぁ・・・。
そして最後のハッピーエンドは、私もガッカリでした。
こんにちわ。なかなか深い記事ですね。さすがです!ラストは特にですが、全体的にいかにもハリウッド・メイドという感じでしたが。私はコン・リー演じる『初桃』が気になりました。『さゆり』よりも、と言っても過言ではないくらいに。
『シカゴ』と比較されているところが、
なるほど!と思いました。
>特殊な世界ならではの美学も掘り下げてほしかった。
そうですよね。
私もそう思います。
芸者の描写に関して腑に落ちない部分も多かったですが、
出てる俳優さんたちは好きだったので、
「これは日本の芸者のことを描いてるのではなく、
どこか知らない国のゲイシャのことを描いてるのだ」
と自分を納得させて、あまり深く考えないようにして観ました。
こちらからもTBさせて下さい。