ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



仏教って、教えが多すぎて、よくわかんないよ。要するに、教えの核の部分を取り出したら、何が大事なの? なーんて要領のいい疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 「上求菩提・下化衆生(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)」という言葉があります。要するに、上に向かっては悟りを限りなく求め(上求菩提)、下に向かっては一人でも多くの人を救おう(教化しよう)とする(下化衆生)ということです。仏教の根本精神はここに尽きているわけです。
 このなかの「上求菩提」、悟りを求めていこうとするところに小乗仏教の中心概念があるわけです。悟りを求めていこうとしたら、どうしても世間に関わってはいられなくなり、結局は出家者として修行するしかないという流れがあります。
 それから「下化衆生」、人びとを救っていこうとしたら、もうそんな戒律だとか何とかと言ってはいられません。人びとと一緒になって救っていかなければいけなくなります。あるいは、一人でも多くの人に宗教心を起こさせなければいけなくなります。そうすると、釈迦がたとえ八万四千の教えを説いたとしても、「そんなことはどうでもいい。『南無阿弥陀仏』だけでもいい。『法華経』を持っているだけでもいい」と、そういう簡単なところにまで落としていってでも、人びとに法縁をつけなければいけない──「下化衆生」を極端に進めると、そこまでいくわけです。
 この両方を、過去の仏教は経験したわけです。そして今、かなり生命を失った状況まできていると思います。
 ですから、本来の趣旨に立ち返ってみると、私たちがしなければならないことは、はっきりしているのです。「上求菩提・下化衆生」なのです。
 人間は安易な方向に流れていきますから、どちらか一方に走りたがります。方向性が一定だと楽なのです。
 「上求菩提」というと、「ああ、そうか。悟りを求めたらいいのか。それでは、世間のことは、一切、断ち切って、山のなかに籠もって修行に打ち込もう」となります。これはある意味では楽なのですが、この世に対する責任を放棄しています。(中略)
 逆に、「下化衆生」も結構ですが、お坊さんが、一生懸命、商売に励んで俗化している姿が、あちらにもこちらにも見受けられます。本来の教えそのものを放棄して、教学もせず、修行もしない生臭坊主が横行していることも多いです。(中略)
 私たちがしなければいけないことは、結局、この矛盾する方向性を統一すべく精進するしかない、矛盾にひるまず、この統一性をあくまでも追求する姿勢を忘れてはいけない、ということです。
 すなわち、あくまでも悟りを求める集団でありながら、同時に人びとを一人でも多く救っていきたいと願う集団でなければいけないのです。これは根本の仏教のなかに、もともとあるものであって、どちらか一方でよいというものではないのです。
 そこで、どうすればよいかというと、修行者としては、やはり自分には厳しい態度が必要です。要するに、修行する心、悟りを求めていく態度において自分には厳しく、ということです。同時に、人を救うわけですから、他人に対して優しくあらねばなりません。「自分には厳しく、人には優しく寛容に」という態度が、「上求菩提・下化衆生」の態度だと思うのです。
(87~90ページ)

仏教精神を核にした幸福の科学の教えを信じる人には、「上求菩提・下化衆生」の精神が必要である。

あくまでも悟りを求める集団でありながら、同時に人びとを一人でも多く救っていきたいと願う集団の一人であること。

「自分には厳しく、人には優しく寛容に」という態度が常に求められている──。

仏教の教えの核心といっても、仏教の教えはあまりに広大すぎて、どの角度からどう迫るかでとらえ方も異なってしまうんだと思います。

しかし、大川隆法先生は、小乗仏教(南伝仏教)と大乗仏教(北伝仏教)の流れなどを詳細に解説された上で、2500年続いてきた「仏教の根本精神」がどこにあるのかを、こんな形で、とてもわかりやすく私たちに説いて下さっています。

これはとてもありがたく尊いことではないでしょうか。

再誕の仏陀(生まれ変わった釈尊)であるからこその教えであるのだと、改めて深く私は感じているのです。
 

『悟りの挑戦(下)』

 大川隆法著

 

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コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


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コメント
 
 
 
質問 (なつき)
2008-05-25 09:03:05
はじめまして。質問です‥。矛盾にひるまずってよくわかりません。通常、矛盾が出た状況をほったらかしにしないんじゃないですか?矛盾があるという事は無理があるという事では?無理な状態だとすれば、そこから心の平安が生まれるのでしょうか?普通の人は生じた矛盾を放ったままの状態で進む事はしないと思います。なぜ矛盾が生まれたのかな?間違えている事はないか?と考えてそれが解決できてからまた進むんじゃないですか?批判的な文章でごめんなさい。かなり疑問なので‥
 
 
 
Re:質問 (ゆーぱ)
2008-05-25 22:46:52
なつきさん、こんにちは!

ここは、仏教になぜ、小乗と大乗の一見矛盾する流れが出てきたか、という大きなテーマの結論部分だけを引いたところですので、なかなか分かりにくい、ということでもあるのだと思います。

なぜここで一見矛盾と思える状況が仏教で生まれたかというと、2500年前に釈尊(お釈迦さま、仏陀)によって説かれた教え(仏教)の巨大さ・壮大さに比べて、仏陀の弟子たちの理解力が小さすぎたのが、この一見矛盾した状況が出てきた原因ということなんだろうと思います。

小乗の側も大乗の側も、それぞれが、自分たちの考えが仏陀の教えだったのだと信じて、2500年やっているわけですから、そこに矛盾があるとは思っていないからこそ、こういう状況となってきている。だからこそ、その矛盾した状況をほったらかしにすることができず、大川隆法先生が、「再誕の仏陀」(2500年前のお釈迦さまが現代日本に生まれ変わった存在)として地上に降り立ち、過去の仏教の誤りを整理し再構成しようとしておられる、というわけです。

幸福の科学の教えは、この小乗と大乗の教えの両立と統合をも目指して、この21年余り進んで来ていますが、やはり大川隆法先生のお教えどおり、その中で心の平安を作ることはできるというのが、これまでの幸福の科学での学びの体験であったのだと、私は思っています。
 
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