ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

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中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

電車で行く「薩摩街道」(その12:鹿児島宿)  2019.9.8

2019-10-11 10:56:35 | Weblog

(写真は、鹿児島中央駅の前の「若き薩摩の群像」碑)

 

「薩摩街道」の起点は「鹿児島宿」で、熊本宿を経緯して、途中で長崎街道に合流し、小倉に至ります。

薩摩街道へは、古くは、豊臣秀吉が、薩摩遠征のために大軍を率いて押し寄せました。     

江戸時代には、島津斉興や島津斉彬などの島津の殿様が参勤交代のために通りました。

また、篤姫も、将軍への嫁入りの際に薩摩街道を江戸へ向かいました。

そして明治時代、「西南の役」の際には、「西郷隆盛」軍が、熊本城攻撃のために、薩摩街道を北上しました。

(これまでの薩摩街道については、佐敷①・八代川尻熊本①・田原坂①・山鹿①を見てね。)

 

最近、「西郷どん」(2018年NHK大河ドラマ)の「西郷どん大河ドラマ館」が取り壊されたという噂を聞きました。

「西郷どん」(せごどん:配役:鈴木亮平)、関連のその他の記念館や説明版も、順次取り壊されそうなので、今のうちに見ておかねばと思いました。

という訳で、先月、熊本の実家に帰省した際、鹿児島空港経由で「西郷どん」関連の施設を見学してから、熊本に帰りました。 

鹿児島空港から帰るのは久し振りですが、昔のプロペラ機の時代は、鹿児島空港が錦江湾岸にありました。

空港に着陸すると、眼前は噴煙を噴き上げる桜島で、”ああ、鹿児島に着いたなあ。”、と実感したものでした。

現在は、鹿児島空港は山奥にあり、空港からリムジンバスで約40分、上の写真の鹿児島中央駅に着きます。 

鹿児島中央駅の前には、1865年に、イギリスへ派遣された19名の留学生の上の写真の「若き薩摩の群像」碑が建っていました。

1866年の薩長同盟以後、薩摩藩は、この留学生の派遣団からヨーロッパ情報を得て、その後の幕府軍との戦いを有利に展開したそうです。

その後、留学生達は、アメリカやフランスに渡って留学を続け、帰国後に、明治政府に仕えてその成果を大いに発揮した、と説明版にあります。

鹿児島中央駅の前の道を、東へ約10分歩くと、明治維新の有名人が多く生まれた「鍛冶町」があります。

「鍛冶町」は、鹿児島市街地の中心を流れる「甲突(こうつき)川」沿いにあります。

上の写真のその「甲突川」は、大河「西郷どん」で、鈴木亮平が、手掴みで鰻を獲るシーンで有名になりました。

その甲突川沿いに、上の写真の「維新ふるさと館」がありました。

維新ふるさと館は、明治維新を支えた英雄たちの姿を充実した内容で展示、分かりやすく紹介しています。

(日本初の洋式軍艦・薩摩の「昇平丸」)

(篤姫コーナー)

(薩摩の食事・菓子)

特に、上の写真のメインの体感ホールでは、西郷隆盛や大久保利通のロボットや人形などの演出で、歴史の1シーンを楽しく学べます。

維新ふるさと館を出て、甲突川沿いから少し住宅地(鍛冶町)に入ります。

この狭い住宅地に、西郷隆盛、大山巌(いわお)陸軍元帥、東郷平八郎(日露戦争の連合艦隊司令長官)、村田新八などの明治維新の偉人達の誕生地が密集しています。

写真は、西郷隆盛の誕生地碑です。

この鍛冶町辺りの狭い町の中に、明治維新の有名人たちが、密集して住んでいたのに驚きます!

(大山巌誕生の地の石碑)

(村田新八誕生の地の石碑)

(東郷平八郎誕生の地の石碑)

鍛冶町の甲突川の川岸に戻ると、下の写真の様に、西郷らが住んでいたという「下級武士の屋敷」が再現されていました。

 

1日乗り放題・600円の「カゴシマシティビュー」券を買って、鍛冶町から、鹿児島市の一番の繁華街である「天文館通り」へ向かいます。

鹿児島と言えば「白熊」、白熊と言えば、「天文館通り」です。

「白熊」を食べるために、わざわざ、天文館通りの白熊本店まで来たのに、当日、余りに暑かったので、ついつい、白熊ではなくて、食べ慣れた写真の宇治金時(740円)を注文してしまいました・・・

う~ん、ここまで来たら、やはり、白熊を注文すべきでした・・・

取り敢えず、喉の渇きがおさまったところで、鹿児島名物・黒豚すき焼きの「西郷どん雅」(2,450円)を注文して、午後の「西郷どん」遺跡巡りに備え、腹ごしらえします。

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熊本・藤崎宮の秋季例大祭 2019.9.16 

2019-10-05 11:17:15 | Weblog

 

(写真は、藤崎宮の飾り馬の奉納行列)

 

先月、法事のため、実家の熊本に帰省した際に、遭遇した出来事の続きです。

帰省の最終日の9月16日、熊本市の中心部にある「藤崎宮」にお参りに行きました。

と言うのは、この日が、ちょうど藤崎宮 の「秋季 例大祭」の日だったからです。

藤崎宮は、熊本市民が、毎年、初詣に行く神社なのですが、秋の例大祭は、熊本県の祭りの中でも、最も盛り上がる祭りなのです。

私の子供の頃は、この「秋季例大祭」は、「ぼした祭り」という名称でしたが、私は、この祭りを凄く楽しみにしていました。

子供の頃、この「ぼした祭り」の”ぼした”は、「加藤清正」が朝鮮を”滅ぼした”という意味だと聞かされていました。

しかし、”朝鮮を滅ぼした”という趣旨の「ぼした祭り」という名称は”使用禁止”となり、現在は、「例大祭」という、インパクトの弱い名称になっています。

(もっとも、歴史上は、清正は朝鮮を滅ぼしてはおらず、むしろ朝鮮で苦戦したみたいですが、なにせ、熊本では、清正は英雄を越えて神様ですから、その清正が苦戦などするハズもなく?・・・)

この祭りのハイライトは、「随兵(ずいびょう)行列」と「飾り馬」です。

「随兵行列」は、「加藤清正」が自ら随兵頭となり、兵を引き連れて「藤崎宮」へ参拝し、朝鮮出兵からの無事帰還を感謝したのが始まりだそうです。

その後、藩主が細川氏の時代になっても、この藤崎宮への随兵行列は継承され、明治維新後は、町方の手に受け継がれていきました。

随兵行列は、朝6時頃に藤崎宮を出発、ご神体を乗せた神輿の後ろに、甲冑姿の随兵が続きます。  

私は、前日の法事で酒を飲んだため早起き出来ず、朝6時出発の随兵行列には間にあいませんでした・・・ 

(随兵行列 : ダイドー(株)の公式ホームページから)

そして、祭りの最大のハイライトは、随兵行列に続く、「飾り馬」の奉納行列で、”馬追い祭り”とも呼ばれます。

今年は、67もの団体が飾り馬を奉納、約1万5千人の勢子(せこ)たちが躍動して沿道を盛り上げました。

67団体は、町内会、企業、高校の同窓会、祭り愛好会など多彩です。

馬が少なくなったいまどき、67頭もの飾り馬が参加する盛大な祭りなんて珍しいですよね。

”馬追い祭り”では、私の子供の頃は、馬を興奮させるために、飾り馬に酒を飲ませていました。 

馬が酔っ払った状態で暴れて跳ねるのを、勢子たちがラッパを吹いたり、太鼓を叩きながら、「ぼした! ぼした!」と囃し立てて、練り歩いていました。

暴れる馬を、如何に上手く制御するかが祭りの見せ所でした。

従って、当時は、毎年、馬に蹴られて怪我人が続出し、死者が出た年もあったくらいに荒っぽいお祭りでした。

当時、私は子供心に、馬に酒を飲ませて暴れさせる行為について何の疑問を持ちませんでした。

しかし、最近の風潮としては当然のことかもしれませんが、馬に酒を飲ませ、鞭の様な物で叩く様子が、インターネット動画で拡散し、動物愛護協会などのからの非難の嵐で炎上したそうです。

これを受けて、現在は、 例大祭の主催者が、動物虐待行為の防止に向け、参加団体を指導しているとのこと。

今年、見物して、昔の様な迫力はない、穏やかな祭りになった印象でしたが、でも、祭りが廃止にならずに、時代に合わせた穏やかな祭りとして、今後、定着していけば嬉しいな、と思いました。

下の写真の様に、小さな子供達が大勢参加出来る祭りも良いですよね。

上の写真の様に、地元のテレビ局が、飾馬奉納「馬追い祭り」の模様を生中継しています。

 随兵行列とそれに続く馬追いの法被姿の勢子たちが、藤崎宮から、熊本市の中心部のアーケード街を抜けて、御旅所(おたびしょ:祭礼の祭神の巡幸の際に、仮に神輿(みこし)を鎮座しておく場所)のある新町までを練り歩きます。

「ぼした! ぼした!」ではなくて、「どーかい、どーかい」の掛け声で馬追が展開されます。

朝6時出発の「朝随兵」に対し、午後2時からは、この逆方向で、藤崎宮に戻る「夕随兵」が始まります。

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