ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

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中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

バスで行く「奥の細道」(その41)「山中温泉」(石川県) 2019.6.12 

2019-07-29 11:15:04 | Weblog

( 写真は、「鶴仙渓(かくせんけい)」)

今回は、前回の山中温泉の続きです。

昨晩は、「ロイヤルホテル山中温泉」に宿泊し、ゆったりと温泉に浸かり、早朝、もう一度浸かって温泉を満喫しました。

(露天風呂:ホテルのパンフレットから)

朝食を済ませ、徒歩で、ホテルの前にあるS字型のデザインの「あやとり橋」を渡り、渓谷沿いの「鶴仙溪」(かくせんけい)を散策します。

「鶴仙渓」は、大聖寺川の中流にあり、砂岩の浸食によって数多くの奇岩が見られる景勝地です。

この渓谷は、山中温泉の中心街に並行しており、渓谷沿いに約1キロの散策路があります。

芭蕉は、この鶴仙溪からの風景の美しさに、「行脚の楽しみここにあり」と喜んだそうです。

渓谷沿いには、写真の「鶴仙渓川床」が営業していますが、未だ準備中でした。

鶴仙渓川床は、川のせせらぎを聞きながら、風情ある川床セット(加賀棒茶とスイーツ:600円)を楽しめるそうです。

下の写真は「道明ケ淵」で、その昔、この深い淵に、龍が住み里人を困らせていましたが、道明という僧が、これを退治したそうです。   

上の写真は「芭蕉堂」で、明治43年、全国の芭蕉を慕う俳人によって建てられたそうです。

 

 

 

我々のバス旅行は、山中温泉を出て、石川県加賀市大聖寺町の「全昌寺」(ぜんしょうじ)へ向かいます。

全昌寺は、芭蕉が、山中温泉で宿泊した温泉宿「泉屋」の菩提寺です。

そして、芭蕉は、泉屋に宿泊中に、泉屋の若主人の久米之助(くめのすけ)に俳句の手ほどきをしましたが、ここの住職は、その久米之助の伯父でした。

 境内には、下の写真の様に、芭蕉塚と曽良の句碑が並んで建っています。

”終宵(よもすがら) 秋風聞くや うらの山” (曽良)

(別れた師を想い、寝ないで、一晩中、裏山に吹く秋風を聞いている。)

”庭掃きて 出ばや寺に 散る柳” (芭蕉)

(一夜の宿のお礼に、せめて、この柳の葉を掃き清めてから出立したい。)

境内にある上の写真の左側の柳が、その何代目かの柳です。

ここ全昌寺は、1867年に完成した写真の「五百羅漢」が有名です。

山中温泉で芭蕉と別れた曽良は、この寺に宿泊し、その翌日、一日違いで芭蕉が宿泊しました。

芭蕉が宿泊した部屋は、近年新しく修理されたものの、上の写真の様に、当時の姿そのままで残っていて見学出来ます。

 

我々のバス旅行は、全昌寺を出て、石川県と福井県の県境にある北潟湖(きたがたこ)の畔の「吉崎御坊」(よしざきごぼう)へ向かいます。

吉崎御坊は、1471年、比叡山延暦寺の迫害を受けて京から逃れた本願寺の「蓮如」が、浄土真宗の北陸における布教拠点として建立しました。

上の写真は、現在の吉崎御坊です。

上の写真は、かっては、北潟湖の畔の小高い丘の上にあったという「吉崎御坊跡」に建つ「蓮如上人」銅像です。

(吉崎御坊跡から北潟湖を見下ろす)

 

我々のバス旅行は、吉崎御坊を出て、福井県の北部に位置する坂井市の「天龍寺」へ向かいます。

芭蕉は、天龍寺の大夢和尚を訪ね、寺に宿泊しました。

金沢から芭蕉に随行して来た北枝(ほくし)は、いよいよここで別れます。

“物書きて 扇(おおぎ)引きさく 余波哉(なごりかな)”(芭蕉)

(秋になり、夏の間に使用した扇に、何か書き付けて引き裂いて捨てようと思ったが、名残惜しくて出来ない。⇒北枝との別れが名残惜しくて出来ないの意。)

 

 

 

 

 

 

 

天龍寺の庭には、別れを惜しむ北枝と芭蕉の姿を表した上の写真の「余波の碑」や、芭蕉の句が刻まれた下の写真の記念碑、芭蕉塚が建てられています。

天龍寺は、江戸時代初期に、松岡藩主松平昌勝が祖母の菩提寺として建立したお寺です。

歴代藩主、側室の墓所があるほか、松尾芭蕉が奥の細道の道中に立ち寄ったことでも有名です。

天龍寺を出てから、途中で丸岡城に立ち寄ってから、名古屋駅から新幹線で東京へ帰りました。

名古屋(17:39) → のぞみ → (19:20)東京

 

上の絵は、「加賀四湯」の全体図です。

(赤丸印=山中温泉、黒丸印=片山津温泉、緑丸印=山代温泉、青丸印=あわづ温泉)

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バスで行く「奥の細道」(その40) 「曽良との別れ」(山中温泉:石川県) 2019.6.11

2019-07-22 19:49:05 | Weblog

( 写真は、「芭蕉と曽良との別れ」)

加賀の国(石川県)では、「金沢」を発った「芭蕉」は、「山中温泉」へと向かい、何と!、この温泉に8日間の長きわたって滞在しました。

芭蕉は、奥の細道の中では、いくつかの温泉地に宿泊していますが、これほど長く滞在した温泉は「山中温泉」だけです。

そして、山中温泉は、長らく奥の細道を共に旅をしてきた「曾良との別れの地」でもあります。

実は、曾良は、越中(富山県)から金沢(石川県)に入るあたりから、体調不良で医者にかかっており、健康を害していました。

曾良は、几帳面で責任感の強い性格だったので、師である芭蕉の同行者として、何かと気を使い、そこから生じたストレスで腹痛となり苦しんでいた、と言われています。

ここ山中温泉に、8日間も浸かって静養するも、回復せず、このままでは、師匠である芭蕉の足手まといになると考えます。

幸いなことに、金沢からは、芭蕉の弟子の「北枝」(ほくし)が新たに随行していることもあって、曾良は、山中温泉で芭蕉と別れ、伊勢長島の親戚をたよって一人で旅立ちます。

 

我々のバス旅行は、山中温泉の守護寺である「医王寺」に到着しました。

山中温泉で、芭蕉と曾良が、最初に訪れたのが「医王寺」です。

医王寺は、下の写真の様に、温泉街を見下ろす高台に建っており、薬師如来が祀ってあります。

医王寺の宝物館には、松尾芭蕉が山中を訪れた際に忘れていった「芭蕉の忘れ杖」が収められているそうです。

境内には、下の写真の芭蕉句碑がありました。

”山中や 菊はたおらぬ 湯の匂” (芭蕉)

(山中温泉は、延命長寿の効果のある湯の香が満ち満ちている。あの謡曲「菊滋童」(注)の様に、菊を折ってその葉の露を飲む必要はない。)

(注)「菊滋童」(きくじどう):中国の周の王に仕えた童で、不老不死の薬である菊の葉の露を飲んで700歳まで生きた。

 

我々のバス旅行は、医王寺を出て、山中温泉の中心街を散策します。

「山中温泉」は、奈良時代に行基が発見したとされる名湯です。

芭蕉は、山中の湯を、有馬・草津と並ぶ「扶桑(ふそう:日本のこと)の三名湯」と称えました。

 

上の写真は、共同浴場「菊の湯(女湯)」(写真の左側の建物)に併設されている「山中座」で、山中節の唄や、芸妓の踊りなどの山中伝統の芸能演芸をやっているそうです。

上の写真は、共同浴場「菊の湯(男湯)」です。

山中温泉の総湯「菊の湯」の名称は、医王寺の芭蕉句碑でご紹介した”山中や 菊はたおらぬ 湯の匂” の句に由来しています。

芭蕉は、この「菊の湯」近くの老舗の温泉宿「泉屋」に宿泊しました。

写真は、「泉屋跡」の石碑です。

「泉屋」の主人の「久米之助」(くめのすけ)は、まだ14歳の若者でした。

芭蕉は、彼に俳句の手ほどきをして、更に、”桃の木の 其葉ちらすな 秋の風”(注)の1句を添えて、彼に「桃妖」(とうよう)の俳号を与えました。

  (注)句意:これから俳諧の道を歩もうとする若々しい桃妖よ、どうかその素晴らしい才能を伸ばしておくれ。桃の木は、久米之助(桃妖)を指しています。

この「泉屋跡」の近くに、上の写真の「芭蕉の館」があります。(200円)

入口には、芭蕉と曾良の別れの場面を再現した上の写真の石像と、そのときに詠んだ下の写真の二人の句碑がありました。

二人はこれまでの旅を振り返りながら、それぞれの思いを句に託しています。

”行行(ゆきゆき)て たふれ伏すとも 萩の原” (曾良)

 (病身のまま旅立ち、このまま行けるところまで行って倒れたとしても本望だ。出来ることなら萩の咲く野原で死にたいものだ。)

”今日よりや 書付消さん 笠の露”  (芭蕉)

(今日からは一人の心細い旅となる。笠の「同行二人」の文字を、笠に降りた露で消すことにしよう。)

ここ「芭蕉の館」には、芭蕉の奥の細道に関連する資料が展示されており、芭蕉が滞在した「泉屋」の隣の「扇屋」(泉屋の主人の桃妖の妻の実家)を修復した部屋もあります。

 

 

我々のバス旅行は、今晩の宿、ここ山中温泉の中心にある渓谷沿いの「ロイヤルホテル山中温泉」へ向かいます。 

 

 

 

 (「芭蕉の館」の展示資料から)

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バスで行く「奥の細道」(その39) 那谷寺(石川県) 2019.6.11 

2019-07-18 08:09:19 | Weblog

( 写真は、「那谷寺」の「奇岩遊仙境」)

加賀の国(石川県)では、「金沢」を発った「芭蕉」は、「小松」で「実盛の兜」を拝観して、「山中温泉」へと向かいます。

 芭蕉は、「山中温泉」に向かう途中で、ここ「那谷寺」(なたでら)に立ち寄りました。

平安時代、花山(かざん)天皇が、西国33ヶ所巡礼のあと、観世音菩薩をこの寺に安置されました。

花山天皇は、西国33ヶ所の観音霊場の全てがここにあると感じられました。

そこで、西国33ヶ所の1番・那智山の「那」と、33番・谷汲山(たにぐみさん)の「谷」を取って、この寺の名称を「那谷寺」(なたでら)と改名されたそうです。

 

我々のバス旅行も、今晩の宿泊地の「山中温泉」へ向かう途中で、ここ「那谷寺」に立ち寄りました。

境内には、本堂を始め、三重塔、鐘楼など、国重要文化財が点在します。

(御柱鳥居)

(金堂華王殿)

(大悲閣・本殿)

(三重塔)

(護摩堂)

       

(恋愛成就スポットの庚申(こうしん)さん)

(楓月橋(ふうげつきょう))

芭蕉句碑が建っています。

芭蕉は、寺の境内の”一枚岩の奇岩”を中心とした自然溢れる絶景に感嘆し、句を詠みました。

           

 ”石山の 石より白し 秋の風”

 (那谷寺の境内には、たくさんの白石があるが、それより白く感じる、白風とも呼ばれる秋の風が吹いているよ。)

 

 

写真は、芭蕉も句に詠んだ、奇岩に取り囲まれた那谷寺の境内の「奇岩遊仙境」です。

地上20メートルの写真の「展望台」からは、一枚岩の奇岩の「奇岩遊仙境」の那谷寺の境内の全体が見渡せます。

自然と一体になったような広い境内は、木々に囲まれ四季折々の風景を楽しめ、特に紅葉の時期は観光客で賑わうそうです。

 

 

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バスで行く「奥の細道」(その38) 「弁慶の勧進帳」(安宅の関:石川県) 2019.6.11

2019-07-11 19:30:30 | Weblog

( 写真は、「勧進帳」を読み上げる「弁慶像」)

前々回の「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」、前回の「実盛の兜」に続いて、今回は「安宅の関」(あたかのせき)です。

「源義経」は、平家討伐に大功績をあげたにも関わらず、兄の「源頼朝」に追われる身となります。

頼朝の追手から逃げるために、「武蔵坊弁慶」らと共に、山伏の一行に姿を変えて、奥州へ落ちのびて行きます。

その逃避行の道中の最大の難所が「安宅の関所」でした。

実は、「安宅の関所」は「箱根の関所」の様な”恒常的な関所”ではなくて、義経を捕らえるためだけに”臨時に設けられた関所”だったそうです。

えぇ~?、臨時の関所だったの!

知らなかったなあ~!

現代風に言えば、指名手配犯の義経を逮捕するために緊急手配をして、逃走したと思われる北陸方面に非常線を張り、臨時の検問所を各地に設けて、厳重な職務質問をした、ということなのでしょうね。

義経一行は、いきなり現れた想定外の関所に驚き、うろたえます!

安宅の関は、富樫泰家(とがし やすいえ)が関守を務めていました。

義経一行は、富樫に見とがめられ、詮議の問答が始まりました。

弁慶は、我々は、東大寺再建の寄付を募る山伏の一行だと説明します。

不審に思った富樫は、「東大寺の勧進の山伏の一行なら、勧進帳を持っているいるはず」と迫ります。

すると、弁慶は、白紙の巻物を、あたかも本物の「勧進帳」(注)であるかの様に、朗々と読み上げます!

 (注)勧進帳:寺院の建立などに要する資金の寄付募集の趣意を巻物などに記載したもので、民衆から寄付を集める際に、僧や山伏が読み聞かせます。

富樫は、弁慶のその朗々と読み上げる態度に、いったんは通行を許しますが、強力(ごうりき)に変装した義経を、顔が義経に似ている、と見とがめます。

弁慶は、とっさの機転で、「お前のために疑われた。義経に似ているお前が憎い!」と、金剛杖で義経を打ち据えます。

富樫は、義経の顔を見て本人だと確信しつつも、弁慶の忠義に心を打たれ、一行を通過させます。

 

我々のバス旅行は、先ず、安宅海岸の「安宅の関」の前にある「安宅住吉神社」へ向かいます。

この神社は、巫女さんの説明によると、全国唯一の「難関校突破」の神社として有名なのだそうです。

義経一行が最難関の安宅の関を無事に突破したからだそうです。

(安宅住吉神社の難関校突破の受験のお守り)

明治初期に神社に奉納された絵には、安宅海岸を訪れた弁慶が、遊んでいる子供達に「安宅の関」以外の抜け道を教えてもらおうとしている様子が描かれています。(撮影禁止)

巫女さんの説明によると、弁慶が持っていた扇を子供達にあげようとしたところ、子供達9人に対して、扇が8本しかなかったために、子供達に逃げられてしまったた、とあります。

仕方なく、義経一行は、「安宅の関」の強行突破を決意します。

社殿の前には、勧進帳を読み上げる「弁慶像」が建っています。

安宅の関を通過してから、義経一行は、お蔭で難関の関所を突破出来たと、「安宅住吉神社」に感謝の祈りを捧げたそうです。

(安宅住吉神社のパンフレットから)

安宅住吉神社の前が「安宅海岸」で、目の前には日本海が広がっています。

日本海側に広がる静かな松林の中に、「安宅の関跡公園」があります。

公園内には、写真の「富樫、弁慶、義経の像」が立っています。

(富樫)

(弁慶)

(義経)

 

 

我々のバス旅行は、「安宅の関」を出て、北陸鉄道の野々市工大前駅の駅前にある「富樫館跡」へ向かいます。

(金沢駅からだとバスで約20分)

富樫氏は、18代にわたって加賀国(石川県)の守護職を務めた名門です。

上の写真の「富樫館跡」の石碑の辺りが、かっては、加賀国(石川県)の中心地だったそうです。

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バスで行く「奥の細道」(その37) 「実盛の兜」(多太神社:石川県) 2019.6.11

2019-07-03 11:01:13 | Weblog

( 写真は、”むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす”の本物の「実盛の兜」)

 

既にご紹介した「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」に続いて、今回は、同じ「平家物語」で描かれた「実盛の兜」です。

火牛の計で有名な「倶利伽羅峠の戦い」で平家の大軍を破った「木曽義仲」は、そのまま敗走する平家軍を追撃して加賀国(石川県)に入ります。

そして、「篠原の戦い」(現在の石川県加賀市)で、再び平家軍と戦い、一気にこれを打ち破ります。

その時、敗れた平家軍の本隊を逃がすべく、ただ一騎だけ、義仲の軍勢の前に立ちはだかった平家の武将がいました。

義仲軍の「手塚光盛」が先ず名乗りを上げ、”名乗らせたまへ”と促しますが、その平家の武将は自らを名乗ろうとしませんでした。

二人は、一騎打ちとなり、その平家の武将は、「手塚光盛」に首を討たれてしまいます。

何と!、この首を討った「手塚光盛」は、マンガ「鉄腕アトム」の作者「手塚治虫」の先祖なのです!

驚き!!

「手塚治虫」の代表作「火の鳥」では、時を超え、「手塚治虫」自身が「手塚光盛」に生まれ変わり登場しています。

知らなかったなあ~!!

生前、手塚治虫は自分の祖先について語ることはほとんどありませんでしたが、心の中では、強く意識していたんですね~!

さて、話を戻して、「手塚光盛」は、「義仲」に、この不思議な武者を討ち取ったことを報告します。

「義仲」は、その首を見て、幼いころに自分の命を救ってくれた恩人の「斎藤実盛」ではなかろうか、と直感します。

しかし、もしこれがホントに実盛の首ならば、既に歳をとって白髪になっているはずだが、と半信半疑です。

そこで、「実盛」とは親友だった「樋口兼光」を呼んで首実検を行わせます。

「樋口兼光」は、黒く染められた白髪頭を一目見て実盛と分かり、「あな、むざんやな! 」と叫びます!

義仲が、その首を付近の池で洗わせたところ、みるみる白髪に変わりました。

戦場で老武者とあなどられるのを嫌った実盛は、髪を黒く染めて若々しく戦おうとしたのです。

かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせびました・・・

義仲は、近くの「多太神社」に、「実盛の兜」をそのまま奉納しました。

(漫画「火の鳥」の「乱世偏」から)

 

それから500年が経ち、芭蕉は、この「多太神社」を訪れ、「実盛の兜」を拝観します。

樋口兼光の「あな むざんやな」の故事を思い起こした芭蕉は、弔いの一句を詠みます。

”あなむざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす”

(この兜を見ていると、命を救った義仲を敵とすることになった実盛と、恩人を討たねばならなくなった義仲、二人の悲運をいたましく思わずにはいられない。兜の下でコオロギもむせび泣いていることよ。

この様に、芭蕉は、樋口兼光の「あな むざんやな」の故事を引用して句を詠んだのですが、後に、字余りの”あな”の二文字を削除しています。

従って、この多太神社の境内にある芭蕉句碑は、後に訂正された「むざんやな・・・」ではなくて、訂正前の「あなむざん・・・」で彫られています。

また、この芭蕉の句が、横溝正史の「獄門島」の3つの重要な俳句の一つとして用いられているのはご存知の通りです。

 

 

我々のバス旅行も、「実盛の兜」が奉納されている「多太(ただ)神社」へ向かいます。

(実盛の像)

案内の方に、多太神社の宝物館の鍵を開けていただき、「実盛の兜」についての丁寧な説明を聞きます。

説明のあとで、宝物館の奥の壁の遮光カーテンを開けて頂き、いよいよ本物の「実盛の兜」を拝観します。

(本物のみ撮影禁止)

ドキドキします!

冒頭の兜の写真は、多太神社のパンフレットの「実盛の兜」です。

一度修復作業が施されているので、それ程古びていない感じです。

上の写真は、芭蕉が見た修復前の古びた兜を写生した古文書です。

従って、厳密に言えば、我々が見ている修復後の兜は、芭蕉が見た兜とは少し異なる、ということになります。

上の写真は、展示されているレプリカの「実盛の兜」で、下の写真は、ここで購入した兜の絵ハガキですがブログ掲載OKだそうです。

中央には八幡大菩薩の文字が浮き彫りにされています。

その後、展示物のひとつひとつを丁寧に解説して頂きました。

 

 

我々のバス旅行は、多太神社を出て、「篠原古戦場跡」にある「実盛塚」へ向かいます。

「実盛塚」は、実盛を供養するために亡骸を葬ったところです。

「篠原古戦場跡」の「実盛塚」の近くに「首洗池」があります。

 「首洗池」は、「篠原の合戦」で討ち取られた「実盛」の首を洗った池です。

池の辺りに、写真の像がありました。

実盛の首を抱いて涙する「木曽義仲」、実盛を討ち取った手塚治虫の先祖の「手塚光盛」、そして「あな、むざんやな! 」と絶句する「樋口兼光」の3人の像です。

実盛は、当初、源義朝に仕えていましたが、平治の乱で義朝が失脚した後は、自らの所領の関係で、平宗盛に仕えています。

当初、義仲の父の源義賢が源義朝に殺された時、実盛は、主君の義朝から、2歳の義仲を殺すようにと命じられますが、命令に背いてこっそりと木曽の中原兼遠に預けました。

つまり、幼少の義仲が殺されずにすんだのは、実盛の温情によるものでした。

実盛と名乗りさえすれば命は助かったのでしょうが、かつて助けた義仲の情にすがることなく、名乗らずに武士としての誇りを全うしました。

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