ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

http://www7b.biglobe.ne.jp/~akamine/
中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

武相荘 (東京都町田市) 2019.3.8

2019-03-31 06:20:17 | Weblog


(写真は武相荘)

”日本一の兵(ひのもといち の つわもの)”と
言えば「真田幸村」です。

では、”日本一のカッコいい男”と言えば
誰でしょうか?     

私は、断然、「白洲次郎」だと思いますよ。

と言う訳で、白洲次郎と正子夫妻が生涯を通して
愛した「武相荘」(ぶあいそう)へ行って
来ました。

「武相荘」は、「武蔵の国」と「相模の国」の境に
位置することと、”無愛想”を掛けて、次郎が
自嘲気味に名付けたものだそうです。


明治35年、実業家の次男として生まれた「白洲
次郎」は、旧制中学時代には、父親から
アメリカ製のスポーツカーをプレゼントされて
乗り回す、という破天荒な少年時代を過ごし
ます!


また、”日本で最初にジーンズをはいた男”とも
言われる様なオシャレな男でした。

卒業後は、英ケンブリッジ大学へ進学し、英国
文化と共に流暢な英語を身に着けました。

昭和4年に、樺山伯爵家の次女・正子と結婚
します。

(前頁の夫妻の写真は武相荘パンフレットから)

帰国後は、英国商社で働き、仕事で度々英国に
渡ったことから、当時、駐英大使だった「吉田茂」
と面識を持つようになります。
敗戦後は、吉田茂の側近となり、GHQの
マッカーサーとの交渉役として、新憲法制定や
講和条約締結に深く関わりました。

次郎は、交渉の席で、「戦争には負けたが、奴隷
になった訳ではない。」とマッカーサーに
言い返しました。
マッカーサーと対等に渉り合い、GHQに”従順
ならざる唯一の日本人”と言わしめました。
多くの日本人が、唯々諾々とGHQの言いなりに
なっていた世の中で、GHQに対してハッキリと
「NO」と言った、ただ一人の日本人でした。


 日本の独立に目途がつくと、政界の地位に拘らず、
あっさりと身を引き、武相荘に戻りました。



小田急線の鶴川駅で下車します。
鶴川駅まで小田急線の新宿駅から30分、横浜線
利用の場合は町田駅で乗り換えて2駅です。
「武相荘」へは、鶴川駅北口から徒歩15分です。

バスの場合は、11番系統・鶴川団地行きに乗り、
鶴川1丁目で下車します。
 


多摩丘陵の緩やかな坂道を上り切った、静かな
住宅街の一角に、広さ2,000坪という「武相荘」
(ぶあいそう)はありました。
 (入場料:1,080円、月曜休館)
 
第二次世界大戦が始まると、白洲次郎は、全ての
職を辞し、ここ鶴川村の養蚕農家を購入して、
自給自足の農民生活を始めました。

正面入口の左手の上の写真の納屋が、現在は、
入場券販売窓口と土産物店を兼ねています。

写真の建物は、次郎が使用していたガレージです
が、現在は、カフェになっています。

カフェには、次郎が中学時代に乗り回していたと
いうアメリカ車と同形式の車が展示されています。
この車は、白洲次郎の生涯をテレビドラマ化する
際に、撮影のために、アメリカから取り寄せた
実際に走れる車だそうです。

ガレージの壁の上の写真の車は、英国留学時代に
乗っていたベントーレで、この車で、欧州縦断
したそうです。

写真の正面の門は、次郎と正子が気に入って購入、
移築したものだそうです。



白洲夫妻の生活の場であった分厚い萱葺き屋根の
主屋(おもや)に入ります。

江戸末期に建てられたという、多摩地方の
伝統的な養蚕農家です。


土足厳禁ですが、上の写真の靴入れの袋も
オシャレです。

ここは、夫妻の居間や書斎で、家具、持ち物、
調度品などが展示されています。

(館内撮影禁止)

また、次郎が関わった新憲法制定や講和条約締結
に関するオリジナルの資料も展示されています。
面白いのは、当時は爵位の娘を嫁に貰う場合は
内大臣の許可が必要だったそうで、その許可証も
展示されていました。

更に、「葬式無用、戒名不要」と書かれた次郎の
遺書も展示されていました。


上のパンフレットの写真の囲炉裏の部屋には、
”当代一の目利き”と言われた正子が愛用して
いた骨董や陶器が展示されています。

正子は、”本物の良さがわかる数少ない日本人”
と評価されています。

座敷には、正子が大切にしていた着物が展示
されていました。


納戸は、パンフレットの上の写真の様に、正子の
書斎に改造されていました。

随筆家の正子は、この書斎から、「かくれ里」
などの数々の作品を生みだしました。

この萱葺きの古民家を上手く生かして、物の本質
を見抜いて、上手に使いこなして使い続けよう
という、白洲夫妻の”用の美意識”を感じます。


夫妻は武相荘を”終(つい)の棲家”としました。




近隣農家から移築したという養蚕作業の専用小屋
は、現在は、写真の様に、お洒落なレストランに
なっています。

ここで、お昼に、次郎が大好きだったという写真
の「親子丼」(2,100円)を注文します。 

親子丼の「蓋つきどんぶり」の器は、正子の知人
の伊賀土楽窯の福森氏に、当時を再現するための
復刻版を製作依頼したものだそうです。

その復刻版の器で、窓から外の景色をゆったりと
眺めながら、親子丼を頂きます。
あっ~・・・、食べる方に夢中になって、肝心の
親子丼の器の蓋(前頁の写真の赤丸印)の写真
を、絵付けの模様が分かる様に、上から撮る
のを忘れました・・・
(-_-;)
昼食を終えて、裏山を散策します。

裏山の庭を鈴鹿峠に見立てていて、遊びごごろが
みられます。



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国立西洋美術館 (世界遺産)  2019.3.1

2019-03-30 06:22:10 | Weblog

(写真は、国立西洋美術館の円柱で支えられた
1階)

2016年、フランスの建築家ル・コルビュジエが
設計した上野の「国立西洋美術館本館」が
世界遺産に登録されました。

登録理由は、コルビュジエの”近代建築運動への
顕著な貢献”で、フランスの10作品等、日本も
含めた7か国・17作品が登録されました。

私としては、登録理由が、いまいちピンとこない
ので、先週、そのヒントを求めて、上野の
「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ ― 
ピュリスムの時代」展に行って来ました。

コルビュジエが設計した「国立西洋美術館」で、
彼の絵画作品を観れば、登録理由が理解出来る
かも知れないと思ったからです。

(現在、”国立西洋美術館・開館60周年記念”
として、5月19日まで上野で開催中
:1,600円:月曜休館)




国立西洋美術館は、そもそも、川崎造船所社長
だった松方幸次郎が、ヨーロッパ各地で集めた
「松方コレクション」(絵画、彫刻)を中心に
昭和34年に設立された美術館です。

松方コレクションは、戦後フランス政府に接収
されましたが、フランス政府によりその一部が
日本に返還されることになりました。

これは、松方がパリのロダン美術館の開館費用を
援助したことへのお礼の意味もあったようです。

このときのフランス政府の返還条件が、これらの
返還美術品を展示する国立西洋美術館を建設する
ことでした。

こうして、国立西洋美術館は、フランス人の
コルビュジエの設計で建設されました。

この様な経緯もあり、西洋美術館の前庭では、
以下の写真のロダンの彫刻が無料で見られます。



(考える人)


(地獄の門)


(カレーの市民)


館内に入ると、1階は、円柱で支えられた、壁の
ない空間の「19世紀ホール」です。


ここには、コルビュジエが設計した建物の模型、
工事に関する説明等が展示されていました。



前頁の写真は、2階の企画展の展示室へと進む
スロープですが、2階から先は撮影禁止(注)
です。

(注:意外なことですが、国立西洋美術館の常設展
は、フラッシュを使わなければ写真撮影が許可
されています。

国立西洋美術館は、スロープや自然光を利用した
照明などが特徴で、これらは、日本の戦後の建築
に大きな影響を与えたそうです。

また、国立西洋美術館は、コルビュジエの理念の
”無限に成長する”美術館で、展示品が増えて
きても、必要に応じて、外側へ増築するスペース
が確保出来ているそうです。

1階の19世紀ホールから2階の企画展の展示
スペースへと、スロープで回遊して行きます。

2階の展示スペースは撮影禁止なので、NHK探検
バクモン「世界遺産 国立西洋美術館」の映像と
ナレーションでご説明します。

絵を展示する空間としては壁が命なので、その
壁の前の柱は、一見、邪魔な様に思えますが、
しかし、これには、コルビュジエの意図がある
そうです?

この建物の壁は20メートルと長いので、それを
柱によって敢えて分断して、6.35メートル毎に
柱を置き、わざと空間を区切っています?

これは、言ってみれば”反則技”なのだそうです。



これにより、柱がまるで額縁の様な効果をもち、
目の前の絵画に集中出来る空間をつくっている
のだそうです。

う~ん・・・、なるほどね。

展示されているコルビュジエの西洋美術館の
設計図(撮影禁止)を見てみると、アバウトな
1枚だけです?

縮尺の目盛はキチンと入っているものの、この
簡単な1枚だけでは、建物は建てられない
でしょ~?

う~ん・・・、コルビュジエ程の巨匠ともなると、
イメージ図みたいな設計図だけを日本に送って、
あとは弟子たちが勝手に詳細を設計して建てた、
ということ?

建築家として知られるコルビュジエですが、今回
の展示は、建物の模型などの建築関係の資料と
併せて、彼の絵画作品も多く展示されています。

第一次大戦後、「ピュリスム」を主催する
コルビュジエは、時を同じくして隆盛期を
迎えた「キュビスム」と対峙しました。

ピュリスムと対峙したキュビスムのピカソ、
ブラックなどの作品も併せて展示されている
ので、両者の違いが分かり易いです。

「ピュリスム」だの「キュビスム」と難解な気が
しますが、ここの展示室入って、ピュリスムと
キュビスムの作品をいくつか見ると、あ~あ、
そういうことか、と簡単に理解出来ます。



展示室を見終わって、再びロビーに戻って
きました。

美術館を出るときに、国立西洋美術館がなぜ世界
遺産なのか、もう一度考えてみました。

それは、現代日本の建築の多くが、コルビュジエ
の設計思想を既に取り入れて建築されており、
それを我々は日常生活の中でたくさん見ている
ので、逆に、国立西洋美術館を斬新で目新しく
感じないのかなあ~、と思いました。


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初島 (静岡県) 2019.2.23

2019-03-29 10:56:08 | Weblog
(写真は、初島の河津桜と菜の花)

熱海温泉に1泊して、今週の日曜(2/24)に、
熱海梅園・梅祭りに行った話は前回ご報告
しました。
熱海に到着した当日(2/23)は、久し振りに
「初島」に行ってみました。

「初島」は、相模湾に浮かぶ静岡県で唯一の有人島
で、熱海港からフェリーで僅か25分の距離です。
首都圏から一番近い離島で、島内には、アスレ
チック、バーベキュー、温泉、キャンプ、
スキューバーダイビング、バーやカフェ、
バンガローやトレーラーの宿泊施設等々があり、
海辺のリゾート気分を味わえます。
また、温暖な気候なので、四季を通じて
色とりどりの花が咲いています。
 
JR熱海駅から、熱海港・後楽園行きのバスで
10分の熱海港で下車して、フェリーで初島へ
向かいます。

運賃は往復で2,600円ですが、往復運賃と海鮮丼
がセットになった3,410円の「初島 丼合戦 特別
チケット」を購入しました。
 
天候によるのでしょうが、船は結構揺れます。

私は、全体の景色を眺めるために、甲板へ
向かったのですが、船の揺れで、真っ直ぐには
歩けません・・・
そして、甲板に着くと、想定外の出来事でしたが、
何と!、船は大きく揺れ、頭から水しぶきを
被ってしまいました!
ウソっ~!
 
フェリーの甲板では、えびせん等の餌をやる
乗客を目がけて、たくさんのカモメが間近かに
迫ります。
間もなく、フェリーから初島が見え始めました。
 
 
島に着くと、丼合戦のポスターが迎えてくれます。
 
購入した「初島丼合戦特別チケット」では、
漁師さんが営む15の食堂で、新鮮な地魚や
旬の食材をふんだんに使った自慢のオリジナル
海鮮丼が食べられます。
上陸したら先ずお目当ての食堂へ向かいます。
 
 
私は、食堂「なかの2」で、「初島丼合戦特別
チケット」を利用して、上の写真の「地魚漁師丼」
を注文、更に、次頁の写真のイカげそ(300円)
とビールを追加注文しました。
 
地魚漁師丼は、地元の旬の魚にイカ等をタタキ風
にアレンジした丼です。
 
漁師丼を食べ始めてから、写真を撮り忘れた
ことに気付いて慌てて撮ったので、上の丼の
写真は食べかけになってしまいました・・・
 
上の写真の300円のイカげそは、余りの
美味しさに、思わずもう一皿注文して
しまいました。
大満足のオリジナル丼でした。
 
食堂街を出て、山道を10分くらい上って行くと、
前頁の写真の初島公園がありました。
公園の河津桜と菜の花が見事で、しばし
立ち止まって、うっとりと眺めます。
 
初島公園の先に、アスレチックの「サルトビ」と
「ボウタン」がありました。
上の写真の「サルトビ」は、専用のハーネスを
着用して、かなりの高さの樹の上を渡って行く
ような本格的なコースです。 
 
上の案内図の「ボウタン」は、子供向けの
アスレチックです。 
 
フェリーの時間まで、港の近くの海岸線を散歩
します。
 
上の写真の初木神社や下の写真の竜神宮などを
見て回りました。
 
16:40初島発のフェリーで熱海へ戻ります。
 
熱海港から、今晩の宿の熱海ニューフジヤホテル
へ向かいます。
 
ホテルでは、ズワイガニや刺身・寿司など食べ
放題、生ビールや日本酒など飲み放題で、
1泊2食付き12,000円でした。
 
ズワイガニを何皿も食べるのに夢中になって
しまって、夕食の写真は、上の1枚だけしか
ありません(-_-;)・・・
 
 
 
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熱海梅園・梅まつり (熱海市) 2019.2.24

2019-03-28 09:11:56 | Weblog
(写真は、熱海梅園の梅)
 
今年の異常寒波も少し和らぎ、ようやく、梅の
便りもチラホラ、という感じの季節になり
ました。
という訳で、昨日(2/24)は、熱海温泉に1泊
して、熱海梅園の梅祭りに行って来ました。
毎年、この時期の観梅には、だいたい地元の
三渓園とか大倉山へ行きますが、時には熱海や
水戸辺りへも足を伸ばしています。
(これまでの観梅については、曽我梅林鎌倉・
 円覚寺
横浜・大倉山横浜・三渓園水戸・
 偕楽園
を見てね。)

実は、我が家から最も時間的に近い温泉地が熱海
温泉なのです。
 我が家から徒歩10分で新横浜駅、新横浜駅から
新幹線で25分で熱海駅、熱海駅から徒歩10分で
宿泊予定のホテルです。
と言う訳で、費用面を別にすると、我が家から
1時間以内で行ける温泉地が熱海温泉なのです。

「熱海梅園」は、静岡県の熱海市にある梅園です。
開園は明治19年と古く、日本一の早咲きの梅の
名所として有名です。
日本一の早咲きの理由としては、もともと熱海の
温暖な気候のうえに、地下から湧き出る温泉の
熱の影響もあるそうです。
「熱海梅園・梅まつり」は、1月5日から3月3日
迄と、期間が非常に長いのが特徴です。
これは、早咲き・中咲き・遅咲きと順に開花する
ために、長い期間楽しめるのだそうです。
園内は約4万平方メートルあり、59品種・472本
が植えられているそうです。

JR熱海駅からバスで15分の「梅園」または
「梅園入口」で下車します。
昨日は、日曜日ということもあり、梅園入り口は
すごく混んでいて、入園券を買うのにずいぶん
並ばなければなりません。
 
入場料は300円ですが、宿泊した旅館の領収書を
見せたら100円になりました。
 
 
入口の正面付近は、写真の様に、未だあまり
咲いていませんでした。
 
 
園内には、屋台や茶店が出ています。
 
 
メインステージでは、温泉まんじゅうの無料配布
サービスのイベントをやっていました。
 
並んで、写真の饅頭を貰いましたが、思っていた
より小さな饅頭でした・・・
でも、アンコが梅餡で、出来立てで美味しかった
です。
 
無名の演歌歌手が舞台で歌っていましたが、
大勢のお年寄りに囲まれて、結構盛り上がって
いました。
 
明治19年と開園が古いせいか、園内には、
樹齢100年を超える古木が点在します。
 
写真の枝垂れ梅もあり、こちらは満開でした!
 
 
 
 
 
 
 
園内には川が流れていて、幾つもの橋が掛かって
います。
 
 
 
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河口湖からの富士山 2019.1.3

2019-03-25 12:41:50 | Weblog
(写真は、カチカチ山ロープウェイ山頂からの
富士山)

今年の正月は、河口湖に1泊して、富士山を
じっくりと拝んで来ました。

初めて「新宿バスタ」を利用して、高速バスで
河口湖へ向かいました。(片道1,710円)
JR新宿駅の新南改札口の左脇に、「新宿バスタ」
の入口のエスカレーターがありました。

新宿バスタの窓口は、まるで空港のカウンターの
様な雰囲気です。
 
 
河口湖に到着すると、先ず、以前から行きたいと
思っていた「河口湖ミューズ館・与勇輝
(あたえ ゆうき)館」へ向かいます。
「河口湖ミューズ館・与勇輝館」は、河口湖の
ほとりの八木崎公園の中にある美術館です。(600円)
創作人形作家の「与勇輝」(あたえ ゆうき)の
約100体の人形作品が展示されています。
与勇輝が、幼い頃に終戦を迎えた「昭和のあの頃
の子供たち」が主なテーマです。
与勇輝の作品は、これまで写真でしか見たことが
ありませんでしたが、実物の表情の質感は、写真
と違って、人形がまるで生きていて、声が
聞こえてくるような完成度です。
終戦直後の苦しい時代をたくましく生きる子ども
たちの着物姿は、本当にその時代、その場面に
自分がいるような錯覚に陥いるほどリアルです。
温かみのある郷愁に満ちた表情の人形をみて、
いっそう与勇輝のファンになりました。
人形作品は主に木綿を素材としており、緻密かつ
繊細な布の彫刻で、衣服や、演出用の小物までも
作者の与勇輝が1人で手掛けたそうです。
館内は空いていて、心ゆくまでゆっくりと鑑賞
できました。
(美術館のパンフレットから)
ミュージアムショップで次頁の上の写真の「図録
与勇輝展 創作人形の奇跡」(2,200円)と、
次頁の下の写真のクリアファイル「お庭のすず」
(302円)を買いました。
 
 
(美術館の入場券)
 
(美術館のパンフレットから)
 
(美術館のパンフレットから)
 
(美術館のポスターから)
 
(美術館のパンフレットから)
(美術館のパンフレットから)
 
「河口湖ミューズ館・与勇輝館」を出て、「久保田
一竹美術館」へ行きました。(1,300円)
久保田一竹美術館は、着物の染色家である
「久保田一竹」(1917~2003)が建設した
自身の作品を常設展示するための美術館です。
 
着物が展示されている本館は、「ひば」の大木を
16本使った日本古来の組み上げ技法で、
ピラミッド型に組まれており、庭園や他の建物も、
全てが一竹の世界を表現する作品です。
 
 
「辻が花染め」という、室町時代からの染色の技法
を取り入れた着物が、約30点常時展示されて
おり、その細かで雄大なデザインに目を奪われ
ます。
宝塚の舞台で着られた着物も多いです。
 
(館内写真撮影禁止)
 
写真は、河口湖周辺で、最も富士山に近いという、
宿泊したホテルのレストランがらの眺めです。
 
翌朝、山頂まで3分の「カチカチ山ロープウェイ」
に乗ります。(往復720円)
 
”カチカチ山”ロープウェイの名前の由来は、
この天上山が、太宰治の「お伽草紙」の
「カチカチ山」の舞台となった山だからです。
最後にタヌキが泥舟で沈んでいったのが河口湖
だそうで、足元には、背中に火をつけられた
タヌキが駆け下りたとされる崖が広がります。
 
ロープウェイ山頂の展望は、富士山の山頂から
雄大な裾野までが一望出来、更に、眼下に河口湖、
遠くは南アルプスなどの大パノラマの絶景
です!!
足元には、富士急ハイランドが見えます。
(上の写真の赤丸印)
山頂からロープウェイで下り、次に、河口湖畔
から遊覧船に乗って、船の2階のデッキから
富士山を拝みます。(840円)
 
 
 
 
遊覧船は、河口湖の奥まで行って、Uターンして
戻るだけの20分間の短い遊覧ですが、湖の上
からの富士山はまた異なった趣きがあります。
 
河口湖周辺は、外国人観光客が大部分で、日本人
観光客は余り見かけませんでした。
外国人観光客は、中国、韓国、タイ等のアジア系
が主でしたが、欧米系も結構いました。
 
その様な中で、たまに日本語を聞くと、何となく
ホッとして?嬉しくなります・・・
河口湖周辺の観光を終えて、河口湖駅前の写真の
ほうとう専門店「ほうとう不動」で、ほうとう
(1,080円)を食べて温まってから、帰りの
新宿行の高速バスに乗り込みました。
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伊豆・下田 2018.12.28

2019-03-24 01:22:59 | Weblog


(写真は、レトロな町並みのペリーロード)

昨年の年末に、西伊豆の堂が島温泉に1泊した
翌朝の話しです。
堂が島から路線バスで約1時間、伊豆半島の
山間部を抜けて、伊豆急下田駅に戻って来ました。
伊豆・下田は、これまで3回くらい来ていますが、
主な目的は、ロープウェイや遊覧船に乗ったり、
金目鯛などの新鮮な魚を食べたりすることでした。
しかし、今回、歴史に目覚めた私は、これらの
娯楽施設には見向きもしないで、ひたすら下田の
町中を歴史散策します。

下田の歴史を代表するのが、幕末の黒船来航です。
幕末、下田の港にはペリー提督率いるアメリカの
黒船の艦隊が来航しました。
そしてここ下田で、日米和親条約(下田条約)が
結ばれ、開国の舞台となりました。

上の写真は、伊豆急下田駅前の「黒船・
サスケハナ号」の模型です。
サスケハナ号は、ペリー提督率いる黒船艦隊の
中でも一番大きな黒船だったそうです。
伊豆急下田駅をスタートして、どこかレトロな
雰囲気の漂うマイマイ通りをペリーロードへ
向かいます。

5分ほど歩くと写真の「宝福寺」があります。


(お吉の写真:お吉記念館)
宝福寺の境内には、「唐人お吉(とうじん 
おきち)」の眠る墓があります。

(もとの「お吉の墓」)


(水谷八重子によって新しく建てられた現在の
「お吉の墓」)



お吉は、下田で評判の美人の芸妓でしたが、幕府
の命で、下田に黒船で来訪していたアメリカ
総領事・ハリスのもとへ、心ならずも侍妾として
奉公にあがらせられます。
当時は攘夷の風潮もあり、世間の人々からは、
唐人(とうじん)として偏見の目で見られ、
罵声を浴びせられました。

お吉は、その後、凄まじい偏見と差別を受け
ながら、苦悩の生涯を送り、51歳の時に、
下田の稲生川で溺死しました。


宝福寺は、見学無料ですが、その奥にある「お吉
記念館」は有料(400円)で、お吉のかんざし等
の遺品が展示されています。

また、この記念館には、山内容堂と勝海舟との
謁見についての資料も展示されています。

土佐藩主・山内容堂は、江戸から上洛する際に、
海が荒れ、ここ宝福寺に投宿していました。

そのとき、幕府軍艦奉行・勝海舟の入港を聞き、
宝福寺に酒席を設けました。

海舟は、その酒席で、容堂に、坂本龍馬の脱藩の
罪の許しを乞います。

容堂は、海舟が、酒を飲めないのを承知のうえで、
「ならば、この酒を飲み干せ」と、朱の大杯を
差し出しました。

ためらうことなく飲み干した海舟は、容堂に
赦免の証を求めます。

容堂は、赦免の証として、自らの白扇に、瓢箪の
絵を描きました。


(容堂と海舟の謁見の間:お吉記念館)


(勝海舟が飲み干した朱の大杯:お吉記念館)


(山内容堂が描いた瓢箪の絵:お吉記念館)



宝福寺の隣は、前頁の写真の「大安寺」です。

この境内の奥に、写真の「薩摩十六烈士の墓」が
ありました。

説明板によると、1688年、島津藩の船が、将軍家
献上の御用材を積んで江戸に向かう途中、大風に
遭い、止むを得ず、材木の一部を海に捨てて
下田に入港しました。
不可抗力だったにも拘わらず、15歳の少年も
含め乗組員16名全員が、御用材を捨てた責任
をとって潔く切腹しました。
不可抗力だったからと見苦しい言い訳をして、
誰も責任を取らない東●電力の経営陣に聞かせて
あげたい話しでした。



大安寺を出て、大通りに突き当たって右折すると、
写真の「下田開国博物館」がありました。
(1,200円)
館内には、開国当時の下田の様子を描いた絵や、
江戸時代の下田の街の夜景のジオラマ等が
展示されています。


下田開国博物館を出ると、その裏に、次頁の写真
の「吉田松陰拘禁の跡」碑がありました。

吉田松陰は、ペリー艦隊での密航を企てましたが
失敗して自首、下田奉行所によってこの場所に
拘禁されました。
この吉田松陰の拘禁の模様は、上の下田開国
博物館で再現されています(撮影禁止)。



更にその近くに、下の写真の「欠乏所跡」碑が
ありました。

ここで、事実上の貿易が開始され、航海上必要な
薪・水・食料・石炭の他、漆器・織物なども
売り渡されました。



マイマイ通りに戻り、その突き当たりにあるのが
写真の「了仙寺」(りょうせんじ)です。



ペリー提督一行は、ここ了仙寺で、日米和親条約
(下田条約)を締結しました。



(唐人お吉の籠)
了仙寺の境内には、MoBS黒船ミュージアム
(500円)があり、ぺりー直筆の公文書や
黒船来航絵巻などを展示しています。
(撮影禁止)

ここ了仙寺が、下田の人気スポット「ペリー
ロード」のスタート地点になります。



下田に入港したペリーが、条約締結のために、
この道を了仙寺まで歩いたので「ペリーロード」
と名付けられました。

ペリーロードは、柳並木が立ち並ぶ平滑川に沿う
約700メートルの石畳の小径で、レトロな異国
情緒が漂います。

ペリーロードの両側には、幕末から明治、大正
時代にかけて建てられた石造りの蔵や、なまこ壁
の商家を利用した、レトロなカフェや土産物屋が
建ち並びます。



ペリーロードの脇の急な石段を上ると、写真の
「長楽寺」がありました。
ここで、日露和親条約が締結されました。


昼過ぎになり、お腹が空いたので、ペリーロード
沿いの写真の「志満田」で、金目鯛の刺身と
煮つけを食べました。






ペリーロードの突き当たりには、写真のなまこ壁
の「旧澤村邸」がありました。
(無料で一般公開中)



ペリーロードを抜けると、写真の「ペリー艦隊
上陸記念碑」がありました。
1854年、条約締結により即時開港となった下田
に、艦隊が次々と入港しました。
その時に、ペリー艦隊が一番始めに上陸したのが、
この記念碑の辺りだったそうです。

駅へ戻るため、ペリーロードを戻りながら右の道
へ入ると、お吉が営んでいたという、次頁の写真
の料亭「安直楼」(あんちょくろう)跡があり
ます。
明治15年、お吉40歳の頃に、再起を図って
ここ安直楼で小料理屋を開業しますが、差別や
偏見が強く、客足も遠退き、お吉は酒に溺れます。
そして、4年ほどで廃業、明治24年、豪雨の夜に
入水自殺しました。



干物横丁を抜けて、伊豆急下田駅へ向かいます。


黒地に白い碁盤目が斜めに交差する模様の
「なまこ壁」が散見されます。



漆喰の形がなまこに似ているので「なまこ壁」と
呼ばれるそうですが、防火、防湿のために、
土壁に平瓦をはめ込んで、継ぎ目に漆喰を
盛り上げて固めた壁です。







お土産に、コックさんの帽子の形をした写真の
「下田アンパン」(180円)と、「金目鯛最中」
(170円)を買いました。





伊豆急下田駅の売店で写真の駅弁「金目鯛押寿司」
(1,300円)を買い、踊り子号の車内で食べながら
横浜に帰りました。







伊豆急下田 →(踊り子号 )→ 新横浜

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堂が島温泉 (西伊豆)2018.12.27

2019-03-23 00:22:53 | Weblog

(写真は、「伊豆半島ジオパーク」の吉永小百合)

昨年の年末は、久し振りに、西伊豆の堂が島温泉
に1泊して、のんびりと温泉に浸かり、1年間の
垢を落としてきました。

堂が島は、昔、海水浴などで3回くらい来て
いますが、冬に宿泊するのは初めてです。

新横浜(9:24) →(踊り子号 )→ (11:46)
伊豆急下田(12:00) →(バス)→ (13:00)
堂が島
 




新横浜から踊り子号に乗って、終点の伊豆半島
南端の伊豆急下田で下り、ここでバスに
乗り換えます。




バスで伊豆半島の山間部を抜けて、伊豆半島
西海岸の堂が島に着きました。




先ず、堂が島のバス停前の寿司屋で昼食を
食べます。
お目当ては、金目鯛の握りずしです。
(地魚握り:2,100円)



写真の上段の中央が金目鯛で、その他の魚は、
マグロ以外は堂が島で獲れたものだそうです。

寿司屋を出て、前の道路の地下道をくぐり、
遊覧船乗り場へ向かいます。



堂ヶ島の景観を楽しむクルーズ船がここから出港
しているのですが、この日は強風で波が高く、
遊覧船は欠航でした。

イタリアの「青の洞窟」に似た、堂が島観光の
ハイライト「天然記念物・天窓洞(てんそう
どう)」を遊覧船から見物するのを楽しみに
していたのですが・・・

諦めて、遊覧船乗り場から、海沿いの右手にある
堂ヶ島公園の遊歩道の階段を上って行くと、
東屋がありました。
その東屋の前に、ぽっかりと大きな穴が?
ここが海蝕洞窟で、中央が抜け落ちていて天窓と
なっており、上から、洞窟の内部が見えています。
この大きな穴が、クルーズ船が入って行く
ハイライトの「天窓洞(てんそうどう)」を、
地上から覗くスポットでした!

まさに文字通り、”天窓”です!

上のポスターは、遊覧船からこの”天窓”を
見上げた風景の写真です。
洞窟の天井が抜けて、光が差し込み、海の波が
青くキラキラ光っています。

冒頭の写真のJR東日本の「大人の休日倶楽部」
のCMでは、吉永小百合の「伊豆半島ジオ
パーク」を、次回ご紹介する「伊豆・下田」を
中心にやっていました。



ここ堂ヶ島公園は、遊歩道がよく整備されている
ので、天窓洞から更に遊歩道を上って行くと、
少し開けた見晴らしのよい展望台に出ました。





堂ヶ島は、” 伊豆の松島 ”と呼ばれるそうです
が、この辺りはリアス式海岸のため、海岸線が
複雑に入り組んでいます。


左手に見えるのは、三四郎島です。
ここではトンボロ現象といって、干潮時に、潮が
引くことによって、三四郎島までの道が現れます。

(トンボロ現象の看板の写真)





柵のない崖なので、用心しながら、更に、
恐る恐る階段を下って崖の上を探索します。

見晴らし台から、遊歩道の階段を下って行くと、
白い火山灰層でつくられた崖の上にでます。
写真の様に、強風で激しい波しぶきがあがって
います。

この遊歩道は、10分程度のルートで、遊歩道を
歩き始めた場所に戻ります。



その後、宿のホテル銀水荘(1泊2食付
14,000円)にチェックインして、温泉で
ひと風呂浴びたところで、ホテルの
”サンセットワインサービス”(無料)が
始まりました。

ほとんどの宿泊客がロビーび集まって、大音量の
BGMが流れる中、壮大な駿河湾に沈む夕陽を
眺めながら、風呂上りの心地よい気分で、
冷たいワインのサービスに酔いました。



そして、夕食は、年末の繁忙期にも拘わらず、
レストランではなく、部屋まで運んでくれ、
至れり尽くせりのサービスでした。











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韮山・江川邸 ( NHK「西郷どん」 「篤姫」のロケ地 )(静岡県)2018.12.3

2019-03-22 23:34:46 | Weblog


(写真は、「江川邸」でNHK大河「篤姫」のロケ中
の 「宮崎あおい」)

「韮山城跡」を後にして、城跡のすぐ近くの
「江川邸」(国重要文化財)へ向かいます。

「江川邸」は、最近では、NHK大河「西郷どん」
で薩摩屋敷として登場しました。

また、懐かしいところでは、NHK大河「篤姫」
では、篤姫の生家として登場し、嫁入りシーン
で出てきます。

更には、TBS日曜劇場「JIN-仁」や、東山紀之
主演の映画「山桜」など、多くのロケが行われて
います。


江川氏は、もともと鎌倉幕府の御家人でしたが、
北条早雲の伊豆進出を受けて、北条氏の家臣と
なりました。

北条氏が豊臣秀吉に敗れた後は、徳川家康に仕え、
伊豆が徳川幕府の直轄領になると、韮山代官と
なります。

その後、明治維新まで、幕府の代官を世襲し、
当主は、代々「太郎左衛門」を襲名しました。

江戸後期には、名代官として有名な36代・太郎
左衛門英龍がいます。

太郎左衛門英龍(坦庵)は、世界遺産の韮山
反射炉を建設しました。
英龍は、他にも、日本で最初の洋式帆船(戸田号)
の建造、お台場の建設など数多くの業績を残し
ました。

また、渡辺崋山や高野長英とも親交があり、
文化人、開明思想家としても活躍しました。

明治維新になると、江川氏は新政府に恭順、
38代・太郎左衛門英武は、韮山県知事を
務めました。

韮山(にらやま)県は、現在の静岡県、神奈川県、
埼玉県、山梨県、東京都多摩地域と広範囲に
わたる県でした。


(江川英龍の自画像)

「江川邸」は、「代官屋敷」の「役所跡」を
そのままの形で今に伝え、現存する邸宅建築では
最古のものです。(国重要文化財)

入場料500円を払って、江川邸の表門へ向かい
ます。

現在の「江川邸」は、江戸時代、江川氏の私的
生活の場として用いられていたそうです。

上の写真が、1696年に建築された「表門」です。

ここをまっすぐ進むと、「玄関」が見えて来ます。


ここが大河ドラマ「篤姫」で使われたそうです。









「母屋」に入っていきます。


50坪もの「土間」です。


土間には、伊豆石のパン焼き窯が展示されて
います。
ちなみに、江川太郎左衛門英龍(坦庵:たんなん)
は「パン祖」と言われており、日本で初めてパン
を焼いた人物とされています。



圧巻なのは、力学的に組まれた「屋根裏の架構」
です。


写真は、関ケ原合戦(1600年)前後に建てられた
とする、高さ12メートルの大屋根を支える
豪華な架構で、凄い迫力です。



板張りと囲炉裏の「台所」です。

英龍は代官としての素質だけでなく、学問や芸術

の見識も深かったそうです。

母屋内の「塾の間」で、江川塾を開いていました。

太郎左衛門の門下生は、佐久間象山・大鳥圭介・
橋本左内・桂小五郎など4,000人にも及んだ
そうです!! 



この部屋では、江川家関連の文献や資料が
まとめられています。


(玄関からの眺め)

母屋を出て、回りを散策します。






上の写真の「米蔵」は明治・大正期に建築された
比較的新しい建物です。

次頁の写真は、「パン祖の碑」です。
江川英龍が、この場で実際にパン釜を用いて
焼いたのが、日本で初めてのパンと言われて
います。
この石碑は、そんな江川英龍(坦庵)を讃え、
昭和28年に全国パン協会によって建てられ
ました。

次頁の写真の「裏門」の建築は1823年ですが、
門扉は、1590年のものとされ、豊臣秀吉の
小田原攻めで、韮山城が包囲されたとき、
砦のひとつだった江川邸(江川曲輪)も激しい
攻撃を受けました。



門扉に残る数多くの穴は、当時、豊臣秀吉の軍勢
から攻撃されて出来た鉄砲玉の跡だそうです!




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韮山城 (静岡県) 2018.12.3

2019-03-21 09:02:19 | Weblog

(写真は、韮山城跡の上空写真)

前回の「修善寺の歴史」に続き、今回は「韮山城」
です。

新横浜 →(新幹線)→ 「三島」 →(伊豆
箱根鉄道20分) → 「韮山」




三島から伊豆箱根鉄道で35分の修善寺へ行く途中
の「韮山」(にらやま)で下車、韮山駅から徒歩
15分で、「韮山城」の入口に着きます。

「韮山城」は、戦国時代に「北条早雲」(伊勢
宗瑞)が、伊豆国の韮山(にらやま)の丘陵に
築いた山城です。

先日、NHK「歴史秘話ヒストリア---戦国時代を
開いた北条早雲」をやっていました。

それによると、「北条早雲」は、室町10第将軍・
足利義材の側近の申次衆(もうしつぎしゅう
:現代で言うと事務方の”秘書室長”)でした。

そのとき、将軍の従兄弟の「伊豆の足利茶々丸」
が、次の将軍候補の足利義澄の母親を殺害する、
という事件が起きます。

(NHK「歴史秘話ヒストリア」から)

幕府の威信を保つためには、次期将軍候補の母親
の仇を討つことが絶対に必要だと考えた北条早雲
は、事務方の”秘書室長”の立場にも拘わらず、
「伊豆攻め」を志願します。

「北条五代記」によると、京都を出陣して伊豆に
着いた早雲は、修善寺の温泉に浸かって、地元の
人々から、茶々丸側の情報収集をしたそうです。

(NHK「歴史秘話ヒストリア」から)

そして、「韮山城」の茶々丸を包囲しますが、
地元の伝統的な勢力は強く、よそ者の”秘書室長”
の早雲は攻めあぐみ、籠城戦は5年にも及び
ました。

(NHK「歴史秘話ヒストリア」から)
その籠城戦の最中の1498年に、明応東海地震が
発生し、前代未聞の被害が発生しました。
このとき、早雲は、率先して、伊豆地方の被災者
の救済にあたったため、地元の人々や伝統的な
勢力から慕われる様になり、明応東海地震の後に
「韮山城」は陥落しました。
この韮山城攻略の功績により、早雲は伊豆の国を
与えられました。
伊豆を平定した「北条早雲」は、「韮山城」を
自らの本城として、以降5代続く小田原北条氏の
礎を築きました。
1519年、早雲が韮山城で没すると、跡を継いだ
氏綱は、韮山から小田原へ本拠を移します。
これにより、韮山城は、伊豆地域を治める
小田原城の支城になりましたが、それでも、
今川氏や武田氏などに対する防御地点として
重要な意味を持っていました。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、韮山城は
4万の大軍に囲まれましたが、開城するまで、
3ヵ月にわたる籠城戦に耐え抜きました。

北条氏の滅亡後には、家康の家臣の内藤信成が
入城しますが、関ヶ原合戦後の1601年に、信成が
駿府へ移封されると、韮山城は廃城となりました。

廃城後は、韮山代官の御囲地となったため、土塁
や堀なども戦国時代の姿をそのままとどめて
います。

上の図は「韮山城本城と付城」ですが、赤丸印が、
今回訪れた韮山城本城です。

韮山城跡へは、「城池」親水公園から登って
行きます。


麓の城池から城跡を見上げます。


古地図でも大きな沼を正面に、小高い丘に郭が
並んでいるのが分かります。


上の写真は、城郭の入口です。


上の写真のテニスコートが「三の丸跡」です。


三の丸跡から、権現曲輪跡へ向かいます。


上の写真は、権現曲輪で、土塁で囲まれてます。

早雲が、城の守護神として創建した熊野神社が
「権現曲輪」に建っています。

二の丸跡へ登って行きます。

上の写真は、二の丸へ入る虎口跡です。

(二の丸)
二の丸跡から本丸跡の方へ向かいます。


本丸への道の脇は切り立った崖です。

上の写真が「本丸跡」ですが、それほど広くは
ありません。

(本丸からの眺望)

眼下は韮山高校ですが、当時は、御屋敷と
呼ばれる居館がありました。
台形状を呈する本丸としては小さな曲輪で、北側
と東側に土塁が巡っています。

本丸跡から、更に南側に伸びる細い尾根を進み
ます。

細い尾根を進んで行くと、上の写真の「塩蔵」址
と伝えてられている細長い曲輪がありました。

(韮山城本城の曲輪の配置図)
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修善寺温泉・歴史 (静岡県) 2018.12.3

2019-03-20 22:41:52 | Weblog

( 写真は、「2代将軍・源頼家」の石ころを重ねた
だけの可哀想な墓 )

前回の「修善寺の紅葉狩り」に続き、今回は
「修善寺の歴史」です。

「修善寺」の地は”源氏滅亡の地”であり、鎌倉
時代に、謀反の疑いをかけられた源頼朝の弟の
源範頼、更には、源頼朝の息子の二代将軍・源
頼家までもが、幽閉され殺された地です。

今回は、この悲しい歴史をもつ「修善寺」周辺の
源氏ゆかりの史跡を巡ります。

新横浜 →(新幹線)→ 「三島」 →(伊豆
箱根鉄道20分) → 「韮山」(途中下車) 
→  (伊豆箱根鉄道15分) → 「修善寺」 
→(バス 10分)→  「修善寺温泉」 

三島から伊豆箱根鉄道で35分の修善寺へ行く途中
の「韮山」(にらやま)で、ちょっと下車します。 




韮山駅から、案内の矢印に従って10分くらい歩く
と、下の写真の「蛭が島(ひるがしま)公園」が
あります。



蛭が島(ひるがしま)は、平治の乱で敗れた
「源頼朝」が流刑された地です。

頼朝は、この地で、現地の豪族だった北条時政の
長女の政子と結婚しました。

上の写真は、この公園の「源頼朝と北条政子」像
です。  
そして、その後は、皆さんご存知の通り、「頼朝」
は、この地で打倒平氏を掲げて挙兵、壇ノ浦で
平氏を滅ぼして、鎌倉に幕府を開き「初代将軍」
となりました。
その後、「頼朝」が急死すると、嫡男「頼家」が
18歳の若さで「2代将軍」になりますが、
「政子」と「北条時政」は、幕府の実権を握る
ために、「頼家」とその後ろ盾の比企一族を
葬ろうと画策します。

この計画を知った「頼家」と頼家の妻の父の
「比企能員」(ひき よしかず)は、北条氏打倒を
計画します。
しかし、この計画は漏れてしまい、逆に、北条
時政と政子は、比企能員を自邸におびき寄せて
騙し討ちにしたうえで、比企一族が立てこもる館
を急襲して一族を滅亡させました。
そして、頼家は「修善寺」に幽閉され、その後、
北条氏の放った刺客によって暗殺されました。

この様に、「韮山」は”源氏発祥の地”であり、
韮山のすぐ近くの「修善寺」は、”源氏滅亡の地”
なのです。

再び、「韮山」駅から伊豆箱根鉄道に乗り15分の
修善寺で下車、更にバスで10分で「修善寺温泉」
に着きます。

「修禅寺」は「修善寺」の地名の由来になったお寺
であり、温泉街の中心にあります。
読み方は、どちらも「しゅぜんじ」で一緒ですが、
お寺の方は修善寺ではなく修禅寺です。
昭和59年、修禅寺の解体修復作業中に、本尊の
大日如来像の低部から、3束の髪の毛と経文が
発見されました。
大日如来像の完成以来、一度も解体されたことが
無い事から、仏像製作時に収められたものである
と判断され、この黒髪をめぐって歴史論争が展開
されました。
この3束の髪の毛のうちの一つは、北条政子か、
頼家の妻の辻殿のどちらかの髪だという説が有力
らしいです。

「修禅寺」の境内の右脇にある「宝物殿」
(300円)を訪れます。
この宝物殿には、「頼家」ゆかりの品や、戯曲
「修禅寺物語」で有名な「古面」があります。

岡本綺堂の戯曲「修禅寺物語」の粗筋は以下の
通りです。
修禅寺に住む面作り師の「夜叉王」は、幽閉
されている2代将軍・頼家から、自分の顔に
似せた面の注文を受けていますが、何度作っても
死相が現れるために完成出来ないでいました。
「夜叉王」の娘の「桂(かつら)」は、気位が
高く玉の輿を望んでいました。
頼家が、面を督促するために、夜叉王の家を
訪れたとき、桂は、父の意に反して、死相が
現れている面を頼家に献上してしまいます。
頼家は、桂と結婚し、亡くなった愛妾「若狭」の
名前を桂に与えます。
その夜、北条氏の討手が頼家の幽閉所を襲います。
頼家の命を救おうと、桂は、父が打った頼家の
面をつけて頼家になりすまし、群がる敵を相手に
戦いますが、その甲斐なく、頼家は命を落とし
ます。
桂は、頼家の面を付けたまま、何とか父の家に
たどり着きますが、既に瀕死の状態でした。
夜叉王は、自分の作った面に死相が現れていた
のは、技量が未熟なためではなく、頼家の運命を
予言した神業の技術だと悟り、自分は日本一の
面作り師だと喜びます。
そして、今まさに息絶えようとしている娘の桂の
顔の表情を、憑かれたかの様に、後の面の制作の
手本とするために模写し始めます。

(平成6年、劇団民藝による「修禅寺」: 長倉
書店「修禅寺物語・岡本綺堂」から)

(「修禅寺物語」の古面:修禅寺の宝物殿の入場券
から)



桂川を挟んで、修禅寺の反対側にある鹿山の
ふもとの「指月殿」へ向かいます。

前頁の写真の「指月殿」は、尼将軍の「北条政子」
が、自分の息子の二代将軍「源頼家」を弔う
ために建てたものです。


「鎌倉の覇業を永久に維持する大いなる目的の
前には、あるに甲斐なき我が子を捨て殺しにした
ものの、さすがに子は可愛いものであったろうと
推し量ると、ふだんは虫の好かない傲慢の尼将軍
その人に対しても、一種同情の感をとどめ
得なかった。」(岡本綺堂の随筆から)

指月殿の堂内に設置されている前頁の写真の
「釈迦如来像」は、右手に蓮の花を持っている
のが特徴です。


指月殿の脇の石段を上ると「源頼家の墓」が
あります。

次頁の写真が「源頼家の墓」だと思って、写真を
撮ったのですが・・・

説明板をよく読むと、どうも、これは墓では
なくて供養塔で、次頁の写真の様に、この供養塔
の背後に隠れるように立っている石ころを重ねた
だけの五輪塔が「頼家の墓」みたいです。
念のため、供養塔の横の坂道を上って覗いて
みると・・・
やはり、間違いありません!

何と!、この小さな石ころみたいのが、
二代将軍の墓です!
頼家が可哀想過ぎっ~・・・





写真は、「源頼家の墓」の隣にある「十三士の墓」
です。

鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」によると、
源頼家が暗殺された6日後、頼家の家臣13名
が、主君・頼家の無念を晴らすべく謀反を
企てました。
しかし、事前に謀反が発覚してしまい、全員が
討ち取られてしまいました。
こちらも可哀想~!

坂道を歩き疲れたので、Cafe「弘乃」で休憩
です。

湯葉ぜんざい(450円)、黒米餅入りぜんざい
(450円)、それに、生わさびソフト(400円)
を注文します。
生わさびソフトは食べてしまってから気づいた
ので写真がありませんが、注文して
からわさびを摩り下ろしてトッピングするので
風味が良いです。
修善寺の町の中心に戻り、修善寺の隣の「日枝
神社」に参拝します。



日枝神社には、根元が一つになっている樹齢
800年の上の写真の「子宝の杉」があります。
源頼朝の弟の「源範頼(のりより)」は、弟義経
と共に義仲を倒し、次いで一の谷の合戦で平家を
破りました。
その後、範頼は、義経と同様に兄頼朝に疑われ、
ここ「日枝神社」下の「信功院」に幽閉され
ました。

写真は、その範頼が幽閉されていた「信功院の跡」
です。
幽閉の翌年、頼朝の家臣の討手を受け、防戦の
末に自刃しました。
信功院を出て、「源範頼(のりより)の墓」を
訪ねます。
範頼の墓は、修善寺の町の中心から少し離れ、
住宅街を抜けた徒歩15分くらいの丘の上に
ありました。



分かりにくい場所ですが、途中に、案内板が
幾つも立っているので、迷わずに行けます。

写真は、修禅寺で幽閉され、自刃した範頼の墓
です。
そう言えば、東海道踏破のバス旅行の際に、
「石薬師」宿で「源範頼」の「逆さ桜」を
見学しました。
そのときの同乗の歴史の先生のコメントを未だ
覚えています。
「源範頼は、源義経と同じ様な経緯で、同じ様に
戦功をあげ、同じ様に頼朝に疑われて殺された
のに、義経は有名になり、可哀想な範頼は無名の
ままなんですよね。」
(石薬師宿の源範頼(蒲殿)の「御曹司社(おん
ぞうししゃ)」と「蒲桜(かばざくら)」に
ついては、(バスで行く東海道・四日市・石薬師
の後半を見てね。)

お昼時になったので、下の写真の「独鈷そば大戸」
に入ります。


生わさびを自分で摩り下ろす様になっているので
良い香りです。

余った生わさびは持ち帰り出来ます。



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修善寺温泉・紅葉狩り (静岡県) 2018.12.2

2019-03-19 09:07:43 | Weblog

(写真は、修善寺温泉の紅葉)

今年の「紅葉狩り」は、久し振りで、静岡県の
「修善寺温泉」へ電車で行って来ました。

新横浜 →(新幹線)→ 三島 →(伊豆箱根
鉄道 35分)→  修善寺 →(バス 10分)
→  修善寺温泉 





「修善寺温泉」は、伊豆最古の温泉と言われる
温泉郷で、三方を山で囲まれ、桂川の渓谷ぞいに
旅館が立ち並び、賑やかながら落ち着いた情緒を
持つ街です。


先ず、”修善寺”温泉の中心である"修禅寺"に
お参りします。

平安時代初期の807年、修禅寺は、弘法大師
によって開創されました。










次に、修善寺の温泉街を散策します。





写真は、ミシュランガイドブックにも掲載された、
温泉街の中心を流れる桂川沿いの400メートルの
遊歩道「竹林の小径」です。

桂川の渓谷ぞいの遊歩道を散策します。






下の写真の中央は、温泉街の中心を流れる桂川
河畔に湧く修善寺温泉発祥の「独鈷(とっこ)
の湯」です。



807年、弘法大師が桂川で病父を洗う少年を見て
心うたれ、手に持ったトッコ(仏具)で川の岩を
砕き、霊湯を湧出させ、父子に温泉療法を伝授
したそうです。

次頁の写真の左側が外湯の「筥湯(はこゆ)」
で、右側は筥湯の望楼(無料)で、その下の
写真の様に修善寺の町並みが一望出来ます。







宿泊は、以前から泊まりたいと思っていた、
修善寺温泉バス亭前の「湯回廊 菊屋」に
しました。
(1泊2食付:22,000円)

「菊屋」の歴史は古く、創業は380年を超え、戊辰
戦争の総大将・有栖川宮熾仁親王、幼少のときの
昭和天皇をはじめ、多くの皇族が宿泊されました。

そして、明治43年、「夏目漱石」が、胃潰瘍の
転地療養のためにここ菊屋に逗留しました。

しかし、菊屋での転地療養は思わしくなく、
大量の血を吐いて意識を失い、危篤状態に
なります。

これを漱石の「修善寺の大患」と呼ぶそうです。

漱石は、かろうじて生死の縁から甦りますが、
この大病は、その後の人生観や「明暗」などの
作風に大きく影響を与えたそうです。

そして、回復した際の「思ひ出す事など」には、
以下の様に書かれています。

「病に生き還ると共に、心に生き還った。余は病に
謝した。又、余のために是程の手間と時間と親切
とを惜しまざる人々に謝した。さうして願わくは
善良な人間になりたいと考へた。」


このとき漱石が使用した硯などが菊屋に展示
されています。(上の写真)
更に、夏目漱石が宿泊した「梅の間」は、
そのまま残されており、予約すれば誰でも
泊まれます。

(梅の間:菊屋のパンフレットから)





菊屋のフロントを奥へ進むと、眼下に桂川を見る
ことができる廊下を渡り、水のせせらぎを聴き
ながら回廊を歩きます。






敷地内の池を取り囲むように建物があり、
それぞれの建物が回廊によって繋がっています。




(菊屋のパンフレットから)

夕食は、地元の食材を使った会席スタイルで、
包丁細工を施された料理はどれも手が込んでいて、
見ても楽しい料理です。

(菊屋のパンフレットから)















夏目漱石が愛した菊屋は、明治から大正、昭和、
平成と歴史をつむいできた旅館で、静かでとても
落ち着いた雰囲気です。
料理、温泉、サービスと、どれも行き届いていて、
お勧めの旅館です。


(朝食)

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散歩の寄り道 (その30:プロ バスケットリーグ:横浜国際 プール)2018.11.23

2019-03-18 23:39:42 | Weblog

(写真は、試合の合間のパフォーマンス)

股関節炎を発症したため、暫くの間、
ウォーキングを控えていましたが、恐る恐る
自宅周辺から再会することにしました。

手始めに、我が家の近くの横浜国際プールに
行って来ました。

市営地下鉄の東山田駅をスタート、15分くらい
歩いて、横浜国際プールに着きました。




ここで開催中のプロバスケットリーグ(B1
リーグ)の試合で、横浜ビー・コルセアーズを
応援してから帰宅しました。


私のバスケの知識は、高校の体育の授業の
バスケで覚えたルールくらいの心細いもので、
プロのリーグを生で見るのは初めてです。


地元の「横浜ビー・コルセアーズ」は、「横浜
国際プール」をホームとするチームで、本日の
対戦相手は、強豪の琉球ゴールデンキングスです。


2016年に始まったBリーグ(男子バスケット
ボール)は、プロの1部(B1)と2部(B2)が
各18チーム、プロノンプロ混合の3部(B3)が
9チームの構成です。
サッカーと同様、毎年、入れ替えもあります。

シーズン期間は、野球とは逆で、9月から5月で、
全60試合行がわれます。
ソフトバンクが全試合を有料で中継している
らしいです。




観客席は、2階の4,000席とコート周辺の
1,000席です。

(2階指定席:2,700円、コート周辺指定席
 :3,700円 )

   
(試合の合間のパフォーマンス)

観客は、意外と、小学生連れの母子や父子が
多かったです。

バスケをやっている小学生が、親子で来ている
ということなのでしょうね。

初めてプロバスケの試合を見て、面白いと思った
のは、応援グッズの「応援ハリセン」です。



上下の写真からはちょっと分かり辛いですが、
紙で作られた応援ハリセンは、開くと応援
ボードに、折りたたむとハリセンになります。




際どいプレーの場面では、会場中に、漫才の?
ハリセンを叩く音が鳴り響いて、試合が
盛り上がります。

試合会場は、国際プールなので、会場の端には、
上の写真の様に、高飛び込み競技用の飛び込み台
が、剥き出しのままになっています。

試合は、琉球の速攻に押されっぱなしの一方的な
展開になりました。

守備は、相手の巧みなパス回しで簡単に崩され、
攻撃は、チャンスでリバウンドを奪われ・・・
相手の激しい守備に阻まれてシュートは全く
入らず、おまけに簡単なハズのフリースローまで
入りません・・・







「横浜53 - 琉球89」で、横浜の惨敗でした。

これで、横浜は、4勝11敗です・・・

・横浜国際プールへのアクセス
 
横浜市営地下鉄「センター北駅」下車、駅前の
東急バス・3番乗り場「東山田営業所」行に
乗車、約10分の「国際プール正門前」で下車。
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熊本・天草の﨑津集落 (長崎と天草 地方の 潜伏キリシタン関連 世界遺産) 2018.11.8

2019-03-02 06:08:53 | Weblog

(写真は、世界遺産の﨑津集落の﨑津教会)

昨年の冬、実家の熊本に帰省した際に、世界遺産
・天草の﨑津集落へ行って来ました。
(五島列島の潜伏キリシタン関連世界遺産について
は、「五島列島」を見てね。)
熊本交通センターで、「快速あまくさ号で行く
世界文化遺産:天草の﨑津集落」のセット券を
購入します、(4,000円・日帰り)
この券は、熊本市内から天草・本渡までの往復
バス乗車券と、天草・本渡発の「﨑津集落・
世界遺産観光周遊」バス乗車券がセットになって
おりお得です。

「快速あまくさ号」バスは、熊本交通センターから
天草の本渡まで、一般道を2時間以上かけて
走ります。

熊本交通センター (10:30)→ 本渡バスセンター
(12:43)
本渡バスセンターで、「天草ぐるっと周遊バス」
に乗り換えます。
この観光コースは、本渡バスセンターを出発して、
約4時間かけて、下記の潜伏キリシタン関連の
世界遺産を回り、再び本渡バスセンターに戻って
来ます。
本渡バスセンター(13:20) → 天草コレジョ館 
→ 﨑津教会、﨑津集落 →  大江教会 → 
天草ロザリオ館 → 本渡バスセンター(17:20)

「天草ぐるっと周遊」は、ガイドさんが4時間も
添乗していて、何と!、1,000円と破格の値段です。

これは、天草市の補助によるみたいで、今後の
料金は天草市の来年度予算次第みたいです。

このバスガイドさんは、自身が崎津集落の出身で、
ずっとこのバスのガイドを8年間も努めている
そうです。
世界遺産の登録までは、お客は1日に1~2人の
日が多かったのに、世界遺産になったとたんに、
1日に10~20人に増えたそうです。

そう言えば、この日も、北海道、東京、佐渡、
奈良、大阪、神戸などからのお客で、九州の
お客は1人もいませんでした。

このバスガイドさんは、走行中、休むことなく
天草の地理と歴史などを詳細に解説してくれた
ので、おかげで天草についてすっかり詳しく
なりました。


最初の見学地は、写真の「天草コレジヨ館」です。
(200円)


コレジヨ(英語読みではカレッジ)というのは、
聖職者のための神学校です。

天草に伝わる南蛮文化や、コレジヨ関連の資料が
展示してあります。

中でも見どころは、写真のグーテンベルク印刷機
(複製)です。




日本人として初めてヨーロッパを旅行した4人の
少年使節団(天正少年遣欧使節団)によって
持ち帰られた印刷機を忠実に復元しています。

当時の天草では、前頁の写真の「平家物語」の様な
「天草本」(キリシタン本)と呼ばれる印刷物が、
毎回1,500~3,000部も出版されていたそうです。



次に、「崎津集落」に到着しました。




写真は、ゴシック様式の「﨑津教会(天主堂)」
で、現在のものは、昭和9年に、鉄川与助が設計
施工して再建されたものです。
この﨑津教会は、禁教期に絵踏が行われた
「庄屋役宅跡」に建立され、何と!、
教会の祭壇は、かつて絵踏が行われていた場所
に設置されたそうです!!
信者の人達は、弾圧の象徴であるこの場所に
拘ったんですねえ。
でも、建設途中で資金不足になり、次頁の写真の
様に、教会の前方は鉄筋ですが、後方は木造と、
変則的な造りになったそうです。



(熊本日々新聞から)
教会内は、珍しい畳敷きになっています。
(館内撮影禁止)


キリシタンのお墓は、上の写真の様に、通常の
墓石に十字架が乗った形をしています。


ちょっと見にくい写真ですが、白く見えるのは
「海上マリア像」です。




崎津集落を散策します。





「しめ縄」は、一般的には、正月にのみ玄関に飾り
ますが、上の写真の﨑津集落の「しめ縄」は、
一年中飾る風習なのだそうです?

これは、禁教期に「この家はキリシタンではない」
ということを示すために、年中飾っていた名残り
なのだそうです。

次頁の写真の「﨑津資料館 南風屋」に入り、
﨑津の歴史や文化が紹介された説明や展示品を
見学します。
その説明書によると、潜伏キリシタンは、表向き
は仏教徒として寺に所属し、﨑津諏訪神社の氏子
となって、恵比寿神や大黒天をデウスとして
崇敬していたそうです?



(﨑津諏訪神社)

つまり、日本の伝統宗教とキリスト教とを共生
させながら、信仰を維持していたことになります。
具体的には、絵踏をしてキリシタンではない
ように振る舞い、「あんめんりゆす(アーメン
デウス)」と唱えながら神社に手を合わせて
いました。

(崇敬されていたアワビなど:資料館の
パンフレットから)

また、潜伏キリシタンは、信仰の発覚を回避
するため、写真の展示品の様な色々な物を
信心具の代用品としていました。

例えば、アワビの貝殻の内側に浮き上がる模様を、
聖母マリアに見立てるなどしていたそうです。

(崇敬されていたロザリオやメダイ(メダル):
資料館のパンフレットから)

この様にして、﨑津集落の75%の人が、潜伏
キリシタンとして暮らしていたというから
驚きです。

しかし、この大量の潜伏キリシタンの存在が発覚
してしまう大事件が、1805年の「天草崩れ」
です!!

このときの幕府による天草の集落(﨑津・高浜・
大江・今富)の潜伏キリシタン摘発で、
何と!、
全住民10,669人のうち、約半数の5,205人が
摘発、検挙されてしましました!!

その検挙数の多さに、さすがの幕府も、天草集落
の存続を危惧して、当惑してしまいます・・・

対応に苦慮した幕府は、検挙者全員は潜伏
キリシタンではなく、「心得違い」しただけだと、
苦しい理由で黙認したので、潜伏キリシタン
全員が重罪を免れました。

崎津集落で、次頁の写真のロザリオの塩をお土産
に買いました。(600円)



崎津集落を出て、大江天主堂へ向かいます。

「大江天主堂」は、小高い丘の上に立つロマネスク
様式の教会です。



現在の大江天主堂は、フランス人宣教師ガルニエ
神父が建立したもので、ガルニエ神父は、大江の
地に天主堂を建てるために、帰国の渡航費用まで
つぎ込み、一度も母国フランスに帰ることなく
この地で亡くなったそうです。


大江天主堂の近くの「天草ロザリオ館」で、潜伏
キリシタンの貴重な資料を見学します。(300円)


(館内撮影禁止のためロザリオ館のパンフレット
から。)



(密かに祈りを捧げていた隠れ部屋のジオラマ:
館内撮影禁止のためロザリオ館のパンフレット
から。)



(経消しの壺:葬式の際は、仏僧のお経に
合わせて、お経を壺の口で唱えて壺の中に
閉じ込めたそうです。
:ロザリオ館のパンフレットから。)



(上の写真の中国渡来の母子観音を、マリア観音
として、聖母子像に見立てていたそうです。
:ロザリオ館のパンフレットから。)





大江集落では、干潮時にしか行かれない海辺の
洞窟に、「穴観音」と呼ばれる観音像を据えたり、
山中に、十字架やマリア観音像などを埋めて
塚にした「隠し御堂」を造ったりしました。

海や畑に働きに行くふりをして、このような場所
を訪れ、ひそやかに信仰を継続していたそうです。

帰りは、本渡バスセンター18時発の「快速
あまくさ号」(セットの周遊券)で、真っ暗に
なった中を熊本へ向かいます。



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吉野ケ里遺跡 (日本100名城) (佐賀県) 2018.11.4

2019-03-01 04:10:12 | Weblog

(写真は、吉野ケ里遺跡の物見櫓)

昨年の冬、熊本の実家へ帰省の際、羽田から福岡
へ飛び、福岡空港から高速バスで佐賀へ向かい
ました。

佐賀市の外れの「吉野ケ里遺跡」に寄り道して
から、JR吉野ヶ里公園駅で長崎本線に乗り、
鳥栖駅で鹿児島本線に乗り換えて熊本に帰り
ました。

(JR吉野ヶ里公園駅)

昭和61年の発掘調査によって発見された
「吉野ヶ里遺跡」(よしのがり いせき)は、
佐賀平野の東部の段丘地帯に位置する、
1700年前の弥生時代末期の大規模な集落跡です。
(国特別史跡)

ここ「吉野ケ里遺跡」に来てみて、先ず、驚く
のは、とにかく、歩いて回るのが無理なくらい
”広大”なことです。

その広大なエリアに、竪穴住居、高床住居、
物見櫓、堀、柵、高床式倉庫、墳丘墓など、
何と!、
98棟もの建物等が復元されています!!

これらの98棟は、遺跡の柱の跡や、遺構として
残っていた木材をもとに復元されたそうです。

広い公園内は、下記の①~③の3つのゾーンに
区分されています。
①「環濠集落ゾーン」では、多数の遺構が復元
されており、出土した土器や装飾品などを
陳列した展示室も設けられています。
②「古代の原ゾーン」は、レクリエーション
ゾーンで、赤米などの古代米を栽培する
水田の他、広場や水辺に遊具が設けられて
います。
③「古代の森ゾーン」は、官衙跡が復元されて
おり、古代植物の栽培の他、キャンプ場
などがあります。
1日で全部回るには余りにも広大なので、
①の「環濠集落ゾーン」の更にメインルート
のみに絞って歩くことにしました。




「吉野ヶ里歴史公園」の入口です。
(入場料:460円)




南の守りの「南内郭」です。
「南内郭」には、リーダー層が住んでいました。
日本の「城郭」の始まりと言われている弥生時代
の「環濠集落」です。
周囲を「環濠」と「城柵」に囲まれてます。

吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが、集落の
防御遺構です。



当時としては珍しい、外壕と内壕の二重の環濠が
あり、深さ3メートル、幅7メートル、
斜面60度で、総延長約2.5キロメートルの城柵
を巡らした堀です。
壕の内外には、木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)
といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていました。
また、見張りのための物見櫓が、環濠内に複数
置かれていました。



竪穴式住居や高床住居は、祭祀に携わるものや
その側近が暮らしていたそうです。


写真は「物見櫓」で、兵士が監視してました。



物見櫓の上からの眺めです。







次頁の写真は、展示室です。


遺体を入れる「瓶」です。



左が庶民の服装で、右が上層人の服装です。



「北内郭」に入ります。






「主祭殿」です。




王と、各地のムラから集まってきている
リーダー達です。





祖先の霊のお告げを聞く祈りを行っています。


主祭殿の上からの眺めです。


次頁の写真は「斎堂」です。
「祀りの道具」を保管する場所と考えられて
ます。

300年以上も論争が続いている「邪馬台国」の
場所について、現在有力なのは、ここ佐賀の
「吉野ヶ里遺跡」(九州説)と、奈良の「纏向
(まきむく)遺跡」(近畿説)だそうです。 

昨年放映のTBS・BSにっぽん歴史鑑定の
「邪馬台国はどこにあった?」では、九州説の
根拠として、「魏志倭人」に、「卑弥呼」の
居所に「宮室 居処 楼観 城柵」があると
記述されており、これが「吉野ケ里遺跡」の
構造と符合するそうです。
つまり、南内郭=宮室、北内郭=居処、物見櫓=
楼観、柵=城柵と符合するのだそうです。

(外壕と内壕の二重の環濠:にっぽん歴史鑑定
から)
二重の環濠など、これほど厳重な守りを築いた
のは、主祭殿の卑弥呼を守るためだったと推測
されるそうです。
更に、「魏志倭人」には、邪馬台国では、鉄の
矢尻を使用していると記載されています。
吉野ケ里遺跡では、多数の鉄の矢尻が発掘されて
いますが、近畿地方では鉄の矢尻はほとんど発掘
されていないそうです。

北内郭を進んで行くと、次頁の写真の「北墳丘墓」
がありました。
「北墳丘墓」と「南墳丘墓」は、集落の首長などの
墓らしいです。





次に、「倉と市」エリアにやって来ました。

写真は、「織物の倉」です。

ここには、当時の倉庫が20棟ほど復元されて
います。
この場所は川に隣接しており、また干満の差が
激しい有明海の海岸線にも近いので、海外や
地方との交易品・食糧・金属製品・武器等を
収める倉庫群だあったそうです。
この倉と市エリアの先に、下の写真奥の一般人
が住む「南のムラ」があるのですが、この倉と
市エリアまで歩いたところで、もう疲れて
クタクタになったので、途中ですが、
吉野ケ里遺跡の見物はここまでで切り上げる
ことにしました・・・




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