ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

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中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

バスで行く「奥の細道」(その34) 倶利伽羅峠 (富山県) 2019.4.11

2018-12-16 05:25:22 | Weblog

( 写真は、「倶利伽羅峠」(くりからとうげ)の「火牛の像」 )


今回は、平家の命運を決した「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」です。

それでは、先ずは、NHKの「100分で名著『平家物語』」に沿って、「倶利伽羅峠の戦い」の歴史を復習しておきましょう。



木曽の山奥から、都に向かって進軍するのは、後白河法王の息子の以仁王(もちひとおう)から平家追討の命を受けた「木曾義仲(源義仲)」、これに対し、京の都を出発して、迎え撃つ平家の総大将は、平清盛の孫の「平維盛(これもり)」です。

平維盛にとってこの戦いは、先の富士川の戦いで、鳥が飛び立つ音に逃げ帰ってしまった、という汚名を挽回するチャンスです。

両軍が激突したのは、越中の国(富山県)と加賀の国(石川県)の国境に位置する標高277メートルの「倶利伽羅峠」(くりからとうげ)でした。

維盛軍7万に対し、義仲軍は劣勢の3万です。



軍勢の数で不利な義仲は、計略を巡らします。



兵を小出しにしながら時間を稼いで日没を待った義仲は、夜になると、上の図の様に、密かに軍勢を分け(青色のコマ)、平家軍(赤色のコマ)の背後に迫ります。



暗闇の中、平家の背後の義仲軍が一斉に鬨(とき)の声をあげ、牛の角に松明(たいまつ)をくくりつけた数百頭の牛を、平家軍に向けて放ち、平家軍を急襲しました。

源氏が背後にいるとは予想もしなかった平家軍は大混乱、周囲から響く鬨の声にパニック状態になります。




源氏軍がいない方向へと逃げた先は断崖!!、次々と谷底へと落ちていきました!


維盛軍7万の軍勢のうち、生き残ったのは僅か2千でした・・・

この倶利伽羅峠の戦いののちは、木曾義仲の入京、平家の都落ち、と運命の歯車が一気に加速していきます。


木曾義仲は、倶利伽羅峠で平家と戦うにあたり、戦勝祈願のために「埴生護国(はにゅう ごこく)八幡宮」に立ち寄りました。

高岡を出立した芭蕉も、埴生護国八幡宮に参拝してから、倶利伽羅峠へ向かいました。


我々のバス旅行も、倶利伽羅峠へ行く前に、倶利伽羅峠の入口にある「埴生護国八幡宮」に立ち寄ります。







境内には、上の写真の「木曾義仲の騎馬像」と、下の写真の富山の名水の「鳩清水」がありました。



また、「埴生護国八幡宮」の前にある「倶利伽羅・源平の郷」の上の写真の建物は、「倶利伽羅峠の戦い」の資料館で、下の写真の様に、詳しい資料が展示してありました。




埴生護国八幡宮を出た我々のバス旅行は、倶利伽羅峠の中心部に着きました。

ここは、現在は、歴史国道「倶利伽羅越え いにしえの街道」として整備されています。


江戸時代には、芭蕉もこの歴史国道を歩きました。


上の写真は「芭蕉塚」です。

”義仲の 寝覚めの山か 月悲し”

朝日将軍と謳われた木曾義仲の末路に涙して、越前の燧ヶ城(ひうちがじょう)跡で、芭蕉が詠んだ句です。


(火牛の像)


歴史国道からは、上下の写真の紫色の矢印の方向へ、平家軍が逃れようとして落ちていった谷底が見下ろせます。





上の写真の粗末な白い杭に書かれた説明によると、この下に、義仲軍本体2万の陣があったそうです。



(平維盛の本陣跡)


(源平供養塔)


(「源平合戦慰霊之地」と刻まれた石碑)


(展望台)


医王寺、塩釜神社、平泉と、義経の追っかけファンだった芭蕉ですが、ここ倶利伽羅峠で心変わりしたのでしょうか?

以降は、義経の追っかけファンから、義経に討たれてしまった義仲のファンに乗り換えたみたいです。

その証拠に、芭蕉は、「奥の細道」の旅の5年後の1694年、旅先の大阪で客死しますが、遺言により、滋賀県大津市の「義仲寺」(ぎちゅうじ)に葬られ、現在、義仲の墓と隣り合わせに静かに眠っています。


倶利伽羅峠を出た我々のバス旅行は、金沢駅から15:55発の北陸新幹線で、東京へ帰りました。





ps.その後の義仲の末路について

都落ちした平家と入れ替わりに、義仲は、後白河法皇を伴って京の都に入ります。

しかし、義仲は、ずつと木曽の山奥で育ったため、都流の礼儀を知らず、公家たちの反感をかい、また、町中では、途中から参戦したため義仲のコントロールの利かない部下たちによる略奪が横行します。

やがて、都の人々は、平家の世の中の方がまだましだった、と囁く様になります・・・

公家たちは、度々、義仲の悪口を後白河法皇に告げ口したため、とうとう後白河法皇は、義仲追討へ動きます。

しかし、戦上手の義仲は、この軍勢を打ち破り、後白河法皇を幽閉してしまいます。

ここで、後白河法皇は、源頼朝に対し、正式の「義仲追討の院宣(命令)」を出します。

院宣が出され、自分たちが朝敵となったことを知った途中から参戦した兵たちは次々に離反していき、義仲軍は、元から義仲を慕っていた2千のみとなります。

追討軍6万に追われる義仲は、自害を覚悟し、愛人の巴御前を逃がします。

しかし、自害しようと馬を進める途中で、馬が足をとられたところを、追討軍に討ち取られてしまいました・・・
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バスで行く「奥の細道」(その33)( 那呉の浦)(富山県) 2019.4.11

2018-12-15 07:12:44 | Weblog

( 写真は、義経が雨宿りをした「雨晴海岸の義経岩」 )



(ホテルの部屋から)
我々のバス旅行は、昨晩1泊した富山の市街地のホテルを出て、万葉の歌枕の地「那呉の浦」(なごのうら)へ向かいます。


昨晩の富山のホテルの夕食では、ホタルイカ等の色々な富山名物の海の幸を満喫出来ました。

(夕食の撮影を忘れ、食べ終わるときに気付いたので、最後に出た「白エビ」の天ぷらの写真しかありません・・・



我々のバス旅行は、歌枕「那呉の浦」(なごのうら)がある「放生津(ほうしょうづ)八幡宮」に着きました。











親不知を抜け、市振宿を出発した芭蕉一行は、ここ歌枕の地「那呉の浦」にやって来ました。

そして、ここから更に、同じく万葉の歌枕の地である「有磯海」(ありそうみ)を訪れようとします。

しかし、土地の人から「有磯海は、ここから五里もあるし、有磯海には泊めてくれる宿もない」と言われ有磯海に行くのを断念します。


八幡宮の右手に、このときに芭蕉が詠んだという、写真の句碑が建っています。

 ”わせの香(か)や 分入右は(わけいるみぎは) 有そ海(ありそうみ)”

 (早稲の香の漂う稲田の中を分け入って進んでいくと、海岸沿いの右手の遥かな先に、歌枕の地である紺碧の「有磯海」が開けて見えることよ。)


八幡宮の拝殿の裏の堤防の上に、写真の「那呉の浦」の石碑と説明板がありました。


「那呉の浦」は、芭蕉が訪れた江戸時代には、北に能登半島を望み、南に立山連峰を仰ぐ景勝の地で、ここ八幡宮の裏の堤防の向こう側は、有磯海を臨む紺碧の海でした。

しかし、八幡宮の裏の堤防の向こう側は、今は埋め立てられ、漁港の倉庫が立ち並んでおり、万葉の歌枕「那呉の浦」の面影は何もありません・・・


この芭蕉句碑の後には、新年号・令和ですっかり有名になった、万葉集の編者の「大伴家持」(おおとものやかもち)の句碑が建っています。

 ”あゆの風 いたく吹くらし なごの海士(あま)の 釣する小舟 漕ぎかくる見ゆ”

 (東風が激しく吹いているが、奈呉の釣り人の小舟が漕ぎ進むのが、高波の間から見え隠れしている。「あゆの風」は富山の方言で東風のこと。)

大伴家持は、国司として、ここ越中の国(富山県)に5年間も赴任しています。


我々のバス旅行は、放生津八幡宮を出て、能登半島国定公園の景勝地「雨晴(あまはらし)海岸」へ向かいます。


「雨晴(あまはらし)海岸」の駐車場でバスを降り、踏切を横切って、「義経岩」へ行きます。











1187年、義経一行が奥州平泉へ向かう途中に、急に雨が降り出したため、弁慶が写真の岩を持ち上げ、義経は、その陰で雨宿りをしたそうです。





「義経岩」の上には、写真の「義経神社」が建てられています。


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バスで行く「奥の細道」(その32)( 親知らず子知らず )(新潟県) 2019.4.10

2018-12-14 08:55:41 | Weblog

( 写真は、親不知の断崖絶壁 )


「親不知・子不知」(おやしらず・こしらず)は、古くから、断崖絶壁と荒波が旅人の行く手を阻む”越後路の最大の難所”として知られてきました。

かつて、旅人は、この断崖の下にある海岸線に沿って進まねばならず、波間を見計らって狭い砂浜を駆け抜け、大波が来ると洞窟などに逃げ込みましたが、途中で波に飲まれる者も少なくなかったそうです。

危険な波打ち際を駆け抜ける際には、”自分を守るのが精いっぱいで、親は子を忘れ、子は親を顧みる暇がなかった”ことから、”親知らず・子知らず”と呼ばれるようになりました。

そして、江戸時代の参勤交代では、加賀藩主は、親不知・子不知を往来することが必要になりました。
その際は、500人くらいの”波除人夫”が近隣から集められ、この人夫達が人垣をつくって波濤を防ぎ、加賀藩主を通したそうです!
波除人夫が可哀想~!



我々のバス旅行は、曲くねった国道8号線の岩石避けシエルターの中を「親不知」に向かって走って行きます。


この国道と並行して、高速道路が、写真の様に海の上を走っています。


親不知の断崖絶壁の端に建つ「親不知観光ホテル」の下の市営駐車場で下車します。


この駐車場の脇にある展望台に、写真の「親不知の地形の模型」と説明版がありました。

写真の上部の白い横線が遊歩道(旧国道)で、写真の下の青い部分が海を表していますが、この海沿いの砂浜が、かっての北陸街道でした。


「地形の模型」には、写真の様に、砂浜の①から⑪のスポットについて解説してあります。

上の写真を例にとると、⑤大懐 ⑥小懐 ⑦大穴 ⑧子穴 ⑨長走り、と天然の避難所に名前が付いています。

旅人は、荒波が来たら、ここに逃げ込んでいました。
説明版によると、この穴に逃げ込んだものの、荒波が続き、1週間も出られなかった旅人もいたそうですから、驚きです!

この親不知を通行する旅人は、まさに命がけだった訳で、その旅の様子が浮かんできます。

芭蕉も、きっとこの危険な浜辺を歩いたのでしょうね。




この地形の模型がある展望台から先は、コミュニティロードと名付けられた”親不知見学”のための遊歩道( 旧国道8号線)になっています。

風雨の中、この遊歩道を歩いて行きます。

下を覗くと、恐ろしい断崖絶壁です!

上の写真は、「如砥如矢=とのごとく やのごとし」と刻まれた遊歩道沿いの岩です。

明治16年、この旧国道8号線の開通を記念して、”砥石のように滑らかで、矢のように速く通れる”という意味で刻まれたのだそうです。

観光ホテルの前から親不知海岸へ下りて行く遊歩道があったので、砂浜まで下りて、昔の旅人が歩いていた海岸線を歩いてみたかったのですが、風雨が強くなってきたので断念しました・・・




ここからコミュニティロードを引き返し、バスに戻って、北陸街道の次の宿場町の「市振(いちぶり)」を目指します。


芭蕉は、約15キロも続く親不知子不知の海岸線を抜け、やっとの思いで市振宿に到着しました。

越後路については1行も書かなかった芭蕉ですが、ここ市振から「奥の細道」の本文の記述が再び始まります。

芭蕉は、ここ市振の旅籠「桔梗屋」で、伊勢へ参詣に向かう2人の遊女と隣り合わせの部屋になります。

翌朝、芭蕉と曽良が宿を出ようとすると、遊女らは、「女2人の心細い道中ですから、見え隠れでもいいから、お二人について行きたい。」と、涙を落とします。

どうも芭蕉を僧侶だと勘違いしている様ですが、芭蕉は2人の頼みを冷たく断ります。

断りはしたものの、「あわれさ、しばらく やまざりけらし」と、薄幸な遊女の身の上に同情し、彼女らの行く末を案じました。

 ”一家(ひとつや)に 遊女も寝たり 萩と月”

 (同じ一軒の宿屋に遊女と泊り合わせたが、折からの秋の庭には萩の花が咲いており、それを月が照らしている。)


我々のバス旅行は、「市振(いちぶり)」の宿場町の入口でバスを下車します。

宿場町の入り口には、写真の「海道の松」跡があります。

「市振小学校」の校庭の一角に写真の「市振関所跡」の石碑がありました。

説明板によると、江戸時代、この関所は、海陸の通行を監視しており、入り鉄砲と出女に厳しかったそうです。


上の写真は、芭蕉が泊まった「桔梗屋」跡です。


上の写真は、「弘法の井戸」です。

この宿場町の茶屋に、弘法大師が来て、「水がほししい」と言ったところ、茶屋の婆さんは、1キロも遠く離れた赤崎の冷たい清水を汲んできてくれました。

弘法大師は、これを憐れんで、足元の土を杖で三度突き、この井戸を作ったそうです。
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バスで行く「奥の細道」(その31)( 直江津:春日山城(100名城))(新潟県) 2019.4.10

2018-12-13 21:02:48 | Weblog

( 写真は、春日山城の土塁と堀 )


大変です!、越後路の芭蕉にトラブル発生です!

「曽良随行日記」によると、出雲崎を出た芭蕉は、象潟の門人の紹介状を持って、次の宿泊予定地「柏崎」の豪商・天屋弥惣兵衛を訪ねます。

しかし、何かが不快で、怒って、この天屋を飛び出してしまいます!

天屋の家人が2度も走ってきて引き留めましたが、怒りが収まらないのか、芭蕉は聞く耳を持ちませんでした。

芭蕉は、雨が降りしきる中を、何と!、米山峠を越えて次の宿場の鉢崎まで、一気に16キロも歩き通しました・・・
驚き!!

芭蕉は、江戸では超売れっ子の”大スター”なのに、ここ「柏崎」では無名の”一般人”扱いをされたので、怒りが爆発してブチ切れたのでしょうか。

「曽良随行日記」を読み解いているうちに、「奥の細道」の本文からは分からなかった、生身の芭蕉の人間らしい気持ちが、だんだんと理解できる様になってきました。


我々のバス旅行は、「出雲崎」の妻入りの街並み見学を終えて、出雲崎の隣町の芭蕉がトラブルを起こしたという「柏崎」に入ります。


「柏崎」の西山町の「田中角栄宅」の前を通って、「直江津」の「春日山城跡」へと向かいます。



春日山城は、戦国の名将「上杉謙信」の居城として有名です。

城は標高189メートルの小高い山にあり、東西2キロ、南北1.3キロに及ぶ巨大な山城でした。

複雑な自然の地形を利用した堅固な城塞で、難攻不落の天下の名城と言われました。

NHK大河「天地人」の主人公は、「上杉景勝」に仕えた上杉家の家老「直江兼続(なおえ かねつぐ)」で、ドラマの舞台として、ここ春日山城が度々登場しました。

ドラマでは、「直江兼続」役の「妻夫木聡」が、「愛」を重んじ「義」を貫き通した戦国武将として描かれており、当時、”妻夫木フィーバー”が起きました。


我々のバス旅行は、小雨の中、かつての春日山城の一部を再現した「春日山城史跡広場」で下車します。



雨が激しくなったので、雨宿りを兼ねて、春日山城史跡広場の脇にある「春日山城跡・ものがたり館」に入ります。

館内は、小じんまりとしており、展示は多くありませんが、当時の春日山城の様子などを 大型画面のビデオで紹介しています。

入場無料ですが、スタッフの人が親切に我々の質問に答えてくれます。


上の写真は、館内の「直江兼続」ですが、妻夫木聡の写真ではなくてアニメです・・・

あの”妻夫木フィーバー”はどこへ行ってしまったのでしょうか、館内はひっそりとしています。


(上杉謙信:「春日山城跡ものがたり館」のパンフレットから)


雨が小降りになったので、春日山城跡ものがたり館を出て、史跡広場を散策します。



当時の「土塁」や「監物堀」(けんもつぼり)などが立派に復元されています。






現在の「春日山城跡」は、日本100名城の国指定遺跡で、山頂には、天守閣跡や二の丸跡などが残っているそうです。

また、山頂までの途中の道では、曲輪や土塁、それに上杉景勝や直江兼続の屋敷跡なども見られるそうです。

しかし、ここから山頂までは、相当の距離の山道を歩かなければならず、あいにくの小雨で、高齢者が多い我らのバス旅行は早々にここを引き揚げます・・・

もし、個人旅行で来ていたら、小雨の中、山頂まで歩いて上ったと思いますが、残念!


春日山城史跡広場を出て、「五智国分寺跡」へ向かいます。 

ちなみに、「五智国分寺」の”五智”の由来は、大日如来を初めとする5人の如来を、「五智如来」と呼ぶためだそうです。

律令時代には、直江津に越後国(新潟県)の国府が置かれ、越後国の国分寺として「五智国分寺」が建てられました。

現在の国分寺は、1562年、上杉謙信が再建したものだそうです。



上の写真の山門を守る仁王像は、1836年に造られました。

山門を入ると左手に芭蕉句碑がありました。


”薬欄に いずれの花を 草枕”

説明版によると、この句は、「薬園の草が秋で美しいが、どれを枕としてここに旅寝しようか」の意味で、芭蕉が、直江津の近くの高田の医師・細川春庵を訪れた時に、主人への挨拶をこめて詠んだものだそうです。

不快な思い出しかない越後路での出来事なので、芭蕉は、上記についても、「奥の細道」の本文では一切触れていません。

(本堂)



(経堂)


上の写真は、1856年に着工の「三重塔」です。


我々のバス旅行は、五智国分寺の近くにある、「居多ヶ浜」(こたがはま)に向かいました。


越後へ配流となった親鸞聖人は、ここ「居多ヶ浜」に上陸しました。
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バスで行く「奥の細道」(その30)( 出雲崎:妻入りの街並み )(新潟県) 2019.4.9

2018-12-12 09:47:19 | Weblog

( 写真は、「出雲崎代官所」の入口で、立ち上がって観光客を迎える「代官」。)


新潟県の「出雲崎」(いずもざき)は、佐渡ヶ島から、海を隔て50キロ余り、「佐渡金山」から産出される「金」の陸揚げ港でした。

このため、幕府は、佐渡と同様に、「出雲崎」を、幕府直轄地(7万石)にして「出雲崎代官所」を置きました。

また、出雲崎は、北国街道の宿場町でもあり、更に、北前船の発着の港でもあったので、大いに繁栄しました。



我々のバス旅行は、道の駅の「越後出雲崎・天領の里」で下車して、「天領出雲崎・時代館」に入ります。( 500円)



入口では、「出雲崎代官所」のロボットのお代官様が立ち上がって、我々を迎えてくれます。

出雲崎代官所の最初の代官の高田小次郎は、当時、出雲崎では民衆の力が強かったので、「橘屋」を名主にして、強い民衆を治めようとしました。

そして、幕末の最後の代官は、代官所が官軍の襲撃を受けたとき、一切の記録を焼き捨てて、新潟方面へ敗走したそうです。


時代館の館内には、出雲崎の往時の町並みが再現されており、また、佐渡への航行に使われた御奉行船の大型模型など、当時の様子が展示されています。



(出雲崎の宿場町の入口の番人)


(古道具屋)


(将軍名代の巡見使が、出雲崎から佐渡へ渡航する際の行列)


また、時代館の隣は、「出雲崎石油記念館」(共通入場券)で、日本で初めて石油採掘をした出雲崎の石油に関する資料等を展示しています。

石油記念館の道路向いには、「石油産業発祥地記念公園」があります。

出雲崎では、江戸時代から、石油が湧出することは知られていましたが、明治維新になって石油ランプの時代になると、急速に石油の需要が拡大しました。

この波に乗って、出雲崎の海岸を埋め立てて、石油の機械掘りをしましたが、そのときの”石油を掘っていた櫓”の跡が下の写真だそうです。




時代館を出て、「妻入りの街並み」を散策します。

出雲崎の町並みは、”鰻の寝所”の様に、間口が狭く奥行きの長い「妻入り」の構造で、これは、江戸時代に、”出雲崎が越後一の人口密度”を誇った繁栄の名残りなのです。

今も、約4キロにわたる「妻入り」の町並みが残っており、見応えがあります。

















上の写真は、「旧新津邸」で、出雲崎出身の実業家である新津恒吉が所有していた邸宅です。

ちなみに、新津恒吉は、「昭和シェル石油」の前身の新津石油の創業者です。


上下の写真は、観光案内所の「妻入り会館」で、ボランティアのおじさんが、出雲崎の観光スポットについて解説してくれます。


妻入りの街並のなかほどに「芭蕉園」があります。

「芭蕉園」には、写真の「芭蕉像」があり、その奥に、芭蕉の「銀河ノ序」(注)の全文が刻まれている碑があります。


(注)「銀河ノ序」
    芭蕉門下の許六が、芭蕉門下生の句を集めた俳文集「本朝文選」(風俗文選)には、出雲崎に深い感懐を抱いて書いたという芭蕉の序文(銀河の序)が掲載されています。

奥の細道の本文中には、芭蕉は、越後路について1行も書いていないものの、越後路で下記の2句を詠んでいます。

”荒海や 佐渡によこたふ 天河(あまのがわ)”(芭蕉)

 (眼前の日本海には荒波が立ち騒ぎ、その彼方には幾多の悲しい歴史を秘めた佐渡島があり、仰ぎ見ると、七夕の夜空には、年に一度、牽牛と織女が出逢うという天の川が横たわっている。)

佐渡は、古くからの流刑地で、順徳院、日蓮などが罪人として島に流されています。

”文月(ふみづき)や 六日も常の 夜には似ず”(芭蕉)

(いよいよ明日は牽牛と織女の2星が会う七夕だと思うと、今宵も、普段とは違って、華やいだ気分に感じられるなあ。 )


この芭蕉園の斜め向かいの家が、芭蕉が宿泊したと言われている「大崎屋」の跡らしいのですが、何の表示もありません・・・

また、出雲崎は、「良寛」(りょうかん)の生誕の地でもあります。

良寛は、芭蕉よりも百年あまり後の人ですが、歌を詠み、書をしたため、一生清らかに暮らした和尚として有名です。

「良寛」は、ここは出雲崎の名主の「橘屋」の長男として生まれました。

「橘屋」は、出雲崎の初代代官・高田小次郎が、名主に指名したほどの名家でした。


上の写真は、その「橘屋」の屋敷跡で、現在は、写真の「良寛堂」が建っており、そこに、佐渡を見つめる良寛の銅像も建っています。







我々のバス旅行は、「出雲崎」の妻入りの街並みを抜けて、隣町の「柏崎」へ向かいます。


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バスで行く「奥の細道」(その29)(寺泊:日本最古の「即身仏」)(新潟県) 2019.4.9

2018-12-11 08:20:42 | Weblog

(写真は、即身仏が安置されている西生寺の弘智堂)

「曽良随行日記」によると、芭蕉一行は、現在の新潟市内から、北国街道沿いに南下し、弥彦神社に参拝、その翌日に「寺泊」(てらどまり)の「西生寺(さいしょうじ)」を訪ねています。

「西生寺」は、奈良時代、行基により創建されたと伝えられる越後屈指の古刹です。

西生寺は、「弘智法印」(こうち ほういん)が、ミイラ像のまま、”日本最古”の「即身仏(そくしんぶつ)」(注)として安置されていることで有名です。

(注)即身仏
   修行僧が、人々を救済するために、 自ら断食し、生きたまま地中に埋もれて、瞑想状態のまま絶命し、その後にミイラ化した身体。
   当時、ミイラ化した僧侶を祀る信仰は日本各地にあった。
曽良随行日記によると、芭蕉も、この即身仏のことを既に知っていて、ここ西生寺に立ち寄りました。


我々のツアーも、弥彦神社から、長岡市の東の端の寺泊の「西生寺(さいしょうじ)」へ向かいます。

西生寺の寺務所で「即身仏」の拝観を申し込みます。(500円)



即身仏が安置されているという「霊堂」には、精緻な彫刻がいたるところに見られます。

上の写真は、霊堂の天井にある、一本のケヤキを刳り貫いた、駕籠彫りという彫刻です。
一本のケヤキを彫ったとは思えないその細密さに驚きました。


住職が、その「霊堂」(弘智堂)の鍵を開けてくれます。

霊堂に入ると、住職の読経が始まり、それが済むと、「前に来てご焼香して下さい。」と言われました。

私は、緊張しながら焼香して手を合せました。

即身仏のミイラを、50センチくらいのすぐ真近かで拝顔させて頂きましたが、ドキドキしました!(撮影不可)

弘智法印のミイラは、袈裟を着て帽子を戴き、少し首を傾げた姿勢でしたが、これは、いまだ説法をしていらっしゃる姿だそうです。

芭蕉を初め多くの歴史上の著名人も、このミイラ像を拝観して手を合わせたことでしょう。

弘智法印が少し首を傾げた姿勢をとっているのについては、下記の伝説があるそうです。

豊臣秀吉の時代、「死んでいるのに座ったままの姿勢を取り続けているのは、キツネが化けているに違いない!」と、奴兵が槍で即身仏の胸を突く、という事件が起こりました。

弘智法印のミイラの胸を槍で一突きしたこの奴兵は、後に「真の仏を突いてしまった」と、後悔した末に自害しました。

そして、本人の遺言により、「奴の懺悔の首」として、長い間、この即身仏のそばに置かれていたそうです。
そして、驚くことに、何と!、現在、その奴の本物の頭骸骨が、西生寺の宝物殿に展示してありました!

怖っ~!

(西生寺の宝物殿)




また、境内には、写真の「芭蕉参詣の碑」があり、下記の曽良の句が刻まれていました。

”文月や からさけおがむ のずみ山”(曾良)

(からさけは、干し肉のことで、ここでは即身仏を意味し、また、のずみ山は、この辺一帯を指すそうです。)


寺泊の東の端に位置する西生寺を出て、日本海沿いに南下し、寺泊のメインストリートへ向かいます。

寺泊のメインストリートへ向かう途中で、「聚感園」(しゅうかんえん)に立ち寄ります。

聚感園は、北越地方の豪族・五十嵐氏の邸宅跡を史跡公園にしたものです。 


上の写真は、園内にある「弁慶の手堀井戸」です。

奥州へ向かう源義経一行が、五十嵐邸にかくまわれた時、弁慶が義経のために掘ったそうです。


上の写真は、佐渡へ流された順徳上皇が風待ちのため滞留した行在所(あんざいしょ)跡です。


寺泊(てらどまり)のメインストリートに着きました。



寺泊のメインストリート沿いある、上の写真の銅像は、佐渡に向かって説法をする「親鸞聖人」で、昭和39年に建てられたものです。

親鸞聖人は、佐渡に流されたときに、風待ちのために、ここに7日間滞在しました。


この銅像の脇に、上の写真の芭蕉の句碑がありました。

風雨に晒されて句碑の字は読めませんが、立札によると「うたがふな 汐(うしほ)の花も 浦の春」だそうです。

(二見が浦の夫婦岩に、勢いよく当たって花のように舞い散る波も、二見が浦の春を祝福している。二見が浦の神である伊勢神宮の神德を決して疑ってはいけない。)
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バスで行く「奥の細道」(その28)( 新潟 ) 2019.4.9

2018-12-10 08:15:01 | Weblog

(写真は、弥彦山展望台からの日本海の眺め)

北陸路の山々の雪もようやく解けたので、我々の「バスで行く・奥の細道」ツアーも、前回のゴールの新潟駅から再開しました。


「奥の細道」の記載には、「越後(新潟県)」については、「越後の地に歩行を改て・・・此の間九日・・・事をしるさず。」とあるのみです。

つまり、芭蕉は、越後路で2句を詠んでいるものの、越後路を9日も歩いたにも拘わらず、「奥の細道」には、越後路については1行も書かれていないのです?!

芭蕉が越後路について1行も書かなかった理由については、体調不良や悪天候など諸説があります。

しかし、我がツアーの同行の先生の解釈は、”越後の国には、芭蕉の門人が一人もいなかったから”が理由だそうです。

つまり、奥の細道では、行く先々で門人たちが待ち構えて接待漬けの日々で、また、旅費捻出のための句会も門人たちがセッティングしてくれました。

それなのに、越後国(新潟県)には門人は一人もおらず、ここでは芭蕉は無名でした・・・

そのため、芭蕉は何もいい思いをせず、早く金沢へ行きたくて、越後路については1行も書かなかった、というものです。

と言う訳で、「越後路」については、私のブログは、「曽良随行日記」に従って、芭蕉の足跡を追ってゆきます。



東京駅8:24発の新幹線・MAXときに乗って、10:28に、前回のゴールの新潟駅に着きました。



先ず、新潟の市街地にある「宗現寺」へ向かいます。





宗現寺の山門を潜ると、正面の本堂の右脇に、「芭蕉翁 蓑塚(みのつか)」と刻まれた写真の石碑があります。

芭蕉が、ここで、古い蓑(みの)を脱ぎ捨てて、新しい蓑に変えたので、のちに地元の俳人たちが、芭蕉の着替えた蓑を供養して建てたものです。

石碑の裏には、「文政十年(1827年)十月十二日」とあります。



宗現寺を出て、新潟の市街地の中心にある「萬代橋」を渡ります。

萬代橋は、昭和4年の建造で、下の写真の様に、六連のアーチがある重厚で美しい橋で国重文です。

(夕方に新潟のホテルに帰るときに、車窓から萬代橋を横から撮ったもの。)

新潟の市街地を抜け、弥彦(やひこ)山・スカイラインに入って、「弥彦山」の頂上にある展望台を目指します。

弥彦山は、スカイツリーと同じ高さの標高634メートルということで、話題になったことがあります。

弥彦山の展望レストランの前にある高さ100メートルの下の写真の「弥彦山パノラマタワー」に乗ります。(650円)

弥彦山パノラマタワーは、360度回転しながら100メートルを上昇するという珍しい方式の展望塔です。

360度回転しながら、弥彦山を見下ろして、日本海と越後平野を見渡す、360度の大パノラマは圧巻です!



パノラマタワーの隣には、弥彦山の山頂へ向かう上の写真のロープウェイが見えます。





パノラマタワーの窓からは、写真の様に、眼下に日本海が見渡せ、その先に佐渡島が近くに見え、反対側には、新潟平野が広がります!






弥彦山の展望台から、弥彦山の麓にある「弥彦(やひこ)神社」へ向かいます。



「弥彦神社」は、弥彦山を神体山として祀る神社で、”越後の国の一の宮”として平安時代の昔から人々の信仰を集めて来ました。

神社の本殿の背景には弥彦山が見えます。




曽良随行日記には、芭蕉一行は、弥彦に宿泊し、翌朝、弥彦神社に参詣した、とあります。

我々のバスツアーは、弥彦の隣の寺泊へ向かいます。
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 バスで行く「奥の細道」(その27)  ( 「村上 」: 新潟県)     2018.7.12

2018-12-09 05:50:38 | Weblog

(写真は、「千年鮭 きっかわ」の天井から吊るされた
「塩引き鮭」)  

前回の「念珠ケ関」に続き、今回は「村上」の町中散策です。


我々の「奥の細道」バス旅行は、山形県の念珠ケ関を出た後、
更に、日本海の海岸沿いに、バスで1時間半の新潟県の
村上市を目指します。

新潟県の最北部に位置する人口6万の「村上市」は、日本海に
面し、江戸時代には村上藩の城下町として栄え、雰囲気のある
武家屋敷などが残っています。

早速、バスを下りて、村上市内を散策します。













写真の「黒塀小路」(くろべいこうじ)は、村上の町人町の
象徴でもあった黒塀です。




上の写真は、村上市内のメインストリートにある「千年鮭
きっかわ」です。

村上は、千年を越える鮭の街で、古くから独自の鮭食文化が
発展しました。
村上の市街地の端を流れる三面川(みおもてがわ)は、今でも、
鮭が遡上しています。
鮭は、江戸時代には、藩の重要な財源にもなっていたそう
です。

「千年鮭 きっかわ」のお店の人の説明によると、粗塩を引き、
1週間、塩蔵した塩引き鮭を、1年間の時間をかけて、
天井から吊るしながら発酵させ、味を成熟させて造り
上げます。

下の写真は、その「きっかわ」の中の天井から吊るされた
「塩引き鮭」です。

塩引き鮭が、写真の奥の部屋まで、約1,000本も下がって
いる光景には、ホントに驚きました!




塩引き鮭のお土産・「鮭の酒びたし」(1,188円)を
買いました。

塩引き鮭は、思ったより塩っぽくありませんでした。

帰宅してから、「鮭の酒びたし」を肴に日本酒を飲みました
が、酒の肴にピッタリです!

村上に行ったら必ず寄りたいスポットです。

先日、BS日テレ「三宅裕司のふるさと探訪・村上市の旅」
で、三宅が「千年鮭 きっかわ」を訪れるシーンがあり
ました。

その番組の中で、「きっかわ」のご主人が、塩引き鮭を
食べられる近所の料理店「井筒屋」について、
「芭蕉は、旅籠「井筒屋」で2泊もしたのに、奥の細道には、
村上の記述が1行も無く、おまけに芭蕉は夏バテで、
一句も詠まなかった。」と怒っていました。

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我々は、「千年鮭 きっかわ」の近くの「井筒屋」へ向かいます。


上の写真は、旅籠・久佐衛門跡に建つ「井筒屋」で、芭蕉と
曾良が2泊しました。
現在、井筒屋は、各種の鮭料理が食べられる料理店兼宿屋に
なっています。
鮭の心臓、頬なども食べられる下の写真の鮭料理のフルコース
が人気らしいです。
  
(井筒屋のチラシから)
当時、村上は、榊原氏の城下町で、曾良が、村上藩の筆頭家老
である榊原帯刀(さかきばら たてわき)の父に仕えていた
という特別の縁があり、帯刀の家老屋敷(現在の市役所)に
挨拶に行っています。
曾良は、旅の当初から、村上藩の筆頭家老の榊原氏の墓参を
目的の一つにしていたと推測されます。
それは、村上到着の翌日が、2年前に亡くなった曾良の主君の
三男の榊原良兼の月命日で、どうも、月命日に会わせて村上を
訪れたらしいからです。
この様に、村上に2泊したのは、曾良のためで、芭蕉は村上
では出る幕がなかった様です。

村上の町中にある「浄念寺」へ向かいます。

「浄念寺」は、1667年に藩主となった「榊原氏」の菩提寺
でした。
1689年、「曽良」が長島藩(三重県)時代の主君だった、
村上藩の筆頭家老・榊原氏の墓参のために「浄念寺」を
参拝しています。
榊原氏の後には、1716年に「間部詮房」(まなべ あきふさ)
が藩主となりますが、4年後の1720年に病死しました。
「間部詮房」は、6代将軍家宣のときに側用人(そばようにん)
となり、7代将軍家継のときは家継を補佐して政治の実権を
握り権勢を欲しいままにしましたが、8代将軍吉宗になり
失脚、ここ村上へ左遷されました。
間部家では、浄念寺を菩提寺として詮房を葬りました。

1818年、間部詮房の百回忌に合わせて、土蔵造りとしては
日本で一番大きい上の写真の「本堂」が再建されました。
(国の重要文化財)

村上の町中にある「浄念寺」を出て、郊外の「石船(いわ
ふね)神社」へ向かいます。
石船神社は、岩船港を望む高台にあり、1,300年以上の歴史
がある村上地域の総鎮守です。
代々、村上藩主の保護が厚く、港町岩船の産土神として、
土地の人々の信仰を集めてきました。

境内には2基の芭蕉句碑があります。

”文月や 六日も常の 夜には似ず”

 (七夕というものは、その前日の六日の夜でさえ、
  なんとなくワクワクして特別な夜に感じるよ。)

”花咲きて 七日鶴見る 麓(ふもと)かな”

 (桜の花が咲いて散るまでは七日だという。また鶴も
  降りた場所に七日間留まるという。この江戸の鈴木
  清風(芭蕉の門人)の屋敷に来てみると花と鶴とが
  見られてなんと素晴らしいことか。)




村上市の「石船神社」を出て、隣の胎内市(たいないし)の
「乙宝寺」(おっぽうじ)へ向かいます。



聖武天皇は、仏教による鎮護国家の理念で、全国に国分寺・
国分尼寺を建立しましたが、同じく、北陸一帯の安穏を
願って建立されたのが「乙宝寺」(おっぽうじ)です。







1620年、村上城主により建立された上の写真の「三重塔」
は、美しい純和様の建築で、国の重要文化財です。

また、乙宝寺の宝物殿には、何と!、お釈迦様の左目が納め
られているそうです。

後白河天皇から、この左目を納める金塔を賜ったので、
これまでの「乙寺」という名称から「乙宝寺」に改称した
そうです。
ちなみに、お釈迦様の右の目は、何と!、唐土(中国)の寺に
納められているとのこと。

乙宝寺は、別名を「猿供養寺」といいますが、平安時代後期の
「今昔物語集」には、”乙宝寺の猿の伝説”が出て来ます。

それによると、その昔、乙宝寺の裏山に住み着き、お経を
聴きに寺の本堂にやって来る夫婦の猿がいました。

あるとき、2匹の猿は、木の皮を持ってきて、身ぶり手ぶりで
写経をせがんだので、住職はそれに応じます。
その後、猿の夫婦は、冬になると姿を見せなくなりました。

心配した住職が、裏山に探しに行くと、2匹の猿は、雪の中で
抱き合う様に死んでいました。
そして、その手には、木の皮の写経が握りしめられていました・・・
住職は、「猿塚」(猿の墓)を築き、その写経を寺宝と
しました。

上の写真が、乙宝寺の「猿塚」です。

この伝説には続きがあります。
2匹の猿が死んでから数十年後のある日、写経をしたいという
夫婦が乙宝寺を訪ねて来ました。
ところが、写経は途中で進まなくなり、夫婦は住職に、
「私達は、お経を聴きに来た猿の生まれ変わりです」と
打ち明けました。
猿の夫婦が写経の途中で死んでしまったために、木の皮に
写経されなかった残りのお経を住職が唱えると、人間と
なった猿は、全ての写経を無事に終えたそうです。
乙宝寺には、このときの木皮に書かれた写経が残されている
そうです。

乙宝寺には、参道の両脇をはじめ、境内のあちこちに桜の木が
あります。

”うらやまし 浮世の北の 山桜”(芭蕉) 

(あなたの住んでいる金沢は静かな場所でうらやましい。私は
 今江戸にあってよろず浮世の問題に悩まされています。

 金沢の門人の句空に贈った句で、「浮世の北」は北国金沢
 の意。)

我々の奥の細道・バス旅行は、「村上」を出て、「新発田城」
に立ち寄ってから、新潟駅から新幹線で東京に戻りました。

(新発田城については、(2018/7 新発田城)を見てね。)
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バスで行く「奥の細道」(その26)  ( 「念珠ケ関」: 山形県)     2018.7.12

2018-12-08 22:45:34 | Weblog

(写真は、念珠ケ関の関所跡)  

我々の「奥の細道」バス旅行は、山形県の酒田市を出た後、
バスで40分で、同じ県内の鶴岡市に着きました。


車窓から前頁の写真の鶴ヶ岡城跡を見物したあと、鶴岡の
市街地を少しだけ散策します。

「藤沢周平」が愛した故郷の「鶴岡」の風景は、しばしば小説
の舞台の「海坂藩」として登場します。

鶴岡の街は、写真の様に、少し寂れていますが、でもレトロな
感じで雰囲気があります。


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上の写真は、荒れ果てていますが、鶴岡城下の庄内藩士「長山
重行宅」跡で、芭蕉はここで3日間を過ごしました。

次頁の写真は、「内川乗船地」跡です。

鶴岡城下の長山重行宅を出た芭蕉は、近くの内川の船着場
から、船で酒田に向かいました。



 ”あつみ山や 吹浦(ふくうら)かけて 夕涼み”
 (折からの暑さに縁のある名の「あつみ山」が彼方に見え、
暑気を吹き払うという名の「吹浦」も見渡され、この眺望
を見渡しながらの夕涼みは気持ちのよいことよ。)

 (塩俵岩)
我々のバス旅行は、鶴岡市の郊外の温海(あつみ)町で、上の
写真の塩俵岩(しおたわらいわ)の「芭蕉句碑」を見るために
下車しました。




次に、我々のバス旅行は、同じ温海町の鼠ヶ関(ねずがせき)
で下車して、上の写真の「念珠ヶ関(ねずがせき)」跡を
見学します。

実は、ここ鶴岡市の温海(あつみ)町の鼠ヶ関には、関所跡が
二ヶ所あります。

古代の関所址である「古代・鼠ヶ関(ねずがせき)」と、江戸
時代に設置されていた上の写真の「近世・念珠ヶ関(ねずが
せき)」です。

同じ「ねずがせき」と読みますが、古代と近世で字が異なり、
また場所も少し離れていて違う場所です。

「古代・鼠ヶ関」は、平安時代には、白河関、勿来関
(なこそのせき)と共に「奥羽三大関所」と呼ばれました。

もともとは、蝦夷(えみし)の侵入を防ぐための関でしたが、
出羽国(山形県)と越後国(新潟県)との国境に位置していた
ので、東北地方への玄関口となりました。

1186年、兄の源頼朝に追われた源義経の一行は、奥州・平泉
を目指して、京から琵琶湖を渡り、越前、越後と日本海を
北上、ここ念珠ヶ関に着きました。

歌舞伎の名場面「勧進帳」の舞台となったのは、一般には、
現在の石川県の安宅関(あたかのせき)とされています。

しかし、石川県の海岸線に安宅という地名はあるものの、
平安~鎌倉期に、この安宅関が実際に在ったかどうかは疑わし
いとされています。

逆に、ここ鼠ヶ関には、義経から伝えられた矢立て、扇、
般若心経が残っているらしいです。

更に、ここには、関守の富樫左衛門と同じ富樫姓が多いこと
などから、「勧進帳」の関所は、実はここ「念珠関」だと、
地元の温海(あつみ)観光協会は主張しています。

次頁の写真は、ここ「念珠ケ関」跡が、「勧進帳」の「本家」
だと主張する看板です・・・ 



「勧進帳」とは、寺院建立の資金集めの趣意を記した巻物で、
山伏などが、民衆から寄付を集めるときに読み聞かせます。

義経の一行が、山伏姿で「安宅の関」にさしかかり、関を
越えようとしたその時に、関守の富樫に見とめがられ、詮議が
始まります。

弁慶は、白紙の巻き物を広げ、あたかも勧進帳であるかの
ように朗々と読み上げます。

しかし、顔が義経に似ていると食い下がる関守の富樫の前で、
弁慶は、「義経に似ているお前が憎い!」と、主である義経を
打ちすえます。

その弁慶の忠義の心に感じた富樫は、その嘘を見破りながら
も、義経一行を通してやります。

現在の「念珠ヶ関番所跡」は、弁慶の勧進帳の時代のものでは
なく、江戸時代のもので、「近世・念珠ヶ関」と呼ばれ、
明治5年に廃止されました。

そして、大正13年に、内務省が「史蹟・念珠関址」として
指定史蹟に認定しました。

上の写真は、その内務省が認定した際の石碑で、正面には
「史蹟念珠関址」、右側面には「内務省」、左側面には
「昭和二年三月建設」と刻まれています。




我々は、次に、念珠ヶ関の近くの温海町の弁天島へ向かい
ます。


源義経は、舟で念珠ヶ関に着き、海に突き出したこの弁天島に
上陸しました。






上の写真は、「源義経碑」(源義経の上陸記念碑)で、
昭和41年のNHK大河「源義経」放映の際に、「源義経」の
作者で直木賞作家の「村上元三」の揮毫により建てられた
ものです。

我々のバス旅行は、念珠ケ関跡・弁天島を出た後、日本海の
海岸沿いに南下します。

やがて、山形県から、新潟県の村上市に入り、村上市の
笹川集落の「笹川流れ」の絶景の海岸線に沿って進みます。



見事な景観を誇る延長11キロメートルの「笹川流れ」は、
海水が日本屈指の透明度を誇る国の名勝天然記念物です。
海水浴、釣り、キャンプ、遊歩道散策はもちろん、遊覧船
から、海岸にそびえ立つ雄大な造形美の岩を眺めることも
出来ます。
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バスで行く「奥の細道」(その25)  ( 「酒田」: 山形県酒田市)    2018.7.11

2018-12-07 23:51:03 | Weblog

(写真は、酒田・山居倉庫の吉永小百合)  

我々の「奥の細道」バス旅行は、秋田県の象潟町を出た後、
バスで2時間余りで山形県の酒田市に入り、明治26年に建て
られた「山居(さんきょ)倉庫」に向かいます。

酒田市は、かつて北前船による交易で栄え、また、米の積出港
として賑わいました。

冒頭の写真は、JR東日本「大人の休日倶楽部」CM の
「酒田・山居倉庫の吉永小百合」です。

「山居(さんきょ)倉庫」は、1983年に放送されたNHK
ドラマ「おしん」、2013年の映画「おしん」のロケ地
として一躍有名になりました。



山居倉庫は、 美しい外観を兼ね備え、18万俵もの膨大な米
を収納したという12棟の米保管倉庫で、米どころ「酒田」
の繁栄を今に伝えています。

また、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、自然を利用
した低温倉庫として、現在も現役の農業倉庫です。

更に、夏の高温防止と、冬の風雪から倉庫を守るために、
背後に樹齢150年のケヤキ並木を配しています。

我々も、日本海からの強風と、夏の暑い日差しから倉庫を守る
ために植えられたというケヤキ並木の下を散策します。


上の写真は、建設当時から敷地内に鎮座しているという「三居
稲荷神社」です。

倉庫の敷地内には、大量の米の輸送に活躍したといわれる
「小鵜飼船(こうがいふね)」が復元して展示されています。

川幅の狭い場所や急流が多い最上川の水運に対応できるよう、
スリムなボディをしています。


そして、倉庫群のすぐ前が、小鵜飼船が乗り入れる石畳の造り
の船着き場になっています。






上の写真は、倉庫の1号棟を使って作られた「庄内米歴史
資料館」で、館内では、「おしん」の人形が出迎えて
くれます。



我々のツアーは、山居倉庫を出て、酒田市内を散策します。









上4枚の写真は、「本間家旧本邸」で、幕府の巡見使一行を
迎える宿舎として、「本間家」が1768年に新築し、そのまま
「庄内藩」に献上しました。

「庄内藩」と言えば、意外と知られていませんが、戊辰戦争
では、新政府軍を相手に連戦連勝、負けなしの戦いを続け
ました。

しかし、”会津藩討伐の赦免”を目的に戦っていた「庄内藩」
は、会津藩が先に降伏してしまったために、戦う意味が
なくなり、負け知らずのまま降伏します。

新政府軍が出した降伏の条件は、城の明け渡し、家老の切腹、
更に、福島・磐城平への転封(国替え)でした。

このとき、庄内藩に同情的だった西郷隆盛は、何と!、
既に戊辰戦争で戦死していた家老への切腹を命じます!

う~ん、西郷の人柄を表す奇策ですね~。

更に、西郷の裏からの努力により、明治政府への70万両
(現在の数百億円)の献金を条件に、新政府軍は転封を中止
することを決定します。

しかし、庄内藩は、70万両のうち30万両しか工面出来
ませんでした・・・

このとき、「本間家」が中心になって残りの40万両を工面、
庄内藩は転封を免れました!

江戸時代には、「本間様には及びもないが、せめてなりたや
殿様に」と言われましたが、上記は、正に、本間家と庄内藩
藩主の力関係を表している逸話なのでしょうね。


本間家旧本邸を出て、酒田市内の散策を続けます。

上の写真は、酒田を代表する廻船問屋の「鐙屋(あぶみや)」
で、井原西鶴の「日本永代蔵」にも紹介されました。
(国の史跡)

屋敷は、石置杉皮葺屋根の典型的な町家造りとなっており、
内部は通り庭(土間)に面して、十間余りの座敷、板の間が
並んでいます。

また、鐙屋は酒田三十六人衆の筆頭格として町年寄役を勤め、
町政に重要な役割を果たしました。

ん?、鐙屋の入口にも、おしんが立っています!


上の写真は、「不玉(ふぎょく)宅跡で、芭蕉が、酒田滞在中
に9泊もした邸宅の跡です。

象潟から戻った芭蕉は、不玉宅で、不玉と句を詠み、芭蕉は、

”温海(あつみ)山や 吹浦(ふくうら)かけて 夕涼み”と

発句を詠み、不玉は、

”みるかる礒(いそ)に たたむ帆莚(ほむしろ)”と、

返句しています。

(折からの暑さに縁のある名の「あつみ山」が彼方に見え、
暑気を吹き払うという名の「吹浦」も見渡され、この眺望を
見渡しながらの夕涼みは気持ちのよいことよ。 芭蕉)

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我々のバス旅行は、酒田市内を抜けて、市の外れの「日和山
公園」へ向かいます。


写真の「日和山公園」は、酒田港や最上川河口を一望できる
小高い丘にある歴史公園です。

写真は、「芭蕉像」と「芭蕉句碑」です。

(温海山や 吹うらかけて ゆふ涼み 芭蕉)

六角灯台や常夜灯等の文化遺産が点在し、酒田を訪れた文人の
句碑が並ぶ「文学の散歩道」があります。

上の写真は、「河村瑞賢庫跡」で、酒田港より幕府直轄地
(天領)の御城米を江戸に直送することを河村瑞賢に
命じました。
庫跡は、上部から見ると”米”の字になってます。

上の銅像の瑞賢は、1672年、この日和山に堀や土壘を築いて
御城米置場を完成させました。

前頁の写真は、明治28年に建てられた、木造灯台として
残っている最古の「木造六角灯台」です。

上の写真は、「常夜灯」で、1813年、酒田に寄港する北国
廻船の航海安全を祈願して建てられました。

上の写真は、「千石船(北前船)」で、庄内米を酒田港から
江戸に回漕するために活躍した千石船を実物の二分の一に
縮尺して再現したものです。


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バスで行く「奥の細道」(その24)  ( 「象潟(きさがた)」: 秋田県にかほ市)     2018.7.11

2018-12-06 10:41:41 | Weblog

(写真は、象潟の田園風景の中に点在する、かつて湖の中の島
だった小山) 
 


我々の「奥の細道」バス旅行は、山形県の「羽黒山」を見学
したあと、酒田市内のホテルに1泊、翌朝、秋田県の象潟町に
到着しました。



JR象潟駅の駅前広場に、上の写真の「芭蕉文学碑」があり、
芭蕉が象潟を訪れた際の様子が記載されていました。

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芭蕉と曾良は、「象潟(きさがた)」に到着すると、
旅籠「能登屋」を訪ね、ここに宿泊しようとしました。

しかし、翌日が、象潟の「熊野神社」の例祭だったため、
例祭見物の客で能登屋は満室でした。

そのため、近くの「向屋」(佐々木左衛門治郎邸)を
宿所としました。

上の写真が、芭蕉が宿泊した「向屋」跡です。

翌朝、芭蕉と曾良は、象潟の「 蚶満寺(かんまんじ)」
に参拝し、帰りに「熊野神社」の例祭を見学したのち、
前日満室で宿泊出来なかった「能登屋」に宿泊します。

次頁の写真は、2泊目の 「能登屋(佐々木孫左衛門邸)」跡
です。




写真は、芭蕉が例祭を見物したという、象潟町の外れに
ある「熊野神社」です。



上の写真は、芭蕉が、蚶満寺(かんまんじ)に参拝に
向った際に、熊野神社の前の欄干橋の脇から舟に乗った
ときの「船つなぎ石」です。


欄干橋の周辺は、江戸時代、象潟の九十九島を巡る舟が
発着していた場所でした。


我々のバス旅行は、象潟の街中から、名勝「象潟
(きさがた)」の風景を一望できる下の写真の「道の駅・
ねむの丘」に着きました。




道の駅の展望フロアの目の前には、日本海が広がり、
その反対側には、鳥海山の裾野が広がります。



展望フロアの足元が、国指定天然記念物の「象潟」です。


芭蕉が、象潟を訪れた当時は、未だ、ここが、現在の様な
陸地になる前でした。



当時は、潟湖の中に、九十九島と呼ばれる小島が点在し、
仙台の松島と並び称される景勝地でした。






しかし、1804年、「象潟地震」による隆起で、
ここ象潟は陸地となりました!
その後、かつて海だった部分は水田地帯となり、現在の様に、
田んぼの中に、かつての島々が、小山として点在している
風景になりました。


展望フロアのガラス越しですが、上から眺めると、田んぼの
中に、島が点在するのが良くわかります。

芭蕉が訪れた頃は、田んぼの部分がかつては海で、景勝地を
巡る舟が行き交っていたのでしょうね。


我々の「奥の細道」バス旅行は、「道の駅・ねむの丘」の
前の羽越線の踏切を越えて、「蚶満寺(かんまんじ)」の
参道を歩いて行きます。





参道の突き当たりに、 古色蒼然とした佇まいの蚶満寺の
山門がありました。




芭蕉は、舟に乗って象潟の島々を見物したあと、舟を下り、
舟着き場の前にあった「蚶満寺(かんまんじ)」を訪ね
ました。
853年創建の 蚶満寺は、芭蕉が訪れた当時は、象潟風景の
鑑賞の地でもありました。

参道の脇には、前頁の写真の芭蕉像と句碑と、下の写真
の真新しい「西施(せいし)の像」がありました。

”(象潟(きさがた)や 雨に西施(せいし)が ねぶの花”
 (雨にけぶる象潟は、雨に濡れるねむの花のような沈んだ
  哀感があり、ちょうど美女の西施が、憂いに眼を閉じて
いるような風情だなあ。)
 西施は、中国の春秋時代、越王の勾践(こうせん)が、呉王
の夫差(ふさ)に、復讐のための策謀として献上した美女
 で、胸を病み苦しげに眉をひそめる姿の美しさで有名です。
 「ねぶの花」は、ねむの葉が、夜や雨のときに閉じるところ
から、「ねぶの花」に「ねぶる(眠る)」をかけています。
「奥の細道」では、「松島は笑ふが如く、象潟は
 憾(うら)むが如し」
(松島は、笑顔をたたえた様であるが、 象潟は、憂いに沈む
美人の風情である。)
とあり、
雨中のねむの花に西施のイメージを重ね、それが更に、雨に
煙る象潟の全体風景になっています。
蚶満寺(かんまんじ)の左手には、一面の稲穂の中に象潟の
島々が見えます。
寺の裏庭に、芭蕉が、蚶満寺に参拝のために
舟から下りた「舟つなぎ石」と「芭蕉句碑」が
ありました。
裏庭の奥に進むと、西行が詠んだ桜の木がありました。
芭蕉は、西行が詠んだ桜の老木を見て、蚶満寺(かんまんじ)
の方丈に座り、簾を上げて風景を眺めています。
”きさかたの 桜は波に うずもれて  花の上漕ぐ
海士(あま)のつり舟” (西行)

鐘楼の手前に次頁の写真の芭蕉の木があります。






 


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バスで行く「奥の細道」(その23)  ( 「羽黒山」: 山形県 )    2018.7.10

2018-12-05 10:44:46 | Weblog

(写真は、羽黒山の木立の中の「五重塔」)  

前回の「湯殿山」に続き、今回は「羽黒山」です。

江戸時代には、「過去=月山、現在=羽黒山、未来=湯殿山」
の出羽三山を訪ねることが、過去、現在、未来を巡る
「生まれ変わりの旅」になる、と信じられていました。

前回の「湯殿山」から1時間20分、我々の「奥の細道」
バス旅行は、「羽黒山」バスターミナルに到着しました。



鳥居をくぐると、下の写真の「随神門」があります。
 

この随神門から、「羽黒山」(出羽三山神社)の神域に
入ります。


随神門の石段を下りると、道の両側に小さい社が立ち並び、
すぐに前方に、「祓川」(はらいがわ)に架かる「神橋」
が見えてきます。

この祓川の清流は、月山に源流を発しており、昔、
参拝者は、この清流で身を清めてから、羽黒山の
山頂を目指しました。


神橋の上からは、小さな祓川神社と、その後ろに
「須賀の滝」が見えます。
滝の水音が爽やかで、清々しい気持ちになります。

祓川を渡ると、500本以上あると言われる杉の古木の中に、
次頁のひときわ巨大な老杉の「爺杉」があります。
何と!、樹齢1千年!、胴囲が8メートルもある、
羽黒山で最も古い天然記念物です。
以前は「婆(ばば)杉」もあったそうですが、暴風で
失われたそうです・・・




爺杉の近くの木立の中に、写真の国宝「五重塔」が
姿を現します。


東北地方で最古の塔といわれ、「平将門」の創建と
伝えられています。
この五重塔は、高さが29メートルもあり、圧倒される
ほどの五層の「柿葺(こけらぶき)」で、その大きさは
日本最大です。

また、「素木造り」(しらきづくり)で、何も塗らず、
釘も使っていません。

現在の塔は、 約600年前に再建されたものだそうです。


五重塔の塔の左手に、山頂まで徒歩50分もかかる
全長1.7キロ、2,446段の長い~石段が続きます。

我々のバス旅行は、高齢者が多いので、2,446段の石段を
パスして、バスで、いきなり山頂の「三神合祭殿」(国重文)
へ向かいます。

山頂の「三神合祭殿」(さんじん ごうさいでん)は、
”日本一の茅葺屋根”で、月山・羽黒山・湯殿山の三神を
合祭した神社です。





写真の様に、厚さ2メートルという、日本最大級の茅葺屋根を
持つ社殿の存在感に圧倒されます!




本殿は度重なる火災にあい、現在の社殿は1818年に再建した
ものです。


社殿の前の前頁の写真の「鏡池」は、羽黒神が姿を現す池
として、池そのものがご神体と考えられ、古来より多くの
信仰を集め、御手洗池(みたらしのいけ)とも呼ばれました。
古代から、人々は銅鏡に願いを託し、池に納めたそうです。

池の中からは、平安・鎌倉・江戸期に埋納された多くの銅鏡が
出土しました。

従って、ここが羽黒信仰の中心だったと考えられ、「池の御霊
(みたま)」とも呼ばれています。

三神合祭殿の石段を少し下りると、下の写真の「蜂子皇子
(はちこのおうじ)」の墓がありました。

墓の黒扉には、菊の紋章がついていました。

出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)は、1,400年以上前に、
蜂子皇子によって開かれました。


途中で、山伏姿の外国人の集団に遭遇しました!

サングラス姿の若い女性も混じっており、こんなに若いのに、
異国の山奥で修行しているなんて偉いなあ~、と感心
しました。

でも、あとで考えてみると、外国人観光客向けに山伏が案内
する”1日修業ツアー”だったのかも知れません?




鏡池の前の道を、蜂子皇子の墓と反対の方向へ進むと、
上の写真の末社が並んでおり、その先に次頁の写真の
「芭蕉像」がありました。


奥の細道の旅ハンドブック
久富 哲雄
三省堂

芭蕉と曾良は、出羽三山の宿坊街である手向宿へ到着した
のち、すっかり暗くなってから、羽黒山に登り、羽黒山の
最高指導者である「会覚阿闍梨」と会いました。

そして、宿泊のため、更に、暗い夜道を、月明かりだけで参道
を登り、羽黒山の中腹にある南谷別院(高陽院紫苑寺)へ
向かいます。

その暗い夜道の参道で詠んだのが、

”涼しさや ほの三か月の 羽黒山”

( 出羽三山の羽黒山にかかる三日月の月明かりは、神聖で
霊気が漂い、身が引き締まる思いだ。)






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バスで行く「奥の細道」(その22)  ( 「湯殿山」: 山形県 ) 2018.7.10

2018-12-04 11:09:08 | Weblog

(写真は、湯殿山の参籠所と大鳥居)   

前回の宮城県の「登米(とめ)」に続き、今回は山形県の
「湯殿山」(ゆどのさん)です。

芭蕉は、前回の登米から、奥の細道のハイライトである
平泉を目指しました。

しかし、我々のツアーは、平泉や立石寺などについては、
メンバーの皆さんが複数回行ったことがあるということで、
これらを飛ばして、新幹線で山形へ向かいました。



新幹線の山形駅で下りると、山形の市街地は、8月5~7日の
山笠祭りの飾り付けの準備一色でした。





やたら漬本舗が経営する明治18年創業「香味庵まるはち」
で昼食です。

趣のある蔵座敷で、漬物の寿司などの山形の郷土料理の
会席膳を食べます。


土産に、写真の青唐辛子の香りと辛味、甘味噌の風味を
加え漬けあげたピリ辛味の「山形やたら漬」を買いました。 

ごはん・お粥・雑炊やチャーハンにもぴったりです。

昼食を済ませた我々のバス旅行は、山形の市街地を抜け、
健脚の芭蕉も苦労して歩いたという湯殿山、羽黒山、月山
へ向かいます。


江戸時代には、”西の伊勢参り、東の奥参り”と、並び
称され、庶民の信仰の中心でした。

”奥参り”とは、出羽三山の「生まれ変わりの旅」の
ことです。

「生まれ変わりの旅」とは、「過去=月山、現在=羽黒山、
未来=湯殿山」の三山を訪ねることで、過去、現在、未来を
巡ることになります。



山形の市街地から貸切バスで約1時間、「湯殿山」の
湯殿山神社の参籠所駐車場に着きました。

前頁の写真の左は、食事および宿泊が可能な湯殿山の
参籠所です。



前頁の写真の石碑には、「湯殿山本宮の東にある仙人沢
は、即身仏となるための修行地である」旨が記されて
います。

「湯殿山(ゆどのさん)神社」は、山形県の庄内地方に
広がる出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)のうちの、
湯殿山の中腹にあります。

湯殿山神社は、月山の頂上から尾根づたいに西へ8キロ
下りた地点にあり、また、月山から流れる梵字川(ぼんじ
がわ)の川沿いにあります。

出羽三山の総奥の院である「湯殿山」の神の世界に、
人工の建造物を造ることは許されませんでした。
従って、湯殿山神社には、本殿も社殿もありません!



湯殿山神社へは、自家用車乗り入れ禁止のため、参籠所
駐車場から、参詣用シャトルバスで湯殿山神社へ向かいます。





上の写真は、参拝バスの終点にある「湯殿山本宮」への
上り口の石段で、石段の先の巨石は「湯殿山本宮」の碑
です。





この石段の途中の撮影禁止の立て看板から先は、神聖な場所
なので、一切の撮影が禁止です。

古来、湯殿山については、「語る無かれ、聞く無かれ」との
戒律が守られ、霊地を見た人は、絶対にその姿を他人に
言ってはいけない。

見てない人は、絶対に他人から聞いてはいけない、と
決められていました。

この様に、”聖地・湯殿山本宮”については、ブログへの
本宮の写真や風景描写も不可ということで、最もブログ向き
でない場所です・・・

湯殿山神社の本宮は、俗世と隔離された神域であるために、
参拝の際には裸足になり、祓を受けなければなりません。

我々も、禊場(札所)で、靴を脱いで素足になり、身代わりの
紙人形に禊をしてもらい、ようやく、湯殿山の御神体の脇を
上って行きます・・・

実際に足を運べば、真近かでご神体を目にすることが出来ます
が・・・(これ以降に見聞きしたことを、他人に話したり、
ブログに書いてはならない・・・)

と言う訳で、実際に見たご神体について描写したいのです
が・・・

無事に湯殿山本宮の参拝を終わり、参籠所駐車場へ戻って
来ました。


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「奥の細道」によると、月山の頂上から尾根づたいに8キロも
下りてきて、湯殿山を訪れた芭蕉は、

”語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな”
の句を残しています。

(語ることを禁じられた神域のありがたさに涙がこぼれる。)

芭蕉も、他人に語る事が出来ない程の、有難い聖地を見る事が
出来て、涙が出る位の感動を覚えた、と率直な感想を表現して
いると思われます。


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バスで行く「奥の細道」(その21)  ( 「登米」: 宮城県 ) 2018.3.15

2018-12-03 08:46:39 | Weblog

(写真は、登米の町中の武家屋敷跡)   

芭蕉は、ここ登米で1泊してかから、奥の細道のハイライト
である平泉を目指しました。

写真は、登米の中心部の入口にある北上川の堤防に建つ「芭蕉
一宿(いっしゅく)」の跡の碑です。

我々のバス旅行も、登米市の中心部に入ります。
登米は、武家屋敷が残る雰囲気のある鄙びた小さな町並み
です。







写真は、「教育資料館」(国重文)で、明治21年に建て
られた洋風建築の校舎です。(旧 登米高等尋常小学校)


ギリシャ風の柱頭飾りの技法や、吹き抜け式の玄関、正面2階
にバルコニーを配するなど、ヨーロッパの様々な様式を
取り入れています。



上の写真は、和洋折衷建築の「水沢県庁記念館」で、明治5年
に水沢県庁舎(注)として建てられ、その後小学校や
裁判所として使われました。
特に玄関の切妻は量感溢れる重厚な構えです。
 (注)水沢県庁舎:明治2年に、現在の宮城県の北東部に
「登米県」が設置され、ここ登米がその県庁所在地
でした。
   その後、「登米県」は、明治5年に「水沢県」となり、
水沢県の県庁所在地が、明治8年に登米から一関に移る
までの間、ここが水沢県庁舎として使用されました。

ちなみに、ここ「登米」は、正しくは、「登米(とめ)市」の
「登米(とよま)町」です。
う~ん、ややこしい・・・

古来、「登米」の地名の読み方は「とよま」でした。
しかし、明治にここが「登米県」の県庁所在地になったとき
に、全国の人々が「登米県」を「とよまけん」と読めず
大混乱となったため、仕方なく「とめけん」に変更した
そうです。

そのため、当時からある小学校の読み方は、現在も「とよま
町」の「とよま小学校」のままですが、官庁関連施設である
警察署などは、「登米(とめ)警察署」などに変更された
そうです。

次頁の写真は、和洋折衷建築の「警察資料館」で、明治22年
に建てられた旧登米警察署の庁舎です。
吹き抜けの玄関や2階のバルコニーなどがモダンな印象です。




写真は、上層武士の武家屋敷を整備した休憩所の「春蘭亭」
で、落ち着いた庭園があり、囲炉裏端の喫茶コーナーでは
抹茶も味わえます。







芭蕉は、ここ登米で1泊してかから、奥の細道のハイライト
である平泉を目指しました。
しかし、この「バスで行く・奥の細道」をご愛読頂いている
皆様には大変申し訳ないのですが・・・
実は、我々のツアーの15名全員が、これから行く平泉と
立石寺は、複数回行ったことがある、ということで、メンバ-
の希望で、奥の細道のハイライトである平泉と立石寺は
スキップすることになりました。

(私の平泉旅行については、2012/8の「白神山地と平泉
 金色堂」
を見てね。)
と言う訳で、次回の「バスで行く・奥の細道」シリーズは、
東京から新幹線で山形へ向かい、山形から、健脚の芭蕉も
苦労して歩いたという湯殿山、羽黒山、月山へ向かいます。
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バスで行く「奥の細道」(その20)  ( 「日和山」: 宮城県・石巻市 ) 2018.315

2018-12-02 10:41:35 | Weblog

(写真は、日和山から見下ろす、東日本大震災で壊滅的な被害
を受けた石巻市の港周辺)   

日和山公園は、宮城県の石巻市の南の端にある標高60mの
小高い丘です。

2011年3月の東日本大震災では、多くの市民が、津波から
逃れるために、ここ日和山の階段を駆け上がり避難しました。

そして、この高台から、町並みが大津波に飲み込まれる様子
を呆然と眺めていました。
当時、ここ日和山公園から撮影した津波の様子が、TVで
何度も流されました。

大震災のあとも、節目毎に、日和山公園から、復興の度合の
報告や、震災についてのトーク番組が流れ、東日本大震災の
象徴的な場所になりました。



我々のバス旅行は、この日和山への非常に急な坂道を
上って行きます。

日和山は、元来は、船乗り達が、天候を予測するために
利用した美しい丘でした。

日和山の眼下の石巻の港は、古くは、江戸へ送る米などの
船積港として大いに栄えていました。

日和山公園の敷地内には、ここからの景色の美しさに
心奪われた多くの文学者たちが残した句碑や歌碑があります。

齋藤茂吉や折口信夫(釈超空)等がここで詠んだ句の他に、
新田次郎や、修学旅行で来た石川啄木や宮沢賢治がここで
詠んだ句などの多くの句碑が建っています。

日和山公園からは、南に太平洋、北東に北上川と石巻の
街の中心部を展望出来て、復興の様子も手に取る様に
わかります。

近年は、石巻市は、漁業の衰退や市街地のシャッター化が
進んでいるため、地域興しとして、漫画による活性化を
図っています。

上の写真の川の中州には、かつては造船所が立ち並んで
いましたが、時代の波には勝てず、現在は、造船所跡地に、
ドーム型の建物「石ノ森漫画館」が建っています。
JRも、石巻市の漫画による活性化に協力しています。

(JR石巻駅)



奥の細道の旅ハンドブック
久富 哲雄
三省堂


日和山には、平泉に行く途中に石巻に立ち寄ったとされる
「おくのおそ道紀行 三百年記念」の芭蕉と曽良の銅像が
あります。


この銅像の芭蕉の眼差しは、これから目指す平泉の方向に
向けられているそうです。

台座には、「元禄二年(1689年)六月二十六日 芭蕉が
曽良を伴って千石町 四兵衛宅に泊まる。」とあります。

曽良日記には、「湾には多くの船が行き交い、家々からは
竈(かまど)の煙が立ち上り・・・」とあり、曽良は、
”この様な田舎に、こんなに繁栄している港があるとは!”
と、当時の石巻の繁栄ぶりに感嘆しています。




日和山公園の山頂には、写真の鹿島御児神社があり、
その境内に、次頁の写真の芭蕉句碑がありました。


”雲折々 人を休める つきみかな”

(時々、月が雲に入ってくれるから、月見をしている人も、
その月が見えない時だけは、一休み出来るなあ。)

この句碑は、松の根元に隠れるようにして建っていたので、
見落としそうになりましたが、かなり古い感じで、碑面が
削れていて読み取れません・・・
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