ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

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中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

小机城址(横浜市) (続日本100名城)  2017.8.20

2017-09-06 09:04:27 | Weblog

(写真は、小机城址の冠木門)


地元の「小机城址」(横浜市港北区)が、今年の
4月に「続日本100名城」に選定されました。

今週の日曜日(8/20)は、その祝賀会を兼ねた
「小机城フォーラム2017」が、「小机駅前」
広場で開催されたので行って来ました。

我が家の最寄り駅の横浜線・新横浜駅の隣の駅
が小机駅です。







小机駅の脇の地区センターで、城歩きのエッセー
で有名な落語家・春風亭昇太が、「中世城郭
小机城の魅力~小机に城はないなんて言わないで」
と題し、小机城の説明をしていました。

会場は満員で、私は少し出遅れたので会場に
入れませんでした・・・




小机駅前の広場では、「小机城フォーラム 戦国
時代体験 夏休み親子ひろば」をやっていました。



戦国時代の和装をした若い男女の案内で、甲冑の
着付けコーナー、子供向け手裏剣コーナー等が
設けられて賑わっていました。

屋台のオレンジジュースを飲んで一休みしてから
久し振りに「小机城址」へ向かいます。

「小机城址」へは、小机駅から分かりづらい小道を
徒歩15分、横浜線沿いの小高い丘にあります。

現在では、小机城の跡は、「小机城址市民の森」
として整備されています。



小机城址市民の森の入口の根古谷広場から遊歩道
の坂を登ります。





先ず、左手の本丸広場へ向かいます。



上の写真は、本丸広場の入口にある冠木門です。


(本丸広場)


本丸広場から、櫓台跡へ向かいます。


途中に、上の写真の空堀跡があります。


上の写真は、土塁の説明板です。

土塁は、堀を掘った土で築き上げた防備壁です。

説明板によると、中世初期に築られた城の土塁の
上には、必要に応じて、柵・塀などが設けられて
いたそうです。

上の写真は、「櫓台」(やぐらだい)の説明板と、
櫓台跡へ上る階段です。

小机城は中世の城ですが、当時は天守閣のない
時代だったので、天守閣の代わりに、
「火の見やぐら」の様な展望を目的とした
「櫓(やぐら)台」がありました。

(櫓台跡)

櫓台跡から、二の丸広場へ向かいます。


見事な竹林の中にたたずむと、戦国の世にタイム
スリップした気分が味わえます。




(二の丸広場)

小机城は、永享の乱(1438年 - 1439年)の頃
に、関東管領・上杉氏によって築城されたと
されています。

そして、この城が歴史の表舞台に登場するのは、
1478年の「長尾景春の乱」です。

山内上杉家の長尾景春が、家督争いに端を発して
反乱を起した時に、景春の味方をした矢野氏が
小机城に立てこもり、敵方の「太田道灌」が
小机城を攻撃をしました。

太田道灌は、小机城の前を流れる鶴見川の対岸の
亀の甲山に陣を張り、2か月かけて小机城を
落城させました。

このため、小机城は廃城になりましたが、
この地域が北条氏の勢力下に入ると、北条氏の
手により修復され、家臣の笠原氏が城主として
配置されました。

その後、城主は、笠原氏から北条氏に替わり、
1590年の豊臣秀吉の小田原征伐の際には、
無傷のまま落城しました。

そして、徳川家康の関東入府のときに、
小机城は廃城になりました。

「小机城」の様な”中世に築かれた城”は、
一般的に、天然の地形を利用し、半島状に
突き出た丘陵や台地の先端部を城地した
ものが多く、その設備も櫓(やぐら)、
木柵などの他は、小規模な土塁や空堀程度で、
住館の多くは城外にありました。

ps.
今回は、薮蚊に悩まされながらの小机城散策
となりました。

小机城の散策には、防虫スプレーが必須です。
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沼田城 (続日本100名城:群馬県)  2017.8.18

2017-09-05 16:36:49 | Weblog

(写真は、沼田城の西櫓台の石垣。)
今年のお盆休みに、群馬の「宝川温泉」で1泊
した翌日の話しの続きです。

(JR沼田駅)
名胡桃城(なぐるみじょう)の見学を終えて
JR後閑駅から、JR上越線に乗り、次の駅の
「沼田駅」で下車、「沼田城」を目指します。

駅前の案内板によると、沼田城は、ここから
歩いて近そうですが、「金山城」の失敗に
懲りて、駅前からタクシーで沼田城へ
向かいます。

タクシーで約5分、沼田城に着きました。

沼田市は、関東と越後・信濃を結ぶ、戦略上
極めて重要な場所に位置する四方を山に
囲まれた盆地です。

市の中心を流れる利根川周辺は、ブラタモリで
放映された様に、非常に高い河岸段丘になって
います。

鎌倉時代からこの地の有力者であった「沼田氏」
が、1532年頃、最初に崖上の台地に城を築き
ました。

(沼田城観光案内所のジオラマ)
「沼田城」は、関東へ至る要衝の地にあったので、
越後の上杉氏、小田原の北条氏、甲斐の武田氏等
により、めまぐるしい争奪が繰りひろげられ
ました。
1580年、武田勝頼の命により、沼田に進出した
真田昌幸は、沼田城を攻略しました。
翌1581年、昌幸は、城の奪還に来攻した「沼田
平八郎景義」を謀殺して沼田氏を滅亡させました。

これ以降、北条氏と真田氏との間に沼田城を
めぐる攻防が続きます。
そして、1590年、北条側が、真田氏の名胡桃城を
不法に攻略したことが契機となり、北条氏は、
豊臣秀吉の小田原城攻めにより滅亡しました。
これにより、沼田城主となった「真田信幸」
(幸村の兄)は、近世的な城郭の整備にとり
かかり、二の丸、三の丸、堀、土塁、大門等
の普請の後、1597年には「五層の天守」を
完成させました。

しかし、その後、1681年、5代城主の真田信利の
ときに、江戸両国橋用材の伐出し遅延を理由に、
領地没収、改易となりました。
このときに、沼田城は、全て破却され、堀も
埋められ、その後天守が再建されることは
ありませんでした。

その後、ここ旧真田領は、本多氏、黒田氏と領主
が変わりますが、1742年、土岐頼稔(とき
よりとし)が、3万5千石で入封し、12代・土岐
頼知(よりおき)のときに明治維新を迎えました。
そして大正時代に入り、沼田城の荒廃を惜しんだ
旧沼田藩士の子「久米民之助」が、私財を投じて、
沼田城跡を購入、公園として整備したうえで
沼田市に寄付しました。

(沼田城観光案内所の展示物)

次頁の写真の久米民之助のお陰で、現在、
沼田城の西櫓台(にしやぐらだい)と石垣、
本丸堀の一部が名残を留めています。

また、沼田城の総曲輪(そうぐるわ)の一部が、
現在、沼田小学校と沼田女子高等学校になって
います。

上の写真が、沼田城跡の入口です。


入口の駐車場の周囲は「三の丸土塁」跡で、土塁
の前に上の写真の説明板が立っています。


更に進んだ広場の「本丸跡」には、前頁の写真の
沼田城のシンボルの「鐘楼」が建てられて
います。

この鐘楼は、元々は、城内にあって廃城の時に
取り壊されたものですが、沼田町役場内に鐘楼を
建て直して時の鐘にしていたものを、昭和58年
ここに復元したらしいです。

更に、この鐘楼には、1634年に真田信幸の長男・
信吉が鋳造させた「城鐘」(じょうしょう)の
複製が釣下げられているそうです。

次頁の写真は、真田信幸(幸村の兄)とその妻・
小松姫(徳川四天王・本多忠勝の娘)の石像
です。

小松姫は、関ケ原の戦いで敵対することになった
義父・真田昌幸が、上田城に戻る際に、”今生の
別れに”と、ここ「沼田城」に立ち寄りますが、
「たとえ舅であっても敵である」と、昌幸を
城門の前で追い返した、という逸話で有名です。



上と次頁の写真は、「西櫓(にしやぐら)台」の
石段と石垣です。

西櫓は、1590年、真田信幸の入封後に、本丸の
北側に築かれました。

写真は、沼田城跡のビューポイントです。

ここに立つと、河岸段丘の上にある沼田城は、
天然の要塞で攻めにくかったのがよく分かり
ます。

このビューポイントの近くに次頁の写真の
「平八石」があります。

真田昌幸は、沼田城の奪還に来攻した「沼田
平八郎景義」を謀殺して、この「平八石」の上に、
平八郎の首級を置いたそうです・・・

二の丸跡にある、前頁の写真の「旧土岐邸洋館」
と、下の写真の「旧生方(うぶかた)家 住宅」
を見学します。(両方で200円)




沼田城跡の入口に戻り、観光案内所で、お土産に
写真の「真田 兵糧丸」を買いました。



あんこがたっぷり入っていて、4種類の味が
楽しめます。

沼田城跡案内所でタクシーを呼んで沼田駅に
戻ります。

JR沼田駅で、JR上越線に乗り、高崎駅で乗り換え
て、湘南新宿ラインで横浜に帰りました。
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名胡桃城 (続日本100名城:群馬県) 2017.8.18

2017-09-01 09:57:47 | Weblog

(写真は、三方が絶壁の段丘の上に築かれた
「名胡桃城跡」の航空写真。)

お盆に「宝川温泉」に1泊した翌日の話しです。
宿の送迎バスで、水上温泉へ向かい、JR水上駅前
で下車します。


水上駅からJR上越線に乗り、2駅先の「後閑駅」
で下車します。

後閑駅から、”続日本100名城”の「名胡桃城」
(なぐるみじょう)を目指します。

駅前の案内板によると、ここから歩いても行け
そうですが、「金山城」へ行った際、駅前の
案内板を信じて長い距離を歩いてしまった失敗に
懲りて、今回は、駅前からタクシーで名胡桃城へ
向かいます。

タクシーで約7分、名胡桃城跡案内所(木曜休館)
に着きました。


「名胡桃城」は、室町時代に、沼田氏の一族と
いわれる「名胡桃(なぐるみ)」氏が、ここに
館を築いたのが始まりだそうです。

この辺りは、三国峠道で越後と結ばれ、また、
鳥居峠道で信濃とも結ばれる、軍事上非常に
重要な土地でした。

1579年、武田勝頼の命を受けた「真田昌幸」
(幸村の父)が、信濃から利根に侵攻します。

昌幸は、北条氏が支配する「沼田城」を手中に
するため、沼田城の隣のここ「名胡桃城」を
攻略したうえで、沼田城を戦わずに調略します。

その後は、沼田城をめぐり、真田氏と北条氏の
間で攻防が続きます。

1589年、全国統一を進める豊臣秀吉が、この争い
を調停、利根川を境として「沼田城を含む東部
一帯は北条氏」に、「名胡桃城を含む西部一帯は
真田氏」に、という裁定を下しました。

この結果、沼田城には、北条氏の家臣・猪俣邦憲
が、名胡桃城には、真田氏の家臣・鈴木主水が
城代として入りました。

その直後、沼田城代・猪俣邦憲が、秀吉の裁定を
無視して、”名胡桃城を不法に攻略”するという
事件が起きます。

このため、名胡桃城は落城し、名胡桃城代・鈴木
主水は自害します。

そして、皆さんご存じの様に、不法攻略の報告を
受け激怒した秀吉は、北条氏に宣戦布告、全国の
大名に命じて小田原攻めを開始し、北条氏を
滅ぼしてしまいました。

つまり、この名胡桃城の領有をめぐる小さな事件
は、秀吉が北条氏を討つ口実を与えてしまい、
戦国時代に終止符を打つこととなったのです。

この事件のあと名胡桃城は廃城となったので、
結果的には、名胡桃城が、城として機能したのは
僅か10年間だけでした。







名胡桃城跡の案内所に入り、城の歴史のDVDや、
城のジオラマ等の展示資料を見たあと、小雨の中、
ボランティアのおじさんに、名胡桃城跡を案内
してもらいます。
城址は、NHK大河「真田丸」の放映に伴い、
平成27年に、土塁などの一部を復元する保存
整備工事が行われたそうです。

「名胡桃城」は、利根川と赤谷川の合流地点近く、
三方が絶壁となっている天然の要塞の段丘の上に
築かれた山城です。

案内所の脇の次の写真の「三郭」(さんのくるわ)
跡から順に、奥へ向かって、ボランティアの
おじさんの案内で見学して行きます。
以下の名胡桃城の絵は、案内所でもらった
パンフレットの解説絵です。



三郭跡から二郭堀切を渡り「二郭南虎口」へ
向かいます。








(「二郭」(にのくるわ)跡)





上の写真は、二郭の一番奥にある見学台です。






見学台の脇の「二郭北虎口」から、本郭堀切を
橋で渡り、「本郭」へ向かいます。








上の写真は「本郭」(ほんくるわ)の説明版
で、次頁の写真は、名胡桃城跡の石碑です。




本郭から、更にその先にある「ささ郭」へ
向かいます。
下の写真の鉄パイプ製の橋で、ささ郭堀切を渡る
とその先に「ささ郭」(ささくるわ)があります。

ボランティアのおじさんの説明だと、NHK大河
「真田丸」のお陰で、この本郭からささ郭へ渡る
鉄パイプ製の橋の予算が付き、楽に渡れる様に
なったそうです。

ささ郭からは、沼田の市街地と沼田城址方面を
臨むことが出来ます。



上の写真は、右手の赤丸楕円形が沼田城の方向、
左手の赤丸印が関越自動車道・月夜野ICです。

残念ながら、現在は、山の木に遮られ、ここから
沼田城址を見ることは出来ません。

名胡桃城跡案内所でタクシーを呼んで、後閑駅に
戻ります。
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