ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

http://www7b.biglobe.ne.jp/~akamine/
中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

中山道を歩く ”完全踏破の一人旅”  (見どころと名物の味)

2016-07-27 08:15:53 | Weblog

(写真は、関ヶ原宿のウォーク更家。)

前回の中山道の「難所と苦労した事」に続いて、今回は、
中山道の「見所、もう一度行きたい場所」と「記憶に残る
食べ物」について思い出しながら書いてみます。

『もう一度行きたい場所』

江戸時代の雰囲気を残す芦田、奈良井、木曽福島、妻籠、
細久手の宿場町では、憧れの古い旅籠に泊まることが
出来ました。  

芦田の「金丸旅館」では、襖の向こうは、フトンの収納棚
だろうと思って、奥の襖を開けてみると、何と!隣の部屋
でした!
8畳間が4部屋、縦に並んだ造りです。
そう、江戸時代の旅館は、隣の部屋との仕切りは、襖1枚
だったんんですね・・・

  (芦田「金丸旅館」)


(奈良井「民宿しまだ」)


(木曽福島「むらちや」)
 
妻籠の「松代屋」では、食後に夜の妻籠宿の散策に出かけよう
とすると、今時珍しい写真の「提灯」を貸してくれました。
妻籠宿には街灯がないので、闇を照らすのは、行灯(あん
どん)のほのかな光だけで、聞こえてくるのは水路のせせらぎ
の音だけです。
夜空の星々が手に取る様に近くて、頭から振ってきそうな錯覚
に襲われました。

(妻籠「松代屋」)
細久手の「大黒屋」では、ご主人から、食堂の間に行くとき
は、畳に段差があるので、つまずかない様にと注意を受け
ました。
なんと!、その段差とは、座敷と上段の間との段差でした!

(細久手「大黒屋」)
また、宿泊はしませんでしたが、上記以外にも、水舟の点在
する須原宿、綺麗な水の流れる水路が印象的な醒ヶ井宿などの
素敵な宿場町がたくさんありました。
妻籠、馬籠、奈良井は観光客でごった返していましたが、
それと同じくらい魅力的な須原宿などは、観光客の姿も無く、
静かな宿場町で、ゆっくりと見学したい場所でした。

他にも、望月宿と合の宿の茂田井集落などは、落ち着いた風情
があり、再訪してみたい場所で素敵でした。


『見所』

中山道の本陣跡には、ご子孫の方が住んでいらっしゃって、
先祖から伝え聞いたという逸話を、直接お聞き出来て、歴史を
非常に身近かに感じました。

群馬の板鼻宿では、板鼻本陣の子孫の方が、曾祖父から聞いた
という、皇女和宮が宿泊されたときの様子を、まるで見ていた
かの様に、細かく話してくれました。

その話によると、和宮が泊まられた室の畳の下に、伊賀者と
いわれた忍者二人が、24時間、隠れて警護したそうです。
下の写真は、その和宮の寝室の畳をはがした時のものです。



また、上の下諏訪宿の岩波本陣の奥座敷では、岩波家の
直系の子孫の方の”先祖への熱い想いを込めた”説明を
聞く事が出来ました。
なお、「岩波文庫」で有名な「岩波書店」の創設者・岩波氏
は、ここの岩波家の出なのだそうです。

滋賀の高宮宿出身の「伊藤忠兵衛」は、麻布の行商から身を
起こし、大手商社の「伊藤忠商事」と「丸紅」を創設しました。

その高宮宿では、「伊藤忠商事」の新入社員の研修場所の
上の写真の「伊藤忠兵衛の生家」と、「丸紅」の新入社員の
研修場所の「豊郷小学校」を、研修当日に見学しました。


『イベント』

中山道ではイベントも盛りだくさんで、お祭り等のイベント
にも遭遇しました。

「太田宿・中山道祭り」の「姫道中」では、蓮台の上から、
和宮様が笑顔で手を振ってくれました。

和宮、五十姫など将軍に嫁いだ6人の姫役は、美濃加茂市に
ゆかりのある人から公募で選んだそうです。

また、関ケ原宿の笹尾山の「甲冑体験コーナー」では、甲冑姿
に着替えて記念撮影をしました。

胸板、大袖、草摺(くさずり)、篭手(こて)、手甲、臑当
(すねあて)、草鞋(わらじ)を順に付けるという時間を
かけた本格的な着付けに大満足でした。


『記憶に残る食べ物』

中山道は、険しい山道が多くて体力を消耗するため、街道沿い
の名物は、江戸時代から炭水化物の多い餅や蕎麦などが中心
だったそうです。

今流行りの”炭水化物ダイエット”からみると不人気の食べ物
が多いかも・・・

また、東海道と違い海が遠く魚が無いので、鯉や岩魚で、
たんぱく質をとっていたそうです。

それでは、中山道の名物を、以下の写真でお楽しみ下さい。

(高崎「ダルマ弁当」)


(横川「峠の釜めし」)


(碓氷峠「力餅」)


(望月「味噌カツ丼」)


(和田「鮎めし弁当」)


(和田峠東餅屋「力餅」)


(下諏訪「塩羊羹」)


(贄川「岩魚蕎麦」)


(宮ノ越「松茸ソバ」)


(木曽福島「鮎の塩焼」)


(上松「もりそば」)


(須原「桜花漬」)


(須原「五平餅」)


(妻籠「鯉の甘露煮」)


(馬篭峠「五平餅」)


(中津川「栗きんとん」)


(中津川「鰻のしつまぶし」)


(大湫「五平餅」)


(大井「朴葉鮨」)


中山道の木曽路は、昔、車で訪れたことがありますが、今回
は、歩いてみて初めて気がつく、ゆっくりとした時間の流れ、
旅行の楽しさがありました。

車の旅行では、見落としてしまう様な風景が多々ありました。

そして、やはり、一人旅は気楽なもので、疲れたときは必要な
だけ休み、体調が良いときは休まず歩いて距離を稼ぎました。

旧中山道の全てを歩いて旅行するというのは、現代社会に
おいては、やはり”究極の贅沢な旅”だったと思います。

ps.
今回の中山道歩きを、下記のホームページに取り纏めました
ので、こちらにもお立ち寄りください。

「中山道を歩く(完全踏破の一人旅)」
(http://www7b.biglobe.ne.jp/~akamine/)

また、ホームページ「東海道五十三次を歩く(完全踏破の
一人旅)」(http://www.minedayo.com/)も、併せて
ごらん下さい。

更に、今後の日光街道歩きは、引き続きこのブログ「ウォーク
更家の散歩」(http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie)を
ご覧下さい。
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中山道を歩く ”完全踏破の一人旅” (難所と苦労した事)

2016-07-27 06:53:20 | Weblog

(写真は、和田峠越え。)

前回の”全体の感想”に続いて、「難所」と「苦労した事」に
ついて思い出しながら書いてみます。


日本橋をスタートして、東海道と同様に何も無い東京~埼玉
の辺りを歩いている間は、中山道歩きは東海道歩きの延長
だなあ~、という印象でした。

その印象が変わったのは、群馬の安中宿辺りからでした。

江戸時代からの時間が止まった様な、中山道固有の雰囲気に
変わったので、何となく嬉しくなりました。

そして、安中から松井田を経て、軽井沢へ向かう「碓氷峠」に
差し掛かると、いきなり崖状の急な登り坂が続き、早々に
息切れしてバテてしまいました。

それでも、登り坂が終わると、あとは、尾根沿いの平坦な
楽しいハイキングコースでした!

そして、碓氷峠を超えた軽井沢からは、浅間山を眺め
ながらの、気持ちの良い高原地帯のハイキングが、和田宿
までずっと続きました。


しかし、和田宿から先の22キロもの厳しい「和田峠」越え
は、途中、迷いそうな熊笹に覆われた道もあり、私のペース
で1日で越えるのは無理と判断しました。

そこで、この行程だけ旅行社主催のウォーキングに参加
しました。

1日目は峠越えの途中で送迎バスが迎えに、2日目は前日
迎えに来た所まで送ってくれて、峠越えを2日に分けて
歩きました。

私はツアーの案内者に付いて歩いて行くだけだったので、道に
迷う心配もありませんでした。

これで、和田峠越えのポイントは分かったので、次回、和田峠
越えをすることがあれば、もう一人旅でも大丈夫です。

難所の和田峠を越えて下諏訪宿に着いたとき、これから先は、
和田峠以上の難所は無いだろうから、あとは日にちさえ
掛ければ必ず京都に着く、と確信しました。

下諏訪宿から塩尻を経て、木曽路の長~い山道に入りました。



木曽路は厳しい山道でしたが、途中には無名の集落や宿場町が点在していて、至る所に江戸時代の名残が残っていました。


また、心洗われる木曽川沿いの山道は、印象深く、忘れがたい風景でした。




木曽路を抜けて、岐阜の中津川の町並みを一望できる丘を
過ぎると「新茶屋」で、「是より北 木曽路」の石碑が
ありました。

長かった木曽路の山道も、ここで終りだと思うと、少し寂しい気分になりました・・・
やはり、心に滲みる風景の木曽路は、いつか、もう一度
歩きたいです。
そして、やっと木曽路を抜けて平地に出たと思ったのも
束の間、中津川を抜けると、中山道の最後の難所「十三峠」
が待ち構えていました。

「十三峠」は、江戸時代には、”十三峠に まけ七つ”と
言われ、合計で20箇所もの難所があったそうです。

現代の「十三峠」もまた、自動販売機も無い20キロもの山道
で、江戸時代と変わらない長~い峠道が延々と続きました。
しかし、上記の三つの峠以外で、江戸時代に難所と言われた
「塩尻峠」、「鳥居峠」、「馬籠峠」は、よく整備された
快適なハイキングコースになっていました。


このハイキングコースにも、塩尻峠・鳥居峠の熊、うとう峠の
マムシ等の情報がありました。

このため、中山道では、熊除けの鈴と携帯ラジオは必携品です
が、逆に、これさえ有れば安心というコースでもありました。

そして、岐阜の美濃路から滋賀の近江路に入ると、ゴールの
草津まで、ずっと鉄道沿いで、毎日、好きなだけ歩いて、
疲れたら電車に乗るという気楽なウォーキングが続きました。

また、中山道歩きの同好の志との出会いもありました。
特急「あずさ」で隣の席になった中山道歩きの豊島区の
Kさん。

琵琶峠で街道歩きの醍醐味を語り合った丹波の国さん、横浜の
Yさん、岐阜さん。
2度お会いすることになった太田宿のボランティアの親切な
おばさん。

その他の親切な郷土の宿場町を愛する大勢の皆さんの御蔭で、
思い出深い旅が出来ました。
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中山道を歩く ”完全踏破の一人旅”の感想 

2016-07-26 06:20:59 | Weblog

(写真は、太田宿の中山道祭り。)

2011年9月、完全リタイアしたのを機に、非日常のウォー
キング「東海道53次」の一人旅に出掛け、2012年3月に
完全踏破しました。

東海道の一人歩きでは、ゴールの三条大橋が近づくにつれ
解放感の一方で、もう終わってしまうのだなという寂しさに
襲われました。

また、目標の京都を目指して、がむしゃらに歩いたので、京都
が近くなるころには膝を痛めてしまい、ほとんど歩けない状態
になっていました。

従って、辛くて長かった 街道歩きは、東海道だけで終わりにするつもりでした。

しかし、辛かった思い出は少しづつ薄れ、街道歩きの楽し
かった感覚だけが強く蘇えってきて、また”どうしても街道
歩きがしたい”という強い誘惑にかられる様になりました。

膝の痛みも消え、東海道53次の完全踏破から8カ月後の
2012年11月、再び日本橋をスタートして、中山道を京都
へ向かう一人旅に出ました。

中山道の踏破にあたり、先ず、東海道の反省を踏まえて下記
の方針を決めました。

「第1」の反省点は、東海道では途中でよく道に迷ったことです。

  一人旅だったため、いったん思い込んでしまうと、
誤った道をどんどん歩いてしまい、もとの道に戻るのに
半日を要してしまったこともありました。

  そこで、中山道の詳細地図が記載された「誰でも歩ける
中山道六十九次」と「ちゃんと歩ける中山道六十九次」
の2冊を携行することにしました。

  これで、ほとんど途中で道に迷うことも無く、東海道の時
の様な苦労はしなくて済みました。

  それでも、詳細地図に記載の無い分岐点で、右か左か判断
に苦しむことは多々ありました。

  その様なときには、東海道でつかんだ”嗅覚”が大いに
役立ちました。
  旧街道の独特の”匂い”に敏感になり、分岐点で直感で
判断できることがありました。

「第2」の反省点は、4か月で東海道を完全踏破するという
目標をたてて、歳も考えずに1日30キロ以上のハイピッチ
で距離を稼いだことです。

  結果的に膝を痛めて、最後には1日5キロまでペース
  ダウンしてしまい、その上に治癒に半年を要しました・・

  これを踏まえ、中山道では、踏破の所要日数の目標を
決めず、無理をせずにペースを落とし、のんびりと
歩くことにしました。

「第3」の反省点は、東海道では、下調べもしないで、
がむしゃらにどんどん歩いたため、見落とした遺構などが
多々あった事です。

  中山道では、事前に、小説の「夜明け前」、「一路」、
「続膝栗毛」等の本を読んだり、中山道を踏破した
皆さんのブログをチェックしたりしました。

  この予備知識をもとに、宿場町の歴史的な遺構や風景な
を、じっくり楽しみながら歩きました。

上記の東海道の反省を踏まえて、中山道踏破をスタート
しましたが、中山道には、東海道では経験しなかった下記の
「1」~「5」がありました。

「1」:中山道の峠道は厳しい山道の連続でした。

特に、崖状の急な登り坂が続く「碓氷峠」、険しい山道が
22キロもある「和田峠」、自動販売機も無い20キロ
もの「十三峠」は、ホントの難所でした。

「2」:中山道には、交通の不便な区間があり、鉄道はおろか
バス路線もない区間もありました。
特に、望月宿~和田宿間は、中山道と並行する電車やバス
の無い交通機関の空白地帯でした。

従って、東海道のときはガムシャラに歩けば京都に着き
ましたが、中山道は、事前に僅かな本数の路線バスの
時刻等を調べて、踏破の作戦を練る必要がありました。

「3」:中山道には、東海道と違って、江戸時代の雰囲気を
漂わせる多くの宿場町が残っていました。

そして、芦田、奈良井、木曽福島、妻籠、細久手の宿場町
では、江戸時代の旅籠に宿泊して、昔の旅人気分を満喫
しました。


  また、板鼻、下諏訪などの本陣跡には、ご子孫の方が
  住んでいらっしゃって、先祖から伝え聞いたという、
  和宮降嫁の際の生々しい様子などを、直接お聞き出来て、
  歴史を非常に身近かに感じました。

  そして、どの宿場町でも、私のために説明の時間を割いて
  くれた宿場毎の親切な皆さん、この郷土を愛する宿場町の
  皆さんのお蔭で、楽しい旅が出来ました。

「4」:木曽路の長~い街道は、木曽川沿いの美しい
心洗われる風景が延々と続きました。

  途中の各宿場町も、時代に取り残された様なうっとりと
  する雰囲気で、心が休まり癒されました。  

  名もない集落が点在する木曽川沿いの素敵な木曽路は、
  もう一度、歩きたいと思っています。



「5」:中山道の山道では、常に熊除けの鈴とラジオを携帯
して、鳴らしながら歩きました。

  また、峠道には、いたる所に熊除けの鐘が設置されて
  いました。

  でも、ブログ上では、熊、猪、マムシ等の出没情報に
  ついて、少し大袈裟に騒ぎ過ぎたかなと思っています

  確かに宿場町での熊の目撃情報は多くありましたが、街道
  歩きの人が熊に襲われたという情報は無かったので、本音
  では安心して歩いていました。

また、中山道は、江戸時代から続く街道沿いの食べ物、和宮
降嫁のお祭り、関ケ原の古戦場巡りなど、楽しいことが
盛りだくさんでした。

そして、東海道に続いて中山道も、完全に歩き通した事は
大きな達成感と自信に繋がり、私自身の気持ちのうえで、
中山道のゴールインは大きな区切りになりました。
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中山道を歩く(67-2:守山:守山からゴールの草津へ)  滋賀県守山市  5km    2016.4.20

2016-07-25 18:52:15 | Weblog

(写真は、中山道と東海道の合流地点にある草津の「追分道標」:右側が京都方面、左側が江戸方面)
(写真手前の道が中山道、右側の奥から手前への道が東海道。)

「閻魔堂」から、暫くは、住宅街の中の長い直線道を歩いて
行きます。



やがて、中山道は、栗東(りっとう)市に入り、左手に、
大宝年間(701~704)の創建という「大宝神社」の
森が見えて来ます。


神社の鳥居の奥は公園になっていて、その公園の中に「芭蕉
句碑」とその説明の碑が立っていました。



”へそむらの まだ麦青し 春の暮れ”
(「へそむら」は、江戸時代に立場だった近くの「綣(へそ)村」を指しています。)



大宝神社の前の「佛眼寺の地蔵堂」の中を覗いてみます。


説明板によると、このお地蔵さまを川から拾い上げたときに、
寒かっただろう、と頭から綿を被せたので”綿被り地蔵”
というそうですが、お地蔵様は何も被っていませんでした?



佛眼寺の地蔵堂を過ぎて、暫く殺風景な道路を歩いて行くと
草津市に入ります。





間もなく、中山道の案内図があったので、これに従い、
JR東海道線の高架下の小さなトンネルをくぐって、
東海道線の反対側に出ます。







東海道線と並行して暫く歩き、高速道路のガードをくぐると、
その先に、国の重要文化財の「伊砂砂(いささ)神社」が
ありました。


伊砂砂神社を出て、草津市の街中を進んで行きます。






更に進んで、草津駅へ向かう道路との交差点を渡ると、
中山道は、「きたなか商店街」のアーケードに入りました。





この商店街のアーケードを通り抜けた所にトンネルがあり、
これを抜けると草津宿です!


トンネルの上は、草津川の川底です!



トンネルの出口の左手に、下の写真の追分道標があり、ここが草津宿の入り口です。




追分道標には、「左 中仙道みのみち、右 東海道いせみち」
と刻まれており、ここで中山道と東海道が合流します!

守山宿から草津宿までは、5キロです。



さて、ここで問題です。

「中山道の終点」は、「京都」でしょうか、それとも「草津」でしょうか?

もしも草津が終点ならば、私の「中山道踏破の一人旅」も、
ここでめでたく完了なのですが・・・

実は、このところ、中山道のゴールを何処にするか、①~③の選択肢で悩んでいました。

①草津から京都まで東海道と同じルートをもう一度歩く。

⇒ 同じルートを同じ史跡を見物しながら再び歩くという
のは、余程、お気に入りのコースでない限り、やる気
が出ないなあ~・・・

②草津から京都に小関越えを入れて異なるルートを歩く。

③東海道と中山道の合流点の草津をゴールにする。

⇒ 東海道を歩いたことが無くて中山道を歩く人は、当然、
草津をゴールにしないで京都まで歩くんだろうなあ~・・

  しかし、既に東海道を踏破した皆さんは、この後どう
  しているのかなあ~?

先般、JR東日本主催の「東海道と中山道の楽しみ方講座」に出席しました。

その際、講師の先生に、”中山道の終点”は京都ですか?、
それとも草津ですか?、という質問をしてみました。

講師の回答は、「中山道の終点は正しくは草津です。従って
中山道69次ではなくて、正しくは中山道67次です。」
とのことでした。

そこで、私のこの中山道歩きは、取り敢えず、”草津を
ゴール”とすることに決定しました!

蛇足ですが、このときのJR東日本の講座の趣旨は、
「東海道”53次”は広重が間違えて広めたもので、
大阪までの東海道”57次”が正しい。」というもの
でした。

この講師の説明だと、確かに、家康が東海道を整備したとき
は、京都までの”53次”でした。

これは、当時、未だ大阪には敵方の豊臣秀頼が頑張っており、
大坂は危険地帯だったので、このときは東海道を安全な京都
迄としたそうです。

しかし、大坂の陣で豊臣が滅んだその年に、東海道は大阪まで
伸ばされて”57次”になりました。

従って、広重の時代も含めて、江戸時代の大部分の期間は、
東海道”57次”だった、というのが講座の趣旨でした。

同様の趣旨で、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の最終編
(8編)は、京都ではなくて大阪で終わっています。


ps.
この「中山道を歩く」のブログでは、「続膝栗毛」の弥次さん
と喜多さんのエピソードについて色々とご紹介してきました
が、最後に、面白い話しを一つご紹介します。

「東海道中膝栗毛」の完結編(8編)が出た5年後に、
「東海道中膝栗毛(発端)」が出版されますが、その
中で、弥次さんと喜多さんの”関係”が次の様に暴露
されています!


”弥次さんは、駿河府中の商人でしたが、旅役者の華水
多羅四郎(はなみずたらしろう)一座の「鼻之助」という男
が好きになり、江戸で”同棲”します。

そして、この「鼻之助」とは、何と!「喜多さん」のこと
だったのです!”
この弥次さんと喜多さんの”関係”については、「真夜中の
弥次さん喜多さん」として、宮藤官九郎が映画化したので、
ご存じの方も多いかも知れませんが・・・

そして、「東海道中膝栗毛」が完全に終わっても、その人気は
衰えず、「続膝栗毛」として、『木曽街道』と『中山道中』
の他にも、「木曽路から善光寺道中」、「金毘羅参詣」、
「宮島参詣」、「善光寺道中」、「上州草津温泉道中」が
出版されました。
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中山道を歩く(67-1:守山:宿場町) 滋賀県守山市 2016.4.20

2016-07-24 11:40:46 | Weblog

(写真は、元総理・宇野宗佑の実家の酒屋。)


野洲川に掛かる野洲川橋を渡り、守山宿に入ります。
守山宿は、京を発った旅人の最初の宿泊地として繁盛
しました。
守山宿は、細長い宿場町で、「吉見」、「守山本宿」、
「今宿」と、3つの宿場町から成り立っていました。
守山宿の中程に、「守山寺 東門院」があり、これが「守山」
の名前の由来だそうです。



宿場町を少し歩くと、直ぐ左手に「帆柱観世音 慈眼寺」、
「薬師如来」と刻んだ石柱があり、その奥に「伝教大師」
建立といわれる下の写真の「慈眼寺」が見えます。

伝教大師(最澄)が、唐から帰国の途上、日本海が荒れて
遭難しそうになったとき、海上に十一面観世音菩薩が
現れて風波が静まり難を逃れました。

帰国後、伝教大使が、海難で折れた船の帆柱で「帆柱観世音」
像を彫って祀ったのが始まりだそうです。

守山宿の宿場町を歩いて行くと、暖簾に「うの家」と書いた
下の写真の大きな家があります。

「うの家」は、”指3本”※で、世界的に?有名になった
元総理の「宇野宗佑」の実家の酒屋だそうです。

 ※ ”これで愛人にならないか、と指を3本(月30万円)
    立てた”
   ⇒この女性スキャンダルのために、宇野総理は在任期間
    僅か69日で総理を辞任しました。


更に進むと、右手に天満宮、左手に「本陣跡」の石標と古井戸があります。



説明板によると、ここの「本陣」は、謡曲「望月」の舞台となった「甲屋」だそうです。
(謡曲「望月」は、信濃の住人・安田荘司友春の妻子が、元
家臣である甲屋の主人・小沢刑部友房と共に、仇敵の望月
秋長を討つ、という架空の物語だそうです。)

甲屋には、皇女和宮も宿泊しました。

甲屋の先の道が交差する角に、1744年に立てられた石の道標があります。
  
右は、美濃(岐阜)へ続く中山道で、上の写真の様に、
「右 中山道 並び 美濃路」と刻まれています。
左は、錦織寺を経由して琵琶湖の木浜(このはま)へ通じる道
で、「左 錦織寺 四十五丁 このはまみち」と刻まれています。

中山道は、この先、左にカーブしますが、ここに「東門院」があります。

正式名称は「比叡山 東門院 守山寺」で、伝教大師が比叡山
に延暦寺を建立したときに、東方の鬼門を守るためにこの
守山寺が建立されたそうです。

山門の両脇には、上の写真の仁王像があり、中央には
「東門院」と書かれた浅草の雷門の様な大きな提灯が
下がっています。

東門院は、また、朝鮮通信使の宿でもありました。

山門をくぐると、下の写真の大きな蛙の石像がありました!

守山寺は”守山の正倉院”と言われる程で、宝塔、法篋印塔
などの数多くの文化財を有するそうです。


「東門院」の隣には、上の写真の旧旅籠・門前茶屋「かたたや」(堅田屋)があります。

また「東門院」の向いに、下の写真の「街道文化交流館」があったので、中に入ってみます。

ここで、ボランティアのおばさんに、守山宿の見どころに
ついて、色々と教えてもらいます。

文化交流館を出て少し進むと「土橋」があり、この橋で、吉川
(境川)を渡ると、守山宿の中の3つ目の宿である今宿です。

広重「木曽海道69次之内 守山」は、この「土橋」を渡った
位置から、守山本宿と今宿の間を流れる吉川越しに、守山本宿
を望んで描いています。

背後の緑色の山は、近江富士と呼ばれた三上山です。
中央右の茶店には縁台に腰掛けている旅人、その右の茶店には
床に座っている客待ちの下女などが描かれています。
通りを歩いているのは、左から、天秤で商品を担いだ行商人、
馬を引く馬子と馬に乗った武士、長持を担いだ2人の人足など
です。

「土橋」を渡ると、直ぐ右手に、石灯篭が並んでおり、その
奥に「樹下(じゅげ)神社」の鳥居が見えます。




神社の本殿の手前には、「太神宮」と刻まれた大きな
「常夜灯」があり、「願主 天保二年辛卯9月伊勢屋佐七」
と刻まれています。



樹下神社を出て、雰囲気のある町並みを歩いて行くと、左手に
下の写真の「今宿の一里塚」があります。

案内板によると、滋賀県下で一里塚が残っているのはここだけだそうです。
写真の榎は、江戸時代後期の樹だそうです。

今宿の一里塚を過ぎ直進すると、左手に「住蓮房(じゅうれん
ぼう) 母公墓」の石碑が立っています。

武佐宿の「住蓮坊 首洗い池」で説明しましたが、「住蓮坊」
は、浄土宗の開祖「法然上人」の弟子でした。

当時、「法然上人」の念仏人気が爆発的に高まり、宮廷の女官
の中にも信者になる者があらわれました。
そして、後鳥羽上皇が寵愛した二人の女官も、「住蓮坊」に
帰依して尼になってしまいました。

それに怒った後鳥羽上皇は、「法然上人」を隠岐に流罪にし、
弟子の「住蓮坊」を「住蓮坊首洗い池」で斬首しました。

息子の住蓮坊が捕えられ処刑されることを知った「住蓮坊の
母」は、 一目会いたいと、京からここまで来ますが、既に
斬首されたと聞き哀しんで、ここ「閻魔(えんま)堂」の
池に身を投げました。

可哀想に・・・

その「閻魔堂」は、「住蓮房母公墓」の先のお寺にあり
ました。

上の写真が「十王寺 閻魔堂」で、閻魔堂の門の右側に「閻魔
法王 小野篁(たかむら)御作」の石柱、 左側に「五道山
十王寺」の石柱が立っていました。

十王(じゅうおう)とは、人間の死後の世界で生前の行いを
裁く王のことで、閻魔大王を指します。



閻魔堂の向いには「諏訪神社」があり、境内には、下の写真の
境界石があり、「従是南 淀藩領」と刻まれていました。


これは、この「閻魔堂」付近が、山城国の淀藩(10万2千石)
の飛び地領であった事を示す境界石です。
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中山道を歩く(66:武佐) 滋賀県近江八幡市 16km 2016.4.20

2016-07-24 09:14:11 | Weblog

(写真は、斬首された法然上人の弟子の住蓮坊の首を洗った池。)
「泡子延命地蔵」から水田地帯を2キロほど歩いて「武佐宿」に入りました。
「武佐」とこの近くの「近江八幡」は、地域的には一体で、
武佐は旅人で、近江八幡は商人で賑わっていたそうです。

武佐宿に入ると、先ず、宿場町の入口を示す「大門跡」の説明板がありました。

大門跡の先に、宿場町の氏神様である「武佐神社」があり、
その脇に「高札場」跡の案内板がありました。

武佐神社の先にある下の写真の冠木門は、武佐宿の「脇本陣
跡」で、現在は、武佐町会館になっています。




武佐町会館の先には、元旅籠屋だった「中村旅館」と「旧八幡
警察署・武佐分署」があります。




中村旅館の向い側が、上の写真の「本陣跡」で、その先の
十字路の角に、下の写真の「いせ みな口 ひの 八日市
 道」と刻まれた道標が残っています。

この十字路は、「八風(はっぷう)街道」と中山道との追分
で、八風街道は、八日市から東海道の水口(みなくち)を
経て、鈴鹿の八風峠を越え、伊勢へ向っていました。


その道標の先に、上の写真の「愛宕山の常夜灯」と、武佐
小学校の卒業生が作った下の写真の「松平周防守陣屋跡」
の案内板がありました。


以下は、武佐宿の町並みです。










少し歩いて行くと、中山道が右に急カーブするところの左側
に、近江鉄道・武佐駅があり、その前にも、武佐小学校の
卒業生が作った「高札場跡」の様案内板がありました。


ここが武佐宿の外れです。


武佐駅の脇の踏み切りを渡り、少し歩くと西宿村の集落に入ります。

集落に入ると、直ぐ右手奥に「若宮神社」がありました。




その若宮神社の横に、中山道に面した広々とした公園があり
ました。

この広々とした公園が、「伊庭貞剛(いば さだたけ)邸」の広大な敷地跡でした。

「伊庭貞剛」は、ここ近江八幡市西宿村の生まれで、「住友
財閥」に入社し、「別子銅山」を立て直して「住友中興の祖」
と仰がれました。

ここ武佐宿や一つ前の高宮宿の周辺は、近江商人が最も多く、
現在の日本を支える大手商社の「伊藤忠商事」と「丸紅」の
創始者、「住友商事」の中興の祖を排出している訳ですから、
ホントに凄い土地柄です!!



西宿村の大きな家々を見ながら歩いていくと、中山道は
国道8号に合流、ダンプの風圧に耐えながら歩いて
行きます。





やがて六枚橋の信号で左折して、国道8号から離れ、静かな
住宅地に入ります。

少し歩くと、「六枚橋」バス停の先の右手に小さな公園が
ありました。

その小さな公園の脇に、写真の「住蓮坊」(じゅうれん
ぼう)首洗い池」がありました。



「住蓮坊」は、浄土宗の開祖「法然上人」の弟子でした。

当時、「法然上人」の念仏人気が爆発的に高まり、宮廷の女官の中にも信者になる者があらわれました。

そして、後鳥羽上皇が寵愛した二人の女官も、住蓮坊に帰依
して尼になってしまいました。

それに怒った後鳥羽上皇は、「法然上人」を隠岐に流罪にし、弟子の「住蓮坊」をここで斬首しました。

そして、住蓮坊の首を洗ったのがこの池です。
怖っ~・・・


首洗い池を出て、更に中山道を進むと、再び国道8号に合流
しました。


国道8号暫く歩いて行くと、Y字路の右角に、八幡神社と
高札場跡がありました。




中山道は、このY字路の右手の雰囲気のある集落の中へと
入って行きます。





その集落が途切れると、水田地帯になり、横関川(日野川)の堤防へ向かいます。



堤防のうえには、上の写真の広重「木曽海道69次之内 
武佐」の案内板が立っていました。

ここが「横関川 渡し場」跡だということですが、竹藪が
生い茂っていて川が見えません・・・


広重は、ここの舟乗り場からの対岸の眺めを描いたそうです。

横関川は、通常は舟渡しでしたが、水量が少ないときは、この
浮世絵の様に、2艘の舟の上に板を渡していました。

舟の橋の中ほど右手は、葛籠(つづら)とゴザを背負った腰の
曲がった老人で、その後は風呂敷包みを背負った旅人です。

対岸からこちらに渡ってくるのは巡礼の夫婦で、夫婦の向こう
には天秤棒を担いだ子供が描かれています。



この広重の案内板から、迂回して対岸の中山道に向かうため
に、左側の土手を歩いて行きます。

そして、横関川に掛かる横関橋を渡ります。





橋を渡り終えると、直ぐ右に折れて、対岸の土手を歩いて行きます。

土手の道には、中山道の表示がない分岐点が何か所かあり、
その都度、迷いながら疑心暗鬼で進みます。

かなり歩いたところで、西横関の信号に出て、国道8号に合流しました。
ホッ・・・、やれやれ・・・

西横関の交差点の角には、「是よりいせ道 みなくち道」の
道標がありました。

西横関の信号から、国道8号を、守山宿方面へ向かいます。





ダンプが次々と通る国道8号を守山宿方面へ進み、善光寺川を渡ります。
やがて、間の宿(あいのしゅく)の「鏡」に入り、国道8号は上り坂になります。

国道8号沿いには、江戸時代の屋号や、「義経宿泊の館跡」
などの説明板が続きます。
「義経宿泊の館跡」の説明板によると、義経は、お供の金売り
吉次と、ここに宿泊しました。
その夜、野盗が押し入りますが、義経はこれを退治したそう
です。





国道8号は上り坂が続きますが、やがて左手に「鏡の里 道の駅」がありました。

お昼過ぎでお腹が空いたので、ここで、写真の「義経御膳」(1,800円)を食べます。
この料理が何故、”義経”御膳なのかよく分かりませんでした
が、食事を終わって外へ出ると、国道8号沿いの道の駅の斜め
向かいに、下の写真の「義経元服の池」がありました。



説明板によると、源義経は、東下りの途中、ここ鏡の宿で元服
の儀を行いましたが、その時に使ったのがこの池の水だった
そうです。

義経元服の池から、国道8号を少し戻ると、「鏡神社」がありました。

参道の石段を上った所に、鏡神社の神殿がありました。(国重要文化財)



参道の途中に、上の写真の様に、松の切り株に屋根を付けた
ものがありましたが、これが「源義経 烏帽子掛けの松」
でした。

元服の池で元服した牛若丸(義経)は、この松に烏帽子を掛け
鏡神社へ参拝し、 源九郎義経と名乗りを上げて、源氏の再興
を祈願したそうです。


鏡神社の先で、中山道は直ぐに左側の細い道に入ります。


道なりに進むと、”おのりやす”と書かれたコミュニティバスの停留所がありました。
ps.
「おのりやす(野洲)」は、ここ「野洲」の地名をかけた
京都弁の洒落言葉だと、先程、地元のKTさんからコメント
を頂きました。

中山道の面影が残る静かな道は、直ぐに国道8号に合流
します。


その合流地点に「蛙(かわず)鳴かずの池」があります。

平家一門は壇ノ浦の合戦で破れ、総大将の平宗盛は源義経に
捕えられます。

その後、平宗盛父子は、ここ篠原の池で斬首され、首だけが
京都に運ばれました。

平宗盛父子が、余りにも哀れで、この池の蛙が鳴かなくなった
ので、「蛙鳴かずの池」と呼ばれる様になったそうです。

可哀想・・・


単調な国道8号を、ダンプの風圧に耐えながら、更に進むと、
左側に土手があり、土手の向こう側には「西池」という
大きな池がありました。


更にどんどん歩いて行くと、中山道は、国道8号から右手の
静かな道に入ります。



直ぐ右手に、石碑とその両脇に常夜灯がある小公園があった
ので、ここで一休みします。



小公園を出て、新家棟川(しんやのむねがわ)を渡って、
道なりに進みます。





やがて、右手に下の写真の「子安地蔵」がありました。




子安地蔵の先の左手には、下の写真の「桜生(さくらばさま)
史跡公園」(甲山古墳)の丘があります。


暫くの間、中山道を道なりに歩いて行きます。










間もなく、新幹線のガードをくぐります。




新幹線のガードの先が十字路になっているので、これを
左折し暫く直進すると、右手に野州小学校がありました。

小学校の脇に写真の「中山道 外和木の標(そとわぎの
しるべ)」の説明板がありました。

これによると、ここ小篠原字外和木は、朝鮮人街道と中山道の分岐点だったそうです。

更に中山道を道なりに歩いて行くと、交差点の左角に、下の
写真の「背くらべ地蔵」がありました。

説明板によると、
当時は乳児がよく死んだので、子を持つ親たちが、「我が子も
このお地蔵さんくらいになれば、後は良く育つ」と背くらべを
させたので、「背くらべ地蔵」と呼ばれる様になったそうです。

右の小さな地蔵が「背くらべ地蔵」で、左は阿弥陀如来です。



この先で東海道線のガードをくぐり、やがて野洲川に
近づくと、 右手にお堂があり、その道路向かい側に、
地蔵尊がたくさん積まれています。





正面は野洲川に掛かる野洲川橋です。

橋の上からは、近江富士と呼ばれる下の写真の「三上山」が
見えます。

「野洲川」は、水量が少ない時は徒歩渡りでしたが、水量が
多い時は舟渡しだったそうです。

橋を渡り終えると、いよいよ守山宿に入ります。

武佐宿から守山宿までは、長丁場で16キロもありました。
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中山道を歩く(65:愛知川) 滋賀県愛知郡   11km 2016.4.19

2016-07-23 02:19:15 | Weblog

(写真は、平将門の首を洗ったので水が濁って飲めなくなったという不飲川に掛かる「不飲橋」) )
宇曽川にかかる「歌詰橋」を渡ると愛知川(えちがわ)宿に入ります。

歌詰橋を渡り終えた場所に「歌詰橋」の由来が書かれた案内板がありました。

それによると、
東国で「平将門」の首を上げた藤原秀郷が、ここまでやって
来たときに、目を見開いた将門の首が追いかけて来ました。
そこで、秀郷が将門の首に、”歌を一首!”と言うと、歌に
詰まった将門の首は、この橋詰に落ちました。

以来、この橋は「歌詰橋」と呼ばれる様になりました。

う~ん!、平将門は、歌に詰まるほど教養がなかった、
という事なのでしょうかねえ?


橋を渡って暫く歩くと、「沓掛」(くつかけ)集落に入って
行きます。

やがて、道が左右に分かれますが、中山道の矢印に従って右の
道を進むと中宿に入ります。



そして「中山道 愛知川宿」入り口のゲートをくぐります。

ゲートの少し先に上の写真の「愛知川宿北入口」の石碑が
ありますので、多分、正式にはここから宿場が始まって
いたのでしょう。

「愛知川宿」は、いわゆる”近江商人発祥の地”の一つで、
江戸時代には近江商人達の行き来で賑わっていました。




しかし、現在は、僅かに蔵が残る程度で、宿場町の面影は
ほとんどありません。



更に進むと、「親鸞聖人御旧跡」を示す道標があり、その奥
には、旅の途中で親鸞聖人が宿泊したという「宝満寺」が
あります。



親鸞聖人の道標の先に「本陣跡」と八幡神社があります。



八幡神社の常夜灯の脇に「高札場跡」の石碑があり、この辺り
が愛知川宿の中心でした。




高札場跡の先には、上の写真の元旅籠の料亭「竹平楼」が
あります。

竹平楼の先には、「不飲川」(のまずがわ)と呼ばれる小さな川が流れています。
「不飲川」の名前は、この川の上流で「平将門」の首を洗った
ので、水が濁って飲めなくなった、という話に由来します。
怖っ~・・・
不飲川を渡ると、直ぐその先に、「中山道 愛知川宿」の
ゲートがあり、「愛知川宿」は、もう、ここで終わりです。


「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、弥次
さん喜多さんは、愛知川宿と次の武佐宿の間にある「間の宿
(あいのしゅく)」の「清水が鼻」まで来たところで夜に
なってしまいます。
仕方なく、むさ苦しい小さな木賃宿に泊まります。

亭主「お二人は、荷物がないうえに汚い身なりなので、お伊勢
   さんの”抜け参り”の「柄杓(ひしゃく)ふりの乞食」
   (注)だと思いましたよ。大変、失礼しました。」
(注)柄杓ふりの乞食:江戸時代には、一生に一度に限って、
   雇人や子供が、主人や親に無断で、伊勢神社参詣の旅に
   出る事を許される習慣がありました。
   これを”抜け参り”と言い、手に柄杓を持って、銭や米
   を入れて貰いながら、乞食の姿で旅を続けました。

馬鹿にされた弥次さんは、仕返しをしてやろうと、拾った石を
紙に包んで金に見せかけ、小銭入れの財布の中に入れます。

弥次「おい、亭主、明日の朝までこの小銭入れを預かって
   くれ。」
亭主「ヤァヤァ、こんな大金を預かったら、心配で今夜は
   眠られないからダメだよ。」
弥次「いや、金を持って寝るのは不用心だから預かって
くれ。」
亭主「それでは、この天井から釣った仏壇の中に入れておく
   ので、明日、取り出して出掛けて下さい。」

その夜、木賃宿の夫婦は寝ながら話をしています。

亭主「夕食で、茗荷(みょうが)料理をたくさん食べさせた
   ので、明日の朝は、多分、仏壇の金を置き忘れて
   出掛けるよ。」
女房「それでは、質に入れている着物を出してきますね。」
(注)茗荷料理:江戸時代には、茗荷を食べると忘れっぽく
   なると信じられていました。

翌朝、弥次さん喜多さんは、世話になった礼を言いながら宿を出て行きました。

女房「アレッ、仏壇の金をいつのまにか持って行ってしまい
   ましたよ・・・」
亭主「金は持って行ったが、忘れて行った物があるぞ!」
女房「何を忘れて行ったんですか?」

亭主「宿賃を払うのを忘れて行った・・・」

弥次さんは、仕返しが成功して笑いが止まらず、街道を歩き
ながら一句、
”宿賃を 忘れて来しは 名物の 冥加至極(みょうが
 しごく)の しあわせしあわせ”

(ここの名物の茗荷のおかげで、宿賃を忘れて来たのは、神仏
 の冥加のおかげで幸せだ。
 冥加は神仏の助けのことで冥加と茗荷を掛けています。)



愛知川宿を出ると、中山道は国道8号線と合流、ダンプの風圧に耐えながら歩いて行きます。







やがて、 左手に祇園神社があり、その向こうは、一級河川「愛知川」(えちがわ)です。





広重の「木曽街道69次乃内 恵知川(えちがわ)」は、この
「愛知川」に掛かる「無賃橋」を描いています。
浮世絵の右端には、「むちんばし、はし銭いらず」と書かれた木柱が立っています。

中央は、深編笠を被った白装束の2人の虚無僧と、赤い上着を着た女の牛飼いです。
そして、右手は、葛籠(つづら)を背負いその上に赤子を
乗せた男です。


「愛知川」の橋を歩き渡り終えると、直ぐに左折して近江鉄道
の踏切を渡り、常夜灯の先を右折して「五個荘」(ごか
しょう)の町に入ります。


少し歩くと下の写真の道標があり、「右 京みち  左いせ ひの 八日市 みち」とあります。

左は、八日市・日野を通り、東海道の土山宿を経由して、伊勢
へ参詣した道で、公卿に代わって代参を勤める人々が使用した
ので、「御代参(ごだいさん)街道」と呼ばれたそうです。

やがて、下の写真の”太神宮”と彫られた常夜灯の前で道は
左右に分かれますが、ここを右折して進みます。

突当りを左折し、少し歩くと五個荘町役場があり、その前
には、下の写真の様に松が1本だけポツンと残っています。



その先は、幕末から続く”鋳物師”の「西澤家」で、玄関
には、上の写真の様に、大きな梵鐘(ぼんしょう)が
置かれています。


やがて水田地帯になり、その水田の脇に「左 いせ 
右 京道」と刻まれた大きな常夜灯が立っています。



更に進むと、呉服繊維商として京都大阪で活躍した上の写真
の「市田庄兵衛」の京町屋風商家の本宅がありました。



暫く歩くと国道8号に合流しますが、その合流点には上の写真
の「てんびんの里」の大きなモニュメントがありました。

この辺りの「五箇荘」は、「てんびんの里」とも呼ばれ、
財をなした近江商人の豪邸が並んでいることで知られて
います。
近江商人は、天秤棒(てんびんぼう)を担いで、近江の産物を
他国へ売り歩き、その他国の品を天秤棒で担いで帰り、上方で
売りさばいたそうです。

中山道は、直ぐに国道8号から右折して細い道を進み、「清水
鼻」の集落に入ります。






ここには、上の写真の「清水鼻の名水」があり、当時、旅人の
喉を潤していましたが、今も綺麗な清水が流れ出ています。
清水鼻は、当時は立場として賑わい、前回のブログでは、
弥次さん喜多さんも、ここの木賃宿に泊まり、宿賃を踏み
倒しました・・・



清水鼻の名水から、更に進むと三叉路があるので、そこの左の
道に入って行くと、やがて国道8号線に合流しました。



国道8号沿いに、新幹線と並行して暫く歩き、新幹線の高架を
くぐると、左手に奥石(おいそ)神社の標識があるので、標識
に従って8号線を左折します。



やがて、右手に奥石(おいそ)神社の参道があり、参道を進む
と鳥居の先に、織田信長が寄進したという「奥石神社」の本殿
(国重要文化財)がありました。

神社の周りは、「老蘇(おいそ)の森」で、昔は現在の数倍の
広さがあったそうです。

老蘇の森の入口に、「中山道 陣屋小路」の石柱があった
ので、矢印に沿って進んでみると、下の写真の江戸時代の
「根来陣屋」の跡がありました。

その説明板によると、 鉄砲で武装し傭兵集団として活躍した
「根来衆」(ねごろしゅう)は、家康の家臣となりました。
数々の戦功を立てた根来衆は、1633年、ここに領地を拝領
しました。

根来陣屋から中山道へ戻り先に進むと、左手に上の写真の
「杉原医院」があり、案内板によるとこの医院の裏手に
「杉原氏庭園」(県指定文化財)があるそうです。


更に、中山道をどんどん直進して行くと、やがて、小さな川の
横に、上の写真の「泡子延命地蔵御遺跡」がありました。
その説明板によると、茶店の娘が、旅の僧に恋し、僧が飲み
残したお茶を飲んだところ、身ごもり男の子を生みます。
三年後に、再びこの僧が現れ、僧が子に息を吹きかけると、
子は泡となって消えてしまいました。
この話は、醒ヶ井宿の「西行水」にあった「泡子塚」と同じ
内容で、ここでは少し違って伝わっている様です。



中山道は、ここから、水田地帯を2キロほど歩いて行くと
武佐宿です。

愛知川宿から武佐宿までは、約11キロです。
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中山道を歩く(64:高宮) 滋賀県彦根市 8km 2016.4.19

2016-07-23 01:18:07 | Weblog

(写真は「一の鳥居常夜灯」の灯をともす小窓への長い石段)

高宮宿は、彦根城下の商業都市として繁栄するとともに、
「多賀大社」の入口として大社詣での人々で賑わいました。

更に、高宮の周辺で生産されていた”高級品の麻布”である
「高宮布」の集散地としても有名でした。


「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、弥次
さん喜多さんも、高宮宿の商人に「高宮布」を薦められます。
商人「私共は高宮のえびす屋でございます。名物の高宮の
縞(しま)に晒し(さらし)の布を安くしますよ。」

弥次「いや、そんな物は要らないよ。」

商人「買わなくても結構ですので、まあ、腰掛けてお茶でも
   召し上がって下さい。」

弥次「いや、もう金がないので無理だよ。何なら俺の布を
   売りたいくらいだよ。」

商人「はあ?、あなた様は晒し布を持っていらっしゃるんで?」
弥次「うん、”恥さらし”という晒し布を持っているよ。」
”買いもせず 名物の名のみ高宮に 恥をさらして 
 通る憂き旅”

(金が無くて、高宮名物の晒しも買えない憂鬱な旅だよ。
 「名物の名のみ高い」と「高宮」、「晒し」に「恥を
  さらし」を掛けています。)





近江鉄道の踏切を渡り高宮宿に入ると、最初の信号の角に、
眼病にご利益のあるという「木之本分身地蔵尊」があります。

説明板によると、お地蔵様は石造りが一般的ですが、この
お地蔵様は木彫りに彩色された珍しいもので、滋賀県長浜市
にある浄信寺の木之本地蔵の分身だそうです。
(残念ながら、お堂の中が暗くて写真は撮れませんでした。)

高宮宿の家並みは、卯建(うだつ)を上げた立派な家が多い
のが目立ちます。
直ぐ右手に「高宮神社」の鳥居が見えます。



「高宮神社」の道路を隔てた正面には、上の写真の「布惣」(ぬのそう)の建物が残っています。


その「布惣」の軒下には、江戸時代の「布惣」の建物と5つの蔵を描いた絵が掛けてあります。

その絵の説明文によると、
「布惣」では、七つの蔵にいっぱいに、高宮布が集荷されて
いたそうです。
現在は、建物の横に一つ、建物の裏側に四つの蔵が残って
ます。

「布惣」の前の高宮神社に入って行きます。

高宮神社の参道の脇の柵の中の繁みに、下の写真の芭蕉句碑が
ありました。

”をりをりに 伊吹を見てや 冬篭り”  はせお(芭蕉)

(芭蕉が、雪の多い伊吹山麓に住む門人の千川を訪ねたときの
 句で、 ”雪が舞う伊吹山を眺めながら、独り静かに冬籠り
 して過ごすとは、誠に羨ましいものだなあ。”)




高宮神社を出て、江戸時代の風情が多く残る宿場町を歩いて
ゆくと、左手の郵便局の先に、「多賀大社」の巨大な
「一の鳥居」と「常夜灯」がありました。

「一の鳥居」は、1635年の建立で、高さが11メートルも
あります!

そして、驚いたのは、この大鳥居の脇にある高さ6メートル
もの「常夜灯」です。
余りにも巨大な常夜灯なので、写真の様に、灯明をともす小窓
の位置まで、石造りの長い階段が付いています!

そして、この「多賀大社」の「一の鳥居」から、「多賀大社」
の本殿迄は、何と!参道が3キロもあります!

えぇ~?、この入口の「一の鳥居」から本殿迄は、往復6キロもあるのかあ~!

今回は多賀大社詣では見送りだなあ~・・・


「一の鳥居」の先にある上の写真の小林家の前に、「俳聖
芭蕉翁旧跡 紙子塚」の碑が立っていました。

説明板によると、1684年の冬、小林家に1泊した芭蕉は、
みすぼらしい着物(紙子)を着ていました。
泊めてもらった部屋の寒さを我慢している気持ちを芭蕉が
詠んだのが、”たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子”
寒い思いをさせて申し訳なかったと、小林家では、新しい着物
を芭蕉に送るとともに、芭蕉が着ていた古い着物(古紙子)を
頂戴しました。

芭蕉の没後に、庭に形見の紙子を埋め、「紙小塚」の碑を
立てて代々大切に守ってきたそうです。


「紙子塚」の先に、本陣の表門のみが残っている上の写真の「本陣跡」があります。


「本陣跡」の前は「円照寺」です。

境内に入ると、下の写真の石垣に囲まれた「家康腰掛石」と
「止鑾松」(しらんのまつ)という腐りかかった木の株が
ありました。

説明板によると、「腰掛石」は、家康が大阪夏の陣の帰りに
腰掛けた石だそうです。

また、「止鑾松」は、明治天皇の乗り物をこの寺に乗り着ける
ために、この松を切ろうとしたところ、天皇は松を切らない
様にと、松の手前で乗り物を止めて歩かれたそうです。

「円照寺」を出ると、もう、高宮宿の外れで、「高宮橋」が
掛かる「犬上川」が流れています。



「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、弥次
さん喜多さんが、旅の途中で道連れになった伊五右衛門の
おごりで、高宮宿の茶屋に入ります。

茶屋では、伊五右衛門の知り合いの和尚が食事をしています。

伊五右衛門「和尚、ご無沙汰しております。」
和尚「これは、畑村の伊五右衛門さんではないか。」
伊五右衛門「和尚、一杯いかがですか。旅のお二人も、一緒にお酒はいかがですか。」
弥次・喜多「ありがとうございます。」

伊五右衛門「酒がここにあるので、皆さんに振る舞い
      ましょう。」
と言って、真鍮の輪の付いた黒塗りの水筒を取り出し、皆に酒を注いで飲み始めます。

そして、皆食事もほぼ終わり、酒も回ってきたところで、
和尚「先程からとんと気付かなかったが、その水筒はどこで
   買った?」
伊五右衛門「これは、昨年京都へ行ったときに、四条の
      古道具店で求めました。」
和尚「わかった。それは下地が黒塗りで環が付いていたろう?」
伊五右衛門「その通りですが?、何か?」
和尚「その水筒の酒をうっかり飲んでしまったので、胸が
   ムカつく。」

弥次「なぜですか?」
和尚「その水筒は”完筒”というもので、公家が葬儀で急に
   もよおした時に、これに小便をするためのものじゃ。」

弥次「さあ大変!、何故、完筒に酒を入れて飲ませたんだ?、
   胸が悪くなった。吐いてしまう。ゲェ、ゲェ~。」

喜多「ゲェ、ゲェ~。」

伊五右衛門「気の毒に。とんと知らなかったのじゃ。堪忍
    してくれ。口直しに他の酒を振る舞いましょう。」

伊五右衛門が、酒と肴をいろいろと出させて詫びたので、弥次
さん喜多さんは、仕方なく、そのまま御馳走になって、一句。

”胸悪るや 公家衆のしたる小便と うってかわった 
 酒は水筒(すいづつ)”

(酒と思って飲んだ水筒の中身が、公家衆の小便に代わった
 とは、何と胸の悪いことか。)




高宮宿の外れの「犬上川」に掛かる「高宮橋」(無賃橋)を
渡ります。



江戸時代には、犬上川は水量が少なかったので、仮橋が設置
されていたそうです。

当時、大きな橋の多くは、”橋銭”を徴収するのが普通だった
ので、”橋銭”を徴収しなかったこの橋は「むちんばし」と
呼ばれました。

現在、橋の脇には、「むちんばし」と彫られた大きな道標が残っています。

その「むちんばし」碑の後に、橋を架け替えたときに橋脚から
発見されたという御地蔵様を祀ってある「地蔵堂」があります。




広重の「木曽街道69次の内 高宮」は、犬上川の南岸から、
高宮宿の家並みを望んで描いています。
絵では、川の水が少ないので、無賃橋の仮橋の橋板が取り
外されて、橋脚だけが残っています。
中央の二人の農夫は、高宮布の原料の麻の外皮を剥ぎ取った
残りのオガラと呼ばれる茎を、縦長の俵に入れて背負って
います。



無賃橋を渡り、法士(ほうぜ)町という珍しい読み方の町を
抜けると、松とケヤキの並木が見えて来て、葛籠(つづら)町
に入ります。








上の写真は、街道沿いに立てられた「つづらマップ」です。

当時は、ここは立場で、地名の通りに「葛籠(つづら)」や
「行李(こうり)」を売る店が多かったそうです。
「葛籠」(つづら)は、「舌切り雀」で、おばあさんが雀から
貰ったお礼の宝を入れて背負って帰るあの籠(かご)のことです。
葛籠町を抜けると松並木があり、下の写真の大きな3本の
モニュメントの「おいでやす彦根市へ」があります。



歩いてきた米原市と、これから歩く彦根市の境のモニュメントです。
モニュメントの上には、商人風の男、旅姿の女、麻布の原料を
入れた円筒形の長い俵を担いだ女の像が乗っています。


街道は、彦根市の「出町」の松とケヤキの並木を抜けて、次の
集落の「豊郷」(とよさと)に入ります。

「豊郷」は、江戸時代、高宮宿と愛知川宿の「間の宿」
(あいのしゅく)として立場茶屋が設けられ栄えました。

豊郷に入ると直ぐに、豊郷生まれの偉人を紹介している下の
写真の「先人を偲ぶ館」がありました。


館内を見学して、この町から、大手総合商社の「伊藤忠商事」
と「丸紅」の2社もの創始者を輩出している事を知り驚き
ました!


更に歩いて行くと、下の写真の「豊郷小学校」がありました。  

小学校の前は広大なスペースの前庭と駐車場です。

「丸紅」の番頭だった「古川鉄治郎」は、ここ豊郷町の出身で、
私財の大半を寄付して、この小学校を昭和初期に建てたのだ
そうです。

当時、この白亜の校舎は、“東洋一の教育の殿堂”と言われたそうです。

鉄筋三階建ての校舎とその前庭は、どう見ても広々とした大学
のキャンバスで、小学校には見えません! 

前庭には、大型観光バスが3台も止まっています。


この小学校は、そんなに有名な観光スポットなのかなあ~?
豊郷町には、トイレや休憩所が至る所に完備しており、街道
歩きには有難い町です!

豊郷小学校の先に、豊郷町役場があり、その左手の「くれない
園」に下の写真の「伊藤忠兵衛翁」碑がありました。



その碑には、伊藤忠兵衛の肖像が刻まれています。

「伊藤忠兵衛」は、高宮麻布の行商から身を起こし、「伊藤忠
商事」と「丸紅」を創設しました。
この辺りの豊郷は、当時、麻の一大産地だったので、 ここの
商人の多くが麻の販売で身を起こしましたが、伊藤忠兵衛も
その一人でした。


この公園の先に、前頁と下の写真の「伊藤忠兵衛の生家」が
”忠兵衛記念館”として公開されていたので入ってみます。


邸内は、忠兵衛が暮らしていた当時のままで残っていました。


(店の間)


(箱階段)

(女中部屋)

(佛間)


(奥の間)


(庭)

親切なおばさんが、丁寧に邸内を案内してくれます。

そのおばさんの話だと、伊藤忠商事に今年入社した”新入社員
150名全員”が、社員研修の一環として、ここ”伊藤忠の
発祥の地”に、間もなく到着するそうです!

”えぇ~?、おばさん、大変だ!、のんびりと私の案内なんか
している場合では ないですよ!、早く研修受け入れの準備
しないと!”

”ええ、でも、先程、全部の部屋の掃除を終わったところ
だから大丈夫!”

間もなく、大勢の新入社員が来るとあって、準備に大忙し
だったであろう案内のおばさんは、普段は非公開の「伊藤
忠兵衛の母の隠居部屋」や「離れの茶室」の室内まで
親切に案内してくれました。


(隠居部屋)


(離れの茶室)

いや~、良いタイミングで見学出来ました。

ついでに、おばさんに聞いてみました。
”「豊郷小学校」に、大型観光バスが3台も止まっていました
が、あれは何ですか?”

”あの3台の大型観光バスに乗っているのは「丸紅」の新入
社員全員なんですよ。”

”?”

”毎年、「丸紅」の新入社員研修は「豊郷小学校」、「伊藤
忠商事」の新入社員研修は「伊藤忠兵衛の生家」と決まって
いるんですよ。”

”へ~!、そうだったんだあ~。”


伊藤忠兵衛の生家を出て、更に進むと、右手に石で囲った
上の写真の「金田池」の井戸がありますが、江戸時代には、
ここの名水が旅人の喉を潤したそうです。


金田池の先に、上の写真の「又十屋敷」がありますが、ここは
豪商・藤野喜兵衛の屋敷跡です。

藤野喜兵衛は、「又十」の商号で、江戸時代から明治時代に
かけて、北海道で漁業や廻船業を経営した大豪商で、
「あけぼの印の缶詰」の創始者です。

また、又十屋敷の入口には、上の写真の「中山道一里塚跡」
の碑がありますが、これは、豊郷町石畑にあった石碑を移設
したのだそうです。



又十屋敷の先には、上の写真の「江州音頭発祥の地」という
碑が見えて来ます。
この碑の奥にある千樹禅寺のお経に節を付けて踊ったのが
江州音頭の始まりだそうです。

その先に歌詰橋があり、歌詰橋を渡ると、もう愛知川宿です。

高宮宿から愛知川宿までは、約8キロです。
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中山道を歩く(63:鳥居本) 滋賀県彦根市 6km 2016.4.18

2016-07-22 02:10:03 | Weblog

(写真は、胃腸薬「赤玉神教丸」で有名だった「有川家」)

早朝に新横浜から新幹線に乗り、前回のゴールである近江鉄道の鳥居本駅へ向かいます。

新横浜(6:46)→(新幹線)→(8:48)米原(9:01)→(近江鉄道)→(9:07)鳥居本

鳥居本(とりいもと)駅で降りて、駅のホームの構造を確認します。


近江鉄道は単線で、鳥居本駅は、駅のホームを挟んで上下の
線路が両側にある”島方式”でした。

上の写真の鳥居本の可愛い無人駅舎を出て、いったん宿場の
入口まで引き返します。


鳥居本宿から1里(4キロ)の所に、井伊直弼の居城・彦根城
があり、鳥居本宿は中山道の旅人だけでなく、彦根城下を行き
交う人々でも賑わいました。

また、次の宿場町の高宮宿には、古くから信仰を集めていた
多賀大社があり、鳥居本宿は大社詣での人々でも賑わいました。

「鳥居本」の地名は、昔は多賀大社の大鳥居がここにあり、
鳥居本宿が多賀大社の参道の入口だった事に由来するそうです。


鳥居本宿に入ると、街道は直ぐに左に鉤型に折れますが、その角に「有川家」があります。

上の写真は有川家の正面で、冒頭の写真は有川家を側面から
撮影したものです。

有川家は、江戸時代から「赤玉神教丸」という胃腸薬を製造
販売(1658年創業)しており、現在もそのままの姿で薬の
営業をしています。
江戸時代に於ける「赤玉神教丸」の人気は凄く、ここを通る
旅人は必ず買い求めたそうです。

ちなみに、富山の薬「赤玉」も、ここが元祖だそうです。

江戸時代には、「有栖川宮家」からも出入りを許されており、
「有川家」も「有栖川」から名前をもらったという由緒ある
家柄です。

従って、皇女和宮や明治天皇も立ち寄って休息されました。


「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)でも、弥次さん喜多さんが、ここに立ち寄って一句、

”もろもろの 病(やまい)の毒を消すとかや この赤玉の 珊瑚珠(さんごじゅ)の色”

(珊瑚の珠と同じ色のこの赤玉も、もろもろの病の毒を消す
 そうな。珊瑚珠には毒を消す力があるとされていました。)



この有川家の左手の細い道を入って行くと、国道8号の向い側
に、上の写真の様に、右手に「上品寺」、左手に歌舞伎で
有名な「法界坊の鐘」が見えます。

この「法界坊の鐘」には、資金集めに協力した遊女らの名前が
刻まれていることから、歌舞伎の世界では、法界坊が”遊女
との恋に溺れる破戒僧”として登場します。
(歌舞伎「隅田川 続俤(ごにちのおもかげ)」)

しかし、この寺の7代目住職である法界坊は、実際は、江戸で
苦労して資金を集め、上品寺の釣鐘を作り、大八車でその釣鐘
をここまで運んだ真面目な僧だったそうです。




宿場町を少し進むと、軒下に「合羽」(かっぱ)の看板が
下がる上の写真の「木綿屋」があります。

当時、鳥居本宿には、15軒もの合羽屋があり、防水性の高い
鳥居本の合羽は、中山道の人気商品だったそうです。



上の写真は、当時のままの合羽の看板を屋根の上に残した建物です。


(本陣跡)

以下は、江戸時代の雰囲気を残す鳥居本宿の町並みです。


















上の写真は、街道歩きの人のために新しくできた「鳥居本宿
交流館・さんあか」で、ここでトイレを拝借します。

この交流館の「さんあか」という名称は、多分、鳥居本の
「三つの赤の名産」(赤玉神教丸、柿渋に紅ガラの合羽、
スイカ)を指しているのでしょう。

鳥居本宿の町並みを抜けると、直ぐ右手に、下の写真の
「左 中山道 右 彦根道」の道標があります。

「彦根道」は、中山道と彦根の城下町を結ぶ脇街道として整備
されたそうです。

道標の裏側を覗いてみると、上の写真の様に「文政十丁亥秋
建之」とあり、文政十年(1827年)に立てられた道標です。

この「彦根道」は、彦根の城下町に向かう道としての役割の
他に、「朝鮮通信使」が通る道でもあったので、「朝鮮人
街道」とも呼ばれていたそうです。

鎖国時代に正式な外交があったのは朝鮮だけだったので、徳川
幕府は「朝鮮通信使」を丁重に処遇しました。

ここの「朝鮮人街道」は、徳川家康が、関ケ原合戦に勝利して
京に凱旋したときに使用した縁起の良い街道だったので、
「朝鮮通信使」だけに利用させ、大名の参勤交代にも利用
させませんでした。


ここから先は、街道の左右が田畑の長閑な田舎道になります。
やがて『小野』の集落に入ると、新幹線の高架が近くなります。





寄り道をして、その高架をくぐって進んでみると八幡神社が
ありました。


街道に戻ると、間もなく、『小野』の集落の左手の高速道路の脇に「小野小町塚」があります。

絶世の美女と言われた「小野小町」は、下記の百人一首を
詠んだことでも有名です。

”花のいろは 移りにけりな いたずらに わが身世にふる 
ながめせし間に”

案内板によると、出羽郡の郡司をしていた小野好美は、ここに
立ち寄った際に、ここの娘を養女に貰い受けて連れて帰ります。
この娘が「小野小町」だったそうです。
(もっとも、小野小町伝説は日本各地にあるらしいですが。)


小町塚のすぐ後には、上の写真の様な小さな地蔵堂があり、
中を覗いてみると、下の写真の「小町地蔵」がありました。


案内板によると、自然石を利用して、十五世紀後半に造られた
阿弥陀如来坐像だそうですが、ガラス越しなので、写真の様に
阿弥陀様か否かよく分かりません・・・



小町塚から、街道は、新幹線の高架をくぐり、原の集落に入ります。


集落の右手に「原八幡神社」の鳥居があり、鳥居の脇に
「芭蕉 昼寝塚 祇川 白髪塚」の石碑が建っていました。



奥へ進むと、社殿の脇に次の2枚の写真の句碑がありました。

”ひるかおに ひるねせうもの とこのやま” (芭蕉)

(この芭蕉の句は、彦根・明照寺の住職に宛てたもので、
明照寺には昼顔が咲き誇っているだろうから、そこで
昼寝をしたいのだが、残念ながら立ち寄れない。
 昼寝の「床」とこの近くの「鳥籠山(とこやま)」を掛けて
います。)

”恥ながら 残す白髪や 秋の風”(祇川居士:芭蕉の門人)

(説明板によると、聖徳太子と守屋との戦いの将士たちを
憐れみ、芭蕉の夏の句に対し秋を詠んだものだそうです。)



原八幡神社を出て、高速道路の出入口の高架下をくぐると、
「中山道 原町」の石碑があり、 その横に「五百らかん 
七丁余」の石碑がありました。



これは、この奥にある天寧寺の五百羅漢を指しているのだそうです。

「五百らかん」碑の先の高架道路をくぐると、大きな「常夜灯」
と「是より多賀みち」などの道標群がありました。



「是より多賀みち」碑の脇の説明が彫られた石碑によると、
当時、ここも「多賀大社」へ向かう参道の入口だった
そうです。

更に街道を進み、芹川を渡ると、「石清水神社」があり、階段
の途中に、写真の「扇塚」があります。






江戸時代、「能楽」の「喜多流」は、彦根藩の手厚い保護を
受けていましたが、この家元が、彦根を去り江戸に帰るとき
に、門人達に愛用の「扇」を与えました。

門人達は、ここに扇を埋めて「扇塚」碑を立てたのだそう
です。



この扇塚の先には、上の写真の「鳥籠山(ちょうろうざん)
唯称寺」があり、その先で、近江鉄道の踏切を渡ると、もう
高宮宿です。





「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、
鳥居本宿に長逗留した旅人が、お供を従えて宿場町の
外れの辺りを歩いています。

そこへ、この二人の旅人とは馴染みの鳥居本宿の飯盛女が
追いかけて来ます。
弥次さん喜多さんは、話を聞きながらついて行きます。
旅人「やあ、こんなところ迄、見送りは要らないよ。」
飯盛女「あんたは、私を女房にすると、伊勢神宮の証文に書き
    込んだよね。」
旅人「ああ、俺は心変わりしないから心配するな。」
飯盛女「だったら伏見宿の山田屋の馴染の飯盛女と別れて。」
旅人「いやあ~、あれはただの友達付き合いだよ。」
飯盛女「ねえ、四百文あげるから、鳥居本宿へ戻ってもう一晩
    泊まってよ。」
旅人「いや、無理、また来るよ。」
飯盛女「また来るといっても、いつのことやら、戻ってよ。」
と、旅人の手にすがりつきます。
お供の男「若旦那、これ以上の長逗留はダメです!」と、
無理やり引き離して行こうとします。
飯盛女「ダメだというなら、勝手にして!、私はこの荷物を
    持って鳥居本宿へ戻るから!」
飯盛女は、7貫もある荷物を軽々と担いで、鳥居本宿へ戻って
行きます。
旅人・お供の男「待ってくれえ~!」
弥次さん喜多さんは面白がって見ていました。

鳥居本宿から高宮宿までは、約6キロです。
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中山道を歩く(62:番場) 滋賀県米原市 5km 2015.11.13

2016-07-20 07:43:47 | Weblog

(写真は、番場宿を舞台にした映画「番場の忠太郎」)

番場(ばんば)宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋10と小さな宿場町でした。

しかし、江戸時代に、琵琶湖の水運が発達して、近くの米原に
湊が開設されると、米原へ通じる道が作られ、問屋場が6軒も
必要になるほど積荷の往来が盛んになったそうです。



次の写真は、明治時代に立てられた米原への道標ですが、
「米原 汽車 汽船道」と彫られています。



番場の宿場町に入ると、「問屋場跡」の石碑が予想以上にたくさんあります。

   

   

そうか!、問屋場が6軒もあったんですものね。






続いて「脇本陣跡」、「本陣跡」の碑がありますが、碑の後の
建物にその痕跡はありません。


少し進むと左手に、「南北朝の古戦場 蓮華寺」と書かれた
縦書きの大きな看板が目に入ります。


その看板には、「瞼の母 番場の忠太郎地蔵尊」とも書かれています。

その大看板に従って進み、高速道路のガードをくぐると、
その奥に、「蓮華寺」(300円)の山門が見えました。



蓮華寺は、聖徳太子によって創建された古刹として昔から有名なお寺です。

その後、落雷により焼失しましたが、領主の土肥三郎元頼が
再興しました。

花園天皇により、勅願寺(注)とされたので、寺の紋は菊です。

(注)勅願寺(ちょくがんじ)とは、寺の格を表すもので、
   天皇/上皇の発願/勅許により、国家鎮護・皇室繁栄
   などを祈願して創建された寺です。
   勅願寺になれば寺領が得られました。
山門の左横に小さな溝があり、「血の川」の説明板が立って
いました。

それによると、
京都を守護していた六波羅探題の北条仲時は、1333年、京都
での足利尊氏との合戦に破れ、 鎌倉へ戻ろうと、番場まで
逃れて来たものの、ここ蓮華寺で敵に囲まれてしまいます。

果敢に戦いましたが、及ばず、本堂の前庭で、仲時以下
430余名が集団自決しました。
この「血の川」は、そのときの血が川となって流れたものだ
そうです。

それは、想像を絶する痛ましさだったので、この寺の住職が
深く同情して、全員の名前を過去帳に収め、供養の墓碑を
建立してその冥福を弔ったそうです。
(過去帳は重要文化財として蓮華寺に所蔵されています。)
寺の裏手の山道を上ると、山の中腹に、自刃した北条仲時以下
430名余の五輪塔がありました。



写真の五輪塔の数の多さに圧倒されて、当時の壮絶な自刃風景
が目に浮かびます。

寺の裏手の山道を下りて来て、本堂の裏手に来ると、原作・
長谷川伸「瞼の母」で有名な「番場忠太郎 地蔵尊」が
建っていました。

地蔵尊の下の台座には、上の写真の様に、「南無帰命頂礼 
親を尋ねる子には親を、子を尋ねる親には子を めぐり合わせ給え」と刻まれています。

番場の忠太郎は、”架空の人物”ですが、その地蔵尊が、
有名な古刹のお寺の境内に建っているというのも
不思議な感じがします・・・

**「番場の忠太郎」のあらすじ**

番場の忠太郎が幼い時、父の道楽に愛想をつかし、母のお浜
(山田五十鈴)は家出してしまいます。

忠太郎(若山富三郎)は、グレてヤクザに身を落としますが、
母の面影が忘れられず、母の後を追って江戸へ向かいます。

そして、料亭の女将になっていた母の消息を知り、訪ねて行きます。

”「醒が井」から南へ一里、「磨針峠」の山の宿場で
  「番場」という処がござんす。

  その「番場宿」の「おきなが屋」の倅、「忠太郎」で
  ござんす、おッかさん。”

”確かに、私は、美濃の加納の叔父の世話で、番場の
  おきなが屋へ嫁に行き、忠太郎という子を生んだよ。

  その子が五ツになった時、あたしゃ、おきなが屋を出て
  しまったんだ。”

”雲を掴むと同じように、手がかりなしで探している中に、
  おッかさん、あッしも三十を越しましてござんす。

”図々しい奴だ。あたしの子の忠太郎は、九ツの時、はやり病やまいで死んでしまったと聞いている。”

母は息子と知りながら、泣く泣く忠太郎を追い返してしまいます。

忠太郎は、名セリフの
”瞼をつむれば、昔のやさしいおっ母さんの面影が浮かんでくるんだ。”
を言い残し、流浪の旅に出てしまいます・・・


(映画「番場の忠太郎」)


(若山富三郎:映画「番場の忠太郎」)


(山田五十鈴:映画「番場の忠太郎」)


(映画「番場の忠太郎」のラストシーン)

「忠太郎 地蔵尊」の近くには、「供養塔」も建ててあり、番場
忠太郎を演じた歴代の長谷川一夫、片岡千恵蔵などの名前が
刻んであります。





また、本堂裏手には、高さ30メートル、周囲5メートルの
巨木「一向杉」(樹齢700年)が、があります。


(県指定天然記念物)




中山道を進むと、低い山に囲まれた田園風景になります。



やがて、再び家並みとなり、右手に北野神社を見て進むと、
家並みが途切れた所に「中山道 番場」の石碑があります。






ここが、番場宿の西の外れです。

中山道は、左側の高速道路と並行して、緩やかな長い道を
上って行きますが、高速道路のトンネルの脇から緩やかな
下り坂となり、その途中に、清水が湧き出ている地蔵堂が
あります。





緩やかな下り坂が、やがて三叉路に出ると、「摺針峠 彦根」
の道標が立っているので、これに従って、「摺針(すりはり)
峠」へ向かいます。




「摺針の一里塚碑」を過ぎて、暫く歩いて、摺針集落に入り、
急な上り坂を上った辺りが、もう「摺針峠」です。



「摺針(すりはり)」は、「磨針」とも書きますが、これは
次の様な伝説に由来するそうです。
 昔、修行で疲れた青年がこの峠に来たときに、老人が斧を
 石で磨いでいました。
 何をしているのか、と青年が聞くと、老人は、「斧が針に
 なるまで石で磨ぐのだ。」と答えました。
 その答えで青年は目覚め、自分の意志の弱さを知って修行に
 励んだそうです。
 そして、青年は再びここを訪れ、
 ”道はなほ 学ぶることの 難(かた)からむ 
  斧を針とせし 人もこそあれ”
 と詠み、ここに杉の木を植えたそうです。
 (この杉の木は現在は残っていません。)
 この老人は、弘法大師だったそうです。

摺針峠の頂上には、琵琶湖が一望できる絶景の場所として
有名だった茶屋「望湖堂」がありました。

上の写真の「明治天皇小休止跡碑」の後の建物が再建された
「望湖堂」です。

この茶屋は、本格的な本陣構えの造りで、参勤交代の大名を
始め、朝鮮通信使らも立ち寄り、皇女和宮も休息された
そうです。

現在、琵琶湖湖岸の干拓が進み、琵琶湖自体が奥に後退して
しまったために、琵琶湖の端がかすかに見えるだけで、
下の写真の様に絶景とはいきません・・・



広重の「木曽海道69次之内 鳥居本」は、この茶屋・望湖堂から見た琵琶湖です。

望湖堂内部では、大名らが休んでいて、外では、従者達が退屈
そうに待機しており、旅人も莚(むしろ)を敷いて休んでいます。

望湖堂を出ると、中山道は、「摺針峠西坂」と呼ばれる、
かなり急なアスファルトの下り坂から山道になります。








西坂は山道を抜けると、やがて国道と合流しますが、合流地点
には石碑「摺針峠望湖堂」が立っています。




国道を歩いて行くと、すぐ左手に、虚無僧など3人の旅人像を
上に乗せた「おいでやす 彦根市へ」の大きな石のモニュメントが見えてきます。

モニュメントの先から、左に分かれて、鳥居本宿へと入って
行きます。



「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、弥次
さん喜多さんは、ここ「摺針峠」の茶屋で、名物の砂糖餅を
食べながら、琵琶湖の景色に見とれています。

弥次さんが、ここで一句、
”遠眼鏡(とおめがね) よりもまさらん 摺針(すりはり)の 穴よりや 見る湖の景色”
(摺針に掛けて、針の穴から天を覗く、という諺を下敷きにしています。)

この句を聞いた金持ちらしい隠居が感心して、
隠居「私の家は、この先の番場宿ですが、今夜は私の家に
泊まりませんか。」

二人は、御馳走になれそうだと、喜んで、一緒に番場宿の隠居の家へ向かいます。

隠居の家に着き、中に入ると、それは脇本陣とも言うべき
立派な造りの建物でした。

弥次「上段の間もあって、大層な普請だぞ。」
喜多「こんな家では、また恥をかきそうだぜ。」

この家の息子が、生け花道具を持って部屋に入って来ました。

息子「ご退屈でしょうから、慰みにこれへ生けて下さい。」
喜多「さあ、言わんこっちゃない。大変な事になった。」
弥次「なあ~に、俺がスッパリと生けてみせよう。」

弥次さんは、花を取ってひねくりまわします。

弥次「これは珍しい、備前焼のすり鉢だ。」

息子「それは、すり鉢ではなくて、生け花の鉢ですよ。」
弥次「たわごとを言うな、いまに手際を見せよう。」

息子「花が、皆うしろを向いてますよ・・・」

弥次「うしろを向けて生けるのは江戸の流儀で、あんた方は
   知らない伝授事だ。」

息子「何で?」

弥次「特別に、秘密の伝授を聞かせてあげよう。
   これは、床の間の間の壁をぶち壊して、向こうの部屋
   から見る生け花なのだ!」

息子「・・・」



広重は、浮世絵「木曽街道69次乃内 番場」で、番場の
宿場町を背景に、東の「見附」を描いています。

「見附」の左手は、敵から宿場町を守るための石垣です。
その石垣の前では、3人の馬子が立ち話をしています。

右手の茶屋の前は、菅笠を被り合羽を着た旅商人です。
その左に置かれた駕籠の横を歩いている白い着物の男は、
お伊勢参りの奉公人です。


番場宿から鳥居本宿までは、約5キロです。

帰りは、ここ鳥居本宿の入口近くの鳥居本駅から、近江鉄道で
米原駅へ向い、米原駅から新幹線で新横浜へ帰りました。
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中山道を歩く(61:醒ヶ井) 滋賀県米原市 4km 2015.11.13

2016-07-20 05:22:28 | Weblog

(写真は、日本武尊の銅像)

「醒ヶ井(さめがい)宿」の湧き水は、「古事記」や「日本
書紀」に名水として記述があるほど古くから「居醒(いさめ)
の清水」として有名でした。

ここの説明板によると、日本武尊(やまとたけるのみこと)
は、伊吹山の大蛇退治で、大蛇の毒によって気を失いました
が、醒ヶ井の池で、身体を冷やすと痛みもとれたそうです。

この様に、日本武尊が、ここの湧き水で、”目を醒ました”
ことが、「醒ヶ井」の地名の由来だそうです。

醒ヶ井宿に入ると、左手に「鶯ヶ端」(うぐいすがはな)跡の
案内板があります。

この先に、「見付跡 枡形」の案内板があり、醒ヶ井宿の
始まりを示す「中山道 醒ヶ井宿」の石碑もあります。











そして、雰囲気のある宿場の家並みが続き、少し先の高速道路
の斜め下の木立の中に「加茂神社」の鳥居が見えます。

神社と街道の間には綺麗な湧き水が流れています。


鳥居をくぐって狭い境内に入ると、「日本武尊の銅像」がありました。

境内の池は、日本武尊が目を醒ましたという「居醒の清水」です。
その「居醒(いさめ)の清水」の中に、日本武尊が腰掛けた
という「腰掛石」と、鞍を掛けたという「鞍懸石」があります。


(腰掛石)


(鞍懸石)

「居醒の清水」の先に、「問屋場資料館」がありました。









問屋場資料館の水槽の中に、湧き水に生息するとういう棘の
ある魚「ハリヨ」と、「梅花藻」を見ることが出来ました。



(共に天然記念物です。)

資料館を出ると、街道の右側には、宿場町らしい雰囲気のある
古い家が軒を連ねています。








また、「脇本陣跡」の立派な門の前には、下の写真の様に、
「明治天皇御駐輦所(ごちゅうれんじょ)」の石碑が立って
います。

「輦(れん)」は天皇の乗り物で、「駐輦(ちゅうれん)」は
行幸の途中で乗り物を止めることです。



(居醒橋)

醒ヶ井の宿場の外れの山裾の崖に、写真の「西行水」がありました。


西行水の脇の「泡子塚」の説明板によると、
西行法師が、関東へ向かう途中、この泉の畔の茶屋で休息した
ところ、茶店の娘が西行に恋をしてしまいました。

西行が発った後、西行が呑み残した茶の泡を飲んだところ、
不思議にも懐妊し、男の子を出産しました。

その後、西行が、関東の帰りに、再びこの茶店に立ち寄って、
その話しを娘から聞き、「もし我が子ならば、元の泡に返れ」
と唱えました。

すると、子供はあっという間に元の泡になって消えてしまい
ました。

その後、西行は、泡子のための供養塔をここに建てたので、
ここを「西行水」と呼ぶ様になったそうです。

今も、この辺りの地名は「児醒ヶ井」だそうです。


「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)には、
弥次さん喜多さんが遭遇した「醒ヶ井(さめがい)宿」の
「問屋場」でのエピソードがあります。

弥次さん喜多さんは、ここ「醒ヶ井宿」に差しかかると、
どこかの大名の早駕籠と出会います。

人足20人余りが、2丁の早駕籠を代わる代わる担いで走っています。

そして、「醒ヶ井宿」の「問屋場」に着くと、柏原宿からの
人足達は、ここで醒ヶ井宿の人足達と交代します。

早速、問屋場の監督役である「人足廻し」が、醒ヶ井宿の交代要員の人足を手配します。

人足廻し:”さぁ、さぁ~、夕べから役を割り当てておいた
のに、太郎十はどうした?”
醒ヶ井宿は、丁度、この日、土地の氏神の祭礼の芝居が
あって、土地の若い者が、それぞれに役者になるため
化粧を終えたところでした。

太郎十は、運悪く、祭礼当日の駕籠の助郷役(注)が当たってしまったのです。

氏神の祭礼日なので、代わりに行く者もなく、太郎十は
引きずり出されてしまいます・・・

しかも、太郎十は女形の役で、ちょうど狂言芝居が始まる
ところでした。

衛太郎十:”今、行きますよ・・・”

人足廻し:”早くしろ!、おい、その頭はどうした?”

太郎十:”ええぃ・・・!、一人では女形のカツラが外せ
ません!”

そうこうするうちに、駕籠の中のお侍がせき込んで、

お侍:”ええい!、遅滞いたすぞ!、早くやらぬか。”

せきたてられた太郎十は、カツラを外す間もなく、頭は
女の形、身体は襦袢1枚で駕籠を担いで走り出します。

太郎十:”エイサッサ、エイサッサ”

弥次さん、喜多さん:”奇妙、奇妙!”

(注)助郷:宿場町が常備する人馬だけで負担しきれない通行
が予想される場合、補助的に人馬を提供する様に定め
られたていた近隣の村を「助郷」と言い、この人馬を
  「助郷役」と言いました。


西行水を出て中山道を進むと、登り坂に「番場宿1里」、その
先に「近江西国第十三番 霊場 松尾寺」の道標がありました。


更に進むと、江戸時代は、ここに6軒の茶屋があったという
「六軒茶屋」跡の説明板がありました。

それによると、醒ヶ井宿は、幕府の直轄地(天領)でしたが、
この場所が隣の彦根藩との境界だったので、境界の目印
として、6軒の茶屋を建てたのだそうです。


中山道は、六軒茶屋の先で、国道21号に合流すると、左側に
上の写真の「一類孤魂等衆」の碑があります。
その説明板によると、
 一人の旅の老人が「母親の乳が飲みたい・・・」
 とつぶやいていました。
 人々は相手にしませんでしたが、乳飲み子を抱いた母親が
 気の毒に思い、「私の乳でよかったら」と自分の乳房を
 ふくませてやりました。

 老人は、二口三口美味しそうに飲むと、目に涙を浮べ、
 「有難うございました。懐に七十両の金があるので
 貴女に差し上げます。」といい終わると、母親に
 抱かれて 眠る子のように、安らかに往生を遂げました。
 この母親は、お金を戴くことは出来ないと、老人が埋葬
 された墓地の傍らのここに、前ページの写真の
 「一類孤魂等衆」の碑を建て供養したそうです。

中山道は、一類孤魂等衆の碑の先で、丹生川を渡ってから、
国道21号から分かれて、右手の樋口集落の小道に入って
行きます。



小道に入ると直ぐに、下の写真の「憩 茶屋道館」があった
ので、ここのベンチで一休みします。



一休みして元気が出たところで、樋口集落の用水に沿って
歩いて行きます。








街道の両側の立派な家を眺めながら、用水に沿って歩いて行く
と、右手に「敬永寺」があり、その先で、高速道路のガードを
くぐります。




高速道路のガードの先に、「久礼の一里塚跡」の石碑がある
小公園がありました。

一里塚跡から更に進み集落を抜けると、左手に田園風景、右手に林の道になります。

この林の道を抜けると、もう番場宿です。



浮世絵「木曽街道69次乃内 醒ヶ井」で、広重が描いている
のは、「居醒(いさめ)の清水」や「西行水」などの名勝では
なくて、宿の西の外れの何もない風景です。

左手前の二人は、竹籠を担いだ足軽と、槍を担いだ中間で、
大名行列の最後尾です。

左手の松林の手前に、醒ヶ井の宿場を描き、右手の土手に、
大名行列が通り過ぎたので一服する農夫を描いています。

醒ヶ井宿から番場宿までは、約4キロです。
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中山道を歩く(60:柏原) 滋賀県米原市 6km 2015.11.13   

2016-07-20 02:11:26 | Weblog

(写真は、伊吹モグサの老舗「伊吹堂かめや」)

柏原宿は、近江の国(滋賀県)に入って最初の宿場です。

柏原宿に入り、右手の立派な鳥居の八幡神社の先を右に
入るとJR柏原駅です。





駅前に「中山道柏原宿案内」の大看板が建っています。

柏原宿は、宿場町らしい雰囲気の家並みが続きます。










下の写真の様に、「問屋場」跡と「東の荷蔵」跡の説明板
が立っています。


説明版によると、荷物を次の宿場まで運ぶために、中山道の
「問屋場」は、馬50匹と人夫50人を置くことが義務付けられ
ていました。

そして、「荷蔵」は、その荷物を一時保管する蔵です。

問屋場の先には、下の写真の「脇本陣」跡の説明板が立って
います。


街道沿いの家には、写真の様に、当時の職業と名前を記載
した板が立てられています。

下の写真は、2軒並んだ「本陣跡」で、その先には、連子
格子の「旅籠屋跡」も点在し雰囲気があります。






少し歩くと、小さな橋の手前の常夜灯の横に、「高札場跡」
の立て札がありました。


伊吹山の麓にある柏原宿の名産は、”お灸(おきゅう)”の
原料である「伊吹艾(もぐさ)」でした。

江戸時代には、長旅に出掛ける時は、足のツボに、必ずお灸を
据えるのが常識だったらしいです。

下の写真は、創業350年を超えて、昔のままで、現在も営業
を続けている、伊吹艾(もぐさ)の老舗「伊吹堂かめや」です。



時間が早くて開店前だったので、江戸時代のままで店に
置かれているという等身大の「福助」人形を見ることが
出来ませんでした。
残念!

「福助」は、江戸時代に、この店に”実在した番頭”で、
働き者で知られ、店を繁盛させた功労者だったそうです。

後に、その評判が全国に広まり、「福助人形」として有名に
なりました。

「福助」は、御存じの様に、足袋・ストッキング・下着などの
製造販売の会社です。
これは、江戸時代に有名だった福助人形を、明治時代に商標
登録したのが現在の福助株式会社ということなので、「伊吹堂
かめや」との直接の関係はなさそうです。


(福助人形:インターネットから)



浮世絵「木曽街道69次乃内 柏原」で、広重が描いている
のは、この「伊吹堂かめや」です。

絵の右端には、等身大の福助人形が置かれており、その横
では、店員たちが紙に包んで並べられた「艾(もぐさ)」を
売っています。

「かめや」は店の左側で、茶屋も兼業していて、金太郎あめ等
も売っています。

店の前では、人足たちが、荷物を杖で支えて休憩しています。

更に進むと、その右手に次の写真の「柏原宿歴史館」
( 国重文)がありますが、時間が早くて開館前でした。


残念!

(柏原宿歴史館)
次の機会に、柏原宿歴史館と福助人形を見るために再び訪れたいです。
柏原宿歴史館の前で、近所のおばさんから街道歩きについて
聞かれたので、暫くの間、立ち話しをします。
おばさん曰く、”私は、この柏原周辺から、ほとんど出掛けた
ことがないのに、東京から京都まで歩いて旅をするなんて
羨ましい。”
そう言われれば、確かに、私は、今、羨まれる様な贅沢な旅を
しているのかも知れません。

宿場町を更に進んで行きます。







(軒下の干し柿)

やがて、左手の「やくしえのみち」の道標を過ぎると、街道の
交差点の右手に「お茶屋御殿」跡があります。



「お茶屋」とは、徳川家康が、将軍専用の休息・宿泊施設
として作らせた建物です。

案内板によると、このお茶屋は、家康・秀忠・家光が、14回
利用したとあります。
お茶屋御殿跡は、小公園になっていたので、ここで一休み
して、水分を補給します。

お茶屋御殿跡の先に、「郷宿(ごうやど)」跡の案内板がありました。

その案内板によると、「郷宿」とは、脇本陣と旅籠屋の中間
クラスの旅館で、武士や庄屋などが使用したそうです。

郷宿跡の先に、「柏原の一里塚」があり、「西見付」跡の
説明板もありました。




この「西見付」跡の辺りで柏原宿は終わりです。

柏原宿を抜けると、街道は、やがて、ほとんど人家が
なくなり、田園風景に変わります。







暫くすると、中山道は、「鶯(うぐいす)が原」という所に
出ました。

案内板によると、太田道灌は、江戸から京都への旅日記「平安
紀行」の中で、ここ「鶯が原」で、
”聞ままに かすみし春そ しのばるる 名さへなつかし 
 鶯が原”と、詠んだとあります。

やがて、中山道が、長沢(ながそ)集落に入ると、左手に
「やくし道」への道標があり、明星山薬師寺への道を示して
います。


更にその先に、「小川(こかわ)の関」跡の古い石碑と、
「歴史街道 柏原宿 枝郷 長沢(ながそ)」の新しい石碑が
同じ場所にありました。

「小川の関」は、不破の関よりも以前に設けられた関所です。
そして、小川の関跡の先には、「菖蒲(しょうぶ)が池」跡の
石碑と案内板がありました。



案内板によると、大納言俊光が、ここ菖蒲が池で、
”君が代の ながき例(ため)しに 長沢の 池のあやめは
今日ぞ 引かるる”と詠った、とあります。

また、案内板には、昔は、ここに大きな池があり、源氏ホタル
で有名な天野川の水源だった、と書かれています。

しかし、江戸時代に田地になって消滅してしまったらしいです。

菖蒲が池跡を過ぎると、中山道はやがて杉林の道になります。


杉林を抜けると、右手に「歴史街道 中山道 東山道 横川駅
跡 梓」と刻まれた大きな石碑と、道祖神がたくさん入って
いるお堂がありました。



そこから、中山道は、国道21号と名神高速を左手に見ながら
平行して進みます。





ここにも、上の写真の様に、道祖神がたくさん入っている
お堂があります。



梓河内のバス停を過ぎて、梓集落を抜けて行くと、松が少し
ある並木道になりました。





やがて、街道は、国道21号にぶつかるので、案内板に従い、
国道21号を横断して、国道21号の反対側の歩道を歩いて
行きます。





中山道は、国道21号から左の細い道へ入ると、直ぐに一色
集落で、「一里塚の跡」の碑がありました。




一里塚の先に、古くて長い塀の立派な家があったので、覗いて
みると、下の写真のツルベの付いた古い井戸がありました。



間もなく、醒ヶ井宿に入ります。

柏原宿から醒ヶ井宿までは、約6キロです。
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中山道を歩く(59:今須) 岐阜県関ケ原町 3km 2015.11.12

2016-07-18 13:01:12 | Weblog

(写真は、美濃国(岐阜県)と近江国(滋賀県)の国境)

今須峠を超えて、旧道から国道21号に合流すると、もう
そこは今須宿です。


国道21号を横断して少し坂を下ると「今須の一里塚跡」が
復元されています。

一里塚の前を、国道21号に沿って少し進むと、左手に
「これより中山道 今須宿」の案内が立てられており、
この向いの奥に「妙応寺」が見えます。

妙応寺は、今須の領主であった長江重景(ながえ しげかげ)
が母の菩提のため創建した寺です。

領主の長江氏は、年貢の取り立てには”大桝”を、米の貸付
には”小桝”と、「異桝(います)」を用いたことが、
「今須(います)」の地名の由来だそうです。

今須宿は、元々は、この妙応寺の門前町として発展し、後に
宿場町になったのだそうです。

妙応寺の先の左手に、今須中学校がありますが、当時の
「本陣」は、ここにあったそうです。

中学校の先の駐在所の向かいに、人足や馬の継ぎたてを行った
「問屋場」跡の立派な建物(山崎家)がありました。

問屋場跡の建物の二階の屋根には、上の写真の様に、
”煙出し”のための小さな屋根が見えます。





上の写真の宿場町を直進すると、右手に法善寺、左手に
八幡神社があり、更に進むと、家並みを抜けました。




国道21号を横切って踏切を渡り、緩やかな坂を下ったところ
に、芭蕉の句碑がありました。


”正月も 美濃と近江や 閏月”
(但し、この句は、 芭蕉の句かどうか疑わしいらしいです。)

句碑の脇にある石碑によると、「貞享元年十二月 野さらし
紀行の芭蕉が、郷里越年のため、熱田よりの帰路二十二日
ころ、ここ地 今須を過ぎるときの吟」とあります。



その芭蕉句碑の少し先に、下の写真の「寝物語の里」の碑が
ありました。






上の写真の様に、小さな溝を挟んで、美濃国(岐阜県)と
近江国(滋賀県)の国境になっています。
この国境では、一尺五寸と近接した家同士の壁越しに、
寝ながらにして隣国の人と物語をすることが出来たので、
「寝物語の里」と呼んだそうです。

また、「寝物語の里の由来」の石碑には、「寝物語の里」伝説
について説明されています。
それによると、源義経のあとを追って来た静御前が、ここ
今須宿に泊まっていると、隣の宿で、大声で話している義経の
家来の声が聞こえてきました。
そこで寝ながら壁越しに、義経の家来かと尋ねると、そうだ、
と答えるので、静御前が奥州までつれてって欲しい、と懇願
すると、快諾したそうです。
これが寝ながらの話しだったので、この名が生まれた
そうです。

広重の浮世絵「木曽街道69次之内 今須」も、この今須宿の
「寝物語の里」を描いています。

「近濃両国境」を示す榜示杭(ぼうじぐい)が立つ宿場町の
様子を、近江側から描いています。

手前の茶屋を近江屋、向こうの茶屋を両国屋といいました。
この宿場町には、榜示杭を挟んで、近江国側に20軒、
美濃側に5軒の集落がありました。

ちなみに、近江国側の20軒は、銀の貨幣を使用して近江弁を
喋り、美濃側の5軒は、金の貨幣を使用して美濃弁を喋って
いたそうです!
驚き!

いよいよ、近江国(滋賀県)に入ります。

中山道も美濃路とはお別れで、近江路を歩きます!
暫く歩いてゆくと、楓(かえで)並木が延々と続きます!



その楓並木が終わり、左手の踏切を渡ると、街道沿いに民家が
見えてきて、右手に「照手姫笠地蔵堂」がありました。



右の背の低い方の地蔵が「照手姫」笠地蔵です。

「照手姫」については、「56:赤坂」で取り上げました
が、照手姫が、この地蔵に笠を掛けて一心に祈ると、落命の
危機にあった小栗判官は全快したそうです。

この笠地蔵堂の辺りはもう柏原宿です。

今須宿から柏原宿までは、約3キロです。
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中山道を歩く(58-2:関が原:宿場町) 岐阜県不破郡 4km 2015.11.12

2016-07-18 09:12:21 | Weblog

(写真は、関が原宿の「たまり醤油製造所」)
旧中山道は国道21号と合流して、関が原宿に入ると、
「たまり」と書かれた古い建物の醤油製造所の蔵が
左手に見えます。
「たまり醤油」は、宮内庁御用達です。



    
醤油製造所の先の右手は、下の写真の「脇本陣」跡です。

   
更に街道を直進して行きますが、途中は宿場町らしい家
が散見される程度で、交通量が多いので、ゆっくりと
見物する気分にはなれません。




北国街道を横断歩道で横切り、中山道を直進すると、
右手に「西首塚」がありました。



奥の方には、大小2つの祠が並んでおり、古い石柱には、
「関が原合戦 戦死者 胴塚」と刻まれています。
えぇっ?、
首塚ではなくて胴塚なの?
案内板によると、「戦死者数千の首級(討ち取った首)
を葬った塚」とあります。
ここに、数千人もの首が埋まっているの?!
ひぇ~! 怖っ~・・・

「首級を葬った塚」の案内板と、「胴塚」の石柱の両方
があるという事は、首実検をした首と、首の無い胴体との
両方が、この下に埋葬されているという事なのでしょうかねえ・・・

塚の上には小さな五輪塔が並んでいます。
この「西首塚」が、関が原宿の西の外れになります。
中山道は、西首塚の少し先で、国道21号線から分かれて、
左手の道に入って、真っ直ぐに進んで行きます。

「天武天皇 兜掛け石 沓脱ぎ石」の標識があったので、
標識に従って、個人の庭の一部だと思われる細い道を
たどって行きます。



すると、個人の家の庭先に、下の写真の「天武天皇」の
「兜掛け石」と「沓(くつ)脱ぎ石」がありました。

(兜掛け石)

(沓脱ぎ石)
壬申の乱(672年)では、この付近を境にして、
西方の弘文天皇と、東方の「天武天皇」が対峙して
合戦を行い、「天武天皇」側が勝利しました。


広重の浮世絵「木曽街道69次之内 関か原」は、関が原の
西の外れから、宿場町の方角である東を向いて描かれた
らしいです。
関が原は、壬申の乱(672年)と関ケ原合戦(1600年)の
二大古戦場として余りにも有名です。
従って、関が原宿は、古戦場をイメージした浮世絵の題材
には事欠きません。
にも拘わらず、広重は、敢えて、何処にでもある平凡な風景
を描いています。
右手の茶屋の軒下に下がる提灯には、「名ぶつさとうもち」
(名物 砂糖餅)の文字が見えます。
また、茶店の看板には、「そばぎり」「うんどん」と書かれて
います。
茶店の前の縁台の旅人は、名物の砂糖餅に箸をつけようと
しています。
そして、お盆にお茶を乗せてきた老婆が、もう一人の旅人の
注文を聞いています。
その左手は、馬を引いた馬子、そして、更にその左奥には
2頭の馬を引く女が描かれています。

天武天皇の兜掛け石から中山道に戻り、少し進むと、左手の
白壁の家の前に「不破の関守跡」碑がありました。



天武天皇の時代に、”三関”として、東海道「鈴鹿の関」、
北陸道「愛発(あらち)の関」、東山道「美濃不破の関」が
設けられました。
しかし、798年には廃止されて、関守だけが置かれましたが、
平安時代以降、多くの文学作品や紀行文に関跡として登場する
様になったそうです。

この白壁の家の奥に、上の写真の「不破の関守の屋敷跡」が
あり、芭蕉やその他の歌人の句碑等が立っています。

”秋風や 藪も畑も 不破の関”(芭蕉)
(田んぼや畑に変わり果てた虚しい不破の関跡に、秋風が
寂しく吹いている。)

不破の関跡の前から道は下り坂になり、その途中に「不破の
関資料館」(100円)があり、壬申の乱のビデオや不破の
関のジオラマが展示されています。





不破の関跡の前の坂を下り切ると、藤古川が流れていますが、
壬申の乱では、この川を挟んで、天武天皇軍と弘文天皇軍が
睨み合ったそうです。




藤古川を渡り、中山道を直進して、国道21号を歩道橋で


斜めに越えて進んで行き、右手の「若宮八幡神社」を過ぎる
と、大谷吉隆の墓の標識がありました。


私の好きな「大谷吉隆」の墓にお参りするために、標識に従い
頑張って山道を上って行きます。





山道を上りきったところに、「大谷吉継の陣跡」があり、正面
に小早川秀秋が陣取った松尾山を望むことが出来ます。





「大谷吉継」は、石田三成の盟友で、病身を押して参戦、
”義”を貫いた武将です。


(小早川秀秋が陣取った松尾山)
吉継は、小早川の寝返りを予想しており、寝返りに動じずに
応戦しますが、吉継の配下の脇坂隊の裏切りにより吉継軍は
混乱、あえなくこの地で自害しました。

大谷吉継陣跡から中山道に戻り、高札場跡の前を過ぎ、さらに
進んで「黒血川」を渡ります。

壬申の乱で、この川を挟んで両軍が衝突して激戦となり、両軍
兵士の流血が、川底の石を黒く染めたことから、「黒血川」の
名前が付きました。

黒血川の先の左手には、「鶯の滝」があり、滝の下は綺麗な
水の川が流れていて、一休みしたくなる心地よい場所です。
年中、ウグイスが鳴くことから、「鶯の滝」と呼ばれる様になったそうです。




鶯の滝の先で、東海道線のガードをくぐり、少し歩くと、右手
に小公園があり、その中に、「常盤御前」の墓がありました。



常盤御前は、都一の美女と言われ、源義朝の側室として牛若丸
を生みますが、平治の乱で源義朝が敗れたので、仕方なく
平清盛の愛妾となりました。

ここの案内板によると、東国へ向かった牛若丸を案じ、あとを
追ってきた常盤御前は、ここで山賊に襲われて息を引き取り
ました。
これを哀れに思った村人が、ここに葬り塚を築いたそうです。また、この小公園には、芭蕉の句碑も建っています。
”義朝の 心に似たり 秋の風” 
(ここに立つと秋風が吹きすさんでいるが、この感じは、あの
源義朝が平治の乱で敗れ、最後は家人に殺されてしまった
心とどこか似ているかもしれない。
常盤御前墓を出て、線路沿いに少し歩いて、踏切を渡ると、
やがて緩やかな上り坂になり、山の中へ入って行きますが、
これが今須峠です。



この今須峠を超えて、旧道から国道21号に合流すると、もうそこは今須宿です。

関が原宿から今須宿までは、約4キロです。
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中山道を歩く(58-1:関が原:  ”関が原の戦い”) 岐阜県不破郡 2015.11.12

2016-07-18 06:14:01 | Weblog

(写真は、笹尾山で家康軍を迎え撃つ石田三成軍の武将・ウォーク更家)
関が原宿に入る前に、先ずは「関が原の戦い」の当日の激戦の
様子を現地からレポートします!!

(桃配山の家康軍の最初の陣跡)
慶長5年(1600年)9月15日、関が原には、東西17万
の軍勢が押し寄せました。
東軍を率いる徳川家康は、始めは桃配山に陣を配しました。
西軍を率いる石田三成は、戦いの様子を一望出来る笹尾山に陣を置きました。



(笹尾山の三成軍の陣跡)


(三成が当日の朝に見た風景)
午前8時、東軍・井伊直政隊の西軍・宇喜多秀家隊に対する
一斉射撃によって、決戦の火ぶたが切って落とされました。

(井伊直政の陣跡)


戦闘開始から4時間、まだ一進一退の攻防戦が繰り広げられていました。

しびれを切らした徳川家康は、軍の士気を高めるために、
桃配山の陣から、激戦地である陣場野まで陣を前進させます。


(陣場野の家康の最後の陣跡)

家康は、ここ陣場野から、松尾山に陣取って動かない小早川
秀秋に向けて、”早く裏切れ!”の催促の合図の鉄砲を打ち込みます。

これにより、小早川秀秋は西軍を裏切り、1万5千の軍を
率いて、味方である西軍に襲い掛かります。

病に侵されていた西軍・大谷吉継は、輿の上から指揮をとり、
これを防ごうと善戦しますが、吉継の部下の裏切りもあり
壊滅、自刃します。


(大谷吉継の陣跡)


(大谷吉継陣跡から小早川秀秋が陣取った松尾山を望む)

不意を衝かれた西軍は大混乱に陥り、小西、宇喜多隊は敗走。
これを見た家康が、総攻撃を命じると、東軍は、我こそはと
三成の首を狙い、ここ「決戦地」で激戦を繰り広げます。

(決戦地)
開戦から7時間、西軍は、遂に力尽き壊滅しました。
関が原の戦いは、家康の圧勝に終わったのです。

合戦で打ち取った西軍の武将の首の血を、下の写真の井戸の
水で洗い落とした上で、家康が首実検したそうです。

(首洗いの井戸)
たくさんの首を洗っている風景を想像しただけで・・・

ぞ、ぞっ~!、怖っ~!

首洗いの井戸の横には、「首級墳碑」が立っており、その説明板によると、

「1600年、両勢力はここ関が原において激突したが、内応
などの戦況の急変 により、三成側は大敗を喫した。

 家康は、首実検をしたのち、すべての首や遺骸を、東西
2箇所に首塚を造り葬らせた。

 東軍に敵対した西軍将士は、主君秀頼のために命を捧げた
ものであり、憎めるものではない。

 故に、豊臣の危機に直面し犠牲になった者を葬ることは、
仁義に厚い心得のなし得ることである。」とあります。

そして、家康の首実検のあと、東首塚と西首塚の2か所に埋葬されました。


(東首塚)

(西首塚)

石田三成は、市中引き回しの上、京都六条河原で処刑され
ました。

旧中山道は国道21号と合流して、関が原宿に入り、暫く
進んで右折すると、JR関が原駅です。


駅前に観光案内所があったので、ボランティアのおじさんに
「関ケ原合戦」の史跡巡りウォーキング地図を貰って、史跡
巡りを開始します。

地図を見ながら、JR東海道線の陸橋を渡ります。

合戦当日、東軍の先鋒は福島正則と決められていましたが、
井伊直政は、これを無視して、宇喜多隊へ抜け駆け発砲し、
直政陣からの攻撃で、戦いの火ぶたは切られました。

石田三成陣地の笹尾山方面を目指して、坂を上って行きます
が、その途中の右手に関が原町役場、左手に、下の写真の
「歴史民族資料館」がありました。

ここ「歴史民族資料館」(350円)で、関が原の戦いについて、
予備知識を仕入れてから、笹尾山を目指すことにします。


資料館に入ると、正面に大型ジオラマがあり、臨場感溢れる
解説付きで、関が原合戦時の東西両軍の陣形や合戦の流れを
見ることが出来ます。

また、関が原合戦に関わる武具等の展示もしています。



歴史民族資料館を出ると、その向い側が「徳川家康の最後の
陣地」である陣場野です。


 (「家康最後の陣地」の標柱と石碑) 
家康は、戦いの途中で、自陣を、桃配山の陣から、ここ陣場野
まで前進させました。
そして、激戦に決着が着くと家康はここで首実験をしました。
地図を見ながら、笹尾山の石田三成陣地を目指します。
緩やかな坂道を上って行くと、田んぼの真ん中に「関が原
古戦場 決戦地」の石碑が建っていました。

小早川の寝返りにより東軍優勢となり、西軍の敗北がみえる
と、東軍諸隊が我こそはと、三成の首を狙い、この決戦地で
激戦を繰り広げました。

この決戦地の先を左折して、石田三成陣地の笹尾山に
向います。

笹尾山の麓には観光客用の駐車場があり、駐車場から少し上の
笹尾山へ登って行きます。

途中、山の斜面には石田三成陣の木柵が二重に造られて
います。



頂上の開けた場所が石田三成陣地で、展望台もあります。

ここからは関が原が一望出来、小早川秀秋の陣地も見渡せます。


笹尾山を降りて、笹尾山の麓にある「笹尾山で甲冑体験」
コーナーへ向かい、甲冑姿に着替えて記念撮影をしました。


写真撮影用のプラスチックの甲冑を被り、後ろでテープで
止めるだけの簡単な衣装をイメージしていたのですが・・・

ところが、何と!

下着や靴下まで和装に着替えたあとで、順に、甲冑を身に着けてゆきます。

胸板、大袖、草摺(くさずり)、篭手(こて)、手甲、臑当
(すねあて)、草鞋(わらじ)、そして、最後にようやく兜を
被ります!

本格的な着付け?となり、結構、時間が掛かりました。
でも、予想外の本格的な武者姿に大満足です!


せっかくの機会なので、侍甲冑の撮影のあとで、足軽甲冑にも挑戦しました。
足軽の甲冑は、時代劇に使われている甲冑と同じ物だそうです。
道理で、着るのに時間が掛かるハズです。


 ・侍甲冑:2,000円、足軽甲冑:1,500円
 (上記の料金は、刀・槍などの貸し出し、および着付け
サービス込みの値段です。)

 ・場所:笹尾山交流館(関ケ原町営の笹尾山の麓の交流館=
旧関ケ原北小学校の校舎内)

 ・甲冑体験の実施期間:5月23日~11月22日
 (係のおねえさんの話だと、冬季はこの地域は雪に
閉ざされるため休館だそうです。)

 ・受付時間: 10:00~16:00
 (上記の時間帯内であれば、甲冑を着たまま史跡散策に
出かけてもOKだそうです。)
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