ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

http://www7b.biglobe.ne.jp/~akamine/
中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

中山道を歩く(32-2:本山:ここより木曽路)  長野県塩尻市 8 km 2013.10.19

2013-10-29 14:45:12 | Weblog

(写真は、国道脇の断崖を上る中山道。
 ”これが中山道? 嘘だろ~?”)

ようやく信濃路の旅が終わり、いよいよ街道の両側の深い森林
の木曽路の旅の始まりです!

「これより南 木曽路」の道路標識の先に、上の写真の「是より
南 木曽路」の石碑がありました。

この石碑が、松本藩と尾張藩の国境だったそうです。



私のガイドブックでは、この「是より 南木曽路」石碑の正面
が、国道から分かれる中山道の入口になっています?


写真の赤丸印が「是より 南木曽路」石碑ですが、写真で
分かる様に、石碑の前は断崖で、中山道の入口なんてある
ハズがありません?

私のガイドブックが間違っているのかな?
と思い、通り過ぎようとして振りかえると、
何と!!

断崖に、上の写真の赤い矢印の様に細い道が・・・
これが中山道? 嘘だろ~!
断崖に近寄ってみると、消えかけている「中山道」の矢印板
が!!

え~!この崖を上るの? 嘘だ~!
崖っぷちに沿って、恐る恐る少しづつ歩いてゆきます。
国道が遥か下に位置し、トラックがビュンビュン走っています。

足を滑らせれば、トラックに轢かれて即死です・・・!






慎重に歩き続けると、峠の頂上には、馬頭観音が祀られて
いました。

峠の頂上から急な坂をゆっくりと下ります。



国道に合流する急坂の馬頭観音の脇で、足を滑らせて転んで
しまいました。


転んだのが、入口の上り坂でなくて良かった・・・

確かに、「夜明け前」では、
”木曽路はすべて山の中である。あるところには
 岨(そば)づたいに行く”崖の道”であり、・・・、と、
記述がありますが、ホントにこんな”崖の道”とは・・・
夜明け前 (第1部 上) (新潮文庫)
島崎 藤村
新潮社


国道に戻り、桜沢集落に出ると、写真の「桜沢茶屋本陣跡」
があり、「明治天皇御膳水」碑と「明治天皇小休所跡碑」
「明治天皇駐輦跡碑」がありました。





桜沢茶屋本陣跡を出て、激しいトラックの流れを横に見な
がら、奈良井川沿いの国道の歩道を延々と歩いてゆくと、
中山道は右手の「片平集落」へ入ります。











片平集落は、短い距離ですが、写真の様に、街道沿いに出梁
造りの家が数軒並んでいます。

わずかな区間ですが、静かな集落にホッとします。

すぐに国道に戻り、しばらく歩くと、右手の石垣の上に、
「若神子(わかみこ)一里塚」がありました。



中山道は、一里塚の先で、再び右に入り「若神子集落」へ
向います。



集落には、数か所の水飲み場がありました。

その水飲み場は、階段状になっていて、上から順に、洗う物
が決められているのだと思われます。

集落の出口には、道祖神や庚申塔等が並んでいます。

「贄川駅1.3㎞」の案内板に従い、山の上に向かって行きます。

ここから先は、中山道は、国道の一段上になり、国道の側道
の様に、国道を下に見ながら並行して歩いてゆきます。





側道から国道に下りるとと贄川(にえかわ)駅はもう目の前です。

本山宿から贄川宿までは約8キロです。


ps.
次は、贄川宿、奈良井宿から、いよいよ、中山道で3番目の
難所である鳥居峠に差し掛かりますが、現在、鳥居峠は雪に
閉ざされています。

春になって、木曽路の雪が解けるまで、中山道一人歩き旅は、
暫くの間、お休みさせて頂きます。

その間は、近場のウォーキング情報をお届けしますので、
引き続き、「ウォーク更家の散歩」
(http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie)をお楽しみ下さい。

また、中山道の日本橋からここ本山宿までを、下記のホーム
ページにまとめました。
 ⇒「中山道を歩く(完全踏破の一人旅)」
  (http://www7b.biglobe.ne.jp/~akamine/)

更に、「東海道五十三次踏破」の下記ホームページの内容も
追加・リニューアルしましたので、こちらもぜひお立ち寄り
下さい。
 ⇒「東海道五十三次を歩く・完全踏破の一人旅」
   (http://www.minedayo.com/)
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中山道を歩く(32-1:本山・宿場町) 長野県塩尻市 - 2013.10.19

2013-10-28 06:35:50 | Weblog

(写真は、「そば切り発祥の里」のソバ)

国道19号を進み、本山宿の表示の右の道に入ると、「中山道
本山宿」の標柱があり、その先に秋葉神社と石塔が並んで
いました。





本山宿は「ソバ切り発祥の地」として有名です。
本山宿で「ソバ切り」が発明されるまでの蕎麦は、丸めて、
そのまま茹でて食べていたそうです。
ところが、ここ本山宿で、現在の様な、包丁で切った長い蕎麦
が発明され、全国に広がったそうです。
へ~!そうだったんだ!
まもなく、街道沿いに「本山そばの里」の看板が見え、その奥
の畑の横に、ソバ打ち体験も出来るという、写真の食堂施設が
ありました。
  



上の写真の「そば切り発祥の里」の看板には、芭蕉門下の
森川許六の
「そば切りといっぱ もと信濃国本山より出でて あまねく
 国々にもてはやされける云々」
という紹介文が書かれています。

ここでは、地元のおばさん達がソバ打ちした手作りそばを
食べさせてくれる店です。

おばさん達5~6人が、世間話に花を咲かせながら食堂で
のんびりと働いていました。

食堂の壁には、太田南畝の狂歌である写真の
「本山の そばを名物と誰も知る 荷物をここにおろし大根」
が貼られています。

私も作りたてのソバを注文します。

おばさん達が作ったお土産もいろいろ展示してあったので、
写真のソバ饅頭を買いました。

そば粉の中に、栗の粒がたくさん入っていて、あっさりした
甘みで美味しかったです。
本山宿の町並みは、大火に見舞われることもなかったので、
出梁造りの古民家が並び、江戸時代にタイムスリップした
ような感覚にとらわれます。






宿場町の中心に、出梁(だしばり)造りの家が、次の写真の
様に3軒連なっていますが、そのうちの1軒には、旅籠
「川口屋」の看板が下がっています。

他にも、屋号が下がった趣きある家が何軒もあリ、往時の
雰囲気が残っています。

川口屋の向い側の奥に、立派なお宅があり、その家の敷地内
の右手に大きな「明治天皇本山行在所跡」の碑があり、左手に
「私有地につき立入禁止」の板が建っていました。

このお宅にお住まいの方は、多分本陣の子孫なのでしょうね。
屋根は、雀が羽を広げたようなあの立派な「雀おどり」です!
宿場の外れまで来ると、「秋葉常夜灯」と「秋葉大権現碑」が
建てられていました。




宿場町を抜けて、真っ直ぐに坂を下りてゆき国道に合流し、
国道19号とJR中央線に沿って歩いてゆきます。

暫く歩くと、中山道は右手の細い道に入ります。


街道沿いの工場の裏手に写真の「日出塩の青木跡」の説明板が
ありました。

説明板には、
「貴人の塚の上に大桧があった。
”洗馬の肱松 日出塩の青木 お江戸屏風の絵にござる”」
とあります。


更に暫く細い田舎道の街道を歩いてゆき日出塩集落に出ると、
「日出塩の一里塚跡」の標柱がありました。


日出塩集落は、本山宿と次の贄川宿の間の「立て場」だった
そうですが、現在は、JR中央線の無人の日出塩駅があるもの
の寂しい集落です。

(立場とは、宿場町の中間に設けられた茶屋や売店などの
 休憩施設です。)


道祖神などを見てから日出塩集落を抜けると、中山道は再び
国道19号に合流します。

右手下に奈良井川を眺めながら、激しくトラックが行きかう
国道の歩道を、歩いてゆきます。

トラックの排気ガスにやられながら、国道19号を歩くこと
約30分、ようやく「これより南 木曽路」の道路標識が!


いよいよ木曽路か~
ついに「夜明け前」の世界に入ったゾ!!
夜明け前 (第1部 上) (新潮文庫)
島崎 藤村
新潮社

”木曽路はすべて山の中である。
 あるところには岨(そば)づたいに行く崖の道であり、
 あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、
 あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。
 一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。”


広重の浮世絵は、本山宿の外れで、上り坂が終わり、緩やか
な下り坂が始まる場所を描いています。

台風の後なのでしょう、倒れかけた松の木の大木が往来の妨害
にならない様に、2本の棒で支えています。
路上には、松笠や松葉が散乱し、既に切り倒された松の木の
大木に、2人の木こりが腰掛けて焚き火をしています。
2人の子供は、集めた小枝を竹かご一杯に入れて家に帰ろうと
しています。
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中山道を歩く(31:洗馬) 長野県塩尻市 3 km 2013.10.19

2013-10-27 09:35:21 | Weblog

(写真は、「洗馬(せば)」の地名の由来になった「邂逅
(あうた)の清水」)


国道19号の洗馬宿の標識から右手の緩やかな坂を下って
ゆきます。
洗馬(せば)宿 は、善光寺道との追分でもあったことから、
善光寺詣の人々でも賑わっていた宿場だったそうです。
洗馬宿は、昭和7年の大火で、昔の建物をほとんど焼失して
しまったため、江戸時代の面影はほとんど感じられません。
でも、国道から外れて、車も走っていないので、快適な街道
歩きです!

右へ下る旧中山道を道なりに行くと、Y字路ですが、右に曲る
と善光寺への道で、中山道は左に曲ってゆきます。

少し歩くと写真の「分去れ(わかされ)道標」です。

刻まれている文字は「右 中山道 左 北国往還 善光寺道」。

「洗馬(せば)」とは変わった地名だな~!
何か由来があるのかな?、
と思いながら宿名町を歩いていたら、有りました!

街道沿いに、「邂逅(あうた)の清水」の看板が見えたので、
矢印に従って階段を下りると、地名の由来が分かりました!

ここは、木曽義仲(源義仲)と、後に家来となる今井兼平が
出会った(邂逅した)場所で、兼平が、ここの清水で、義仲の
愛馬を洗ってあげたのが、「洗馬(せば)」の地名の由来
だそうです。

へ~、そういうことだったんだ。

この清水は、今も、綺麗な水がこんこんと湧き出ています。

江戸時代にも、疲れた旅人の喉を潤していたのでしょうね。

街道沿いの洗馬駅入口を通り過ぎると、「百瀬本陣跡」の
説明板がありました。

それによると、本陣、脇本陣の庭園は「善光寺名所図会」の
中に「中山道に稀な」と紹介されたほどの名園であったそう
ですが、残念ながら、鉄道の開通時に削られてしまい、洗馬駅
の敷地として失われてしまったそうです。

本陣の隣に「荷物貫目改所跡」の説明板がありそれによると
「公用荷物の重さを計り運賃を決める役所」だったそうです。

(現在、国道沿いにあるトラックの過積載を調べる施設に当る
 らしいです。)


その先に「志村脇本陣跡」の標柱があり、その後ろに下の写真
の明治天皇が御巡幸のおり休憩されたという「明治天皇御駐輦
之處」の碑があります。


その先が「高札場跡」で、「中山道碑」・「洗馬宿碑」が
建てられています。


洗馬宿は短い宿場町で、すぐに通り過ぎてしまいました。
街道はこの先で左に曲りながら坂を下り、JR中央線のガード
下をくぐり、緩やかな上り坂となります。




緩やかな坂を上り切ると風景が開け左右に山が迫ってきます。


暫く歩くと、左手を走る国道19号に合流し、更に歩くと右手
に溜池があり、その先を右折すれば、次の宿場の本山宿です。







広重の浮世絵は、洗馬宿の西を流れる奈良井川の夕暮れです。
柴を積んだ舟と筏が、ゆっくりと川を下ってゆきます。
枝垂れ柳の向こうには、大きな満月が浮かんでいます。

洗馬宿から本山宿までは約3キロです。
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中山道を歩く(30:塩尻) 長野県塩尻市 7 km 2013.10.18

2013-10-26 11:05:57 | Weblog

(写真は、堀内家住宅の屋根の「雀(すずめ)おどり」)

塩尻宿は、「塩の道」と言われた「三州街道」(三河国
への街道)と、「千国街道」(糸魚川への街道)の基点
として、旅籠が70軒もあり大いに賑わったそうです。

Tさんの話だと、塩尻の地名の由来は、「塩の道」を通って、
塩を売り歩いて来た塩売りが、ちょうどこの辺りで”品切れ”
になるため、”塩尻”という名前がついたそうです。
へ~!
”尻”というのはそういう意味なんだ!

塩尻宿に入ると、中山道は、歩道が狭く車の往来が激しい
国道と重なるるため、歩くのも大変で、とてもゆっくりと
宿場町見物をする様な雰囲気ではありません・・・
疲れるな~・・・
激しい車の流れの切れ目を睨みながら、街道を右へ左へ
横断しながら見物します・・・

宿場町は、明治16年の大火で全て焼失してしまったため、
宿場時代の面影は余り有りませんが、宿場のポイント毎に
石碑が建てられているので、主に、石碑を見て回ることに
なります。

宿場町の入口には、写真の道祖神などの石碑群がありました。




上の写真は、「塩尻宿本陣跡」で、周りに「明治天皇行在
所(あんざいしょ)」碑と、「御膳水碑」があります。


本陣跡の斜め前は、写真の旅籠「小野家住宅」(いちょう屋)
(国指定重要文化財)です。


小野家住宅 の先の小公園が「脇本陣跡」で、ここには中山道
碑や塩尻宿碑も建てられています。


(高札場跡)

国道の「鉤の手」碑から、右側の旧道に入ると、直ぐに「阿礼
神社」があります。





古くは坂上田村麻呂や、木曽義仲も参拝したという由緒ある
神社だそうです。

阿礼神社から少し歩くと「堀内家住宅」です。
堀内家住宅の屋根に取り付けられた、雀が羽を広げたような
大きな「雀おどり」が、建物の美しさを引き立てています。

「雀おどり」は、この地方独特の飾りだそうです。

旧道は、堀内家住宅の先で、国道に合流し、田川に架かる橋
を渡ると、下大門の4差路に差し掛ります。

この4差路は、左折すると中山道、直進するとJR塩尻駅、
右折すると松本へ向かう松本街道です。

この4差路で日没となったので、JR塩尻駅まで歩き、今晩
は、駅前のビジネスホテルに一泊します。

翌朝は、早朝に、駅前のビジネスホテルを出発し、下大門の
4差路まで歩いて戻り、4差路の一番左の中山道を入って
ゆきます。
中山道に入ると、車の往来が激しかった国道から外れて
しまいます。
車が少ないのんびりとした中山道歩き旅の再開です。

直ぐに写真の「大門神社」があり、その隣は、「耳塚」と
呼ばれる珍しい塚があります。



耳の形の皿や椀を奉納すると耳の聞こえが良くなる、と古く
から言い伝えられているそうです。
写真の様に、穴を明けた多くの土器を奉納してありました。


中山道は、この先、JR中央線ガード下を通り、長い長~い
昭和電工の塀が続きます。





昭和電工の塀をようやく過ぎると、暫くの間は、ブドウ畑
沿いの快適なウォオーキングです。


まもなく、街道沿いに、左右とも現存しているという貴重な
「平出一里塚」が見えて来ます。

街道からは左側だけしか見ませんが、右側は民家の裏にあり
ました。

失礼して民家の通路から写真をパチリ!


一里塚の左手の奥の方の畑の向こうに、復元された竪穴住居
が何棟も見えて来ました。

ここは縄文時代の大集落跡「平出遺跡」です。

平出遺跡の史跡公園休憩所に綺麗なトイレがありました。
有難い!冬場はトイレが近くなるので助かります。
トイレを済ませ、史跡公園のベンチに腰を下ろして一休み
します。
史跡公園を出ると、中山道は、延々と続くブドウ畑を見ながら
歩きます。
塩尻は、日本有数のワインの里なんだそうです。
へ~、そうなんだ。

再びJR中央線の踏み切りを越えて、国道19号に合流します。

観光農園が並ぶ国道を、延々と歩いてゆくと、右側に洗馬宿
の標識が見えました。

塩尻宿から洗馬(せば)宿までは約7キロです。
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中山道を歩く(29-2:下諏訪・塩尻峠)  11 km 2013.10.18

2013-10-25 22:40:41 | Weblog

(写真は、塩尻峠からの諏訪湖の眺め。)
下諏訪の宿場町を抜けて、 難所・塩尻峠へ向います。
左手に、今朝下車したJR下諏訪駅を見ながら進むと、街道は
国道から分かれて左手に入ってゆきます。


街道に入ると、直ぐに左手の広場に「魁(さきがけ)塚」が
あります。

案内板によると、1868年、江戸城総攻撃の先鋒として出発
した「赤報隊(せきほうたい)」は、「租税半減」を布告
して、農民の支持を得ながら進軍しますが、後に「租税
半減政策を撤回」した新政府から疎んじられ、「偽の官軍」
の汚名を着せられ、ここで斬首されました。

可哀相~・・・
後に、同志によってが築かれたのがこの魁塚だそうです。


魁塚を出て、”中山道”の矢印に従って、暫く住宅街の中を
歩いてゆくと、下の写真の「いなみち道標」(岡谷道追分)
がありました。

写真の様に、「右 中山道 左 いなみち」とあり、左折する
と伊奈街道です。
いなみち道標の先は、写真の様に、街道の両側に生垣が続く
高級住宅街です。

街道が、国道20号を横切ると、やがて右手に、写真の「東堀
の一里塚」がありました。

一里塚を過ぎると、街道は緩やかな上り坂となり、道祖神や
古い蔵が目立つ様になります。



スタートの「魁塚」から歩くこと約1時間、大きな御屋敷の
「今井家茶屋本陣」が見えて来ました。 

ここは、難所・塩尻峠を控え、「今井立場」として賑わった
そうです。
(立場とは、峠のような難所を控えた所に設けられた茶屋や
 売店などの休憩施設です。)
茶屋本陣から中を覗いてみると、多分、現在も今井家の子孫
の方がお住まいなのでしょう、写真の様な立派な御屋敷が
ありました!



塩尻峠を越えてきた皇女和宮や明治天皇もここで休息した
そうです。
茶屋本陣の前には、高島藩(諏訪藩)が設けた「今井番所」
跡の石碑があり、ここを通過するには高島藩が発行する通行
手形が必要だったそうです。


本陣の先から、急な上り坂になり、左手下に岡谷インターを
望む様になると、更にかなり急な上り坂になります。




その道幅の広い急坂を上っていくと、右手に急階段が見え、
その上の方に「石舟(いしふね)馬頭観音」がありました。

急な石段を延々と上りますが、垂直に近いくらい急で、足元
をみると高所恐怖症に・・・


怖いよ~!



階段を下りて、元の道に戻ると、街道は、石舟馬頭観音を
右手に入ってゆきますが、直ぐに、写真の「金明水」があり、
これは、明治天皇も飲まれた名水なのだそうです。


岩船観音の先から塩尻峠の本格的な登りが始まりました。

更に上ると左手に大岩が現れます。

いよいよ、塩尻峠を目指して、急な坂を上ってゆきます。

写真の様に、舗装されているので、歩きづらいことは無いし、
道に迷う心配もありませんが、延々と上り坂が続くので、
気合いを入れて歩いてゆきます。

「今井家茶屋本陣」から山道を歩くこと約1時間、曲がり
くねった坂道を上り切ると、塩尻峠の頂上に着きました!

和田峠や碓氷峠に比べると楽勝でした!

途中、誰とも会わなかったので寂しかったですが、舗装
された道路で、道に迷う心配も無く、難所のイメージは
全くありませんでいた。


峠の奥の展望台に上り、塩尻峠からの眺望を楽しみます!

手前の岡谷市の市街地の先に諏訪湖が開ける絶景です!
絶景かな!絶景かな!
空気が澄んでいればその先に富士山も望めるそうです。

英泉が描く浮世絵「諏訪ノ湖水眺望」は、ここからの冬景色です。

中央に富士山、左手は八ヶ岳で、正面の湖畔の城は高島城です。
眼下の家々は岡谷村で、右手前の塩尻峠へ向かう坂道では、馬
に乗った旅人と馬子が景色に見とれています。

中央の凍結した諏訪湖に見える氷の盛り上がった亀裂は、上
諏訪の男神が、下諏訪の女神もとに通うにための「御神渡
(おみわたり)」と呼ばれる道です。

「御神渡」のあった後の氷上は安全ということで、旅人達が、
その氷の亀裂に沿って歩いています。

塩尻峠からの下りは、最初は急ですが、先へ進むと緩やかな
下りになります。


突然、「熊出没注意」の看板。

おっとーっ、危ない危ない。

でも、大丈夫!今回は、碓氷峠の失敗に懲りて、ちゃんと
熊除けの鈴とラジオを持って来ました!
ラジオを大音量にして、鈴を鳴らしながら歩きま~す。


まもなく写真の「明治天皇塩尻嶺御膳水」と刻まれた石碑が
あり、その後ろにそれらしき井戸があります。



石碑の向かい側は上条家「茶屋本陣跡」(非公開)で、現在も
子孫の方が住まわれているみたいです。

本陣跡からさらに数分歩くと、下の写真の「夜通道(よとう
みち)地蔵」がありました。

案内板によると、「ある美しい娘が岡谷の男と親しくなり、
毎夜この道を通った」のでこの名前がついたのだそうです。

しかし、若い娘が、こんな長い真っ暗な道を、たった一人で、
毎晩歩いていたなんて・・・
恋心は恐ろしい・・・
夜通道地蔵からしばらく歩くと写真の「東山一里塚」がありました。






また延々と山道を歩いたあと、左折して、国道20号に合流
し、国道を暫く歩いてゆきます。

そろそろ、国道から中山道への分岐点があるハズ、なのですが
見当たりません・・・

注意して少し引き返して見ると、下の写真の様に消えかかった
”中山道”の文字の矢印板が・・・

危ない!危ない!

完全に通り過ぎるところでした!

旧道に入り、緩やかな坂を下ってゆくと、地下道で、大きな
道路を横切り、陸橋で中央高速道路を越えます。



高速を越えると、江戸時代に立場というとして賑わった「柿沢
集落」へ入ります。




柿沢集落は、皆、驚くほど豊かで金持ちの集落みたいな感じ
です!
何故なのだろう?






どの家も、写真の様に構えが古風で、門や庭の造りも風格が
あります。




柿沢集落の中心を抜けると、右手に「永福寺」が見えて来ます。

木曽義仲の子孫が、1707年に、馬頭観音を本尊として再興
した寺だそうです。




永福寺の少し先に「塩尻宿」の石碑が建っており、もうここ
から塩尻宿です。

下諏訪宿から塩尻宿までは約11キロです。
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中山道を歩く(29-1:下諏訪・宿場町)  ー 2013.10.18

2013-10-24 23:04:28 | Weblog

(写真は、下諏訪名物の塩羊羹を食べる池上季実子)

下諏訪宿は、東に最大の難所和田峠、西に塩尻峠を控える
ため、参勤交代の大名も必ず宿泊しました。

更に、甲州道中との分岐点であり、また、諏訪大社の門前町
としても大変賑わった宿場でした。
また、中山道で唯一の温泉のある宿場だそうです。

妙蓮寺駅から早朝5:25発の東急電鉄に乗って、JR横浜駅へ
向かいます。
横浜駅から東海道線で東京駅へ行き、東京駅で中央線に乗り
換えて、9:24にJR下諏訪駅に到着しました。

JR下諏訪駅から、前回、クラブツーリズム社・ウォーキング
の最終地点だった「諏訪大社・秋宮」へ向かいます。
今日は「諏訪大社・秋宮」から歩き始めて、先ず下諏訪宿の
宿場町のメインストリートを見物します。

宿場町の入口には、「番所跡」碑が建っています。


下諏訪の宿場町は、写真の様に、急な上り坂の両側に旅籠や
温泉宿が並びます。











上り坂を上り切った十字路の先に、皇女和宮も宿泊された
という写真の「岩波家本陣跡」(400円)があります。





京風に洗練された中山道随一の庭園を眺めながら、明治天皇
の玉座となった奥座敷で、岩波家の直系の子孫の方の”先祖
への熱い想いを込めた”説明を聞く事が出来ます。
それによると、岩波家は、問屋も営む宿場町の最高責任者で、
この本陣は、広さ865坪、建坪277坪と、とてつもない
広さだったそうです。


また、この奥座敷で、浅田次郎と池上季実子との中山道・
下諏訪宿についてのテレビ対談が、下の写真の様に行われ
ました。





なお、「岩波文庫」で有名な「岩波書店」の創設者・岩波氏
は、ここの岩波家の出なのだそうです。
へ~! あの岩波は、ここなんだ!
本陣跡を出ると、その先は「中山道と甲州道中の合流点」
です。





写真の様に、中山道は、合流点で直角に右に曲ってから、
京都に向かっています。
合流点の左側には、「木曽路名所図絵」に描かれ、松尾芭蕉
も入湯したという「綿の湯」のレリーフと石碑があります。

綿の湯は、身分によって湯船が区別されており、庶民は、
屋根なしの混浴、身分が高い人は屋根ありで、男女別々の
湯だったそうです。へ~、そうだったんだ。

ここには、問屋場もあり、大変賑わっていた場所らしいです。
広重の浮世絵は、下諏訪の宿場町の旅籠で、6人の客が下女
の給仕で夕食をとっている様子を描いています。

旅籠まで温泉の湯が引かれる様になったのは、明治になって
からのことだそうで、浮世絵の左奥の湯殿では、客が温泉では
なく、五右衛門風呂に入っています。
泊まり客は、温泉に入るときは「綿の湯」等の共同浴場へ出掛
けたそうです。
池上季実子とのテレビ対談での浅田次郎の解説によると、
「綿の湯」は、”神の湯なので、やましい者が入ると湯が
 濁る”、そうです。
心当たりのある人は、綿の湯に入らない方が無難かも・・・

浅田次郎著「一路」でも、大名行列のお殿様・蒔坂左京大夫
が「綿の湯」に入ります。
一路(上)
浅田 次郎
中央公論新社

綿の湯は、街道に面しているため、お供の侍が街道側の警護
を固めます。

お殿様は温泉から出ると、家来に白木綿の浴衣を着せられます。
これを脱ぐと、また新しい白木綿の浴衣を着せられます。
これを5回も繰り返して、水気を拭くのだそうです!

お殿様も大変だったんですね!驚き!!


旧中山道は、ここから、前掲の写真の青線の様に右に曲って
ゆきますが、真っ直ぐ進むと、前頁の写真の有名な「新鶴
本店」という羊羹屋があります。

ここでしか買えないという「塩羊羹」が絶品です!


私もお土産に買いましたが、甘さ抑えめのさらりとした味で、
塩の旨みとのバランスが絶妙な羊羹で、いくらでも食べて
しまいます・・・

羊羹の舌触りが滑らかですが、これは、十勝小豆のアクを何度
も取り除き、茅野特産の寒天で固めているからだそうです。

新鶴本店から合流点まで戻り、左に曲って中山道を進むと、
「木曽路名所図絵」にも描かれている下の写真の「桔梗屋」が
あり、現在も旅館として営業を続けているそうです。


桔梗屋の先には、昔の旅籠のままの建物だという「歴史民族
資料館」(220円)があります。

親切な係の人が、下諏訪宿の歴史を詳しく解説してくれます。


上の写真は、江戸時代の色々な前髪やマゲの種類の展示です。

下の写真は、当時の旅籠の色々な看板です。

大名の宿泊の際には、下の写真の「関札」を玄関に建てて宿泊
を知らせたそうです。



上の写真の「まるや」は「旧脇本陣」で、建物は最近、忠実に
復元したのでそうです。


上の写真は、下諏訪宿の出口です。

宿場町を抜けて、 難所・塩尻峠へ向います。
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中山道を歩く(28-3:和田峠:2日目)  長野県長和町  ー (2013.10.17)

2013-10-23 22:40:04 | Weblog

(写真は、国家「君が代」の歌詞にある「さざれ石」)

今日は、旅行社のバスで、昨日のウォーキングの最終地点
「浪人塚」まで送ってもらい、浪人塚から下諏訪宿の「諏訪
大社・秋宮」までを半日かけて歩き、その秋宮から新宿まで
旅行社のバスで帰ります。


本日のスタート地点の「浪人塚」には、写真の 「浪人塚碑」
と「水戸浪人墓」が並んでいました。

  




1864年、天狗党と呼ばれてた尊王攘夷派の水戸浪士・千余人
と、幕府側の松本・諏訪(高島藩)連合軍・千余人との間で
激戦が繰り広げられた跡で、ここで討ち死にした天狗党の
浪士を葬った塚だそうです。

浪人塚の横のパーライト工業の裏の道を歩いて行くと、やがて
国道と合流します。


国道を更に歩くと、皇女和宮も御小休みした「樋橋(とよ
はし)茶屋本陣跡」の石碑が建っていました。
  





ここからは、上の写真の「樋橋の一里塚」を右手に見て、下
諏訪宿に向かって、ひたすら国道142号を下って行きます。


延々と国道を歩き、町屋敷集落を過ぎると、テレビニュースで
お馴染みの「木落とし坂」がありました。





ここは7年に一度、傾斜度45度の急坂から、巨大な御柱を
滑り落とす勇壮な「諏訪大社の御柱祭り」で知られ、
けが人が続出するそうです。
坂の上から下の国道を見てみると、木落し坂は、テレビ画面
から想像していたのと違い、まさに絶壁という感じです!!
足元の国道上の車が豆粒の様に見え、目も眩む高さです!
木落し坂から下りてゆくと、国道沿いに「芭蕉句碑」がありました。

”ゆき散るや 穂屋のすすきの 刈残し”
(刈り残しのススキの穂に雪がちらついていてとても趣がある。
 穂屋は、信州諏訪大明神の祭りで使われるススキの穂。)   

国道に出てしばらく歩いてゆくと、やがて、国道と別れ右に
下っていく旧道入口があり、この旧道を進むと、やがて眼下
に下諏訪の街が見え始め、そして「諏訪大社下社春宮」に
着きます。
この「春宮」は、「下社」とも呼ばれ、写真の巨大な注連
(しめ)縄が見事です。





春宮の境内から左手奥に入り、赤い橋を渡った奥に、下の写真
の「万治の石仏」がありました。

ここの石仏は普通の石仏と違い、大きな自然石の上に首が
ちょこんとのっていて、ユニークな石仏として人気がある
そうです。
説明板によると、万治3年(1660年)に彫られた石仏です
が、もともとは春宮の大鳥居を造ろうとノミを入れたところ、
切り口から血が流れ出てきたため、恐れた石工が阿弥陀如来
を彫り祭ったのだそうです。

諏訪大社・春宮を出て、中山道へ戻り、少し歩くと、街道
の右手に、武田信玄由来の慈雲寺があります。

お寺の階段の途中に、矢を避ける霊力があるという下の写真の
「矢除石」がありました。

慈雲寺の和尚が、この石の上に乗り、武田信玄に「私を矢で
射てみよ」と言うので、信玄が矢を射ると、矢はすべてこの
石に跳ね返されてしまった、とのこと。


武田信玄は、この矢を除ける念力がこもった「矢除石」の
「矢除札」を受けてから戦場に向ったそうです。

慈雲寺を出て、街道に戻り、民家の壁際にある「下諏訪の
一里塚跡碑」を見ながら歩いてゆくと、下諏訪の宿場町に
入ります。

そして、宿場町の坂を上り切って、甲州街道との分岐点を通り
過ぎると、このツァーの本日のゴールの「下社秋宮」です。






秋宮の「幣拝殿」の両横に、「一の御柱」と「二の御柱」が
立てられており、「三の御柱」と「四の御柱」は幣拝殿の後
に立てられていました。

ツアーコンダクターの説明によると、通の人が「御柱」を見る
ポイントは、丸かった柱が「木落し坂」で擦り減って、平らに
なった部分を探すことだそうです。
ふ~ん・・・

境内には、国家「君が代」の歌詞にある写真の「さざれ石」が
ありました。

君が代は 千代に八千代に さざれ石の
巌(いわお)となりて 苔のむすまで

(「小さな石が寄り集まって、大きな岩となり、更にその上に
 美しい苔が一面に生えるまで、いつまでも栄えますように)

子供の頃には、”小さな石が集まって大きな岩となる”なんて
非科学的だな~、と思っていましたが、地質学的には正し
かったんですね!         
初めて、本物のさざれ石を見て、長年の疑問が解決し、感激
です!!

秋宮の見物を終わったところで、迎えに来ていたツァーのバス
に乗り込み、新宿へ向かって帰途につきます。

和田宿から下諏訪宿までは、約22キロです。
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中山道を歩く(28-2:和田峠:1日目)  長野県長和町  22 km (2013.10.16)

2013-10-22 10:05:52 | Weblog

(写真は、中山道の和田峠。左は絶壁!
 かなり深い谷で、足元は遥か下に急流で危険! 道幅は
 狭く、足元はやっと足がつける感じで石がゴロゴロ。)

山道が険しい和田峠は中山道最大の難所でした。
このため、冬期の和田峠越えは、降雪で想像を絶する
厳しさでした。

また、峠を挟んで、東の和田宿と西の下諏訪宿の距離は
22キロと長く、1日で歩くには厳しい行程でした。

浅田次郎著「一路」では、大名行列の命がけの雪中・和田
峠越えが描かれています。

次の下諏訪までの1日22キロの厳しい山道の行程は、私の
足では絶対に無理ですし、険しい峠道は迷う恐れもあるため、
この行程だけ、旅行社主催のウォーキングに参加します。
このために、前回は、今回参加する「和田峠越え歩きコース
※」の出発点である「和田峠入口」までを歩いておきました。
(詳細は「24:八幡」をご覧ください。)

※「クラブツーリズム社・中山道を歩く」
  (1泊2日で34,000円)
   ・本日:歩行12キロ=和田峠入口~浪人塚
   ・明日:歩行 8キロ=浪人塚~下諏訪宿
    (計20キロ⇒残り2キロは前回歩き終えてます。)

上記の様に、この旅行社は、和田峠越えを2日に分けて
歩きます。

本日の夕方には、峠越えの途中の浪人塚までバスが迎えに
来て、本日宿泊する下諏訪温泉のホテルまで運んでくれます。
そして、明日の朝、下諏訪温泉のホテルから、浪人塚までバス
が送ってくれます。

従って、今回は、私はツアーの案内者に付いて歩いて行くだけ
なので、道に迷う心配もありません。

今回のツアーの参加者は30名くらいで、皆さん、日本橋から
和田宿まで、ずっと一緒に歩いてきたお仲間みたいです。

ツァーは、7:30にバスで新宿を出発し、和田宿で昼食を
取った後、写真の「和田峠登り口」で、我々を降ろし、
いよいよ和田峠歩きが始まります。


「和田峠登り口」には、写真の様に、中山道の標柱が立って
います。


狭くて急な山道を上り始めますが、想像していたよりも歩き
易い山道です。


その山道を少し歩くと、峠を往来する人馬の無事を祈った
という、下の写真の「三十三体観音」が見えてきました。





三十三体観音を過ぎると、道幅の比較的に広い、緩やかな
上り坂の山道になり、下の写真の様な快適なハイキング
コースです!
  
暫く歩き、一度国道に出ると、国道の向かいに、写真の「接待
茶屋」(永代人馬施行所)がありました。

接待茶屋とは、中山道の旅人に無料で粥を提供し、また、
馬には煮麦を施した所だそうです。
建物内には、煮炊きに使用していたかまど等が残っています。

また、接待茶屋の脇には、湧き水が汲める場所があり、車で
来た人がポリタンクに水を汲んでいました。

接待茶屋を出てたら直ぐに国道から分かれて、左手の山道に
入ります。
草の生えた柔らかくて歩き易い山道を歩いてゆくと、写真の
「近藤谷一郎巡査殉職」の供養碑がありました。
明治時代に、巡査が、護送中に逃走した犯人を捕まえよう
としてこの付近で格闘となり、刺され殉職した時のものだ
そうです。



更に、山道を歩いてゆくと、苔むして滑りやすい、大きい石が
ごろごろしている歩きにくい急な上り坂に変わってきます。








  
その苔むした山道が途切れ、しばらくすると「広原の一里塚跡」です。

江戸時代、降雪期に、この辺りが一面雪の原となり道が埋もれ
たとき、9m四方のこの塚が旅人の道標となったそうです。

山道は、やがて国道と合流し、間もなく左側にドライブイン
「東餅屋」が見えてきました。
江戸時代には、この辺りには、5軒の茶屋があって名物の力餅
で繁盛していたそうですが、交通機関の発達で歩く人がほと
んどいなくなり、現在は、このドライブインだけになって
しまったそうです。


名物の力餅(野沢菜付き350円)を食べ、体力を回復します。

さっぱりとした甘さで美味しかったので、土産用の力餅も買います。

峠の頂上まで、あと1.5キロです。



国道を横断して、林の中の山道を進み、下の写真のトンネルを
くぐります。


更に進むとビーナスラインに出ますが、旧中山道は、ここから
ビーナスラインを3度横切ります。





左手にスキー場を見ながら、急な坂道を登り切ると、間も
なく、和田峠頂上に着きました!!
峠の広場には、写真の御嶽山権現碑が建っています。





この付近は、冬になると積雪が3メートル近くになり、道が
どこだかわからず、歩くのが困難だったそうです。

晴れていれば、ここから、諏訪湖と下諏訪の街が見えるそう
ですが・・・

今日は、霧雨のため、写真の様に、頂上からの景色は何も見え
ません・・・ 残念!
下の写真は、池上季実子と浅田次郎が、和田峠の頂上に来た
ときに見えた下諏訪の街です。
そうか~!
頂上からこの様に下諏訪の街が眺められたハズだったんだ!
残念!!


これから先は、「下諏訪」に向かって下るだけですが、イン
ストラクターの話だと、和田峠のホントの難所は、この先の
下り坂だそうです・・・





下り始めると、確かに、道は段差のある急傾斜の坂になり、
道幅が非常に狭く、足場が不安定です。

転げ落ちそうです・・・

峠頂上まではハイキング気分だったのですが、下りは、ツアー
参加者にも緊張感が走ります・・・

更に下ると、周辺は笹が非常に多くなり、草むらを掻き分け
ながら歩きます。
旅行社のパンフレットの必携品に「軍手」とあった意味が
分かりました!!
軍手が無いと笹を掻き分けるときに手が切れてしまいます・・

私は隊列に付いて行くだけなので、気楽なのですが、笹を
掻き分けながら、道無き道の先頭を進むインストラクター
は大変でしょうね。やはり、一人旅で無くて良かった・・・
更に、暗くて細い山道が続きます。



急な坂道を40分くらい下り続けると、ようやく前方が開け、
草むらに、写真の「西餅屋跡碑」がありました。

この辺りには、茶屋本陣など4軒の茶屋があったそうで、
東餅屋と同様に繁盛していたそうです。
西餅屋跡碑から、更に下り始めると、すぐに写真の「西餅屋の
一里塚」がありました。

一里塚跡碑を過ぎると、山道は極端な悪路と化し、身の危険を
感じる様になります・・・

林の中の道の痕跡らしきところを歩いてゆきます・・・
この辺りの山道は、地震や雨の影響でしょうか、山道が崩れて
しまった所もあります・・・

足場が急傾斜の崩れた岩道で、足をつくのがやっとの10
センチくらいの非常に狭い道幅で、足元は石がゴロゴロして
いて非常に危険です!!

山道の左側は、何と!、 断崖絶壁の崖です!!

崖下はかなり深く、足元の遥か下には急流が・・・
その崩れた石ころだらけの道をゆっくりと進みます・・・
怖いよ~!!
ps.帰宅してから「誰でも歩ける中山道五十九次」を読んだ
ら、上記の崖沿いの道について、”このルートは、崖崩れで
崩壊しており、通行不能。筆者もトライしてみたが、残って
いる旧道部分は僅か10センチほどで、崖下はかなり深く危険
なので、途中で引き返した。”と記載されていました。
やっぱりね。一人旅だったら遭難してたかも・・・
誰でも歩ける中山道六十九次 (上巻)
日殿言成
文芸社




張りつめた気持ちで、急傾斜の崩れた危険な岩道を歩き終わる
と、倒木で遮断された山道が続き、そこを抜けると、そのまま
国道へ出ました。


国道の下り坂を延々と歩いてゆきます。

国道から、左側に分かれる細い道に入り、更に下りると「浪人
塚」の公園があり、ここにバスが迎えに来てくれていました。

迎えのバスで、下諏訪温泉の豪華な「RAIKO華乃井ホテル」
へ行き、美味しい夕食を食べ、温泉に入って、一日の疲れ
を癒しました。
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中山道を歩く(28-1:和田:宿場町)   長野県長和町 -  2013.10.14

2013-10-21 18:57:59 | Weblog

(写真は、池上季実子と浅田次郎の和田宿本陣での対談)

「是より和田宿」の石碑から、八幡神社を通り過ぎ、追川に
かかる追川橋を渡ると、和田の宿場町の町並みが始まります。






和田宿は、中山道最大の難所和田峠の入口にあり、参勤交代の
大名も必ず宿泊しました。


上の写真は、広重の描いた和田峠の雪景色で、正面の山は
御嶽山(おんたけさん)ですが、浮世絵からも、和田峠越え
の厳しさが伝わってきます。

1861年の大火で、宿場町は焼失してしまいましたが、同年に
皇女和宮の将軍家への降嫁が決まり、和田宿が宿泊地となった
ため、幕府は、全国から大工を集め、昼夜兼行の突貫工事で、
何と! たった4カ月で全宿場町を復興します。

ちなみに、延べ8万人の皇女和宮一行は、和田宿を4日間
かけて通過した、というから驚きです!

これらの幕末に復興された本陣等は、現在もそのまま残って
いるため、見所の多い宿場町です。

上の写真は、和田宿本陣で、名主で問屋を営んでいた長井氏
の居住棟と表門が復元されています。
(他の施設と共用で300円)




ボランティアのおじさんの”熱のこもった”詳細な説明を受け
ます。

おじさんの説明によると、和宮関係の資料は、写しではなく
”全て本物”を展示しているそうです!

中山道の”大名行列を主人公”にした「一路」の著者・浅田
次郎のサインがありました。

一路(上)
浅田 次郎
中央公論新社

「一路」では、大名行列の命がけの雪中・和田峠越えが描かれ
ています。
「一路」の小説を書くにあたり、浅田次郎が詳細な下調べに
来た時のサインだそうです。
また、出版後の池上季実子との「一路」についてのテレビ対談
が、冒頭の写真の様に行われ、おっちょこちょいの池上季実子
が鴨居の柱に頭をぶつけて怪我をした、というその柱の説明等
の裏話もしてくれました。

上は、この本陣に於ける”和宮のお茶会”を”再現”する
イベントが行われた際の写真だそうです。

上の写真は風呂場ですが、ご覧の様に、浴槽がありません!?
浴槽が無い理由は、二つあり、一つは、当時疫病が流行した
ので衛生上の理由と、もう一つは、風呂桶に細工をされて、
命を狙われるのを避けるための保安上の理由です。
そのため、当時の大名行列は、大名用の”my風呂桶”を持ち
歩いたそうです!


写真の様に、屋根の上に石が並べられていますが、この様な
造りの本陣は、非常に珍しいそうです。

また、和田宿本陣の天井は、非常に高いのですが、これは、
2階には刺客に潜まれる恐れがあるので、2階部分を無くして
天井を高くしたのだそうです。

和田宿本陣を出て、和田宿の町並みを見て回ります。




上の写真は、出桁造り出格子の二階建ての堅牢な造りの
「かわち屋」で、上客向けの旅籠だったそうで、以下の
写真の様に「歴史の道資料館」として公開されています。
(他の施設と共用で300円)




上の写真は、かわち屋の向いの問屋だった「山本屋」です。



上の写真は、本陣・名主だった長井氏の屋敷を改築して、
現在も古い建物で営業している「本亭旅館」ですが、昔は
旅籠だったそうです。

今も、中山道を歩く人が利用しているらしいです。


上の写真は、名主・羽田家で、これまで食堂「かあちゃん家」
として利用していたのですが、現在、当主の体調不良のため
食堂は休業中とのことでした・・・

今日の昼食は、ここで、和田宿名物の郷土料理を食べようと
楽しみにしていたのに・・・残念!
和田宿の食堂は、ここ1軒だけらしいです。
仕方なく、非常用に持ち歩いているオニギリ1個で空腹を
満たします・・・ お腹すいたよ~

緩やかな上り勾配が続く宿場通りの両側に並ぶ家々には屋号
がとりつけられています。

(高札場跡)


和田の宿場町を抜けると間もなく、国道142号を横切ります
が、その交差点に、上の写真の「和田の一里塚と道標」が
あります。
この道標を目印に旧道に入り、大出集落から、依田川沿いに
歩くと、間もなく国道に合流します。
  


中山道は、国道に合流するこの辺りからは、国道の左手を
流れる川沿いの道だったのですが、現在は、川に削られて
ほとんど残っていないそうです。

上の写真の緩やかな上り坂の国道を延々と歩いてゆき、
唐沢の依田川を渡ると、左手に下の写真の旧道の入口がありました。

落ち葉の中の何となく心細い感じの山道ですが、木立の中を
歩いてゆきます。



細いみちを歩いてゆくと、やがて開けた場所に、左右に塚が
残っている「唐沢の一里塚跡」がありました。
ガイド本によると、草ぼうぼうの道なので、防水性のズボンが
必要と書いてありますが、私が歩いたときは、多分、地元の
方々が草刈りをされたのでしょう、前頁の写真の様に、下草が
綺麗に刈り取られていて、快適な遊歩道になっていました。

一里塚跡から、急な下り坂を下って、再び国道に合流します。

そして、国道のバス停・観音沢を過ぎ、道路標識に従って、
国道右手の脇道に入り、一の橋を渡ると、再度国道142号と
合流します。

その142号線が右に大きくカーブする辺りの道路の反対側に、
和田峠の登り口が見えました!

これが「古中山道」の入口で、ようやくクラブツーリズム社の
次回の旅行の出発点となる「和田峠の登り口」に到着しました。
和田宿から次の下諏訪宿までの、これから先の22キロもの
厳しい山道の行程は、私の足では、1日では絶対に踏破無理
ですし、ここの峠道は険しくて道に迷う恐れもあるため、
次回は旅行社主催の和田峠を歩いて越えるコースに参加する
ことにしました。

従って、今日は、次回に参加予定の「クラブツーリズム社」の
「和田峠越え歩きコース」の出発点である「和田峠の登り口」
まで歩いたので、ここから同じ道を和田宿まで引き返します。
(詳細は、「24:八幡」をご覧ください。)

帰りは、和田宿から、1時間15分かけて、バスで、長野新幹
線・上田駅へ向います。

新幹線の中で、上田名物「アユめし弁当」を食べながら、横浜
へ帰りました。
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中山道を歩く(27:長久保) 長野県長和町 8 km 2013.10.14

2013-10-20 09:12:59 | Weblog

(写真は、真田雪村の娘の嫁ぎ先の「石合家本陣」)

長久保宿は、八ヶ岳連峰を望む高原の宿場町で、上田方面
への分岐点であり、また、和田峠と笠取峠の上り口として、
旅籠44軒を数え栄えたそうです。

宿場町は、L字の形をしており、横棒の部分が横町、縦棒
の部分が竪(たて)町です。

竪町と横町の交差点に、下の写真の「善光寺道標」があり
ます。
ここから北国街道へ向かう上田街道(善光寺道)が分岐して
います。

道標には、写真の様に、”中山道 長久保宿 左ぜんこうじ”
とあり、ここから「上田城下」へ通じていました。

当時は、「上田道」と呼ばれており、上田は、あの「六文銭」
の家紋で有名な真田雪村の城下町でした。
また、長久保は、戦国時代には上田の真田家の代官が支配
していましたが、現在、本陣に住んでいる方は、その代官
の子孫だそうです。

下の写真の「一福処・濱(はま)屋」は、明治初期の旅館を
利用した長久保歴史資料館になっています。


  



  





上の資料館の展示写真は、明治初期の長久保宿です。


上の写真は、屋根門を持った「石合家」(非公開)ですが、
この家は、中山道で最古の本陣だそうで、大名が使用した
御殿と表門は、現存する遺構だそうです。

案内板によると、この石合家は、何と!
真田雪村の娘の嫁ぎ先だそうです!

長久保宿は、ホントに、真田一族の支配下にあったんです
ね~!



(古久屋)

本陣跡の隣は、造り酒屋であった「釜鳴屋(竹内家)」
(非公開)で、下の写真の様に、本卯建(うだつ)が
ひときわ目を引き、県内最古の町屋だそうです。


下の写真は、江戸時代には旅籠だったという「濱田屋旅館
(黒沢家)」で、現在も営業していて、中山道を歩く多くの
人々に利用されているらしいです。
(現在の建物は、明治初期の3階建て建築。)



上の写真は、横町の旅籠・竹重家で、当主は幕末の蘭方医
だったそうです。
長久保宿を抜けると、直ぐに国道に合流します。

国道を歩いてゆくと、やがて下の写真の「四泊の一里塚」
の説明板がありました。



中山道は、国道を更に歩き、依田川に架かる依田橋を渡り
ますが、川を渡る手前に、上の写真の中山道のモニュメント
の休息所がありました。

広重の浮世絵は、この依田橋に、満月がかかる夜を描いて
います。

手前の人物は、犬と遊ぶ子供、馬を引く馬子で、馬の尻掛け
には、版元である錦樹堂の商標である”山の形に林”が白く
染められています。
また、橋の上は、旅人を乗せ馬子に引かれる馬、天秤で荷物
を運ぶ農夫、風呂敷を背負い杖をつく旅人が影絵で描かれて
います。

この先の中山道は、依田川沿いです。

左手は依田川、右手は屏風の様な山、その中を和田峠に
向かう緩やかな上り坂の国道を歩いてゆきます。


上の写真、道路脇に何があるのだろう?

と思って近づいてみると、何と!
可愛らしい茅葺き屋根のバス停でした!


(街道沿いの馬頭観音)

緩やかな上り坂を上ってゆくと、やがて左手に、下の写真の
「三千僧接待碑」という変わった名前の碑がありました。

ここは、諸国を遍歴している僧侶を、無料で接待した場所
だったそうです。

この碑は、当初は、”一千僧”で建てられたのですが、目標
の一千人の僧の接待を達成したので、目標を三千人に変更
したそうです。
この碑もよく見ると、一千”が”三千”に直されています。
面白い!
(街道沿いの古い石碑)
街道沿いの馬頭観音などを眺めながらしばらく歩くと、上り坂
が一段落して、こんもりとした木立の中に、若宮八幡神社が
ありました。


若宮八幡の境内には、芭蕉の句碑がありました。

”あの雲は 稲妻を待つ たよりかな”

(空を見上げると、今にも降り出しそうな真っ黒な雲があり、
 あれを見ると、やがて雷鳴がとどろき、稲妻も光るだろう、
 と見たままの自然現象を詠んでいるのだそうです。)

また境内には、和田城主・大井信定父子の墓もありました。


暫く歩いて、下の写真の「下和田の一里塚」を過ぎ、やや急な
上り坂に変わると、もう和田宿です。

「是より和田宿」の石碑が見えました。


長久保宿から和田宿までは、約8キロです。
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中山道を歩く(26:芦田) 長野県立科町 6 km 2013.10.13

2013-10-19 13:02:55 | Weblog

(写真は、私が宿泊した金丸土屋旅館)
芦田宿は、蓼科(たてしな)山の麓に位置し、現在は、
蓼科町の中心部と重なります。

上の写真は、宿場町の入口にある常夜灯です。

芦田宿は、以下の写真の様に、本陣跡などの古い建物
が点在し、情緒ある町並みです。






(脇本陣跡)
下の写真は、本陣兼問屋だった土屋家(非公開)で、
門構や玄関も立派です。



上の写真は、私の今晩の宿、「金丸(かなまる)土屋
旅館」です。(一泊二食付き7,500円)
やっぱり、江戸時代からの宿に泊まってみたかったので
嬉しいです!

金丸土屋旅館は、街道沿いの町並みの中でも間口の広さ
が目を引きます。
出桁(だしげた)造り、連子格子の江戸時代のままの建物
の旅籠で、現在もそのまま旅館を営んでいます。
「津ちや」(土屋)と書かれた大看板が二階から下げられ
ていて、歴史を感じます。
玄関のガラス戸を開けて中に入ります。





案内されたのは廊下の突当りの宿でいちばん奥の間です。

太い梁の8畳間に立派な床の間と付け書院があり、襖
(ふすま)で仕切られた間取りは、テレビや映画に出て
くる江戸時代の旅籠そのままです。

襖の向こうは、フトンの収納棚だろうと思って、奥の襖を
開けてみりと、
何と!
隣の部屋でした!

写真の様に、隣の部屋の奥、更に奥と、8畳間が4部屋、
縦に並んだ造りです。

そうか!!
江戸時代の旅館だから、隣の部屋との仕切りは、襖1枚
ですものね・・・
いや~!
江戸時代の旅籠であることを実感した一瞬でした!
(現在は、実際には、ふすまを隔ててお客を泊めることは
 無いらしいです。)
また、お風呂とトイレは、リニューアルされていて綺麗です。
そりゃそうですよね、お風呂とトイレも江戸時代のままだった
ら、使用する気にならないですよね。
夕食は、普通の洋食でした。

宿のご主人も、すごく気さくで親切で、アットホームな雰囲気
でした。
芦田宿本陣の土屋家の分家の子孫で、大名行列のときは、殿様
は本陣、そして家来はここに泊まったらしいです。

翌日は、金丸土屋旅館で、早朝に朝食を済ませ、宿場町を抜け
て、笠取峠の松並木へ向かいます。


宿場町を抜けると、直ぐに松並木が始まりました。

松並木は、石畳の遊歩道が整備され、途中には、道祖神や
歌碑が色々と置かれていて、快適な散歩道です!




東海道・御油の松並木と共に、中山道では、往時の松並木
の景色を最も残している場所だそうです。

江戸時代には、芦田宿から笠取峠の頂上まで続く松並木
だったそうですが、現在は、宿場町の外れに1キロ程度
残るのみで、国の天然記念物に指定されています。

上の写真は、「従是東小諸領」(これより東小諸領)と
刻まれた領界石です。
松並木を抜けて、笠取峠の頂上へ向かいます。




(笠取峠の一里塚)

(笠取峠の碑)

(笠取峠常夜灯)


(笠取峠道祖神)

(笠取峠・立場図版木)
笠取峠の頂上からは、国道から外れて、くねくねと続く旧道
を下って行きます。
  



広重の浮世絵は、笠取峠を描いています。
遠くに見える茶色の山は浅間山です。
ここを超える強い風が、旅人の笠を吹き飛ばしたことから、
”笠取”峠の名前がついたそうです。

右上の峠の頂上に1軒、笠取名物「三国一の力餅」を売って
いたという茶屋が描かれています。
峠道を往来する旅人に混じって、2台の籠も描かれています。

そして、笠取峠を下りきり、五十鈴川を渡ると、松尾神社が
見えてきます。

松尾神社は、古来から酒造りの神様として、酒造家の厚い
信仰があるそうです。
この松尾神社の前から旧中山道を下ってゆけば、もう長久保宿
です。

芦田宿から長久保宿までは、約6キロです。
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中山道を歩く(25:望月) 長野県望月町 5 km 2013.10.13

2013-10-18 07:48:53 | Weblog

(写真は、望月宿のご当地グルメ「みそかつ丼」)
望月地区は、石仏が何と!3千以上存在する石仏の里
だそうです!!
また、石仏の中でも、村人の安全や旅人の無事を願う道祖神
だけでも、望月地区には、約140もあるそうです。

望月宿の入口にも道祖神が建っています。

望月宿に入ると、至る所に「ご当地グルメ・みそかつ丼」の
ノボリが旗めいていて、どの食堂にも、みそかつ丼のメニュー
があります。

取り敢えずそのうちの1軒に入って、腹ごしらえの昼食です。

みそかつ丼(1,350円)
メニューによると、カツは黄金豚のロース、雁喰(がんくい)
味噌使用黒豆の甘味を生かした吟醸タレ、とあります。
「雁喰(がんくい)豆」は、望月周辺で、昔から栽培されて
いたといわれる黒豆の一種で、この豆を復活させ、地元で
醸した雁喰味噌を使用して誕生したのが、「みそかつ丼」
だそうです。
美味い!ロースがふっくらとして柔らかく、こんなに美味い
ロースカツは東京でも食べたことがありません

望月宿は、現在の商店と江戸時代の家並みが自然に融合して
おり、趣のある町並みです!

また資料館などの施設も充実しており、時間をかけて見物
したい宿場町です。
以下は、望月宿の町並みの風景です。


  




上の写真は、名主で、旅籠と問屋を兼ねていた真山家の住宅
(旅籠大和屋)で、江戸時代の様子を留める国重要文化財です。
2階が1階よりもせり出した出梁(だしはり)造りで、連子
格子の建物は、まるで時代劇のセットです!!

真山家住宅の隣は、下の写真の脇本陣だった鷹野屋です。



上の写真は、井出野屋旅館で、3階建ての建物で現在も旅館を
営業しています。

上の写真は、履物屋の江戸時代の下駄の看板です。

望月歴史民俗資料館(300円)は、本陣跡にあり、古文書・
絵図やパネルで宿場町の歴史を展示しています。

見どころは、本陣大森家の宿札(大名などの宿泊のときに
掲げた看板)です。


(資料館の駒つなぎ石)
望月宿の外れに、写真の大伴(おおとも)神社がありました。

毎年8月15日には、勇壮で幻想的な火祭り”榊祭り”(信州
の奇祭)が行われるそうです。
  


広重の浮世絵は、望月の東の瓜生(うりゅう)峠を描いたと
いわれています。

(瓜生峠については、この前の宿場町の八幡宿を見てね。)
谷を隔てた右手の山が浅間山です。
望月宿の東北にある御牧ケ原(みまきがはら)は、昔、望月牧
といい、朝廷で使用する馬を飼育していました。
ここの馬は、全国一の最優良馬として、8月15日の満月の日
に天皇に献上していました。
広重もこの事を踏まえて、満月と共に、2頭の馬を描いて
います。
馬子が茶箱を積んだ馬と油の樽を積んだ馬を引いています。
坂の途中では、老人の旅人が、満月を眺めながら一服して
います。
望月は、この様に、平安時代から優秀な馬産地として豊かな
地区だったようです。
望月の宿場町を抜けて、狭い田舎の山道や田んぼ道を歩いて、
茂田井(もたい)へ向かいます。


  


緩やかな起伏の県道を暫く歩くと、望月宿と芦田宿の途中
にある間の宿(あいのやど)の茂田井(もたい)です。







望月宿と芦田宿で対応出来ない大通行の際に、中間の宿として
使われたそうです。
茂田井宿は、白壁の塀や土蔵の家並みが残り、また、道の横を
流れる綺麗な用水は、現在でも生活用水に利用されているそう
です。





上の2枚の写真は蔦屋(大澤酒造)で、敷地内には、民俗資料
館(無料)があり酒造りや街道文化の資料を展示しています。

茂田井地方は、良質米の産地として有名で、そのため造り
酒屋、蔦屋(つたや)と叶屋(かのうや)の2軒があります。
次の写真は、若山牧水歌碑です。

大正年間、牧水は、この茂田井の地に滞在し、酒を愛飲し、
多くの和歌を残しました。
歌碑には、”白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒は
しづかに  飲むべかりけり” と刻まれています。


上の写真は叶屋(武重家)で、国の有形文化財です。
茂田井宿を抜けると、直ぐに石割坂という急な坂になります。


勾配がきつく、大きな石があり、通行に不便だったため、石を
割り中山道を開通させたので石割坂と呼ばれたそうです。

浅間山を遠くに眺めながら、次の芦田宿へ向かいます。
そして、芦田川を渡れば、もう芦田宿です。

望月宿から芦田宿までは、約5キロです。
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中山道を歩く(24:八幡) 長野県浅科村 3 km 2013.10.13

2013-10-17 13:09:45 | Weblog

(写真は、非常に珍しい宮廷貴族衣装の「祝言道祖神」)
塩名田宿から八幡(やわた)宿まで3キロ、八幡宿から次の
望月宿までも3キロと、この宿場間は、中山道では最も短い
距離ですが、これは、塩名田宿から望月宿までの間が、かなり
の悪路だったからだそうです。
今では、道路が整備され、悪路のイメージはありませんが、
江戸時代には、上り下りの坂が多く、ここで休息する大名も
多かったようです。
そのためか、八幡宿は、脇本陣が4軒もありました。

八幡(やわた)宿に入ると、すぐに八幡(やわた)神社が
あります。






旧名を高麗社といい、渡来した高麗人を祀った社だといわれて
いるそうです。

境内に足を踏み入れると、その門の立派さ、そして見事な彫刻
に驚きます。



八幡宿の町並みは、下の写真の様に老朽化した依田家の本陣
の門が残るくらいで、宿場町の昔の面影は何もありません。

広重の浮世絵は、八幡宿の手前を流れる中沢川に架かる板橋を
描いています。

竹藪の背後は、浅間山で、対岸の丘の上に茶屋が見えます。
手前から老人の旅人、農作物を天秤で担ぐ農夫、竹籠を背負
った子供、タバコをくわえた農夫、赤子を背負った女です。
八幡の宿場町を出て、国道と分かれ、浅間山を背景に、田んぼ
の中を百沢集落へ向かいます。

百沢集落に入ります。





写真は、百沢の道祖神です。

地元では、「祝言道祖神」と呼ばれており、珍しい宮廷貴族の
装いをして酒を酌み交わしている「双体道祖神」として人気が
あるそうです。

長野県には、変わった道祖神が色々とありますが、この百沢の
道祖神は、その中でも特にユニークな道祖神です。
百沢集落を出て、瓜生(うりゅう)坂へ向います。




国道に旧道入口の表示があり、山を巻く様に、山の中の坂道を
どんどん上ってゆくと、瓜生坂一里塚跡があります。

広重の「望月」(次の宿場町)は、この一里塚付近で描いた
のだそうです。
更に上ってゆくと、ようやく瓜生峠の頂上に出ました。

下の写真の様に、頂上の木々の間から、次の宿場町の望月が
一望出来ます!

ここから先は、望月宿へ向けて下り坂となりますが、けもの道
の様な狭くて細い急坂です・・・

大丈夫かな・・・
  


瓜生峠の坂を下り切ると、鹿曲(かくま)川の手前に、長坂の
石碑群がありました。
  




そして、鹿曲川の橋を渡れば、もう望月宿です。


八幡宿から望月宿までは、約3キロです。

ここで、この八幡宿のあとの工程について、ハタと、重大な
問題に気付きました!
今回の一人旅は、この八幡宿のあと、中山道を、望月宿
→芦田宿→長久保宿→和田宿と進み、和田宿から横浜へ帰宅予定です。

すると、次回の一人旅は、和田宿→下諏訪宿と進む行程になりますが、
何と!
和田宿から下諏訪宿への行程は、22キロもあります!!
しかも、22キロの行程には、中山道で最も厳しい和田峠越え
の山道も含まれます!

厳しい山道も含めて22キロの行程は、私の足では1日では
絶対に無理ですし、もし、山道の途中で日没になったり、
道に迷ったりしたらアウトです!
どうしたら良いのだろう? ピンチです!!

でも一人旅の皆さんはどうやって和田峠を越えているのだろう?
そこで、インターネットで”和田峠越え 一人旅”で検索してみました。
すると、
・「気ままな旅人」さんの場合
   下諏訪駅からタクシーで和田峠の上り口まで行く。
     ⇒なるほど全体の1/3の距離はタクシーか
   30分近く上ったところで急に道が分からなくなった。
   消えかけた道をかろうじて上って行く。
     ⇒怖い~!何だか一人での峠越えは不安だな・・・
・「ひとり歩きの中山道さん」の場合
   下諏訪駅から和田峠方面へ向かうバスは夏の間
(7/30~8/18)だけで1日1便しかない。
   東餅屋でバスを下車して歩き始める。
     ⇒う~ん!私が歩く時期は、1日1便のバスも無い
のか・・・

・「日帰り峠越えさん」の場合
   下諏訪駅からタクシーで和田宿側の唐沢まで行き、覚悟
して歩きはじめる。
   当日の行程: 5.4km (4 時間20 分)
     ⇒う~ん!タクシーを利用して、毎回小刻みに峠を
      踏破する作戦ですね・・
      それにしても、1日に歩けた距離がわずか
5.4kmか~、
      う~ん、和田峠は厳しいな~・・・

皆さんのどの方法もね~・・・
これは、という方法がありませんね~・・・
峠の途中からタクシーを呼ぶ案も、私の携帯は、山中では圏外
が多いからな~・・・
そうだ!
以前のバス旅行でご一緒した方から頂いた”中山道歩き旅行
社”のパンフレットを持ってきていることに気付きました!

⇒クラブツーリズム社・中山道を歩くNO19.:1泊2日で34,000円
1日目:歩行12キロ=和田峠入口~和田峠浪人塚、
2日目:歩行8キロ =和田峠浪人塚~下諏訪宿

上記の様に、この旅行社は、和田峠越えを2日に分けて歩いています。
なるほど、峠越えを2日に分けて、1日目の夕方は、峠越えの
途中までバスが迎えに来て、翌朝はその地点までバスが送ってくれる訳だ!
これならイケる!
ツァーの案内者に付いて歩いて行くだけだから、道に迷うこと
もないし!
とりあえず、電話で予約しました。

ただし、私の売りである「中山道”完全”踏破の”一人旅”」
の”完全””一人旅”に疑問符が付くかもしれません・・・
でも、そんな事も言っていられません。
面子にこだわって危険を冒すよりも、ここは安全を取ることにしました。
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中山道を歩く(23:塩名田) 長野県浅科村    3 km 2013.10.13

2013-10-16 11:46:28 | Weblog

(千曲川の「舟つなぎ石」(赤丸印)、遠景は浅間山。)
今年は、梅雨の異常気象・長雨がようやく終わったと思った
ら、今度は、猛暑が続いて、中山道歩きがなかなか再開出来
ないでいました。
更にこの頃、私は、五十肩の痛みにも悩まされていました。
このところ、ようやくその猛暑もおさまり、私の五十肩の痛み
も小康状態となったので、中山道の一人歩き旅を再開すること
にしました。

横浜を6時頃に出発、東京駅で長野新幹線に乗換えて佐久平
まで行きます。
佐久平からバス10分の距離にある、前回のゴール地点の
塩名田宿へ向かいます。
JR横浜(6:15)→(東海道線)→東京(6:52)→(長野
新幹線)→(8:21)佐久平(8:52)→(9:02)塩名田

写真は、佐久平駅から塩名田宿へ向かうバスの中ですが、乗客
は私一人でした。

田舎はマイカー化で、バス会社の経営は大変なんですね・・・
前回の終了地点である塩名田宿バス停に着きました。

江戸時代の信州では、塩は貴重品だったため、その塩が運ば
れるルートを特別に「塩の道」と呼び、そのルート沿いに、
塩尻、塩名田などの地名が残っているのだそうです。
塩名田宿は、下の写真の様な江戸時代の雰囲気を残す古い
町並みの家々が点在します。







下の写真は、塩名田宿本陣ですが、かなり雰囲気があります。

宿場町を西へ進むと、すぐに千曲川に突き当たります。
千曲川の”舟つなぎ石”を見ようと、宿場町の外れの川岸に
下ります。川岸には、写真の様な3階建の家が
点在し、こちらも雰囲気があります。


3階建の家の周辺は、近隣の皆さんが老若男女、総出で、
秋祭りの準備の真っ最中でした。

塩名田宿は、宿はずれに、千曲川が流れていたので、増水する
と川留めで宿場が潤ったそうです。
これは、増水すると、渡し舟の料金が非常に高くなり、宿場に
逗留する方が安くついたためだそうです。

千曲川の川岸を右に下りると舟つなぎ石の説明板がありました。
説明板によると、江戸時代には、千曲川は橋を架けても
大雨で流されてしまうので、江戸時代には、舟を並べて”舟の
橋”を作って川を渡っていました。
そして、その舟橋が流されない様に、この「舟つなぎ石」に
穴を開けてロープで止めていたそうです。

写真の赤丸印が「舟つなぎ石」です。


(写真の舟つなぎ石の上部に開いている穴が舟をつなぐため
の穴です。)


舟つなぎ石を下に眺めながら千曲川に架かる中津橋を渡ります。


上の写真の位置が、 広重の浮世絵が描かれた場所だそうです。
(赤丸印は「舟つなぎ石」)
遠景は浅間山、そして渡し場付近は、現在は、写真右の建物の
川魚料理店になっています。

広重の浮世絵は、ゆったりと流れる千曲川の渡船場風景を描いています。

川岸に舟がつながれていて、3人の船頭が、茶屋で休んでいる
仲間と合流しようと、話ししながら歩いています。
フンドシ姿では、冷たい川風が見ししみる様で、ゴザ等で寒さ
を凌いでいます。
茶屋では3人の船頭が火の周りにうずくまっています。
茶屋の隣には、宿場を代表する大ケヤキを配しています。
(大ケヤキは、現在、根だけになっています。)
千曲川を渡ると、対岸は、御馬寄(みまよせ)の集落で、江戸
時代には、千曲川一帯の米の集散地として栄えたそうです。



暫く歩くと、田んぼの中に、御馬寄の大日如来像があり、その
隣に芭蕉句碑がありました。

”涼しさや 直ぐに 野松の枝の形(なり)”
(まるで自然のままの見事な枝ぶりの松の姿を見ていると、
いかにも涼しさが伝わってきそうだなあ。)
街道が国道に合流すると、直ぐに下の写真の「御馬寄の一里
塚」跡がありました。

浅間山を、ずっと右手に見ながら、秋晴れの下、快適な
ウォーキングが続きます!

街道の両側には、稲刈り風景が展開して、子供のころの
懐かしい日本の原風景が蘇ります。


御馬寄の集落から緩やかな坂を上ると、やがて道は、田園風景
の緩やかな下り坂になり、八幡宿に着きました。

塩名田宿から八幡宿までは距離が短く、約3キロです。
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中山道を歩く(22:岩村田) 長野県佐久市 5km (2013.5.23)

2013-10-15 21:36:02 | Weblog

(”昭和に発見された武田信玄の遺骨”を納めた霊廟)

岩村田宿は、江戸時代は、内藤氏1万5千石の城下町でした
が、旅人は、規制が厳しくて堅苦しい城下町での宿泊を
嫌ったので、旅籠は少なく、また、大名も遠慮して城下町
を避けたので、本陣、脇本陣すらなかったそうです。

でも、岩村田宿は、江戸時代には、佐久地方の経済の中心
として栄え、現在も、佐久市の繁華街として栄えています。



岩村田宿に入ると、最初に、街道の歩道に、下の写真の
善光寺道の道標(復元)があります。


道標には、「善光寺道 小諸二里」と刻まれていますが、
これは、ここから2里(8キロ)で小諸に出ると、そこで
善光寺道(北国街道)へ合流するからだそうです。

道標の少し先の街道沿いの左手に、龍雲寺があります。

龍雲寺は、武田信玄のゆかりの寺です。

武田信玄は、天下統一のための上洛途中で、病死してしまい
ます。

そして、その遺言により、1年間は、その死が敵に知られ
ない様に、影武者が使われます。

武田信玄の遺骨は、生前に親しかったこの寺に埋葬された、
と伝えられていました。
そして、昭和になってから、この寺の修理の際に、偶然、
骨つぼが見つかり、詳細な調査の結果、武田信玄の遺骨で
あることが確認されたそうです。

冒頭の写真は、武田信玄の遺骨が納めてある信玄霊廟で、
下の写真がその五輪塔です。


街道沿いの佐久市の繁華街が、岩村田宿と重なるので、
宿場町の名残りはありませんが、お店の名前を見てゆくと、
江戸時代の屋号らしき店名が多いのに気付きます。


繁華街を右手に入ると、武田信玄が開いたといわれる写真
の西念寺があります。


山門の天井には、写真の天女の絵が見えます。


浅田次郎著「一路」では、一路の参勤交代の行列が、ここ
岩村田のお殿様の城下町を通過する際の、両家の確執が
描かれいています。

一路(下)
浅田 次郎
中央公論新社

ここ岩村田のお殿様・内藤正誠は、17歳の若さであり
ながら、大名の将軍への謁見の取次役という大役を務めて
いました。

この大役を果たしたので、幕府から、ここ岩村田に築城する
ことを許されます。
岩村田のお殿様は、若さのせいもあり、このことで有頂天で、
鼻高々だったそうです。

(小説の設定された一路の参勤交代の時期に、実際の歴史上
も、岩村田の殿様は、ちょうど築城中だったそうです。)
その様な折に、岩村田宿を通りかかった一路の主君・蒔坂
(まきさか)左京太夫が、岩村田の殿様に会いたい、と
言いだします。
というのは、蒔坂左京太夫は、内藤正誠が幼い頃に、面倒を
見てあげた、という経緯があったからです。
ところが、岩村田の殿様・内藤正誠は、この頃、手のつけ
られない天狗になっており、蒔坂左京太夫を迎えるための
座布団を放り投げてしまします。
蒔坂家の家来達はいきり立ち、一触即発!
このまま、刃傷沙汰になるのか!

中山道は岩村田繁華街のメインストリートを進み、相生町
交差点を右折して、「相生(あいおい)の松」へ向かいます。



英泉の浮世絵は、高利貸しの座頭(ざとう)同士の喧嘩
という珍しいテーマです。

岩村田宿は、善光寺道、下仁田道、甲州街道が分岐する
交通の要所であったため、物資運送や金銭を巡るトラブル
・喧嘩が絶えなかったそうです。

英泉は、この様な背景を念頭に、描いたのではないか、
と言われているそうです。

街道は、左手の巨大な浅間病院を過ぎると、大きくカーブ
し、その突き当たりに「相生の松」があります。



皇女和宮の行列は、非常に縁起を担いでいましたが、ここ
相生は縁起の良い地名ということで、一行は、ここで
わざわざ野点(のだて)を楽しんだそうです。

当時の松は枯れてしまい、写真の松は新しく植え直された
松です。

相生(あいおい)の松を過ぎて、更に進むと、街道の両側
は、リンゴ園に変わります。


途中の集落には、下の写真の様な、古くて立派な造りの
民家が点在します。
  



そののどかな田園風景の中を歩いてゆくと、やがて街道は、山
の中に入ってゆき、右手に川の流れる谷沿いの道になります。
その川の反対側に、重要文化財の駒形神社がありました。




重要文化財の神社ですが、上の写真の様に意外と質素です。
境内には、下の写真の不思議な形のご神岩?もあります。



駒形神社を過ぎると、下り坂になり、浅科(あさしな)村
に入ります。

岩村田宿から塩名田宿までは、約5キロです。

今日は、早めに、いったんバスで、塩名田宿から岩村田宿
へ戻り、岩村田宿の1キロ北にある長野新幹線・JR小海線
の佐久平駅へ向かいます。
佐久平駅から、旅費節約のために新幹線ではなく、各駅
停車のJR小海線で帰ります。

高原列車で宣伝しているだけのことはあって、信濃川を
ジグザグに渡りながら進む小海線の車窓の景色はすばらしく、
山野辺、清里などの車窓の風景を楽しむことが出来ました。

JR佐久平(3:10)→(小海線)→(5:30)小淵沢(5:34)→
(中央線)→(6:23)甲府(6:36)→(8:07)高尾
(8:12)→(8:32)八王子(8:37)→(横浜線)→(9:20)新横浜
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