ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

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中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

甲州街道を歩く(00-2:日本橋から新宿へ) 2020.6.24

2020-07-28 09:29:04 | Weblog

      

(写真は、「桜田門外の変」の舞台となった「桜田門」の門外)

 

前回は、「日本橋の三越」をスタートして、一石橋の「迷子知らせ石標」や、「伝奏屋敷跡」(浅野内匠頭と吉良上野介の因縁の場所)などを見物して、和田倉門に突き当たりました。

今回は、その和田倉門を左折して、江戸城の「内堀(大手濠)」沿いに、「内堀通り」を進みます。

(仕事帰りに「内堀通り」沿いに歩いた記録は、「内堀通りをく」を見てね。)                                                       

更に、内堀通りの日比谷濠の脇を歩いて行くと、日比谷交差点に出ます。

甲州街道は、日比谷交差点で、濠に沿って右折します。

この交差点を横断して、向かいにある上の写真の「日比谷公園」に入ります。

公園の入り口を入り、右手に少し歩くと、写真の「日比谷見附」跡があり、見附の石垣が残っています。

見附(みつけ)とは、見張り番所のことで、江戸城には主な見附だけでも36か所もありました。

ほとんどは、堀に掛けられた橋と一体的に門が設置され、門の内側に番兵が勤務する番所がありました。

皆さんご存じの「赤坂見附」の地名も、この36か所のうちの一つです。

 

日比谷見附跡を見物したら、直ぐに、日比谷公園を出て、再び、内堀沿いに、「桜田門」へ向かいます。

上の写真の「桜田門の門外」は、1860年3月3日の朝、大老の井伊直弼が、水戸藩の脱藩浪士に暗殺された、いわゆる「桜田門外の変」の場所です。

事件のとき、井伊家の家臣60名くらいが、井伊直弼を護衛をしていましたが、当日の朝は季節外れの大雪だったため、家臣たちは、刀の柄が濡れない様に、刀の上から柄袋を被せて、紐でしっかりと縛っていました・・・

このため、水戸浪士の急襲に、即座に刀が抜けず、主君の井伊直弼は殺されてしまいました!

護衛の家臣は、8名が切られて死亡、5名が重軽傷、残りは無傷でした。

事件後、生き残った家臣たちに、藩から処分が下ります。

重軽傷者は、主君を守ろうとして切られたということで、全員が名誉の切腹!!

無傷の者は、主君を守ろうと戦いすらしなかったということで、全員が斬首のうえ、家名は断絶!

可愛そう~・・・

井伊直弼は、安政の大獄で、吉田松陰や橋本左内らの偉人たちを処刑したので、自分が殺されたのは仕方ないかも知れません。

また、襲撃した水戸藩浪士たちは、死を覚悟のうえでの決行だったでしょう。

しかし、襲撃を逃れて、何とか運よく生き残った家臣たちには、平和ボケの安穏な毎日が続いていたのに、いきなり、切腹か斬首の何れかしかなかったとは!、武士の社会は厳しい!

一方、襲撃した水戸藩の脱藩浪士たちは、襲撃時に斬られて死んだ者1名、負傷して自刃した者4名でした。

その後、8名は自首して、後に斬首。

3名は逃走しましたが、1名が捕まって斬首、そして、残りの2名は明治まで生き延びました。

桜田門を起点とする道路が「桜田通り」です。

(仕事帰りに桜田通り沿いに歩いた記録は、「桜田通りを歩く」を見てね。)                        

桜田門を右手に見ながら、桜田濠沿いに歩いて行きます。

写真左の赤レンガの「法務省」は「米沢藩上杉家江戸屋敷」跡、そして、写真右の「警視庁」は「豊後臼杵藩松平家屋敷」跡です。

歩道脇に写真の「柳の井」の説明板がありました。

説明板によると、ここ桜田濠の土手の下の方に井戸があり、井戸の傍らに柳の木があったことから「柳の井」と呼ばれていたそうです。

間もなく、緩やかな上りの三宅坂付近に差し掛かり、左手に、最高裁判所や国立劇場を見ながら進みます。

三宅坂交差点の辺りに来ると、桜田濠の先に上の写真の「半蔵門の土橋」が見えてきます。 

半蔵門まではもう少し上り坂が続きます。  

下の写真の「半蔵門」に到着しました。

半蔵門は、現代でも、何故か、他の門と比べ警備が厳重です。

上の写真のずっと奥に微かに見える門が半蔵門ですが、これ以上は近づけません。

望遠を使用して、上の写真の半蔵門を撮影しました。

「半蔵門」の名前は、あの有名な忍者の「服部半蔵」が、この門の近くに居を構えて警備に当たっていたことに由来します。

江戸城に危難が迫った際、将軍は、服部半蔵の手引きで、江戸城の半蔵門から甲州街道に入り、甲府城へ落ち延びる手筈でした。

このため、甲州街道に沿って、「番町」には「旗本の大番組」が、「新宿・百人町」には「鉄砲隊」が、「八王子」には「千人同心」が配置され、逃走する将軍に、途中で合流する予定でした。

半蔵門の前を左折して、新宿通りを歩いて行きます。

(仕事帰りに新宿通り沿いに歩いた記録は、「新宿通りを歩く」を見てね。)                              

新宿通りを少し歩くと、左手の狭い道に、写真の「太田姫稲荷神社」がありました。

案内板 によれば、室町時代に、太田道灌の姫が、当時大流行した天然痘に罹りました。

このとき、太田道灌に、山城国(京都府南部)の「一口(いもあらい)の稲荷神社」に祈願すれば必ず治る、と言う人がいたので、早速、山城国の一口稲荷神社に参詣祈願しました。

すると、姫の病がたちまち治癒したので、お礼に、一口稲荷を伏見から勧請して、この「太田姫稲荷神社」を建てたそうです。

更に、新宿通りを歩いて行きます。

新宿通り沿いの上の写真の「上智大学」は、「尾張徳川家中屋敷」跡に建っています。

四谷駅に到着しました。

四谷駅の麹町口の「雙葉学園」の前には、写真の「四谷見附」の石垣があります。

四谷駅前を通過して、更に、新宿通りを新宿方面へ向かいます。


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4 コメント

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桜田門外の変 (hide-san)
2020-07-29 12:00:32
せっかく桜田門外を通られたのに、

井伊邸の跡をご覧にならなかったのは残念!

井伊直弼を討ち取ったのは水戸浪士隊に参加していた
薩摩の有村治左衛門だったと、
この間テレビでやって居ました。

ご参考https://blog.goo.ne.jp/wxm68971-1936/s/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89
井伊直弼の屋敷址 (ウォーク更家)
2020-07-29 14:00:47
そうでしたか、井伊直弼の屋敷址には碑が建っていて、加藤清正が作った井戸も残っているんですね。
知りませんでした、今度、立ち寄ってみます。

私も、襲撃した水戸浪士に薩摩藩士も加わっていたという話を聞いたことはありましたが、それが有村治左衛門だったんですね。
(ウォーク更家) さん へ (もののはじめのiina)
2020-08-02 14:17:30
日本橋から新宿まで歴史散歩もいいですね。^^

ただ、ブラブラしても得るものは少なそうですから、やはり、下調べして丹念に歴史探訪する必要がありそうです。
   このコースは、クルマでさえも相当昔に走った程度です。

> カンカン地蔵は・・・原型をとどめていない石像に・・・像を壊してしまっても許される風習だったんでしょうか
すこしでもご利益を得たいのという庶民の素朴な信仰心だと思います。


下調べが重要 (ウォーク更家)
2020-08-02 21:07:44
街道ウォークは、下調べをしないと、せっかくの史跡に気づかず、にどんどん通り過ごしてしまいます。

そうですね、私は、東海道を踏破したときに、ただ、ブラブラ歩いても、得るものが少ないことを痛感しました。

そこで、下調べしてから歩く方針に転換しましたが、それを繰り返ししているうちに、自然と下調べしてから丹念に歴史探訪する習慣がつきました。

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