(写真は、黒田官兵衛のシンボルである朱漆塗合子形兜と黒糸威五枚胴具足。)
8月19日(火)から29日(金)まで実家の熊本へ
帰省しましたが、29日に帰京する際に、航空便の
都合で熊本から福岡空港へ向かいました。
飛行機の待ち時間を利用して、福岡市博物館の
黒田官兵衛展(7月26日~9月21日)に寄って
来ました。
博物館へのアクセスのパンフレットに従い、
繁華街の天神バスセンター前の「1Aバス停」
に停まっていたいたバスに乗り込みます。
バスは、発車すると直ぐに都市高速に入ります?
え? すぐ近くの博物館へ行くだけなのに、何で高速に?
しまった!? 行先を確認しないで乗ってしまった・・・
高速に乗ったということは、佐賀県へ向うのかな・・・
でも、バスは、直ぐに、同じ市街地の百道(もも
ち)ICで高速を降りました。
博物館北口で下車。やれやれ、ホッ・・・
福岡市博物館の敷地は広大で、建物も前の池も
写真の様に立派です。
博物館の前の素敵な通り沿いには、福岡タワーや
図書館もあります。
博物館の1階には大きなエントランスがあり、
2階には、黒田官兵衛の生涯を表した博多人形
が並んでいます。(無料)
(下の写真の博多人形は、大宰府で和歌を詠み
ながら光と二人で暮らす勘兵衛です。)
同じ2階の黒田官兵衛展(1,300円)の入口には、
ドラマで岡田准一と竹中直人が実際に着ていた
衣装が飾られています。
大河ドラマのこれまでの前半は、兵庫県が中心
でしたが、これからの物語後半は、大分県と
福岡県が中心になります。
官兵衛は、大分・中津藩の初代藩主になったのち
に隠居し、長男の長政が福岡藩の初代藩主になり
ます。
ちなみに福岡という地名は、黒田家ゆかりの岡山
の福岡という地名を付けたものだそうです。
館内は、全て撮影禁止のため、以下の写真は、
全て購入したカタログの写真です。
今回の展示物は、官兵衛のシンボル「白檀塗
合子形兜 」、国宝太刀「押切長谷部」、
家臣・母里太兵衛の槍「日本号」など、
目玉がいっぱいです!
会場の順路は、官兵衛の人生に沿って5部構成に
なっていますので、私もこれに沿ってレポート
します。
「プロローグ 戦場のよそおい」
上の写真は、官兵衛のシンボルである「白檀塗
合子形兜 」(びゃくだんぬり ごうす なり
かぶと)」の本物です。
(岩手・もりおか歴史文化館蔵)
官兵衛が、常々、陣中で実際に身につけていた、
この白檀塗合子形兜の本物は、8月19日(火)
~8月31日(日)の期間限定展示です!
ラッキー!!
この一風変わった兜は、身と蓋からなる容器で
ある合子をかたどったものだそうです。
でも、白檀塗合子形兜が、なぜ東北の博物館に
あるの?
官兵衛は、家臣の栗山善助に、この兜を与え
ましたが、1632年の黒田騒動の際に、善助の子
の栗山大膳が、盛岡藩に「お預け」になって
しまいます。
その時に、大膳が、この兜を一緒に盛岡藩に
持って行ったのだそうです。
そうか!
それで、本物は現在も「岩手・もりおか歴史
文化館」にあるんだ!
知らなかったなあ~!
この兜は、白檀塗り(びゃくだんぬり)といって、
銀箔を施した上に朱の透き漆(すきうるし)が
かけれられているので赤く見えます。
現在は、表面が黒ずんでいますが、これは銀が
酸化して黒くなったためだそうです。
上の写真は、黒田官兵衛のシンボルである
「朱漆塗合子形兜」と「黒糸威五枚胴具足
(くろいと おどし ごまいどう ぐそく)」
の甲冑です。
この兜は、三代藩主・黒田光之が、官兵衛の
白檀塗合子形兜を模して作らせたものであり、
官兵衛が着用した兜ではありませんが、その下
の鎧は官兵衛が実際に着用したものだそうです。
「第一章 播磨に生まれ」
官兵衛は、小寺政職の重臣として姫路城を預かる
黒田職隆(ドラマでは柴田恭兵)の長男として
誕生しました。
上の写真の「国宝太刀:圧切長谷部(へしきり
はせべ)」は、官兵衛が織田信長に初めて謁見
した時に与えられたという刀の本物です。
(福岡市博物館所蔵)
私は、刀の価値は分かりませんが、黒く重厚な
光を放っていて印象的です。
(上の写真の博多人形は、官兵衛が織田信長への
初めの謁見で、圧切長谷部与えられている
ところです。)
「第2章 有岡城幽閉」
秀吉の中国攻めの最中に、官兵衛は、信長に謀反
を起こした荒木村重を翻意させるために、有岡城
に乗り込みますが、逆に囚われの身となって
しまいます。
下の写真の博多人形は、土牢に閉じ込められた
官兵衛の世話をした牢番の加藤又兵衛と息子・
王松で、後に官兵衛の家臣になります。
上の写真は、官兵衛が有岡城に幽閉された時に、
黒田家家臣団が一致団結を妻・光(てる:ドラマ
では中谷美紀)に誓った「黒田氏家臣連署起請文
(きしょうもん)」です。
上の写真は、竹中半兵衛(重治)(ドラマでは
谷原章介)が、岐阜の寺に送った書状です。
(岐阜・敬念寺所蔵)
竹中半兵衛の史料は少なく、斎藤、浅井、秀吉と
仕えたにも拘わらず、現存する書状は、この一点
のみだそうです。
下の写真の博多人形は、"そんな紙切れに頼るな”
と、意見して、 勘兵衛が秀吉から貰った領地約束
の誓文を、半兵衛が火中に捨てているところです。
上の写真は、家臣・母里太兵衛の槍「日本号」です。
(福岡市博物館所蔵)
刃長79.2センチ、総長321.5センチと、
3メートルを超える非常に長い槍です!
日本号には、敵の刃を受けた傷があります!
官兵衛の家臣の母里太兵衛(ドラマでは速水
もこみち)は酒豪で知られ、福島正則に強要
された大盃の酒を見事に呑みほし、正則から
この鎗を手に入れたとされます。
このため「日本号」は、別名を「呑み取りの鎗」と呼ばれています。
このエピソードをモチーフにしたのが民謡「黒田節」です。
酒は飲め飲め 飲むならば 日の本一の
この槍を♪
飲みとるほどに 飲むならば これぞまことの
黒田武士♪
柄は螺鈿細工で、刃先には龍の彫刻があり、武器
と言うより芸術品の様です。
キラキラとしていて非常に綺麗です!
下の写真は、「黒田二十四騎図」で、勘兵衛・
長政を支えた家臣たちです。
「第3章 秀吉を天下人に」
官兵衛は、中国大返し・山崎の戦いにより、秀吉
を天下人の地位に導き、九州攻め・小田原攻め等
で活躍し、戦国時代に終止符を打ちました。
上の写真の観音菩薩立像は、官兵衛が所持して
いた念持仏で、兜に取り付けて、戦場でのお守り
にしていました。
本物は、意外と小さく高さ僅か3.9cmです。
上の写真は、黒田長政(ドラマでは松坂桃李)が
若い頃から最も愛用した甲です。
(関ヶ原戦陣図屏風:福岡市博物館所蔵)
官兵衛は、秀吉没後には、関ヶ原の戦いで、徳川
家康に味方して九州を席巻しました。
上の写真は、黒田長政が関ヶ原の戦いで着用した
甲冑です。
四角の兜は、源平合戦の”一の谷”の厳しい崖を
表現したものだそうです。
「第4章 如水となりて」
官兵衛は、朝鮮出兵の途中で帰って来たと秀吉
の怒りをかいます。
官兵衛は、この事で死を覚悟したことを機に
出家し、これ以降、如水と号しました。
上の写真は、死を覚悟した勘兵衛の遺言状です。
「第5章 文雅のたしなみ」
秀吉の軍師として勇名をはせた官兵衛は、また
文武両道の人でもありました。
茶の湯や和歌・連歌に造詣が深く、またキリスト
教徒でもありました。
連歌好きだった官兵衛は、晩年を大宰府で過ごし、
連歌で悠々自適な生活を送っていたようです。
”松梅や末永かれと緑立つ山より続く里はふく岡”
下の写真のこの歌に、「福岡」という地名が
初めて出てきます。
上の写真の様に、キリシタンだった官兵衛の書状
には、ローマ字の印が押されています。
「エピローグ」
何枚もある官兵衛の肖像画の中で、下の写真が、
実際に晩年の官兵衛を見て描いたのではと
思われる細かな描写の肖像画です。
上の写真は、官兵衛の辞世の和歌短冊です。
「思いおく 言の葉なくて ついに行く
道は迷わじ なるにまかせて」
(世を達観した心境と、59年の生涯を存分に
生き抜いた満足感があふれています。)
見終わっての感想としては、内容としては官兵衛
関係のものが多かったんですが、信長、秀吉、
黒田家家臣団などの周辺人物のゆかりの品の展示
・解説もあり、なかなか見ごたえがありました。
展示室を出て、同じ2階のレストランで、写真の
「勘兵衛篭盛膳」を食べました。(1,500円)
黒田藩が栽培を始めたとされるレンコンや、
黒田家の戦陣料理だった郷土料理・筑前煮、
福岡名物・おきゅうと等の食材を組み
合わせたお膳です。
その中でも、写真の左下の「おきゅうと」は、
懐かしい一品です。
寒天みたいな味ですが、材料は海藻です。
学生時代、下宿の朝食で毎日出ていました!
福岡市博物館から福岡空港は近いので、4時頃
には、羽田空港に到着しました。
ついでに、羽田空港内の無料循環バスに乗って、
国際線ターミナルに立ち寄ってみました。
羽田空港の国際線ターミナルでは、「羽田
江戸まつり」(8/28~8/31)をやっていました。
写真の様に、江戸時代の扮装をした役者が歩き
回っていました。
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