ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

奥州街道を歩く(25:芦野) 栃木県那須塩原市 12km 2018.11.20


(写真は、江戸初期の創業で、現在も営業を続ける鰻屋兼旅籠の「丁子屋」)


朝、芦野温泉ホテルを出て、「芦野宿」への坂道を下りて
行き、宿場町の入口に着きました。

「芦野宿」は、那須7騎の一人である芦野氏の城下町として
発展し、江戸時代は、旗本で3千石の芦野氏の知行地と
なりました。

芦野氏は、那須一族の血をひく名門だったため、3千石であり
ながら1万石以上の待遇を受け、参勤交代も行いました。

また、奥州街道の宿場として、40軒余りの旅籠があり
ました。



芦野宿に入ると、右手に、日本三聖天の一つという上の写真の
「三光寺」があります。

三光寺を後にして、芦野宿の中心街に進んで行きます。



芦野宿に入ると、 道の両側の各々の軒先に、屋号を記した
石灯篭が建っています。




芦野の交差点で右折して、芦野郵便局の横を通って進むと、
芦野家の重臣だった「平久江(ひらくえ)家」で、現在も、
ご子孫が住まわれています。

写真の「平久江家の門」は、上級武家屋敷の門が当時のまま
現存しています。

平久江家の庭には、上の写真の左端の推定樹齢400年の
「平久江家のしだれ桜」があります。


平久江家の前の道を進んで行くと、廃城になった館山城の本丸
の跡に、前頁の写真の那須歴史探訪館がありましたが、残念
ながら閉鎖中でした。

この那須歴史探訪館の前の丘の上に、芦野氏の居城の
「芦野城」(芦野氏陣屋跡)の本丸、二の丸、三の丸の跡
があるそうです。

城跡を目指して坂道を上って行きますが、急な坂道が延々と
続き、途中で息切れしてしまいました・・・

心残りですが、今日は、まだ先が長いので、急な坂道を芦野の
メインストリートの交差点までまで引き返します。




メインストリートの右手の奥に芦野氏の菩提寺の「建中寺」が
あります。

寺の右側を上がって行くと、小高い所に、歴代の芦野氏と家族
の墓がありました。

江戸中期になると、当主の芦野氏は江戸滞在が多くなり、
亡くなると、駒込千駄木の總禅寺に葬られ、菩提寺である
ここ建中寺には、遺髪のみが埋葬される様になったそうです。





街道のメインストリートに戻ります。



上の写真は、「石の美術館」ですが、この辺りに「臼井本陣」
があったらしいです。
地場産の芦野石を使った上の写真の「石の美術館」は、あの
新国立競技場を設計した隈研吾氏の設計らしいです。

下の写真は、江戸初期の創業の旅籠「丁子屋」(ちょうじや)
で、現在は15代目の当主だそうです。

店の奥には、当時からの蔵屋敷が残っているそうです。

現在も、旅館と割烹の兼業で、この店の鰻は、江戸時代からの
名物だそうです。

お昼近くになったので、その名物の鰻重(2,500円)を
頂きます。


鰻重で満腹になり、メインストリートを進むと、1717年建立
の上の写真の新町の地蔵尊のところで芦野宿は終わりでした。

ここで、奈良川を渡って国道に合流します。

芦野宿を出ると、直ぐ左手の「那須湯泉(ゆせん)神社」へ
向かう参道の脇の石囲いの中に「遊行柳」(ゆぎょう
やなぎ)があります。

遊行柳を訪れるのは、「奥の細道バスの旅」に続いて2度目
です。

(バスの旅のときの遊行柳については、(「奥の細道バスの旅
・遊行柳」
)を見てね。)


遊行柳は、 時宗の宗祖である一遍上人(遊行上人)が、旅の
途中で使用していた柳の杖が、ここに根付いて柳になった、
という伝説に由来します。

西行法師も、ここの柳を詠みました。

”道のべに 清水流るる柳かげ しばしとてこそ  
立ちとまりつれ”(西行法師)

(旅に疲れて、道の脇の清水が流れている柳の木の下で、
しばらく休もうと思って立ち止まった。)

西行のこの歌は、謡曲「遊行柳」の舞台で詠われたため、
これにより、芦野の柳は「遊行柳」として広く世に
知られ歌枕の地になっていました。


芭蕉もまた、尊敬する西行法師ゆかりのこの柳を見に行き、
柳の木の下で、もの思いにふけりながら詠みました。

”田一枚 植えて立ち去る 柳かな”

 (有名な柳の陰で西行法師を偲んでいると、いつの間にか
時間が過ぎ、気がつくと早乙女たちは田を一枚植え終えて
立ち去ってしまった。)


「遊行柳」から国道に戻って、次の白坂宿を目指して歩いて
行きます。

芦野宿から白坂宿までは、約12キロです。


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コメント一覧

ウォーク更家
丁子屋
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうですね、奥州街道のこの辺りの宿場町は、ほとんどが、大火で焼失してしまったり、人口流出で寂れてしまったりしている中で、芦野宿は、その面影を至る所に残しているので嬉しかったです。

ええ、丁子屋は、こんなに人口の少ない町でやっていくのは営業的には大変だと思うのですが、うなぎ屋としても旅籠としても存続しているというは凄いことだと思います。
こもよみこもち
おはようございます。
https://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
よさそうな感じのところですね。
丁子屋のうなぎも美味しそうです。
旅籠としても存続しているというのがすごいですね。
ウォーク更家
江戸時代からのうな重
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
最近、鰻重を食べる機会が減りましたが、やはり鰻重、いいですよねえ。

しかも、江戸初期の創業の丁子屋の鰻重とあれば尚更です。

お値段も、最近としてはリーズナブルです。
もののはじめのiina
うな重 食べたいiina~ 
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/acc244632cbb7c4b8e0da93d9d9d0a50
江戸初期の創業の旅籠「丁子屋」(ちょうじや)の鰻重が、においたってます。
                           この時代ですから、お手頃な値段ですね。^^

那須一族の血をひく名門だった芦野氏は、牧夫に優遇されたとは、江戸時代はそんな時代です。


> ショッピングモールでは、いろんな催し物をやっているんですね。
そうなのです、オペラでさえ聴けました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/d13a8c629d925edfd96fa1d1dfddea86

> 大和朝廷は、地方豪族を鬼として、勝者の伝説を残していったんですね。
水稲農業の耕地化が進み、武力で追われたわけではなく、ただ草獣がいないため東へ東へと移動したようです。
東北に黄金が発見されたましたが、朝廷に差し出さぬからと蝦夷との戦いが繰り広げられることになりました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/cc53840154195f1c52eb3961ed4a2a1d



ウォーク更家
江戸時代からの「うな重」
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ありがとうございます。

ええ、ようやく街道歩きを再開しました。
引き続き頑張りますので、ご愛読のほど、よろしくお願いします。

確かに、芦野宿のうな重2,500円は安くボリューム満点でしたが、味の方は、多分、成田山の4千円には及ばないのではなかろうか、と思いますよ。
船橋原人
美味そうな「うな重」
街道歩きを再開されて、楽しみに拝見しています。
「うな重」2,500円とは安く、その上ボリューム満点。
先日成田山でで食べたものは4千円近くとられウナギも少なかった。
この先も楽しみにしています。
ウォーク更家
建中寺の芦野氏の墓
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
芦野宿では、建中寺の芦野氏の墓、それに遊行柳は外せないですよね。

奥州街道の紅葉の時期は、素敵な風景なのですが、歩いている人がいなかったので勿体なかったです。
hide-san
建中寺
https://blog.goo.ne.jp/hidebach/
建中寺と芦野氏のお墓、遊行柳は懐かしいですね。

ちょうど紅葉の時期でした。

思い出しながら楽しく拝見しました。
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