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中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

バスで行く「奥の細道」(その47)  ”芭蕉忍者説” (NHK「英雄たちの選択」)

2020-03-20 11:43:34 | Weblog

(写真は、NHK「英雄たちの選択」のスタジオ風景)

  

「奥の細道」で、どうしても避けることが出来ないテーマが「芭蕉忍者説」です。

芭蕉の「奥の細道」は、謎をはらんだ2400キロ、5か月にも及ぶ壮大な旅でした!!

 

芭蕉は、伊賀の人で、忍者隠密説もある謎多き人物です。

昔から、研究者の間ではその謎が指摘されてきました。

私は、素人なので、この「芭蕉忍者説」が、本当なのか否かは分かりません。

しかし、奥の細道のバス旅行を通じて、芭蕉の足跡を訪ね歩くうちに、芭蕉は何でこんな場所に来たんだろう?、と疑問に思うことが多々ありました。

そこで、今回は、私の尊敬する歴史学者で「武士の家計簿」等の原作者でもある「磯田道史(みちふみ)」の考えを聞いてみたいと思い、NHK「英雄たちの選択」の「芭蕉忍者説」のVTRをじっくりと見直しました。

以下は、そのNHK「英雄たちの選択」のそのままの受け売りです。

芭蕉が旅をした元禄2年は、幕府と仙台藩の関係が悪化し、奥州は緊迫した情勢にありました。

幕府は、強大な仙台藩の力を削ぐため、仙台藩に日光東照宮の修理を命じました。

日光東照宮の修理のために、藩士達の給与の3割以上が削減されました。

藩内では幕府への不満が積もり、一つ間違えば、謀反も起こりかねない状況下にありました。

何故この時期に芭蕉は日光と奥州への旅に出たのでしょうか?

芭蕉は、仙台藩領に入ると、これまで頻繁に開いていた句会を1度も開くことなく、仙台藩領内の歌枕の地も足早に過ぎ去りました。

そして、この旅の最大の目的地だった仙台藩領の「平泉」には、何と!、僅か2時間しか滞在していません。

その一方で、道を間違えた、と言い訳していますが、上の写真の仙台藩の貿易の拠点だった石巻の港を訪ねています。

(石巻については、「バスで行く・奥の細道:日和山」を見てね。)                        

更に、仙台藩の金山があった小黒崎にも、当初は訪ねる予定になかったのに急遽立ち寄っています。

(中部大学・岡本教授:幕府の貨幣改鋳実施にあたり、芭蕉は、仙台藩の金保有状況調査の一端を担っていたと思われる。)

更に、もっと疑わしいのが、同行した弟子の曽良です。

曽良は、のちに、幕府の巡検使随員となり、大名の内情を探るための、監視や情報収集を担ったチームの中心人物になっています。 

曽良の旅日記には、奥の細道には記されていない、移動に掛かった時間などの情報が詳細に記録されていました。

(磯田道史:奥の細道が普通の旅だった、と考える方が難しい。)

(甲賀忍者の教科書には、「忍者は、俳諧や和歌や茶の湯の師匠になれ」と書いてある。)

(作家・嵐山光三郎:隠密説というよりも、調査は、芭蕉にとっては当然の公務だった。)

 

ps.
最後に、以下に、芭蕉の生い立ちと人物像を付記しておきます。

(三重県伊賀市の伊賀上野城)

芭蕉は、津藩の大名である藤堂家が治める伊賀上野で育ちました。

芭蕉は、藩の侍大将の息子の藤堂良忠のお側付きでした。

芭蕉が29歳のときに、仕えていた良忠が急死したので、伊賀上野を出て、江戸・日本橋に移り住みます。

一等地の日本橋に居を構えられたのは、芭蕉が長年仕えた藤堂家が幕府老中の親戚筋にあたり、江戸では一目置かれていたためだそうです。

芭蕉は、日本橋で、新人俳諧師としての一歩を踏み出しました。

その一方で、芭蕉は、意外な職業に就いていました?

それは、何と!、神田上水の「水道工事の請負人」だったのです?!

現在残されている江戸時代のお触書に、「上水道の工事があるので、契約している町内は、桃青(芭蕉)に連絡する様に。」とあります。

芭蕉が、人員、工具の手配、工事中の断水の連絡などを取り仕切っていた、とありますから驚きです!

(実際の芭蕉をみると、魅力的な俗な部分を持った人で、政治力もあるし、色気もあるし、リアリストでもあった。)

(白百合女子大・田中教授:俳諧師と水道工事、どちらも成功した不思議な人物です。)

(国文学者・佐藤勝明:何をやっても如才なくできる有能な人だった。)

江戸で人脈を広げた芭蕉は、武士、医者の息子、魚問屋の主人など、様々な職業、家柄の弟子を持つ様になり、芭蕉の句会はいつも大盛況でした。

ところが、その絶頂期の37歳のとき、芭蕉は、突如として、日本橋から江戸の外れの深川に隠居してしまいます。

そして、ここ深川から、舟で北千住へ向かい、奥の細道へと旅立ったのでした。

 

 

ps

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2 コメント

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芭蕉忍者説  (もののはじめのiina)
2020-03-27 10:17:07
「奥の細道」を踏破してからは、「芭蕉忍者説」調査でしたか。^^
興味深い話題です。

俳諧師としてだけでなく水道工事を仕切って、どちらも成功したとは、松尾芭蕉は有能な人物だったのですね。


> 広島、長崎などに比べると、東京大空襲については、だいぶ忘れられている様な気がします。
東京大空襲で10万人も犠牲者がでたとは、知らぬ人が多いとおもいます。



芭蕉忍者説のテーマも (ウォーク更家)
2020-03-27 10:52:11
そう、奥の細道はゴールの大垣で、このシリーズも終わりと思われたかも知れませんが、まだまだ芭蕉忍者説などのテーマも残っていますよ。

松尾芭蕉の人物像は奥が深く謎も多いので、これからもこのシリーズを続けるつもりです。

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