ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

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中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

電車で行く「薩摩街道」(その12-2:鹿児島宿:西南戦争)  2019.9.8 

2019-10-18 09:02:15 | Weblog

(写真は、城山から望む桜島)

天文館通りの白熊本店で腹ごしらえをしてから、天文館通りの繁華街を抜けて、国道3号沿いの中央公園に出ます。

中央公園の道路向いの広場に、明治維新に尽力した薩摩藩家老の「小松帯刀(たてわき)」(西郷どんでの配役は町田啓太)の銅像が上の写真の様に建っていました。

そして、中央公園の交叉点の正面は、 城山を背に、昭和12年に建てられたという14メートルもの高さのある上の写真の「西郷隆盛銅像」です。

この銅像は、戦時中の軍への金属供出にも、GHQの撤去命令にも、官民挙げて拒否したために残ったそうです。

西郷隆盛銅像を左手に見ながら、国道3号を進むと、直ぐに写真の「鶴丸城」があります。

 「鶴丸城」は、「鹿児島城」の別名で、関ヶ原の合戦の後に、島津家久が、ここに居館を築いて、周辺に家臣の屋敷を移しました。

77万石の大大名の島津氏の居城といっても、本丸、二の丸、下屋敷が並ぶだけの「屋形づくり」で、天守閣や層楼はありませんでした。

これは、島津家の「城をもって守りと成なさず、人をもって城となす」という考えに基づくものでした。

成程ね、島津は偉い!

明治維新後は、鶴丸城は、熊本鎮台の分営として使われましたが、明治6年に炎上、城壁と石橋だけが残されたました。

石橋の奥の「御楼門」は、来年3月の完成を目指して、復元工事中でした。

現在は、薩摩藩主が暮らした本丸跡に、上の写真の「黎明館」(歴史資料センター)が建っています。

「黎明館」の前には、上の写真の篤姫(天璋院)の銅像が建っていました。

黎明館には、鹿児島の歴史や工芸などが展示されています。

(「鶴丸城」の復元模型)

(薩摩藩の溶鉱炉)

(昭和初期の天文館)

また、黎明館の隣の「二の丸跡」には、現在は、上の写真の図書館が建っています。

黎明館を出ると、左隣に、写真の「薩摩義士碑」があります。

1753年、幕府に、木曽川の治水工事を命じられた薩摩藩は、家老・平田靭負(ゆきえ)を総奉行として、約1,000人を、三重の桑名に派遣しました。

しかし、これは大変な難工事となり、1年3カ月かけて完成したものの、40万両の巨費を費やした末に、84人もの犠牲者を出しました。

その責任を一身に負い、平田は自刃しました。

これらの藩士を供養するために、大正9年に建立されたのがこの「薩摩義士碑」です。

(薩摩義士の自刃については、「東海道を歩く・桑名宿」の海蔵寺の記載を見てね。)

また、黎明館の道路向いは、西郷隆盛が創設した下の写真の「私学校跡」の石垣です。

私学校の石垣には、西南戦争で政府軍が浴びせた銃砲弾の弾痕が今もなお残っています。

 

黎明館の前のバス停から、1日乗り放題「カゴシマシティビュー」巡回バスに乗り、「西郷隆盛・洞窟」バス停で下車します。

西南戦争では、熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れた西郷軍は、多くの死傷者を出しながらも、九州を南下しました。

そして、故郷の城山で最後の決戦を行うために、西郷軍が城山に入った時には、城山を包囲する政府軍5万に対し、西郷軍は僅か300余りでした。

最後の一進一退を繰り返したであろう、坂の途中の崖に、上の写真の横穴が2つ掘られています。

今は、崩れて、かろうじて2本の入口が確認できるのみです。

西郷軍は、最後の5日間、この洞窟を堀り、本陣としたそうです。

木々に覆われて、ここからは桜島は見えません・・・

西郷軍は、政府軍の軍師を通じて、翌朝午前4時に総攻撃が始まることを知ります。

総攻撃の前夜、西郷軍は、残った食料と酒で、この洞窟の前で、宴会を開きました。

西郷軍は、降伏の勧めを断り、最後の戦いに挑む決意をします。

そこへ、政府軍の軍楽隊が演奏する葬送行進曲が流れて来たそうです。

一説には、明日には屍となる西郷軍の武勇をたたえ哀悼の意を捧げるためだったそうです・・・

故郷の桜島を臨みがら最後を遂げた、というのはドラマの世界の話で、現実には、この洞窟の前で、土にまみれて、銃弾に倒れたそうです。

西郷は「もうここでよかろう」と別府晋介に介錯を頼み自刃、介錯を済ませた別府もその場で切腹しました。

村田新八、桐野利秋など他の志士たちも全員突撃して壮絶な最後を遂げました。

 

この「西郷隆盛・洞窟」バス停からバスに乗って、坂を更に上って行くと、次のバス停が「城山展望台」です。

写真は、城山展望台から見た桜島と鹿児島市街地です。

この城山展望台の直ぐ下に、薩軍2,023名もの将兵が眠る「南州墓地」がありました。

上の写真の常夜灯は、西郷隆盛と勝海舟との会談により、江戸城が無血開城されて、兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年、当時の東京市によって寄贈建立されものだそうです。

上の写真は、正面が「西郷隆盛」、右手が「篠原国幹(くにもと)」、左手が「桐野利秋」の墓石です。

(西郷隆盛の墓)

(篠原国幹の墓)

「篠原国幹」は、薩摩藩出身の陸軍少将でしたが、西郷隆盛を助けて私学校を経営し、西南戦争では、西郷軍として田原坂で戦死しました。

(桐野利秋の白御影石の墓石)

「桐野利秋」(きりの としあき)は、当時は「中村半次郎」と称しており、陸軍少将時代には、フランス製の香水を身にまとったりと、なかなかお洒落だったそうです。

しかし、西郷隆盛から上田藩士の赤松小三郎の暗殺を命じられた事などもあり、当時は、”人斬り半次郎”として、新選組からも恐れられていました。

戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いで活躍、多くの首級を上げ、駿府などを占領、その後、西郷隆盛と勝海舟との会談の席にも同席します。

また、上野の彰義隊との戦いに参戦、その後、会津若松城の落城の際は、城の受け取り役を仰せつかります。

この時の半次郎の対応に感動した若松城城主・松平容保が、後に人を介して宝刀を贈ったそうです。

そして、西南戦争では、西郷軍の事実上の総司令官として指揮を執りました。

ボランティアのおばさまの説明だと、桐野利秋の墓だけが高価な白御影石で造られており、現在でも、花柳界の女性たちのお参りの献花が絶えないそうです。 

人斬り半次郎は、当時から、よっぽどモテたんですねえ~。

(14歳で戦死した少年烈士3人の墓)

(17~35歳の兒玉5兄弟の墓)

南洲公園内には、西郷隆盛の偉業を伝える上の写真の「西郷南洲顕彰館」があり、西郷隆盛の遺品などを展示しています。

 

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6 コメント

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中村半次郎にゾクゾク (tadaox)
2019-10-20 22:33:09
人斬り半次郎と聞くと、講談の世界に誘われたようにゾクゾクしますね。
中村半次郎でも、新選組との対比でぐっと身を乗り出してしまいます。
それが、桐野利秋ですか。フランスの香水をつけた伊達男。
知りませんでした。楽しかったです。
中村半次郎のエピソード (ウォーク更家)
2019-10-21 09:14:09
人斬り半次郎の話は、小説の世界の話だと思っていたのですが、ボランティアのオバサマによる、フランスの香水をつけた半次郎の話は、それを上回るエピソードでした。

新選組にも恐れられた暗殺者にもかかわらず、会津藩主も惚れる程の立派な人格者だったのも驚きです。

花柳界の女性達が、お金を出し合って、西郷隆盛よりも高価な墓石の墓を建てた話も、そのモテモテ振りに思わずニンマリしてしまいました。

歴戦の強者でもあり、時代劇の主役にピッタリの魅力ある人物像でした。
時代の寵児 (hide-san)
2019-10-21 18:09:03
その時代の寵児であった人達が並んでいますね。

どの時代でも、やっぱり戦争は殺し合いで、
我慢できかねます。

どちらが勝つにしても結局はあるべき時代に移っていくように思えます。

戦争をしないで済ませる方法はない物でしょうか?
今も昔も、主義主張や宗教の教えなどで、
戦わなければいけないでしょうか・・・・。

時代の寵児が並ぶ墓地 (ウォーク更家)
2019-10-22 05:56:00
ええ、維新の寵児達がこの様な形で並ばざるを得ない、悲劇の時代でもあったんですね。

そうですよね、どちらが勝つにしても、歴史の大きな流れは、結局は、あるべき時代に移っていくのでしょうかね。

現在も昔も、主義主張、宗教の違いなどで戦い続けているのは、悲しい人間の本質的な性なのでしょうか。

一方で、戦争をしないで済ませる方法の模索も続いていますが、人間の偏見や差別思想には勝てない様で・・・
西郷隆盛と海舟  (もののはじめのiina)
2019-10-23 09:34:06
きのうに「それからの海舟」半藤一利を読み終わりました。
     幕府方の勝海舟と官軍側の西郷隆盛を好意的に書いています。

洗足池に海舟の墓がありますが、その左隣に隆盛の留魂碑と留魂洞があるそうです。
        荒川放水路回収の際、行き場所を失ったので黒田清隆らが此処に移したということです。

世界で唯一成し遂げた江戸城無血開城した功績は、この二人の存在無くしてあり得なかったように思います。
英雄しか英雄を理解し得ない巡りあわせでした。

なお、加藤清正の別邸跡の説明は、明治神宮御苑内(有料)にありました。



隆盛と海舟の功績 (ウォーク更家)
2019-10-23 15:53:56
「それからの海舟」の本、面白そうですね。

勝海舟と西郷隆盛が、それぞれ幕府方のトップと官軍側のトップだったのは、日本の国にとって幸運でした。

この二人の存在無くしては、江戸城無血開城は無かったかもしれませんし、その後の日本の近代化も遅れていたかも知れませんね。

そうですか、洗足池には、海舟の墓と、その隣に隆盛の留魂碑ですか。
今度行ったときに注意してみます。

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