ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

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中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

バスで行く「奥の細道」(その14) ( 「末の松山」: 宮城県 )    2018.3.14

2018-11-26 05:44:18 | Weblog

(写真は、”連理”の形の松がそびえる「末の松山」)   

”契りきな  かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 
 波越さじとは” (百人一首: 清原元輔 )

(約束しましたよね。涙を流しながら。末の松山が、決して
 波を被ることが無い様に、二人の愛も変わらないと。)

男女の変わらぬ愛を誓う上の歌では、この「末の松山」がある
場所には絶対に波が来ない、ことを前提に、絶対に心変わり
しない「永遠の愛」を「末の松山」に例えています。
そして、何と!、この歌の作者の清原元輔は、あの「枕草子」
の清少納言の父です。

”末の松山 波越さじ”は、歌枕として、百人一首のみな
らず、西行法師や藤原定家らの多くの歌人に詠まれて
きました。
そして面白いのは、この歌の”末の松山 波越さじ”は、
869年の東北地方を襲った貞観地震の事実に基づいている
事です!
つまり、あの千年に一度と言われる貞観地震の大津波のとき
ですら、海岸線にあるここ末の松山には津波が来なかった
のです。

(そして、今回の東日本大震災でも、驚いたことに、海岸線
に近いにも拘わらず、現在の末の松山があるところには津波が
来ていません。)
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多賀城跡で壺碑と対面した芭蕉は、その足で、末の松山を
訪ねています。

芭蕉は「契り」の歌枕の地に足を踏み入れ、「末の松山」の
松の間に、墓が点在する風景を見て、

「羽をかはし 枝をつらぬる 契(ちぎ)りの末も、終(つい)
には かくのごときと、悲しさも増(まさ)りて」

(歌枕「末の松山」の変わらぬ男女の契りも、結局は、眼前に
見る様な、墓の下に帰してしまう空しいものだ。)

と、末の松山で無常(むじょう)を感じた様子を、奥の細道に
記載しています。

芭蕉は、上の文章で、男女間の深い契りの例えとして、伝説の
鳥の「比翼の鳥」(”羽をかはし”)と、
「連理の枝」(”枝を連ぬる”)を引用しています。


そして、芭蕉は、末の松山のすぐ近くの「興井(おきのい)」
を訪ねます。

「興井」は、末の松山の南に位置し、直径20メートルほどの
池の中に岩(沖の石)が露出しています。

”わが袖は しほひ(潮干)に見えぬ おきの石の 
 人こそしらね かわくまぞなき” 

( 千載和歌集: 二条院讃岐 )

上記の二条院讃岐の歌は、恋に涙するわが身を、乾くことが
ない海の中の石に例えています。

歌中の「おきの石」(沖の石)は、”しほひ(潮干)に見えぬ”
からも分かるように、潮が引いても姿を見せない(我々が見る
ことが出来ない)”海底の石”であって、目に見える特定の石
を詠んだものではありません。

にも拘らず、江戸初期、領内の歌枕の名所の整備を行っていた
仙台藩が、歌中の普通名詞である「沖の石」を、強引に、
ここ興井の石だとして、固有名詞にしてしまったのだそう
です。

出た~!、またまた、仙台藩の強引な町興しが・・・

4代藩主・伊達綱村の時に、歌枕「沖の石」として当地に
定着させてしまい、更に、ここに、代々「奥の井守」
(おくのいもり)なる職を置いて、この景観の保護のための
手厚い体制をとったそうです。

う~ん!、伊達綱村の「歌枕の保護」への熱い想いは、
半端ないって!、ですねえ~・・・!

我々のパック旅行のバスも、末の松山に到着しました。



「末の松山」(すえのまつやま)は、住宅街の中の
「末松山・宝国寺(ほうこくじ)」の本堂の裏手の、
墓地に隣接した小さな丘の入口にありました。

写真の様に、推定樹齢480年、樹高19メートルの
連理の枝の形の大きな松がそびえていました。

そして、この松が、前述の様に、領内の名所整備を
行っていた仙台藩が「末の松山」だと定めたものです。

「末の松山」から、住宅街の中の道路を渡り、南へ
少し坂を下ると、そこに写真の「沖の石」が現われました。



民家の間に、突然、海の磯が出現した様な風景です。
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4 コメント

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百人一首 (もののはじめのiina)
2018-07-01 09:16:03
「契りきな  かたみに袖を しぼりつつ 末の松山  波越さじとは」
 百人一首にある句で、歴史的痕跡を読み取ることができるのですね。
千年に一度の貞観地震の大津波ですら、海岸線にある「末の松山」に津波が来ないとは、地勢に恵まれています。


> 水滴に紫陽花、メルヘンチックで素敵です。
ka-ma-kunさんが、拙宅ブログにしてもカマわないと応じていただいてのお披露目でした。

百人一首から歴史的痕跡を読み取る (ウォーク更家)
2018-07-01 09:41:59
百人一首にある句で、現代でも、歴史的痕跡を読み取ることが出来るのは少ないかもしれませんね。

そうですね、海岸に近い平地なのに、千年に一度の貞観地震の大津波ですら津波が来ない避難地として、言い伝えられていたのかも知れませんね。
長恨歌 (hide-san)
2018-07-01 21:07:21
「比翼の鳥」と「連理の枝」は白居易の「長恨歌」と言う名の漢詩の中に出てきます。

長恨歌は玄宗皇帝と楊貴妃の恋物語を詩にしたものです。

高校生の時に漢文で習いました。この時ちょうど大学の中国語科の教授が教壇で、中国語で読んでくれました。
中国語で読むととても綺麗な響きで、
とても印象に残って居ます。

ところで本題の「比翼の鳥」がいて、比翼とはその左右の羽根のことを指します、
また「連理の枝」は枝の先が二又になった枝の事で、
ともに一心同体を現わしているように思います。
「漢の皇室傾国を重んじ・・・」から始まる漢詩は有名で
色恋に明け暮れた玄宗皇帝が国をないがしろにし、
国を斜陽に追い落としたと言う意味で、
傾国は楊貴妃を指し、
ここから傾城=美女=遊女を指すようになりました。

長々と書きこみました。

高校時代を思い出しましたので・・・・。
漢文の時間に長恨歌 (ウォーク更家)
2018-07-01 22:40:28
hide-sanのコメントを読んで私も思い出しました。

確か、漢文の時間に、長恨歌を習ったと思います。

そうか、末の松山は男女の恋がテーマなので、芭蕉は、玄宗皇帝と楊貴妃を引き合いに出した訳ですね。

そうでしたか、比翼とは左右の羽根のことでしたか。
傾国が遊女を指す、というのも習ったかも知れませんが、完全に忘れています・・・

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