ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

バスで行く「奥の細道」(その10)    ( 「医王寺」: 福島県 ) 2017.11.15


(写真は、義経の身代りとなって殺された佐藤兄弟の妻たち)

図説 地図とあらすじでわかる!おくのほそ道 (青春新書INTELLIGENCE 399)
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青春出版社



そもそも、芭蕉の「奥の細道」の目的には、本来の”白河の
関”などの「枕詞」(まくらことば)の地をたどって行く
こと以外に、もう一つの目的がありました。

それは、兄・頼朝から追討された弟・義経の逃亡の足跡を
たどることでした。

「奥の細道」の根底に流れるのは”無常観”で、義経の一生

はまさに栄枯盛衰そのもの、それが芭蕉に世の無常を

感じさせたためでした。

そして、ここ「医王寺」に芭蕉が立ち寄ったのは、義経を
救った佐藤継信、忠信の兄弟を弔うためでした。

平泉の藤原秀衡の下で旗揚げした義経に従い、兄・継信は

屋島の合戦で義経の矢面に立って討ち死にし、弟・忠信は、

京都で義経の身代わりとなって敵を欺き自害しました。

そして、義経に最後まで忠誠を尽くしたこの佐藤兄弟の

菩提寺がここ「医王寺」なのです。

義経は、頼朝に追われる途中で、弁慶と共に「医王寺」に
立ち寄り、兄弟の父の佐藤基信に兄弟の武勲を伝えました。

佐藤兄弟の妻たちは、自分たちの悲しみを押さえて、2人の
子供を失った姑・乙和(おとわ)を慰めますが、それでも、
姑は深い悲しみに打ちひしがれたままでした。

そこで、2人の妻は、佐藤兄弟の形見の鎧兜を着て、夫の

帰還を装い、「継信・忠信ただいま、凱旋致しました」と、

姑に武将姿の姿を見せて喜ばせました。

この逸話は、婦女子教育の教材として、昭和初期まで国定
教科書に載っていたそうです。

ということは、昔の人は全員、この逸話を学校で習って
いたんだ!
驚き!

歌舞伎や人形浄瑠璃の「義経千本桜」の「狐忠信」のモデル
が、この弟・忠信だそうです!


 

パック旅行のバスは、福島県の飯塚温泉の近くにある
「医王寺」(いおうじ)に到着しました。





医王寺は福島市にあり、中世初期に信夫郡を支配した
佐藤氏の菩提寺です。

境内には、佐藤兄弟の墓とされる板碑が残されています。


上の写真は、佐藤継信と佐藤忠信の墓とされる板碑です。




上の写真は、佐藤兄弟と義経(中央)の石像です。



次頁の写真は、椿薬師堂と、その裏手にある「乙和の椿」
ですが、討死にした兄弟の母・乙和の悲しみが乗り移り、
花が咲く前に蕾のまま落ちるそうです!
驚き!
 


この寺の宝物殿には、弁慶の笈(おい)と義経の太刀が宝
として残っているそうです。

「寺に入りて茶を乞えば、ここに義経の太刀・弁慶が笈(注)
 をとどめて什物(じゅうもつ:代々伝わる宝物)とす。」

(奥の細道)

(注)笈(おい):行脚僧が経巻などを入れて背負う道具。
   安宅の関所での源義経への詮議で、山伏姿の弁慶が
          背負っていた笈から勧進帳をとりだして読み上げた
          のは有名。

”笈(おい)も太刀も 五月(さつき)にかざれ 
 帋幟(かみのぼり)”(芭蕉)

  (弁慶の笈と義経の太刀を所蔵するこの寺では、端午の
節句には、武勇で聞こえた二人のこの遺品を、紙幟と
ともに飾るのがよいだろう。)






上記の「医王寺」とは別に、奥州街道沿い(白石市)に、
佐藤兄弟ゆかりの「田村神社・甲冑堂」があります。

パック旅行のバスは、「医王寺」の翌日、この「甲冑堂」

にも立ち寄りました。





甲冑堂は、社務所の宮司さんに声をかけて、鍵を開いて
もらわないと拝観できません・・・
宮司さんは、足元も覚束ないくらいのかなりのご高齢なの
ですが、すごい記憶力で、佐藤兄弟について熱く語って
くれました。

併設の資料館も、鍵を開けて頂いて見学しました。



(継信の妻の楓と忠信の妻の初音の像)


(楓・初音と姑の逸話が記載された戦前の国定教科書)

芭蕉も、ここを訪れて、 「馬牛沼の下、鐙越しという岩

あり、この岩より下りて二町程右の方に、継信・忠信の

妻の御影堂あり」と記しています。


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コメント一覧

ウォーク更家
奥の細道の目的
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そう、奥の細道は、枕詞の地を訪ね、義経の逃亡の足跡をたどる旅だったんです。

ええ、医王寺は、佐藤兄弟の哀しい話があり、趣ある風情です。

母畑温泉、知りませんでしたが、雰囲気もあり立派な温泉ですね。
もののはじめのiina
「奥の細道」の目的
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/f829bd77086aff8b67bd1b7acf4c5485
> 芭蕉の「奥の細道」の目的には、本来の”白河の関”などの「枕詞」・・・兄・頼朝から追討された弟・義経の逃亡の足跡をたどること
おゃ、そうでしたか。 φ(..)メモメモ
ことしのiinaは、東北道の白河に縁がありました。白河に近い母畑(ぼばた)温泉で使いました。
そして今回の旅でも白河ICで下りました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/840b81552e062459261f33e9e5fdbabc

「医王寺」は、佐藤兄弟の哀しい話にあわせ趣ある風情です。
でも、バスツアーもありですね。


> 野毛山動物園は、未だ子供が小さいころに何回か行った・・・ノーエ節のルーツが、野毛山節だというのは初めて聞きました。
iinaと同じいきさつでした。そんなものですね。

ウォーク更家
甲冑堂で歌まで
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうでしたか、あのご老人は、説明だけではなくて、歌まで歌ってくれましたか。
ホントにいい人でした。

我々が行った時も、確かに、「昼寝の最中に起こしてごめんなさい」という感じでお声をかけました。
hide-san
甲冑堂で
https://blog.goo.ne.jp/hidebach/
甲冑堂で説明を受けて、朗々と歌まで歌ってくれました。

説明だい一人300円と言われて、カミさんと二人分千円出して、

「昼寝の最中に起こしてごめんなさい」とおつりはチップ代わりと言って帰ってきました。
ウォーク更家
奥の細道の目的
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そう、芭蕉の奥の細道の目的の一つが、義経の逃避行の後を追うことだったんですね。

そもそもの目的を明確にすることで、奥の細道の長いストーリーがよりはっきり見えてくると思います。

私も佐藤兄弟のことは知りませんでしたので、教育による明治・大正の人との感覚のズレに驚きました。

確かに、現代の嫁姑からみると、何それ?という話ですよね。
こもよみこもち
こんばんは。
https://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
芭蕉の奥の細道も、義経の後を追っていたんですね。
私は佐藤兄弟のことはまったく知りませんでしたが、明治・大正の人には必須の知識だったんですね。
しかし、今の女性からみると、何それ?という話かもしれません。
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