(写真は、佐敷宿の町並み)
「佐敷(さしき)宿」は、肥後(熊本)と薩摩(鹿児島)を
結ぶ「薩摩街道」の要衝の地で、「佐敷城」の城下町でも
あります。
薩摩街道へは、古くは、豊臣秀吉が、薩摩遠征のために大軍を
率いて押し寄せました。
江戸時代には、島津斉興(鹿賀丈史)や島津斉彬(渡辺謙)
などの島津の殿様が参勤交代のために通りました。
また、篤姫(北川景子)も、将軍への嫁入りの際に佐敷宿に
宿泊して江戸へ向かいました。
そして明治時代、西南の役の際には、西郷隆盛軍が、熊本城
攻撃のために、薩摩街道を北上しました。
駅で貰った下の写真の佐敷宿絵地図を見ながら、佐敷駅から
徒歩15分の「薩摩街道」沿いの「佐敷宿」を目指して歩き
始めます。
駅前の道を右に進み、高速の陸橋の下を歩行者専用道で
くぐり、最初の交差点を左折して佐敷橋を渡ると、
佐敷宿に入ります。
白壁の土蔵造り風の家が続き、旅情をかきたてます。
佐敷川沿いの街道には、「薩摩街道」の標石がありました。
下の写真は、篤姫も宿泊したという薩摩藩の本陣「薩摩屋」
です。
更に川沿いに進み、相逢橋(あいおいばし)を渡ると、佐敷の
商店街が真っ直ぐに延びています。
相逢橋の先に、明治42年創業の上の写真の「岩永醤油」が
ありました。
「岩永醤油」の隣の上の写真のお地蔵さんは、昭和5年の
佐敷町大火の際に、この地蔵堂を境にして類焼を免れたので、
火除けの地蔵として祀られているそうです。
古い町並みは約300メートル続きます。
白壁塗りの土蔵造り風の家が点在するこの辺りは「のこぎり
家並み」地域です。
写真ではちょっと分かり辛いですが、街道の通りに対し、建物
が斜めに建っており、まるでのこぎりの刃のように見えること
から「のこぎり家並み」と呼ばれます。
敵の侵入時に、建物の陰から様子を伺い、待ち伏せするための
ものだそうです。
上の写真の「岩崎新聞販売店」付近は、パンフレットに
よると、熊本藩の「本陣・御茶屋跡」だそうです。
新聞販売店の道路向かいには、両側を瓦屋根付きの塀で
守られた前頁の写真の「恵比寿さん」がありました。
上の写真は、レトロな洋風の建物です。
その先の右手は下の写真の「来迎寺」です。
境内には、1635年に建てられた上の写真の「六地蔵塔」が
あります。
境内で写真を撮っていると、住職の方が出てこられて、
「もっと奥まで自由に撮影してよいですよ。」と、声を
かけて頂きました。
佐敷町の人は、どなたもフレンドリーで親切です。
写真は、交流館「枡屋」です。
枡屋は、町並み保存活動の活動拠点として、佐敷城の城下町や
宿場町の風情を後世に残そうと、景観形成住民協定を結んで
活動しているそうです。
説明のオバサマに、佐敷城への道順を教えてもらいます。
枡屋の先の左手の「俳人種田山頭火宿泊の地」の標柱に従い、
路地を入って行くと、写真の山頭火の句碑がありました。
”捨てきれない 荷物のおもさ まへうしろ”
山頭火の句碑の先の左手の「実照寺」には、前頁の写真の
見事な仁王像があります。
寄木造で定朝、運慶の作とも伝えられているそうです。
薩摩街道を相逢橋まで戻り、街道と並行する1本奥の道に
入ると、写真の「武徳殿」がありました。
「武徳殿」(国有形文化財)は、剣道・柔道の武道場として
建てられたものだそうです。
武徳殿の前に、写真の「佐敷城代・加藤重次の縁者の墓石」が
2基建っていました。
説明板によると、佐敷城代であった加藤重次の母の石塔と
妻の墓だそうです。
更に、この墓石の横には、写真の巨大な鬼瓦が展示して
あります?
説明板によると、佐敷城の発掘調査により出土した「天下泰平
國土安隠」銘の鬼瓦(県重文)を400倍の大きさにして、
町のシンボルとして、”日本一の大瓦のモニュメント”と
したそうです。
武徳殿の先に、佐敷城への矢印がありました。
佐敷城への坂道を上って行きます。
(to be continued ・・・)
(佐敷町並みマップ)