19世紀の初め,
ヨーロッパはナポレオン戦争と言う,
未曽有の暴風雨に見舞われていました。
この期間に,
ドイツなんて国家の在り方が変わってしまったほど。
もともと18世紀までのドイツは,
「神聖ローマ帝国」って呼ばれていたんですよ。
まぁ,
1648年のウェストファリア条約以降は名前だけの帝国に過ぎず,
300を超える諸侯たちがそれぞれ主権を認められ,
独立した国家として群立した状態
って感じだったわけだが…。

(グチャグチャ)
そんな状態でナポレオン戦争に突入し,
次々と軍門に下っていった。
そして,
ナポレオンは帝国代表者会議にまで口を出し,
多くの領邦や帝国都市を取り潰して中核領邦へ統合。
(おかげで領邦の数が激減)
さらに,
フランス皇帝に即位した後,
「ライン同盟」を結成して南西ドイツの諸侯を完全に保護下に置きました。
(オーストリアとプロイセン以外のドイツ諸国が加盟)
これらを受けて,
神聖ローマ帝国の帝位を独占し続けていたハプスブルク家は,
自身の世襲領だけからなるオーストリア帝国をつくり,
最終的には神聖ローマ帝国の解体を宣言。
(このあたりの詳細はいつか記事に…)
んで,
ナポレオン失脚後のウィーン会議では,
35の領邦と4つの自由都市との連合体
と言うべき「ドイツ連邦」がつくられます。

(ちょっとスッキリ)
ちなみに,
35の領邦の中には,
盟主であるオーストリア帝国(ハプスブルク家),
それに次ぐ大国であるプロイセン王国(ホーエンツォレルン家)の他,
バイエルン王国(ヴィッテルスバッハ家),
ザクセン王国(ヴェッティン家),
ハノーヴァー王国(ヴェルフェン家改めハノーヴァー家),
ヴュルテンベルク王国(ヴュルテンベルク家),
バーデン大公国(ツェーリング家),
ヘッセン選帝侯国(ヘッセン・カッセル家),
ヘッセン大公国(ヘッセン・ダルムシュタット家)などなどがあります。
さて,
数百年に渡ってオーストリアがドイツを先導していたんだけど,
プロイセンにフリードリヒ大王が登場して以来,
少しずつ潮目が変わってきていました。
プロイセンは富を蓄え,オーストリアは黄昏時ってわけ。
そして,
1862年,プロイセン王ヴィルヘルム1世の片腕であるビスマルクが,
例の"鉄血演説"によって,
ドイツ統一を目指す旨を高らかに宣言。
(上記の通り,ドイツはバラバラ状態だったから)
ついには普墺戦争(プロイセンVSオーストリア)に勝利し,
ドイツ統一からオーストリアを叩き出したんです。
(これよりオーストリアはドイツの外国に…)
しかし,
これにてドイツ統一!
とは相成らず…。
バイエルンを始めとする南ドイツの諸国が,
プロイセンの支配を良しとしなかったんですね。
北ドイツ=プロテスタント,
南ドイツ=カトリック
って言う宗教問題が大きかったみたい。
そのため,
プロイセンは22ヵ国を束ねた「北ドイツ連邦」を組織。
もちろんの事,
ビスマルクは諦めずに真のドイツ統一を目論みます。
しかも,
その最大の障害がドイツ分断を裏工作したフランス
って事にも気付いている。
ちなみに,
当時はフランスと言う国家も目まぐるしく変化してます。
1789年から始まったフランス革命により,
王政から共和政へ変わり,
ナポレオンにより帝政に…。
ナポレオン失脚後は,
ブルボン家のルイ18世,シャルル10世の復古王政,
1830年の七月革命以降はオルレアン家のルイ・フィリップの七月王政。
しかし,
1848年の二月革命で再び共和政へ。
そこで大統領になったのが,
あのナポレオンの甥であるルイ・ナポレオン。
しかも,
圧倒的な国民の支持を受けてクーデターを起こし,
(賛成700万票,反対64万票だったんだとか)
皇帝ナポレオン3世となります。
これによりフランスは再び帝政となるってわけ。
(王政→共和政→帝政→王政→共和政→帝政)
あ,
"3世"を名乗ってるのは,
ナポレオン(1世)失脚直後に,
その息子であるライヒシュタット公が,
法的には皇帝ナポレオン2世になってるから。
と言うわけで,
ビスマルクの目指すドイツ統一を阻止しているのは,
このナポレオン3世だったんです。
まぁ,
フランスの隣に強大な統一国家ができる
ってのは,
フランスにとっては悪夢以外の何物でもないからね。
こうして,
プロイセン宰相ビスマルクVSフランス皇帝ナポレオン3世
って構図が出来上がっていく。
ビスマルクは軍拡を進めるだけでなく,
フランスにスパイを放って戦争のシミュレーションまで行います。
うん,
正直なところ,
当時のプロイセンにとって,
フランスなど軍事力では全く問題にならない相手。
ただ,
開戦する口実がなかった。
プロイセン王ヴィルヘルム1世は,
ドイツ統一を望みながらも,
正当な理由なくフランスと戦争をする気はなかったし,
対するナポレオン3世の方も,
自軍の劣勢を把握していたから決戦の意思は皆無。
ただ1人,ビスマルクだけが開戦に乗り気だったってわけ笑。
そんな折の1870年,
スペインの王位継承問題が起こります。
ビスマルクは裏で策を弄し,
ホーエンツォレルン家(プロイセン王家)傍流の大公レオポルトを次期スペイン王候補へ捩じ込む。
フランスの異議申し立てまでをビスマルクが意図していたかは定かではないが,
フランス側はブチ切れ。
ドイツの勢力拡大=フランスの弱体化だから。
しかし,
ビスマルクの期待とは裏腹に,
フランスによる宣戦布告とはなりません。
フランス大使から交渉されたヴィルヘルム1世が,
あっさりと大公を後継候補から外す事に同意したから。
(フランスの顔を立てたって言うよりスペインの政情不安を心配したって事らしいが…)
面白いのは,
ナポレオン3世自身もこの報せに安堵したって話。
フランスの世論は開戦は望んでたみたいだが,
皇帝は戦争が国益とならない事を確信していたんですね。
両国の君主が開戦に消極的。
ただ,
先にナポレオン3世が世論に負けます。
フランスからプロイセンに対し,
ちゃんと謝罪しろ。
2度とスペインの王位を要求するな。
って言う内容を突き付けるんです。
さすがのヴィルヘルム1世もムッとする。
(そりゃそう笑)
予定されていたフランス大使との会談もキャンセルし,
滞在中の温泉地エムスから返電を打ちます。
平和主義者だから怒りながらも表現は穏やかに,
大公はもう辞退したのだから,
朕はこれ以上言う事はない。
と言う文面だったとか。
ここでのビスマルクの動きが電光石火。
一足先に内容を知らされた鉄血男は,
素早く文面に細工を施し,
あたかもヴィルヘルム1世がブチ切れの末,
強くフランス大使を追い返したような演出で,
フランスより先に大々的に公表したんです。
与える印象が全く違いますね。
これが「エムス電報事件」のあらまし。
当然,喧嘩を売られたフランス側は,
プロイセンを懲らしめてやれ!
の大合唱。
それでもナポレオン3世は勝てる見込みのない戦争に消極的でした。
しかし,
妃ウジェニーとその取り巻き連中から宣戦布告を催促され,
終いには
私は立憲君主だから,
会議の多数派に従う。
って言う,
言い訳じみた言葉を残して,
ずるずると普仏戦争(プロイセンVSフランス)に踏み切ります。
そして,
あっという間に決着がつく。
フランスは敗北に次ぐ敗北,敗走に次ぐ敗走って感じ。
終いにはナポレオン3世が捕虜になる笑。
ただ,
皇帝の降伏の仕方がカッコいい。
彼は長年の不摂生が祟って尿路結石に悩まされていました。
膀胱の石による激痛のため,
騎乗するのは不可能な状態だったってわけ。
そんな62歳の老帝が病身も顧みずに馬上の人となり,
白旗を掲げて戦場に現れます。
そして,
ヴィルヘルム1世に降伏の意を伝える。
親愛なる我が兄弟よ,
軍隊の先頭に立って死ぬ事ができなかった私には,
もはや我が剣を陛下の手に委ねる他ありません。
早速ビスマルクが交渉を申し入れるが,

(ナポレオン3世とビスマルク)
私が渡した剣は,
皇帝の剣であってフランスの剣ではない。
と拒絶。
皇帝が捕虜となり,
帝国が犠牲になったとしても,
フランスが降伏したわけではない。
って表明したってわけ。
国民から請われて大統領になり,
国民の絶大な支持により皇帝になり,
国益だけを考えてきたナポレオン3世は,
最後に自らを犠牲にフランスと言う国家の尊厳を守ろうとしたんですね。
残念なのは,
この英雄的行為が当時の国民に知らされたなかった事。
皇帝が捕虜になったって報がフランスに届くや,
折から反体制的だった一部の市民がパリで蜂起。
議会に乱入して議員たちに帝政の廃止を宣言させ,
その日の夜には,
パリ市庁舎にて臨時政府の樹立も宣言される。
かくして3度目の共和政が開始されるってわけ。
ナポレオン3世は帰る場所をなくし,
イギリスへの亡命を余儀なくされます。
んで,
ビスマルクの野望通りドイツは統一され,
プロイセン王を皇帝とする「ドイツ帝国」が誕生。
明治新政府の岩倉具視使節団が訪れた,
あのドイツ帝国ですね。