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ケセラ・イズム

~人生の微分理論~
今が大事,先の事なんて知った事か!

おばあちゃんが生きていれば…

2025-07-24 04:08:46 | 歴史浪漫
海外ドラマを観てるとさ,

たまに

 ん?

 こいつ誰だ?

みたいになるときがあるんよ笑。

外国人の顔が見分けられないんですね。

いわゆる「人種効果」ってヤツ。



日本人なら日本人の顔を多数見て育つので,

日本人を基準にした顔認識空間が脳内につくられる。

だから,

接点の少ない白人や黒人の顔は,

きめ細かくは分類できないらしい。

ちなみに,

年を取ると,

接点が少なくなる若者の顔の区別がつかなくなるんだとか。

年寄りがアイドルの顔が同じに見えるのは,

このあたりに原因があるとの事。



さて,

ここでクイズです。

まず,

この2人の顔を覚えてください。

1人目はロシア皇帝ニコライ2世(在位:1894~1917年)。



そして,

2人目はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(在位:1888~1918年)。



まぁ,

髭のおっさんなんで,

やや似てる感じがしますね。

ただ,

この2人なら見分けられるよな?

大丈夫?

だいたい覚えた?

では,

これは誰でしょう?



え?

簡単過ぎた?

さすがにわかるよな?

うん,

正解は…



ニコライ2世



ではなく,

イギリス国王ジョージ5世(在位:1910~1936年)

でした笑。

え?

反則?笑

いやー,

ニコライ2世とジョージ5世って,

似過ぎじゃない?(※1)


(左がニコライ2世,右がジョージ5世)

理由は簡単。

この2人は従兄弟なんですよ笑。

いや,

実はヴィルヘルム2世も従兄弟。

うん,

同時代のイギリス,ドイツ,ロシアの君主が従兄弟ってわけ。

あ,

"同時代"ってのは,

いわゆる「長い19世紀」(※2)の末期ね。


まず,

デンマーク国王クリスチャン9世ってのがいるんだけど,



彼の長女アレクサンドラとイギリス国王エドワード7世の息子がイギリス国王ジョージ5世で,

次女マリアとロシア皇帝アレクサンドル3世の息子がロシア皇帝ニコライ2世。

そして,

ここでイギリスのヴィクトリア女王が登場します。



60年を超える長い治世において,

「大英帝国」を築き上げて"パクス・ブリタニカ"を謳歌した女王ですね。
(イギリスでは"女王の時代に国が栄える"と言われる)

彼女の長女ヴィクトリアはドイツ皇帝フリードリヒ3世に嫁ぎ,

後のヴィルヘルム2世を生みます。

さらに,

長男はイギリス国王エドワード7世となり,

上記の通り,その息子は後のジョージ5世。

うん,

まとめると,

ジョージ5世とニコライ2世は,

クリスチャン9世の孫であり,

ジョージ5世とヴィルヘルム2世は,

ヴィクトリア女王の孫になる。

いや,

それだけでなく,

ニコライ2世は,

ヴィクトリア女王の孫アレクサンドラ・フョードロヴナを皇后に迎えています。

つまりニコライ2世もヴィクトリア女王の義孫ってわけ。

んー,

ここに挙げただけでも,

ヴィクトリア女王が"ヨーロッパの祖母"と言われるのが納得ですね笑。


ところで,

19世紀後半は,

大英帝国(イギリス),ロシア帝国,オーストリア帝国の3つの大国で世界の半分近くを支配し,

絶妙なバランスで平和が保たれていました。

そこに新興のドイツ帝国が猛烈な勢いで工業化と軍事化を推し進め,

20世紀初頭には複雑な四つ巴状態となる。

やがて各自の利害対立が露わとなって,

バルカンを中心に一触即発の状態に…。

ドイツはもともとイタリア,オーストリアと同盟を結んでいたし,

イギリスは対ドイツ戦略として,

フランス,ロシアと協商を結ぶ。
(ちょっと単純化し過ぎているかな?笑)

そんな中,「サライェヴォ事件」が起こります。

皇太子を殺されたオーストリアがセルビアに宣戦布告。

オーストリアのバックにはドイツ,

セルビアのバックにはロシアが…。

そして,

各国は"敵の敵は味方"とばかりに同盟関係を作り上げていたので,

瞬く間に戦争は世界規模へと拡大していく。

オーストリア,ドイツ,トルコ,ブルガリアなどの同盟軍

VS

ロシア,イギリス,フランス,イタリア,セルビア,ベルギー,ルーマニア,日本,アメリカなどの連合軍

による「第一次世界大戦」ってわけ。
(詳しい経緯はいずれ記事に!)


この大戦の中心を担った4か国のうち,

オーストリアを除くドイツ,ロシア,イギリスの君主は,

先ほど確認した通りヴィクトリア女王の孫たちなんです。
(ヴィルヘルム2世,ニコライ2世,ジョージ5世)

第一次世界大戦が"従兄弟たちの戦争"の異名を持つ所以。

んー,

かつてヨーロッパでは,

ヴィクトリア女王の存在は重みを持っていました。

上記の3人以外にもヨーロッパ中に血縁者が散らばっていたから。
(子は4男5女,孫は40人,曾孫は37人との事)

それぞれの国の政府が表面では対立していようと,

裏で王室同士が血縁で繋がり,

決定的な対立をさせないって言うメカニズムが働いていたんです。

だからこそ,

"君臨すれども統治せず"の精神を持ったイギリス女王も最後まで外交権だけは手放さなかった。

ヨーロッパ中に睨みを効かせていたってわけ。



んー,

ヴィクトリア女王は1901年に亡くなってるんだけど,

"もし"1914年の第一次世界大戦勃発時まで存命だったなら,

 あなたたち,

 おやめなさい!

の一言で大戦は起こらなかったのでは…。

いや,

もう20世紀の戦争は"国王の戦争"ではなく,

"国民の戦争"だったからな。

止まらなかったか?

どうだろ?



※1

ちょっと目が違うか。

目が淀んでいるのがニコライ2世で,

目に光があるのがジョージ5世って感じ?

んー,

ロシア革命によって惨殺されるニコライ2世に対し,

息子(ジョージ6世),孫(エリザベス2世),曾孫(チャールズ3世)へと王朝が続いていくジョージ5世。
(ジョージ6世についてはこちら

そんな運命を知っているからこその先入観か?


※2

一般的に「19世紀」と言うのは,

1801~1900年の100年間を指します。

ただ,

歴史をどう見るかって歴史観を反映させた結果,

イギリスの歴史家ホブズボームは,

1789~1848年を「革命の時代」,

1848~75年を「資本の時代」,

1875~1914年を「帝国の時代」

と題し,

1789~1914年を「長い19世紀」と規定しているんです。
(1815~1914年とする主張もある)

ちなみに,

1914~1991年は「短い20世紀」と言われている。

そして,

1688~1815年は「長い18世紀」なんだとか。

名誉革命,フランス革命もしくはウィーン会議,第一次世界大戦,ソ連解体

などが歴史的な世紀の変わり目と言うわけですね。

エウレカ,エウレカ!

2025-07-18 02:44:05 | 歴史浪漫
今週の中3理科の授業では,

「水圧・浮力」を扱っています。


(H.29入試)

昔は中1内容だったんだけど,

2021年の教科書改訂(※1)より中3内容になってるんです。

それ以来,通常授業で取り上げるようになった。
(基本,理科は中3しか担当していないから)

うん,

自作の授業プリントも少しずつブラッシュアップされ,

ほぼほぼ完成したと言っていいだろう。

60分と言う限られた授業時間の中で,

無理なく言いたい事を伝えられていると思う(※2)。

まぁ,

余白に差し込んだ"アルキメデスの入浴シーン"の画像には,



 コレ,誰得なん?

とツッコミを入れられたが…笑。

そして,

それに対して

 女子は大喜びだろ?

は失言だったと反省している笑。

ゴメンナサイ。

いや,

 乳首見えてる!

などと嬉々として叫ぶ女子生徒もいたけど…笑。
("オリーブ"や"近親相姦"で有名な生徒ね)


ところで,

授業の最後でR.3入試のコレを取り上げました。



物体を水に沈めたときに,

台ばかりの値はどうなるかって問題。

浮力の反作用を考えなければならないんだが,

 変わらない。

と答える生徒ばかりなんよね。

んー,

この問題の設定では,

物体の重さは3N,完全に沈めたときにはたらく浮力が1Nなんで,

手で持っている人の負担は,

(a)では3N,(b)では2Nと言う事に…。

それにもかかわらず,

水の重さが変わらないだと?

地球上から1Nが消失しとるやん笑。

まぁ,

習いたての中学生にコレの正解を求めるのは酷なんで,

別に間違えても思い悩む必要はないんだけどね。

うん,

それは構わないんだが,

解説の途中で

 体重計に乗った状態でこの筆箱を持ったら,

 その分だけ重くなるだろ?

みたいな発言をしたらさ,

授業後にfour valleysって生徒が

 この筆箱を持っても,

 体重は増えるけど,

 ワカミヤ先生の身長は伸びません。

などと言ってきやがったんよ。

それはユルサナイ笑。



※1

あのときの教科書改訂は,

なかなかに衝撃的でしたね。

理科だけでも,

水圧・浮力:中1から中3へ

ダニエル電池:中3へ追加

植物の光合成や蒸散:中1から中2へ

動物の分類:中2から中1へ

進化:中2から中3へ

などなど。

当時,授業をしながら

 "ダニエル処女"を奪われた!

などと言っていたのが懐かしい笑。
("箱ひげ処女"ってのもある笑)

ちなみに,

今年(2025年)も教科書が改訂されているが,

それほど大きな変化はない。


※2

中3の通常授業用の自作教材なんだが,

そろそろ本にしてもいいんじゃないかな?笑

そのくらい出来がいいと自負している。

あ,

「進化」と「食物連鎖」だけは欠落してるんだった。

前者に関しては,

単純に

 面白くないから。

って理由で作っていない笑。

いや,

ああ言う分野こそ,

授業では自由に語れるんだよな。

だけど,

授業回数の関係で割愛を余儀なくされてるってわけ。

後者も同じ。

市内の公立中学校で採択されている東京書籍では,

「天体」の後に入ってくる単元なんです。

入試直前の時期にわざわざ1つの単元のために授業を費やせない。

王冠を掛けた恋

2025-07-16 01:59:14 | 歴史浪漫
今宵,我がリスニング・ルームに鳴り響くのは,

フルトヴェングラー/ベルリン・フィルによるベートーヴェンの『第九』(※1)

です。


(フルトヴェングラーとベルリン・フィル)

フルトヴェングラーがベルリン・フィルを振った『第九』(※2)と言えば,

1942年3月22~24日,定期公演のライブ録音,

1942年4月19日,ヒトラー誕生記念日前夜祭コンサートのライブ録音
(通称"ヒトラーの『第九』")

などが有名だが,

今回は

1937年5月1日,イギリス国王ジョージ6世の戴冠式祝典コンサートのライブ録音。

ロンドンのクィーンズ・ホールで行われた歴史的な記録ですね。



ところで,

今のイギリス国王はチャールズ3世だが,



前国王がチャールズの母エリザベス2世で,



前々国王がエリザベスの父ジョージ6世です。



父から娘へ,

母から息子へって感じで,

順調に王位がバトンタッチされてますね。

いや,

女系になったんで,

チャールズ3世の即位をもって,

ウィンザー朝は王朝交代しているか。
(表向きは続いてるけど…)

それはそうと,

ジョージ6世が国王として即位したのは1936年12月11日なんだけど,

戴冠式を挙行したのは翌年5月12日。
(フルトヴェングラーは先駆けて祝典コンサートを行ったんですね)

ただ,

本来,この日は別の国王の戴冠式が予定されていました。


1936年1月20日,イギリス国王だったジョージ5世が崩御。



世界が第二次大戦へと驀進していく不穏な空気の中,

イギリス国王に即位したのは,

長男のエドワード8世でした。



容姿端麗で社交的,

国民からの人気も高い国王の誕生です。

しかし,

1つだけ懸念材料が…。

2度の離婚歴を持つアメリカ人女性のウォリス・シンプソンと不倫関係にあったんです。
(ウォリスの方も結婚していながら男性関係が派手だった)

王太子の頃ならまだしも,

正式に即位したからには,

"国王としての自覚"をもって不倫を清算してくれる事が望まれます。
(情勢も悪化していってるし…)

だけど,

彼は国民の期待を裏切り,

ウォリスとの結婚を望む。

公衆の面前で彼女の夫に

 さっさと離婚しろ!

と恫喝した挙句,

暴行を加えると言う騒ぎまで起こす始末。

そーいえば,

イギリスの国王って,

英国国教会の首長でもあるんだよな。
(英国国教会=イギリス独自のキリスト教)

その国教会は離婚を禁じているのに,

トップが離婚を強要するなど,

もはや笑い話を通り越している笑。

エドワード8世は宮廷,政府,国民から見限られていきます。

ただ,

障害があるほど恋は燃え上がるんだろうね。

どれだけ非難されようが,

どれだけ説得されようが,

周囲から孤立しようが,

彼は決して結婚を諦めようとはしない。

ついに王冠を捨てる覚悟を決めます。

んで,

1936年12月11日,

たったの11か月間の在位で退位。
(イギリス国王としては最短記録!)

その結果,

弟がジョージ6世として即位する事に…。

事前に何も聞かされていなかった彼は,

何の準備もできておらず,
(次男だから帝王教育も受けていない)

 これは酷いよ。

と側近に愚痴ったんだとか。

こうして迎えられたのが,

1937年5月12日の戴冠式ってわけ。


(中央の少女が後のエリザベス2世)


ところで,

王冠を捨て,

周囲の反対を押し切ってウォリスと結婚したエドワードだが,

幸せだったんだろうか。

少なくともウォリスは,

そうとは言えなかったみたい。

贅沢三昧の暮らしはできたかも知れないが,

前夫に

 あなたがいなくて寂しい。

と訴える手紙が残されているらしい。

んー,

エドワードってさ,

ハンサムだったし,

オシャレだったし,

何より大金持ち。

だけど,

愛想がいいだけで中身のない人間だったんだとか。

本を読む習慣がなく,

教養も浅かった。

時間や約束にだらしなく,

地味な仕事を嫌い,

意外とケチ。

第1印象が最もよく,

知れば知るほどイヤな部分が目立ってくるタイプだったんですね。

多くの女性たちと関係を持ったものの,

その誰からも真摯に愛されたとは言えないとの事。

イギリス国王に即位した日の夜,

ウォリスと食事しながら,

 君と結婚するためなら,

 退位も辞さない。

と伝えたエドワード。

何となくウォリスとの温度差を感じていたのかも。

自分の本気を見せる事で,

何とかウォリスを繋ぎとめようとしたのでは?

ウォリスは前夫と別れたくはなかったのに,

退位まで仄めかされたら,

エドワードを選ぶ他なかったのでは?

"王冠を掛けた恋"って,

"恋のために王冠を掛けた"んではなく,

"恋の駆け引きに王冠を利用した"ってのが,

本当のところかも。



※1

ベートーヴェンの『第九』って言うのは,

交響曲第9番『合唱』の事ね。


※2

音楽の記事ではないが,

一言だけ述べておきたい。

フルトヴェングラーの『第九』ってさ,

ベルリン・フィルとの録音以外にも10種類以上あるのよ。

んで,

その中で最も有名なのは,

1951年7月29日,バイロイト祝祭管を振ったバイロイト音楽祭のライブ録音。
(通称"バイロイトの『第九』")

次いで,

1954年8月22日,フィルハーモニア管を振ったルツェルン音楽祭のライブ録音か?
(通称"ルツェルンの『第九』")

ちなみに,

僕が大好きなのは,

1953年5月30日,ウィーン・フィルを振ったウィーン・ニコライ演奏会のライブ録音ですね。
(5月31日の録音も残されているから紛らわしいが,素晴らしいのは断然30日盤だろう)

あー,

いずれに記事にしたい笑。

188cm以上って,長身の僕からしても厳しい入隊条件だな笑

2025-07-14 03:19:15 | 歴史浪漫
中学時代,歴史を勉強していて,

突然,プロイセンなどと言う国が登場したときには,

 は?

となった記憶があります。



 こいつ何なん?

って…笑。

しかも,

"プロイセン公国"と書かれていたり,

"プロイセン王国"と書かれていたりする。

どっちなん?怒

そして,

いつの間にか,

"ドイツ帝国"や"ワイマール共和国"などに変化している。

とりあえず,

 プロイセンって,

 昔のドイツなんね。

みたいに適当に折り合いをつけて理解していたと思います。

それが高校で世界史を学ぶにあたり,

ようやく氷解。

今回はその辺の歴史を簡単に書いておこう。


まず,

プロイセンの王家と言うのは,

ホーエンツォレルン家なんですよ。



12世紀末はニュルンベルク城伯って言う,

そこそこの貴族だった。

だけど,

やがてブランデンブルク辺境伯領を手に入れ,
(誰もが羨む選帝侯位!)

さらにドイツ騎士団領の後継となるプロイセン公国までをも領有するように…。
(その辺の詳しい歴史はいずれ!)

んで,

18世紀初頭,

ブランデンブルク選帝侯かつプロイセン公だったフリードリヒが,


("猫背のフリッツ"と呼ばれたらしい)

神聖ローマ皇帝レオポルト1世と"王冠条約"を結びます。

 スペイン継承戦争が勃発したら,

 8000人の援軍を送るから国王になる事を認めてね。

って内容。

かくしてプロイセン国王フリードリヒ1世が誕生し,

ブランデンブルク選帝侯国とプロイセン公国は,

合わさってプロイセン王国に昇格。

あ,

もともと両国が合わさるのは契約違反だったんだけど,

そのうちなし崩し的にってわけ。

それはそうと,

プロイセンは第3代国王のフリードリヒ2世の治世に国力を蓄え,


(いわゆる"フリードリヒ大王")

ヨーロッパにおける存在感を増していきます。

そして,

19世紀初頭,

ドイツ連邦の時代には,

ハプスブルク家のオーストリア帝国に次ぐ,

ドイツの第2位と言うべき地位に…。
(第3位はヴィッテルスバッハ家のバイエルン王国)

その上,

宰相ビスマルクの活躍により,

普墺戦争でオーストリアをドイツ統一から叩き出し,

普仏戦争で南ドイツ諸国を従えて,

統一されたドイツ帝国を樹立。

第7代プロイセン国王ヴィルヘルム1世が,

初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世となりました。



まぁ,

第3代皇帝のヴィルヘルム2世が調子に乗り過ぎ,
(あのビスマルク様を罷免しやがった怒)



第一次世界大戦を引き起こしたため,

その帝国は崩壊しちゃうんだけど…。

ただ,

数百年の間に,

城伯→辺境伯(選帝侯)→辺境伯(選帝侯)+公爵→国王→皇帝

と凄まじい出世街道だよな。

すべての貴族の夢。


さて,

今回はフリードリヒ・ヴィルヘルム1世について。



プロイセン国王としては第2代にあたり,

フリードリヒ1世(猫背のフリッツ)の息子かつフリードリヒ2世(大王)の父親です。

んー,

何度も書いたけど,

名前のレパートリー少なくない?

ホーエンツォレルン家のプロイセン国王(ドイツ皇帝)を列挙してみよう。

フリードリヒ1世(初代プロイセン国王)

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世

フリードリヒ2世(大王)

フリードリヒ・ヴィルヘルム2世

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世

フリードリヒ・ヴィルヘルム4世

ヴィルヘルム1世(初代ドイツ皇帝)

フリードリヒ3世

ヴィルヘルム2世

うん,

手抜きに近い笑。

ひたすら"フリードリヒ"と"ヴィルヘルム"を並べ立ててるだけじゃん笑。

おっと,

脱線してしまった。

このフリードリヒ・ヴィルヘルム1世なんだが,

"兵隊王"と呼ばれてます。

質素倹約に努め,

余った金を軍事費に回す事で,

常備軍は先王の時代の倍に膨れ上がったんだとか。

そんな彼のお気に入りは,

プロイセン第6歩兵連隊。



通称"巨人連隊"と言われています。

厳しい入隊条件があって,

身長が188cm以上なければならなかったんです。

背が高ければ高いほど歓迎されたらしい。

ただ,

そんな巨人はそうそういない。

他領から引っさらってくるしかない。

と言うわけで,

国王に命じられたリクルーターは,

必死になって巨人を搔き集めました。

首に引っ掛けるように先端を丸くした,

拉致専用の道具までこしらえられてたって話…笑。

いやー,

僕もあの時代のドイツに生まれていたら危なかったな。

拉致されてたかも…。

あ,

僕は182cmしかないんだった。

安心,安心…。

この紋所が目に入らぬか!

2025-07-05 01:23:51 | 歴史浪漫
『アマデウス』って言う,

モーツァルトの伝記映画があるじゃない?



前から思ってたんだが,

あの映画で地味に凄いのって,

皇帝ヨーゼフ2世役の完成度

なんだよな笑。


(ジェフリー・ジョーンズ)


(ヨーゼフ2世)

なかなかの寄せ方じゃない?笑



さて,

このヨーゼフ2世って言うのは,

ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝で,
(神聖ローマ帝国=ドイツの前身)

啓蒙専制君主として知られています。
("上からの近代化"を目指した君主)

1765年,父フランツ1世の死を受けて皇帝に選出されるも,


(一応,神聖ローマ皇帝だったフランツ1世)

母である女帝マリア・テレジアの存命中はその陰で目立たず,


(神聖ローマ皇帝にはなっていないが,傑物だったため"女帝"と呼ばれるマリア・テレジア)

思うように統治できないのに苛立っていた。

まぁ,

母の宿敵フリードリヒ大王を崇拝したり,


(プロイセン国王フリードリヒ2世)

母の反対を押し切ってポーランド分割に参加したりしているが…。


んで,

1780年,マリア・テレジアが逝去し,

その重石が取れた途端,

張り切って次々と新しい改革に着手。

宮廷儀式の極端な簡素化,

プロテスタント,ギリシア正教,ユダヤ教の存在を認める寛容令,

カトリック教会による初等教育の廃止,

農奴制の廃止,

ギルドの廃止などなど,

矢継ぎ早に改革の矢を放ったんです。

んー,

その急進ぶりは,

啓蒙専制君主の旗頭たるフリードリヒ大王をして

 彼は一歩どころか,

 二歩も三歩も進み過ぎている。

と評されるほど…笑。

当然,教会をはじめとする保守層の抵抗には凄まじいものがあったんだが,

ヨーゼフは全く引こうとしない。

それどころか,

民族,文化,社会,経済の地域差を無視して,

ハプスブルク世襲領すべてに中央集権を敷き,

ウィーン風行政スタイルを押し付けようとする。
(ハプスブルク世襲領の中心はオーストリア)

うん,

今度はハンガリーや南ネーデルラント(ベルギー)で深刻な民族的反乱が勃発。
(当時はハンガリーやベルギーもオーストリアの支配下だった)

これにはさすがのヨーゼフも参ってしまい,

志半ばで病に倒れる事に…。

墓碑銘には

 善き意志を持ちながら,

 何事も果たさざる人ここに眠る。

とあるんだとか。

しかし,

妹マリー・アントワネットに会うためのフランス訪問では,


(妹はフランス革命で処刑された事で有名)

安宿の固いベッドに上着だけをかけて寝たり,

救貧院に出向いた際には,

周りと一緒に貧しいスープをすすったりと,

庶民派のアピールを欠かさなかったヨーゼフ。

人民の権利拡大に努めた彼の志は,

やがて"ヨーゼフ主義"として長く語り継がれる事になります。


ところで,

1790年に亡くなったヨーゼフの跡を継いだのは,

弟のレオポルド2世。


(神聖ローマ皇帝レオポルド2世)

彼は兄の強引な改革の混乱を収めるため,

反動的な政策でその改革の努力をなし崩しにしてしまう。
(関係ないが,モーツァルトへの冷遇は業腹!)

それへの反発もあったんかな。

民衆が自分たちの味方であったヨーゼフ2世の"善き意志"を懐かしむ事で,

1つの伝説が誕生します。

悪代官に苦しめられる民衆のところへ,

粗末な外套に身を包んだ見知らぬ男がどこからともなく現れ,

その不正を糾して不遇な民衆を救う

みたいな伝説。

ちなみに,

この男は最後に外套をパッと脱ぎ捨てるんだけど,

中から出てくるのは豪華絢爛な衣装で,

実は高貴なお殿様だったってオチがつく笑。

まんま『水戸黄門』の

 この紋所が目に入らぬか!

やないかい!笑



しかも,

去り際には

 お前たちが我が名を知る事はないであろう。

 我は皇帝ヨーゼフなり!

って決め台詞まであるらしい笑。

んー,

洋の東西を問わず,

民衆の思い描く"理想の君主像"って一緒なんだな笑。

バチカンに引き篭もるのはイチかバチか(ん)の賭け!笑

2025-07-02 02:35:34 | 歴史浪漫
今までの人生で僕が訪れた事のある国は,

アメリカ,ギリシア,イタリア

の3ヵ国だけ。

んー,

アメリカに行ったのは中3の秋でしたね。

富山市の親善交流的なヤツで派遣されたんです。

んで,

ギリシアとイタリアは大学4年目(3年生)の3月。

高校時代の友人の卒業旅行について行った。
(ほら,僕は卒業の時期じゃないから笑)

あ,

そんときローマでバチカン市国にも行ってる。

あれも独立国だからな。

なら4ヵ国か。



と言うわけで,

今回はバチカン市国の歴史について。

いや,

成立の話ね。

本気でバチカンを語ろうと思ったら,

イエスの1番弟子であり,
(十二使徒の筆頭)

"初代ローマ教皇"とも言われるペテロの殉教から始めなければならない。
(サン・ピエトロ大聖堂の由来)



そうなると,

2000年近い歴史を話す事になるんで,
(ほぼほぼローマ教皇全史)

ちょっと無理。

うん,

ここ200年ほどの歴史で勘弁を…笑。


19世紀初め,

フランス革命とナポレオン戦争を経験したヨーロッパには,

自由と平等の理念が広まっていました。

ナポレオンに支配された各国では,

民族の自由を求めての国民運動が盛り上がり始めていたんです。

すでにフランス革命以前には戻れなくなってしまっていたヨーロッパ。

そんな中,時代に取り残されていたのがローマ教皇たちです。

彼らは時代の変化を読む事ができなかった。

否,

認めようとしなかった。

"社会の変化"を"社会の崩壊"と受け止めたんですね。

グレゴリウス16世(在位:1831~46年)など,



民主主義を非難し,

科学にも否定的で,

教皇領内への鉄道敷設を禁止しているほど。

しかし,

お膝元のイタリアは統一運動が激化していく。

あ,

当時のイタリアって分裂状態だったんですよ。



北西部にはサルデーニャ王国(青色),

中部にはローマ教皇領(薄紫色),
(ローマ教皇も国王と変わらぬ世俗君主ってわけ)

南部には両シチリア王国(オレンジ色)があり,

他にもトスカーナ大公国(黄色),パルマ公国(緑色),モデナ公国(濃紫色)などなどが乱立。

しかも,

北東部のロンバルディア,ヴェネツィア(水色)は,

未だオーストリアの支配下に置かれていました。

そこで「イタリア統一運動(リソルジメント)」が起こった。

オーストリアを始めとする外国勢力を半島から追い出し,

真のイタリア統一を目指したんです。

当初はローマ教皇を首長とするイタリア連邦が夢見られました。

ときの教皇は教会改革に熱心なピウス9世(在位:1846~78年)。



彼こそが統一イタリアの首長に相応しいと考えられた。

しかし,

そんな国民の期待はあっけなく裏切られます。
(ここで言う"国民"="後の統一イタリアの国民"ね)

1848年から始まったオーストリアに対する独立戦争に際して,

ピウス9世は教皇軍の参戦を取り止めているんです。

彼は世俗君主の座を手放すつもりなど毫もなかった。

あくまで教皇領の"国王"として振る舞いたかった。

だから,

イタリアが統一国家となり,

教皇領が消滅する事をよしとしなかったってわけ。

当然,国民からは愛想を尽かされる。

そして,

1849年,マッツィーニ率いる青年イタリアがローマで蜂起し,

ローマ共和国を樹立。

共和国はピウス9世を廃位して拘束します。

ただ,

ピウス9世はフランスに援軍を要請し,

共和国を破壊。

いやー,

決定的ですね。

教皇がフランス軍を引き入れたんだから,

完全にイタリア国民の敵となります。


さて,

一旦は挫折したリソルジメントなんだけど,

再び熱気が戻ってきます。

その主導権は,

サルデーニャ王国の首相カヴールへ。



彼は国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のもと,

立憲君主制による統一を目指したんです。

ま,

この辺の経緯はこちらで記事にしてるんで端折るんだけど,

1861年,無事にイタリア王国が成立します。

国王はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世で,

首都はトリノに置かれた。

ただし,

完全な統一は成し遂げられてはいません。

ヴェネツィアがオーストリア支配下のままだし,
(いわゆる"未回収のイタリア")

教皇領も接収できなかった。

前者はフランス皇帝ナポレオン3世のせいだが,

後者は完全に教皇ピウス9世が統一に反対してたから。

フランス軍をローマに駐留させ,

ガリバルディの攻勢を阻止し続けてたんです。

しかし,

それも長くは続かない。

この頃,アルプスの北では,

ドイツが統一を目指して動いていたんです。

こっちはプロイセン王国を中心としていたんだが,

最後の障害がナポレオン3世率いるフランスだった。

こうしてプロイセンの宰相ビスマルクの策略により,

普仏戦争(プロイセンVSフランス)が勃発。

んで,

これがプロイセンの圧勝だったんだよね。

フランスはローマに軍を置く余裕がなくなる。

かくして教皇領のフランス軍は撤退を余儀なくされ,

1870年,教皇領はイタリアに編入されます。

ついにイタリア王国の首都がローマになり,

教皇の領地はバチカン宮殿とその周辺のみに…。
(ほぼほぼ今のバチカン市国)

ただ,

ピウス9世はなおも抵抗を続ける。

半ば意地になってる感も…笑。

彼は最後までイタリア王国の存在を認めませんでした。

バチカン宮殿に籠もり,

自らを"バチカンの囚人"と自嘲したとも…。

それ以降,

イタリア政府とローマ教皇との対立の時代が続きます。


その後,第一次大戦を経て1920年代になると,

イタリアではムッソリーニ率いるファシスト党が全権を掌握します。



そして,

ムッソリーニは教皇ピウス11世(在位:1922~39年)に摺り寄る。



両者は反共産主義と言う1点で結ばれ,

1929年,ラテラノ条約が成立。

教皇はイタリア王国を承認し,

イタリア政府もバチカン市国を承認します。

こうして世界最小の独立国が誕生したってわけ。


そーいえば,

前にバチカンを訪れたときは,

サン・ピエトロ大聖堂には入れなかったんだよな。

ローマ教皇が式典か何かをしてて…。

まぁ,

その代わり当時の教皇ベネディクト16世台下をお見かけする事ができたわけだが…。

頑張るでぃ!

2025-06-29 03:13:58 | 歴史浪漫
高校時代,世界史の先生に傾倒し,

その方のお言葉である,

 世界史良ければ,

 すべて良し。

を地で行っていた僕なので,
(世界史のみ本気で勉強してた笑)

高校卒業後も世界史を趣味の1つにしてます。
(音楽鑑賞,模試作成などと並ぶ)

ちなみに,

長らくはドイツ史一辺倒だったんだが,
(ハプスブルク家への憧憬が強かった)

ここ数年は世界中の歴史に興味津々。

ヨーロッパ史だけでなく,

トルコ史,ペルシア史,インド史,中国史まで。
(手を出していないのは南アメリカとアフリカ)

ただ,

やっぱり1番面白いのは,

何と言ってもドイツ史なんだよな笑。

折に触れて戻ってくる笑。

んー,

ドイツって,

ヨーロッパ諸国の中でも最も統一の遅かった国で,

ずーっと分裂状態だったからかな。

あー,

そう言う意味ではイタリア史も楽しいはず。



中世以来,

 イタリアは国名ではなく,

 地名に過ぎない。

と言われている通り,

半島にまとまった国家が存在した事がないんです。

常に複数の君主国や共和国が犇めいている。

と言うわけで,

今回はイタリアの統一について書いてみたい。



19世紀初めのウィーン体制下のイタリアは,



北西部にサルデーニャ王国(青色),

北東部にオーストリアの支配するロンバルド・ヴェネト王国(水色),

中部にローマ教皇領(薄紫色),トスカーナ大公国(黄色),パルマ公国(緑色),モデナ公国(濃紫色)など,

そして,

南部にはナポリ王国とシチリア王国を合わせた両シチリア王国(オレンジ色)

が乱立する状態でした。


まず,

青年イタリアって言う政治結社が統一を目指します。

彼らは共和制による統一を掲げ,

各地で反乱を繰り返すんです。

しかし,

具体的な成果は上げられないまま,

弾圧され活動停止へ追い込まれる。


んで,

統一運動の主導権はサルデーニャ王国の首相カヴールへ。



彼は国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のもと,

立憲君主制による統一を目指します。

そのためには,

オーストリアからロンバルディアとヴェネツィアを奪還し,

中部の諸国家やローマ教皇領,南部の両シチリア王国を1つ1つ併合していかなければならない。

そこで,

彼が最初に打った一手は,

他国を味方に引き入れる事。

クリミア戦争でイギリスとフランスの支援に回ったんです。

これは黒海北岸のクリミア半島で起きた国際戦争で,

イギリス&フランス(&トルコ)VSロシア

って構図。

戦争の結果,イギリス&フランス側が勝利し,

サルデーニャは国際的地位を高める事に成功。

んで,

いい感じに恩を売ったカヴールは,

フランス皇帝ナポレオン3世との間に密約を交わします。

サルデーニャがサヴォイアとニースをフランスに割譲する代わりに,

対オーストリアの戦争では,

フランスがサルデーニャを支援する

って内容です。

そして,

1859年,ついにサルデーニャはオーストリアと開戦。

ロンバルディアとヴェネツィアを奪い返すための戦争ですね。

うん,

比較的に短期間で終わりました。

フランスの支援を受けたサルデーニャは,

まさに連戦連勝。

しかし,

ここで予期せぬ事態が…。

フランスが支援を打ち切り,

戦争から離脱するんです。

ナポレオン3世は優柔不断な事で有名。

支援をしてみたものの,

自国周辺に巨大な国家が誕生する事を恐れたってわけ笑。

もちろんの事,

サルデーニャ単独では大国オーストリアと渡り合えない。

ロンバルディアを取り戻したところで断念。
(ヴェネツィアが返ってこなかった)

んー,

サヴォイアとニースを手放したはずなのに,

ロンバルディアのみの獲得など,

カヴールは到底納得できない。

彼はナポレオン3世に食って掛かり,

中部イタリアの併合を承認させます。
(タダでは転ばない)

と言うわけで,

カヴールは順調に北部からの統一を進めていきます。


その頃,南部では別の動きがありました。

ガリバルディの活動です。



彼は青年イタリアの出身で共和派。

親衛隊を率いてシチリア島や南イタリアを占領し,

両シチリア王国の併合に成功していました。

つまり方針の異なる統一活動が北と南から進められてるって事。

うん,

半島の中央で2つの勢力が出会ったとき,

凄まじい武力衝突が起きる予感がしますね。

その様子がこちら。



「テアーノの会見」と呼ばれる場面なんだが,

右側にいるのはサルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世で,

左側にいるのがガリバルディ。

うん,

ガリバルディ,めっちゃ陽気じゃね?笑

このとき,

 シチリア島,南イタリアは貴国に無償で献上しましょう。

と言ったんだとか。

当然,サルデーニャ側は耳を疑う。

まぁ,

苦労して手に入れた領土を何の見返りもなく政敵へ差し出すなど,

常人にできる事ではないからね笑。

 君はこれからどうするつもりだ?

と問います。

すると,

ガリバルディは

 私は故郷に帰って,

 羊でも飼いながらのんびりと暮らしますよ。

 では!

みたいに答え,

馬とともに颯爽と走り去ったんだって…笑。

え?

めっちゃカッコいいやん笑。

憧れるわー笑。


そして,

両シチリア王国の併合を受け,

1861年にイタリアの統一は成されます。
(ローマ教皇領とヴェネツィアは除く)

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を国王とするイタリア王国が誕生するんです。

ちなみに,

同年,カヴールは過労で倒れて死去。

最期の言葉は

 イタリアは誕生した。

 もう仕事はない…。

だったんだとか。

え?

めっちゃカッコいいやん笑。

憧れるわー笑。

貧民のパン

2025-06-18 03:03:05 | 歴史浪漫
アイルランドの歴史について調べるとさ,

なんか「ジャガイモ飢饉」推しが凄いのよ笑。



だいたい出てくる。

え?

そんな大事なん?

たかだかジャガイモの不作だろ?

一国の歴史の中で,

そんなに取り沙汰される事?

うん,

そう思ってはいけない。


ジャガイモってさ,



コロンブスによって南米からもたらされた比較的新しい食材なんだけど,

痩せた土地でも育ち,
(熱帯を除く世界中で栽培可能)

栄養価が高く,
(デンプンの含有量が高い)

保存もきくため,
(頑張れば半年はいける)

"貧民のパン"とも呼ばれたらしいのよ。

んー,

19世紀初め,アイルランドはイギリスに併合され,

貧しい農民はイギリス本国の地主に搾取されるようになった。

実りの多い土地には,

イギリス向けの穀物が優先的に栽培され,

アイルランドの人々には,

痩せた土地しか割り当てられなかったんです。

だから,

"貧民のパン"たるジャガイモが重宝されたってわけ。

このジャガイモのパワーによって,

18世紀前半には300万人程度しかいなかったアイルランドの人口が,

19世紀前半には約800万人にまで増加したんだとか。

え?

すご…笑。

そんな中,

1845年にジャガイモの疫病が大流行しました。

ほら,

中学理科でも習うように,

ジャガイモって栄養生殖で殖えるじゃない?

種子ではなく,

芋で新しい個体をつくる。

いわゆる無性生殖ですね。

同じ遺伝子をもつクローンばかりになるって事。

当然,アイルランド中のすべてのジャガイモが同じ疫病に弱い。

まさに全滅の危機。

生物学的には"多様性"って重要なんよ。

かくして大飢饉と相成ります。

このジャガイモの不作は,

1845~49年に及び,

アイルランドの人口は300万人ほど減少したみたい。

あー,

これは大事件だわ笑。
(いや,笑い事ではない)

ちなみに,

1847年にはトウモロコシが豊作だったとの事。

え?

トウモロコシ食えばいいじゃん。

そう思ったら,

トウモロコシはイギリスの地主が持っていくから,

アイルランドの人々の口には入らなかったんだって…。

そう考えると,

この飢饉って,

ほぼほぼ"人災"だよな。

スターリンや毛沢東による飢餓輸出に近い。

いや,

あいつらは文字通り桁違いか笑。
(いずれ記事に!)


ところで,

アイルランドの人口減少のうち,

飢えで亡くなったのは100万人くらい。

んー,

主な原因は移民なんだとか。

祖国には食べる物がないから,

新天地へと移動していった。

どこへ行くのかと言うと,

開拓地だったアメリカ大陸です。

大勢のアイルランド移民が,

工業国として発展するアメリカ合衆国を創り上げていったってわけ。

まぁ,

最初は大変だったみたいだが…。

移民の中でも新参者だったので,

低賃金・長時間の過酷な労働に従事させられたんです。

もともと飢餓で栄養状態がよくなかった彼らは,

ブラックな環境に耐えられず,

アメリカ上陸後の平均余命は5~6年だったんだとか…。

んー,

プロテスタントが多いアメリカにおいて,

アイルランド移民がカトリックだった事も拍車をかけたのかも…。
("よそ者"と見做されたってわけ)

しかし,

南北戦争が終わる頃になると,

ポーランド,イタリア,スペインなどからの移民が増加。

そうなると,

同じカトリックとしてアイルランド移民は"先輩"に…。

少しずつ地位が上がっていったんですね。

そーいえば,

1961年,第35代大統領に就任したケネディは,



アイルランド移民の曾孫に当たるらしい。

アメリカ史上最年少で当選した大統領(※1)であり,

初のカトリックの大統領でもあります。

ちなみに,

前大統領のバイデンは,

史上2人目のカトリックなんだとか。



※1

選挙で当選した大統領としては最年少(43歳)。

前大統領の暗殺を受け,

副大統領から昇格したT.ルーズベルトが最年少(42歳)の就任に当たります。

"とりあえず兄弟を皆殺しにする"って言うステレオタイプ

2025-06-16 03:06:01 | 歴史浪漫
もう8年くらい前の話だと思うんだが,

生徒に"スルタンの弟"って渾名を付けた事があるのよ。

日本人ながら顔がトルコ風味だったんです笑。

"スルタン"と言うと,

日本語では"皇帝"と訳される事が多いんで,

非常に高貴な雰囲気が漂う。

うん,

本人も満更ではない感じでしたね笑。

だからさ,

とりあえず

 スルタンの弟って,

 基本的に殺されるんだけどね。

と言っておきました笑。



ところで,

このときの僕が思い描いていた"スルタン"とは,

当然,オスマン帝国の皇帝の事。
(皇室はトルコ人)

当時の僕はイスラームの歴史には疎かったんだけど,

ぼんやりと

 オスマン皇帝は即位するや,

 帝位簒奪を怖れて兄弟を皆殺しにする

ってイメージがあったんですね笑。

まぁ,

実際にオスマン帝国の歴史を調べてみると,

帝位継承の際に皇子たちの"兄弟殺し"が慣例化しているわけだが…笑。

んで,

その嚆矢となったのが第4代皇帝バヤジット1世なんです。




1389年,オスマン帝国に激震が走る。

強勢を誇った皇帝ムラート1世が亡くなったんです。
こちらで記事にした"死んだフリ作戦"による暗殺!笑)

ただちに皇子のバヤジットが即位。

ただ,

前途は多難でした。

ムラート1世と言う"強い指導者"を,

それも戦争の最中に失ってしまったんだから。
(セルビアと戦争中だった)

当然,敵国のセルビアは活気づくし,

支配下に置かれていたアナトリア半島の君侯国も次々と反旗を翻し始める。

その上,

他の皇子たちまで不穏な動きを…。

うん,

こんなときに身内どうしで足を引っ張りあっていたら,

帝国の滅亡は避けられません。

バヤジットは冷静かつ冷酷に行動します。

血を分けた兄弟たちを何の躊躇いもなく皆殺しにしたんです。

そのあまりにも迅速な決断力・行動力から,

彼は"雷帝"と言われるようになります。

かくして"兄弟殺し"が慣例化ってわけ。


ちなみに,

その後のバヤジット1世ですが,

アナトリアでは反抗する君侯国を次々と撃破し,

さらにバルカンにも進軍。

ブルガリア,セルビア,ボスニアなどを勢力下に収めます。

そして,

脅威を感じたヨーロッパのキリスト教世界は,

神聖ローマ皇帝ヴェンツェル(※1),

ハンガリー王ジギスムント(※1),

ワラキア公ミルチャ1世(※2),

ポーランド王ヴワディスワフ2世(※3)

などなどが中心となって「ニコポリス十字軍」を送り込む。

1396年の「ニコポリスの戦い」ですね。



上記のハンガリー,ワラキア,神聖ローマ帝国,ポーランドの軍以外にも,

フランス,イングランド,ヴェネツィア,ジェノヴァなどの軍が加わり,
(フランスとイングランドは「百年戦争」の只中だったのに!)

まさに"全ヨーロッパ連合軍"と言っていい相手でしたが,

バヤジットはコレを捻じ伏せます。

開戦前,ハンガリー王ジギスムントは

 オスマン軍など6時間ともつまい!

と豪語していたらしいが,

残念ながらヨーロッパ軍の方が"3時間"で崩壊…笑。

ダサ…笑。

ただ,

そんな"向かうところ敵なし"のバヤジットにも敗ける日が…。

んー,

やっぱ慢心って怖いんだよな。

これまで勝ち過ぎちゃったから,

 自分が敗けるわけない。

と思っちゃう。

相手はティムール帝国の初代皇帝ティムールだったんだけど,

ナメてかかったんですね。

「アンカラの戦い」でバヤジットは大敗。



捕虜にされてしまう。

んで,

その屈辱に耐えられず,

絶望して牢の石壁に頭を叩きつけて自ら命を絶ったんだとか。
(諸説ある)

これによりオスマン帝国は一時的に滅亡。

息子たち4兄弟が"オスマン帝国の再興"を目指します。

まぁ,

4兄弟が"手に手を取り合って"と言うわけにはいかず,

とりあえず壮絶な殺し合いから始まるんだけど…笑。

さすが"バヤジットの息子たち"って感じ?笑

ちなみに,

三男が戦いを制して,

メフメト1世として皇帝に即位し,

なんとかオスマン帝国を再建。

続くムラート2世までに,

国力と失地を回復して,

次のメフメト2世がコンスタンティノープルを陥落させて,

ビザンツ帝国を滅亡に追い込んだ事で有名ですよね?
(いずれ記事に…)



※1

神聖ローマ皇帝ヴェンツェルも,

ハンガリー王ジギスムントも,

金印勅書で有名な神聖ローマ皇帝カール4世の息子たちです。

ルクセンブルク家による神聖ローマ皇帝の世襲を目論んだ人物ですね。

ただ,

残念ながらジギスムントが帝位を継いだ後,

跡取りに恵まれずに断絶。

帝位はハプスブルク家の手に…。


※2

ワラキア公国って言うのは,

現在のルーマニア南部にあった国。

15世紀の公爵ヴラド3世が,

ドラキュラのモデルとして有名ですね。
(いずれ記事に…)


※3

この頃のポーランドは,

なかなかの大国でした。

その後,世襲王制から選挙王制=貴族共和制となり,

だんだんと力が弱まって,

18世紀後半には地図から消える事に…。

記念日って大切にしなきゃ

2025-06-09 03:15:39 | 歴史浪漫
いつも授業では,

 塾は間違えに来るところ。

と言ってます。

だから,

塾内テストは悪い点数でもいいんです。

間違えたところを反省して,

学校の定期テストで点数を取ってくれれば…。

だけど,

たまに塾内テストは100点だけど,

定期テストは80点みたいな奴いるんだよね笑。

本末転倒。

 勝って兜の緒を締めよ。

って言葉を贈りたい。



敵に勝っても油断せず,

気を引き締めて物事にあたれ

と言う意味。



と言うわけで,

今回はオスマン帝国の第3代皇帝ムラート1世について。



あ,

この頃はまだ"オスマン帝国"じゃなく,

"オスマン君侯国"と言った方がいいかな。
(いつから"帝国"なんかは微妙)

1299年,初代皇帝オスマン1世がルーム=セルジューク朝から独立したばかりの頃は,

単なる辺境の地方政権に過ぎなかったんです。


(こんなもん?)

当時のアナトリア半島は,

ルーム=セルジューク朝の権威の失墜に乗じて多数の君侯国が群雄割拠しており,

オスマン君侯国もその1つだったってわけ。
(しかも,辺境の弱小国)

だけど,

オスマン1世は支配力の弱まったビザンツ帝国の辺境を次々と併呑していき,

その息子である第2代皇帝オルハン1世の代になると,

周辺の君侯国も制圧。

アナトリア半島の北西部をすべて押さえます。

数ある君侯国の中でもカラマン君侯国に次ぐ第2位に…。


さて,

その息子のムラート1世の御代では,

いよいよビザンツ帝国を滅ぼしにかかります。

バルカン半島にも侵攻するんです。

いやー,

ビザンツ帝国と言えば,

あの東ローマ帝国の事ですよ。

6世紀,ユスティニアヌス大帝の治世には,

これほどの領土を誇った大帝国。



だけど,

イスラーム勢力や十字軍などに影響を受けて衰亡の一途を辿り,

その上,この時代にはムラート1世の攻撃を受けて,

コンスタンティノープル周辺だけの都市国家レベルに…。


(こんなもん?)

ただ,

そこは腐ってもビザンツ!

この後,100年にも渡って存続するんだから。
(1453年,オスマンの第7代皇帝メフメト2世に滅ぼされる)


ところで,

バルカン半島にまで回り込んでビザンツ帝国を追い詰めたオスマン帝国ですが,

ここで横槍が入ります。

北のブルガリア王国と西のセルビア王国が攻めてくるんです。

ビザンツ帝国の衰亡を目の当たりにして

 明日は我が身!

と思ったんでしょうね。

まずはセルビアの攻撃です。

ムラート1世がアナトリア半島に戻っている隙を狙って,

都アドリアノープルを攻めてくるんです。

主力軍のいない都の兵力はたった800。
(諸説ある)

対するセルビア軍は50,000。
(諸説ある)

え?

ヤバくない?

ただ,

セルビア軍が酷かった。

"50,000VS800"って言う圧倒的兵力差から

 楽勝じゃん!

ってムードになり,

総攻撃を前に祝宴を始めるんだから笑。

んで,

ベロンベロンに酔っ払ったところを,

オスマン軍に夜襲を仕掛けられて敗北。

セルビア軍の気持ちもわからんではないが,

アホ過ぎ…。

ちなみに,

続いてブルガリア軍もやってきますが,

このときにはムラート1世率いるオスマン主力軍が迎え撃ったんで,

まったく勝負になりません。

そんなこんなでセルビア領,ブルガリア領の大部分も支配下に…。

うん,

領土は増える一方ですね。

向かうところ敵なし。


ただ,

こう言うときこそ油断してはいけない。

息を吹き返して再び反抗してきたセルビア軍をコソヴォポリエの戦いで打ち破ったムラート1世は,

その戦場を視察に行きます。

んで,

累々と横たわるセルビア兵の死体を前に

 ワシに逆らうからじゃ!

と息巻く。

しかし,

死体の山の中には,

"死んだフリ"をしていた兵士が…。

彼はおもむろに起き上がり,

ムラート1世に飛び掛かる。

うん,

これにてムラート1世は無念の死を遂げるってわけ。

いやー,

油断大敵ですね。


ちなみに,

この出来事が起きた1389年6月15日って,

セルビア人の中で"国恥記念日"として今も語り継がれているらしい。

外国から恥辱を受けながら一矢報いた日ってわけ。

そして,

コソヴォポリエの戦いから500年以上も経った1914年。

この頃になると,

オスマン帝国は"瀕死の病人"どころか"死んだも同然",

バルカン半島からは駆逐されていて,

セルビアの敵はオーストリア帝国でした。

そんな中,

敵国オーストリアの皇太子夫婦が軍事視察のためにサライェヴォへやってくる事に…。

その日程は夫婦の"結婚記念日"たる

6月28日

に定められます。

しかし,

グレゴリウス暦を使うキリスト教圏(オーストリア)と,

ユリウス暦を採用しているギリシア正教圏(セルビア)とでは13日ほどカレンダーに差が…。

つまり,

セルビアでは

6月15日

だったってわけ。

"国恥記念日"ですね。

んー,

オーストリアの皇太子夫婦が"結婚記念日"を選んだのに,

悪気などはない。

でも,

セルビア人からしたら,

 皇太子夫婦がやってくる日は,

 我々がオスマン帝国に一泡吹かせた日だ!

 今回もオーストリア帝国に目にものを見せてやろうじゃないか!

ってなってもおかしくない。

その結果,

サライェヴォ事件が起こり,

世の中は世界大戦へ…。

"笑わなければやってられない"と言う国だったのかもね

2025-06-02 02:10:59 | 歴史浪漫
んー,

何て映画だっけなー?

大学時代に観たんだけど,

東西ドイツ統合の時代を舞台にしたドイツ映画でさ,

昏睡状態から目を覚ました愛国者の母親に,

東ドイツの消滅を知られないよう息子が奮闘するってコメディ。

うん,

思い出した。
(ホントは検索して調べた)

『グッバイ,レーニン!』だ。





と言うわけで,

今回は東ドイツ・ジョークでも…笑。

第二次世界大戦後,敗戦国のドイツは

アメリカ,イギリス,フランス,ソ連

の4ヵ国に占領される事に…。



んで,

1949年10月7日,ソ連占領区で「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)が建国されます。

1990年10月3日に「ドイツ連邦共和国」(西ドイツ)に編入されるまでの間,

この国は東側の社会主義と言う"壮大な実験"に巻き込まれていました。

その悲劇は長い年月を経て喜劇に…笑。

それこそが東ドイツ・ジョーク。

飲み会の場なんかで語れるとオシャレですね笑。


まずは秘密警察(シュタージ)による監視を皮肉ったヤツを…。

※※※※※※※※※※※※※※※

公判後の裁判官が食堂にやって来る。

笑いを堪えられない様子。

ソレを見た同僚が

 何がそんなに面白いんだ?

と尋ねた。

裁判官は

 党や指導者に対する最新ジョークを耳にしたからさ。

と答えながら,

笑いに身をよじらせる。

興味津々の同僚は

 勿体ぶらずに聞かせてくれよ。

と迫るが,

裁判官は答えて曰く,

 それは無理だ。

 そのジョークで2年の禁固刑にしたからね。

※※※※※※※※※※※※※※※

東ドイツでは,

政治ジョークが

国家を危険に晒すプロパガンダおよび扇動

の罪に問われたらしい。

当然,裁判官も同じジョークを言えば,

2年の禁固刑を喰らう事に…笑。


続いては,

ソ連の支配を揶揄するタイプ。

※※※※※※※※※※※※※※※

ホーネッカー(国家評議会議長)が港を散歩していたところ,

水夫が船に積み荷を積んでいるのを見かけた。

んで,

 やぁ,何をしているんだい?

と問うホーネッカー。

水夫は

 機械を積んでアフリカへ輸送し,

 コーヒーを積んで戻ってきます。

と答える。

満足したホーネッカーは隣の船でも同様の質問を…。

答えは

 自転車を積んでキューバへ行き,

 オレンジを積んで戻ってきます。

と言うもの。

やはり満足するホーネッカー。

そのまま次の船へ…。

こちらの水夫は

 我々はコーヒーとオレンジを積んで,

 ソ連へ持って行くのです。

と返してきた。

ホーネッカーは

 で,ソ連からは?

と聞く。

すると,

水夫は答えます。

 そりゃ,鉄道で帰って来ますよ。

※※※※※※※※※※※※※※※

ソ連とは交易にならんって事ね笑。

コーヒーとオレンジを取られるだけ。

否,

鉄道で帰って来ると言う事は,

船すらも差し出している笑。


あ,

もう1つ。

※※※※※※※※※※※※※※※

東ドイツ人,ロシア人,チェコ人,ハンガリー人の4人が,

電車の個室(コンパートメント)に座っている。

ロシア人はウォッカ瓶を取り出し,

半分だけ飲み干して窓から瓶を放り投げた。

東ドイツ人はびっくり。

しかし,

ロシア人は

 我が国には捨てるほどあるからね!

と豪語する。

チェコ人はピルスナービールの瓶を取り出し,

これまた半分だけ飲んで窓から捨てた。

東ドイツ人は遠ざかっていく美味しそうなビールの瓶を眺める。

チェコ人も

 我が国には捨てるほどあるからね!

と悪びれない。

ハンガリー人も負けてはいない。

サラミを半分だけ食べて窓から放り出し,

 我が国には捨てるほどあるからね!

と一言。

東ドイツ人は勿体ないと思いながら座っていた。

しかし,

突然,彼はロシア人の襟を掴んで窓から放り投げた。

びっくりするチェコ人とハンガリー人。

東ドイツ人曰く,

 我が国には捨てるほどあるからね!

※※※※※※※※※※※※※※※

ちょっとスカッとする笑。



どーでもいいけど,

社会主義者って"背理法"を知らないんだよな。

自説に多少の矛盾が生じても屁理屈で誤魔化そうとする。

本来なら何か矛盾が生じた時点で,

 前提がおかしい

と気付くべき。

この辺はいずれ記事に…。

絶対に盛っとるやろ?笑

2025-05-29 03:58:34 | 歴史浪漫
歴史のエピソードの中にはさ,

 え?

 それは嘘やろ?

みたいなんも結構あるのよ笑。

こちらの記事で紹介した,

ムガール帝国の皇帝バーブルと皇太子フマーユーンの話もその1つ。

だってさ…,

皇太子が病で瀕死になったときに,

父帝がアッラーに対して

 我が子の命を救ってくださるなら,

 我が命を捧げても構いませぬ!

と祈ったら,

健康だった父帝が急激に体調を崩して病死し,

死にかけの皇太子がコロッと全快

なんて,

作り話としか思えんやん笑。



んー,

中国史でも見つけました。

 は?

 ホントに史実なん?

と疑いたくなるヤツを…笑。


ときは紀元前6世紀の春秋時代…。

あ,

古代中国には「周」って言う王朝があったんだけど,

紀元前8世紀には周王の権威が失墜し,

各地の諸侯が自立して相争う時代に突入するんですよ。

いわゆる「春秋戦国時代」ってヤツ。

魯,斉,晋,秦,楚,衛,陳,蔡,曹,鄭,燕,呉などの諸侯国が鬩ぎ合い,

周王に代わって"覇者"と呼ばれる諸侯のリーダーが登場したのが「春秋時代」で,



斉,楚,秦,燕,韓,魏,趙の"戦国の七雄"が並び立ったのが「戦国時代」。



後者は『キングダム』の世界ですね。




と言うわけで,

今回の主役は春秋時代の晋の君主である景公です。



なかなか有能な人物だったみたいで,

清の儒学者である全祖望は,

彼の事を"春秋の五覇"の1人に数えているほど。

春秋時代の英邁な5人の覇者に選ばれてるってわけ。

いや,

この"春秋の五覇"って眉唾臭いんだよなぁ笑。

誰をもって五覇とするかは,

文献によって違いがあるから笑。

多くの人に選ばれてるのは,

斉の桓公,晋の文公,秦の穆公,宋の襄公,楚の荘王

の5人かな。
(景公を入れてるのは全祖望だけ笑)


さて,

この景公なんだけど,

在位20年にもなろうと言う頃,

巫女から

 今年の新麦を召し上がる事は叶いませぬ。

との神託を受けるんです。

新麦の季節になる前に死ぬと予言されたってわけ。

うん,

ほどなくしてホントに病に伏します。

秦から名医を呼び寄せて診てもらうも,

 病巣が膏(横隔膜)と肓(心臓)の間に入ってしまっております。

と診断される。

要はどんな名医でも手の施しようがないって状況。
(これが"病膏肓に入る"の語源らしい)

巫女の予言通りですね。

そのまま新麦を口にする事ができずに亡くなるかと思われました。

しかし,

予想に反して景公は新麦の季節まで持ち堪えます。

ザ・気合。

そして,

炊き立ての新麦が盛られた椀を巫女に見せつけ,

 見よ!

 新麦を食す事ができるぞ!

とドヤ顔の上,巫女を処刑。

しかし,

いざ食べようとしたら,

突然の腹痛に見舞われて厠へ急ぎます。

んで,

そこで足を滑らせ,

糞壺に墜ちて死亡。

結局,新麦は食べられませんでしたとさ。


いや,

嘘やろ!笑

完全に盛っとるよな?笑

新麦をお椀に盛るかのように,

話まで盛っとるやろ笑。

知らんけど…。

They don't live up to their name.

2025-05-24 01:46:00 | 歴史浪漫
このブログを読んでる奴なら知ってると思うが,

きょーたろうの"きょー"は,



"恭しい"って字なんですよ。
(選ばれし"恭の一族"にのみ使われる笑)

相手を敬って,

礼儀正しく振る舞う事を言います。

ほら,

僕にぴったり。

誰に対しても敬意を忘れない慎ましやかな人間だから。

まさに"名は体を表す"だな笑。

ただ,

世の中には"名は体を表さない"事例もあります。



と言うわけで,

今回のテーマは,

ムガール帝国の第2代皇帝フマーユーンです。



あ,

ムガール帝国って言うのは,

1526~1858年の間,インドに存在したイスラーム国家ね。

歴代皇帝の中では,

タージ・マハルで知られる第5代皇帝シャー・ジャハーンや,

帝国最大版図を形成するも衰亡の始まりとなる第6代皇帝アウラングゼーブあたりが有名。


さて,

建国した初代皇帝の名はバーブルで,



"虎"って言う意味があります。

勇猛果敢な人物であった彼にピッタリ。

そして,

フマーユーンの子である第3代皇帝アクバルの治世で,



ムガール帝国は全盛期を迎えます。

彼の名は

 アッラーフ・アクバル
 (アッラーは偉大なり)

って言葉からもわかるように,

"偉大"の意。

然りって感じですね。

では,

バーブル(虎)とアクバル(偉大)の間に挟まれた,

フマーユーンの名は?


彼は1508年に生まれたバーブルの長男で,

皇太子として育てられるんだけど,

22歳のときに大病を患います。

高熱に襲われて危篤状態になり,

生死の境を彷徨ったみたい。

そのとき,

父帝バーブルはメチャクチャ狼狽。

数多の子の中でも最も愛していた子だったんですね。

彼はアッラーに祈ります。

 我が子の命を救ってくださるなら,

 我が命を捧げても構いませぬ!

そしたら,

あれよあれよと言う間に,

バーブルの方が体調を崩して病死。

んで,

フマーユーンはコロッと全快したんだとか。
(え?ホント?笑)

いやー,

若くして命に関わる大病をやるなんて不幸の極みなんだが,

彼にとってそれ以上に不幸だったのが,

若くして父帝の跡を継がなくてはならなくなったって事。

まだ帝国は建国から4年目で地盤は固まっていなかった。

そんなときに"強力な指導者"を失って若造がトップに立つ事になったんだから。

当然,反乱が起きます。

しかも,

"インド史上最高の名君"と謳われたシェール・シャーが反旗を翻した。


(歴代のムガール皇帝よりカッコ良くない?笑)

スール朝を建国して独立し,

ムガール親征軍を次々と打ち破って,

1540年に都デリーを占領するんです。

ムガール帝国はあっけなく瓦解。

フマーユーンはサファヴィー朝へ亡命する破目に…。
(サファヴィー朝ってのは今のイランあたり)

そこからは雌伏の時期ですね。

その後,

1545年には宿敵シェール・シャーが砲弾の暴発って言う不慮の事故で死に,

スール朝は大混乱に陥っていたので,

フマーユーンは再びインド支配へ乗り出します。

サファヴィー朝の軍事的支援を受けていた事もあり,

1555年にはデリーを奪還。

スール朝は滅亡し,

ムガール帝国が復活するってわけ。

そして,

 さあ,

 これから帝国を盛り立てていくぜ!

ってとき,

いきなりフマーユーン崩御。

え?

…帝国の復興から半年後の話です。

図書館の屋上にて,

占星術師と金星の昇る時刻について議論していた後,

階段を降りようとしたところ,

近くのモスクからアザーン(礼拝の時刻を知らせる声)が聞こえてきたらしいのよ。

んで,

急いで階下へ降りようとしたら,

長い衣服の裾に足をとられて階段を転げ落ち,

石段に頭を打ちつけて亡くなったんだとか。


と言うわけで,

若い頃に病で死にかけ,

せっかく回復したと思ったら,

不安定な情勢の中で皇帝に即位する事になり,

案の定,帝国は一時的に滅亡。

んで,

15年の艱難辛苦を経て,

ようやく帝国を復興させられたかと思ったら,

今度は事故死…って。

こんな不運な人生ある?笑

ちなみに,

このフマーユーンの名なんだけど,

"幸運"って意味なんだって笑。

やはり名は体を…笑。

パリの空気はパリッと乾燥していて…

2025-05-19 02:28:08 | 歴史浪漫
あー,

どこか旅行に行きたいなー。

それも海外がいい。

基本的に出不精なんで,

人生で海外旅行は2回だけ。

1回目はアメリカ。

中3の秋,富山市の親善交流的なので派遣されたんです。
(おかげで税金で海外に行けた笑)

ワシントンとフィラデルフィア,

それに姉妹都市のダーラムに行きました。

んで,

大学時代にはギリシアとイタリアへ。

4年目(3年生)のときに,

友人と卒業旅行へ行ったんです。
(僕は"卒業"ではなかったが…笑)

さて,

今の僕が行きたい国はどこかって言うと,

やはりフランスだろうか。

ドイツ,オーストリア,スイスあたりにも惹かれるんだが,

パリと言う都市への憧れが凄まじいんよ笑。



もう10歳ほど若ければ,

パリへの移住なんかを考えたかも…笑。

あ,

第2位はニューヨークね。

ちなみに,

高校生の頃は,

 将来はアムステルダムに住みたい

などと言っていた記憶があります笑。



まぁ,

何にしろ,

海外旅行となったら,

長期の休みが必要だよな。

最低でも1週間,

欲を言えば2週間。

何なら1,2ヵ月くらいパリに滞在して,

いろいろヨーロッパを回りたいくらい。

うん,

無理だな笑。



と言うわけで,

今回はフランスと言う国の成り立ちでも書いて,

彼の地に思いを馳せる事としよう笑。


まず,

古代ローマの時代には,

ローマ人から「ガリア」と呼ばれる地域でした。

んで,

共和政の末期にカエサルに征服され,

ローマの支配下に置かれる事に…。



カエサルと言えば,

『ガリア戦記』が有名ですよね。

遠征の記録を書き記してあるんだけど,

ローマから遠く離れた地にいるカエサルが,

ローマの市民に対して自身の存在感をアピールするために書いたらしい。

政敵ポンペイウスに出し抜かれないようにって…。

まぁ,

それはいいんだが,

その後,帝政となったローマは,

どんどん領土を拡張し,

ついに限界まで膨れ上がって分裂。

正確には,

何度か分裂と統一を繰り返すんだけど,
(その辺はいつか記事にしたい)

一般的には,

395年,テオドシウス帝の死後に分裂したとされます。
(その後,統一される事がなかったから)

ローマを中心とする西ローマ帝国と,

コンスタンティノープルを中心とする東ローマ帝国になった。


(赤が西,紫が東)

ただ,

コレってどちらかと言うと,

東側による西側の切り離し政策なんだよな。

当時は東側の方が栄えていたから。

キリスト教を国教としていたわけだが,

その五本山のうち,

ローマを除くコンスタンティノープル,アレクサンドリア,エルサレム,アンティオキア

の4つが東側に組み込まれていたわけだし,
(その後,コンスタンティノープル以外はイスラームの支配下に堕ちるが…)

西側にはゲルマン人が侵入してきていたし…。

その証拠に,

分裂から1000年以上も命脈を保つ東ローマ帝国に対して,
(例え都市国家レベルの「ビザンツ帝国」と成り果てようとも…)

西ローマ帝国は100年と持たずに滅びます。
(正確にはクーデターで皇帝が殺されただけだが…)


そして,

西側はゲルマン人たちの国家が乱立する事に…。



ただ,

ゲルマン人の国家って,

だいたい短命なんだよな。

理由は宗教。

支配者層のゲルマン人は,

キリスト教では異端とされるアリウス派だったんです。

だけど,

もともとの住民(ローマ人など)たちは正統とされるアタナシウス派(後のカトリック)。

対立が起こるのは必至ですよね。

しかも,

野蛮なゲルマン人たちは統治能力にも乏しかった。

ちゃんとした国家を形成した事がなかったから。

単純に言っちゃえば,

徴税のシステムが確立されていなかったんです。

これじゃあ,

国家は立ち行かない。

そんな中,

台頭してきたのが,

ゲルマンの一派であるフランク人の建てたフランク王国。

まず,

国王のクローヴィスがカトリックへ改宗するのよ。

これで宗教の対立問題は解決。

しかも,

各地に点在していた教会が,

官僚の役割(徴税システム)を果たしてくれる。

かくしてフランク王国の1人勝ち状態に…。

凄い勢いで領土を拡大していきます。


その頃,

東ローマ帝国はイスラーム勢力により手足を捥がれ,

息も絶え絶えに…。

順調に都市国家レベルへと落ちぶれていっているんですね笑。

そして,

イスラーム勢力はアラビア半島から出て,

北アフリカを舐めた後,

イベリア半島にまで侵入してくる。


(ウマイヤ朝の版図)

ついにフランク王国に迫り,

732年,「トゥール・ポワティエ間の戦い」が勃発。

これを迎え撃ったのが,

宮宰のカール・マルテルで,

なんとかイスラーム勢力を退ける事に成功します。

これにより,

 王家(メロヴィング家)よりも,

 宮宰(カロリング家)の方が頼りになるじゃないか!

って空気が漂い始める。

んで,

カール・マルテルの子ピピンが王位を簒奪。

フランク王国は,

メロヴィング朝からカロリング朝へ。

この王朝交代を承認する見返りとして,

ピピンがローマ教皇に土地を寄進し,

それが「ローマ教皇領」の起源となったのは有名ですね。


ところで,

その頃にはキリスト教の中心は,

ローマとコンスタンティノープルの2都市になっていました。
(残りの3都市はイスラームに奪われていたから)

ただ,

ローマ教皇とコンスタンティノープル総主教の2人は,

ヘゲモニー争いで激しく対立していたんだよね。
(前者はカトリック,後者はギリシア正教)

んで,

どちらかと言うと,

バックに東ローマ皇帝のいるコンスタンティノープル総主教に分があった。

だから,

ローマ教皇は焦りを隠し切れない。

そんな中,

教皇レオ3世がコンスタンティノープル派の陰謀でローマを追放されると言う事件が…。

窮地に陥ったレオ3世に手を貸したのが,

ピピンの息子でフランクの国王だったカールです。

そして,

ローマ奪還に成功したレオ3世は,

800年,カールに空位だった"西ローマ皇帝"の戴冠を行う。
(カトリックの保護者を任じたってわけ)

いわゆる"カール大帝"の誕生ですね。



同時に"西ローマ帝国"も復活。

これでカトリックも安心と思ったのも束の間,

この"復活西ローマ帝国"はあっさりと瓦解します。

ゲルマンが男子均一相続だったから。

長男が総取りするんじゃなく,

後継者で領土を分け合うシステムだったんです。

何度か争った後,

ヴェルダン条約(843年)と,

メルセン条約(870年)を経て落ち着きます。



フランク王国は,

西フランク王国(後のフランス),

東フランク王国(後のドイツ),

イタリア王国(北イタリアと言った方がいいかも…)

の3つに分裂。


いよいよ現在のフランスやドイツが形作られてきましたね。

まず,

東フランク王国においてカロリング家が断絶し,

紆余曲折を経てザクセン家の国王が誕生。

そのザクセン朝の2代目オットー1世が,

マジャール人(ハンガリー人)を撃退して威信を高めます。

そして,

このオットー1世は,

ローマ教皇ヨハネス12世の要請を受けて,

イタリアへ遠征。

教皇領を蚕食していたイタリア国王ベレンガリオ2世を討ち,

962年にヨハネス12世から"西ローマ皇帝"の戴冠を受ける事に…。

これ以降,

ドイツ王国(東フランク王国)は"帝国"となるってわけ。

後の世に「神聖ローマ帝国」と呼ばれる国家の誕生ですね。

んー,

面白くないのは,

西フランク王国だよな。

東フランク王国に皇帝位を持っていかれちゃったんだから。

まだカロリング朝が存続していたこの国では,

他の大諸侯の圧力で,

ローマ教皇のためにイタリアへ遠征するなど無理な話だったんです。

んー,

同じフランク王国から派生した国なんで,

東フランク王国と西フランク王国は兄弟みたいなもん。

共に"フランク王国のアイデンティティ"を継承したいと思っていました。

"フランク王国のアイデンティティ"とは何かって言うと,

1つは"復活西ローマ帝国"としてのソレ。

ヨーロッパ世界における普遍的な権威です。

だけど,

それは東フランク王国が持っていってしまった。

だから,

西フランク王国は,

"フランク人の国"と言うアイデンティティを主張する他なし。

ちょうど東フランク王国は,

フランク人ではなくザクセン人の王朝になってたし…。

それ故に,

「フランス」と言う国名になったんですね。


ちなみに,

その後の歴史を軽く述べておくと…。

フランスはカロリング家が断絶した後,

カペー家の国王が連綿と血脈をつなぎます。

そして,

コンパクトなフランスと言うナショナルな共同体に収斂し,

中央集権の絶対主義を確立。
(カペー朝→ヴァロワ朝→ブルボン朝と王朝名は変遷するが…)

中世から近世へと時代が移っていく,

その流れに乗じて繁栄していきました。

対するドイツは,

歴代の皇帝がカトリック世界すべての支配と言う,

時代遅れの夢を見たため,

中央集権に失敗。

地方分権が進み,

300ほどの領邦国家に分裂したグロテスクな状態に…。

僕は神聖ローマ帝国を

封建制の成れの果て

と呼んでます笑。


(見るだけでめまいを覚える分裂状態)

時代の流れに身を任せた者(国)は生き残り,

時代の流れに逆らった者(国)は滅びるって言う典型例ですね。

肝に銘じよう。

ちなみに,

ローマ教皇と言う,

皇帝と並んで"普遍的な権威"を主張した輩のいるイタリアも,

ドイツと同様に分裂状態が続きました。

いやー,

語りたい事は尽きない。

歴史って面白いなー笑。

政治家にクリーンさを求める愚かさ

2025-05-14 02:29:39 | 歴史浪漫
ほら,

僕って文系じゃない?


("文系男子"で検索したら出てきたイラスト)

だからさ,

ホントは

 高校英語もしくは中学英語&数学の担当で…

って話で入社したんですよ。

だけど,

いつの間にか中学理科がメインになっている笑。
(中学数学もやってるが…)

んー,

先日,中1数学の授業にて

 理科も教えてるよ。

みたいな話をしたら,

 確かに理科って顔してる!

などと言われたんだが,

彼らは僕の何を見てそんな事を言ったんだろうか笑。

と言うわけで,

10年くらい前に理科を教え始めた当初は,
(ん?もっと前?笑)

必死に勉強してました笑。

うん,

高校では生物しか履修していないので,
(高1で化学基礎はやった記憶が…)

9年以上のブランクがあったんです。
(高校3年間+大学6年間+α)

いや,

中学内容なんて数日あればマスターできたんだが,

教えるとなると深い理解が必要。

週末には何冊も本を買って読んだ記憶があります。

懐かしい。

もう何年前の話かな。

ここ数年,読書と言えば,

専ら歴史関係と音楽関係くらいだったから。
(歴史:音楽=9:1)



と言うわけで,

今回は理科の先生らしく科学の話題でも…。



うーん,

化学の世界に革命をもたらした「質量保存の法則」あたりかな。


実験には,

"定性的な方法"と"定量的な方法"

があります。

定性的な実験では,

物質の変化の様子だけを観察するので,

 水素と酸素が反応して水(水蒸気)ができた

みたいな見た目の変化しか問題にしません。

だけど,

定量的な実験では,

その量の変化にまで着目するので,

 2Lの水素と1Lの酸素が反応して2Lの水蒸気ができた

とか,

 4gの水素(2molに相当)と32gの酸素(1molに相当)が反応して,

 36gの水(2molに相当)ができた

とかって事を記録する。

定性的な方法だと,

"概念的な水素"や"概念的な酸素","概念的な水"があるだけ,

つまり"元素"しか話題に挙がらなかったのに,

定量的な方法によって"原子"の存在が意識されるようになったんですね。


その過程で生まれたのが,

ラボアジェが発表した「質量保存の法則」です。



誰もが知ってると思うけど,

 化学変化の前後において,

 物質の総質量は変化しない

って法則ね。

ラボアジェの時代は,

燃焼とは一種の分解現象で,

燃焼物中に含まれたフロギストン(燃素)が飛び出て,

熱や炎になると考えられていたんです。



そのフロギストン説でも,

 有機物が燃えて灰になると,

 その質量が小さくなる

って事は説明できていた。

だけど,

 金属のように燃焼すると,

 質量が大きくなる物質がある

って部分で辻褄が合わない。

んで,

ラボアジェはリンの燃焼実験により,

質量増加の原因は空気の吸収にあると考え,

酸化水銀を強熱して酸素を得る実験を繰り返し,

質量増加が結合した酸素の質量と一致する事を突き止めました。

そして,

めでたくフロギストン説は否定され,

化学は大きく飛躍する事になります。


さて,

そんなラボアジェなんだが,

フランス革命で死んでるんです。

実験のための資金が必要だったんだろうね。

市民から恨まれる徴税請負人になった。

その上,

高給な火薬硝石公社の管理人にもなり,

そこに立派な実験室を拵えて,

週に1日だけ趣味として実験を楽しんだんだとか。
("幸福な1日"と呼んでいたらしい)

だけど,

フランス革命が勃発した後,

徴税人として政府で働いていた事が災いして投獄される破目に…。

ときはロベスピエールによる恐怖政治時代。

1794年5月8日,革命裁判所における審判で,

フランス人民に対する陰謀

との罪で死刑判決が下り,

その日のうちにギロチンで処刑されました。

天文学者ラグランジュは,

 ラボアジェの頭を切り落とすのは一瞬だが,

 彼と同じ頭脳を持つものが現れるには,

 今後100年かかるだろう。

と彼の死を惜しんだんだとか。

んー,

清廉潔白であり,

高い理想を掲げながら,

才能に恵まれず,

政治家として無能だったため,

反対勢力の飽くなき抹殺と言う暴挙に走ったロベスピエール。
(反対勢力を片付けた後には身内にも手を出してます)



ラボアジェのそんな犠牲者の1人だったんですね。
(犠牲者の総数は14,000~17,000人くらいか?)

うん,

政治家に必要なのは,

高潔さではなく能力なんだよな。

まぁ,

この令和の時代,

政治家として必要な能力って,

もはや人間の限界を超えてる可能性も…。

そろそろAIにご登場いただいた方がいいのでは?笑
(この辺はまた今度)