もっちゃんのボケ防止日記

新型コロナウイルスに感染しないよう三密を避けて鳥撮りに嵌っています。

渡良瀬遊水池へドライブ

2016年07月12日 17時04分04秒 | 日記
 今日は、ドライブに出かける前にガソリンスタンドに寄った。この前ガソリンを入れたのが4月19日。ガソリンを入れるのは、何と3ヶ月ぶりになる。あの時は1リットル108円だったのが、今日は114円と6円も値上がりしていた。それでも、私の乗っているプリウスは燃費がいいので助かる。1リットルで25kmは走る。

 ガソリンを満タンにして、新4号バイパスを北に向かう。途中、杉戸で田んぼの中にサギを発見。アマサギだ。運良く路肩に駐車できるスペースがあったので車を止める。アマサギとの出逢いは二度目だが、何度見てもきれいなサギだ。

 写真を撮っていると、後から3羽飛んできた。群れで行動しているとは嬉しい限り。中の1羽がドジョウをつかまえた。



 写真を撮っていたら、通りがかりのおばさんに声をかけられた。アマサギを撮影しているというと、初めて見たと話していた。

 新4号バイパスから国道254号線を走り、渡良瀬遊水池に着く。遊水池の周りを走ると、カーナビが「茨城県に入りました。栃木県に入りました。群馬県に入りました。埼玉県に入りました。…」と何度も繰り返す。この辺りは県境が入り組んでいるようだ。

 予定通り、約2時間のドライブだった。

 中央エントランスから入り、駐車場に行く。停まっている車は2台だけだ。車を降りて谷中湖へ行くと、目の前を野鳥が飛び去っていった。慌てて追いかけたが、1枚しか撮れなかった。どうやらホオジロのようだ。

 湖では釣りをしている人がいた。直射日光が当たり、かなり暑いだろう。橋を渡って中の島に行く。湖に鳥の姿はない。島の野鳥観察台に行ってみたが、鳥の声も聞こえず姿もない。

 諦めて車に戻り、北エントランスに行く。ここも、車はほとんど停まっていない。車を降りると日差しがきつい。

 湖岸に行くと、ヨットが浮かんでいる。暫く、気持ちよさそうに走るヨットを眺める。



 すると、上空に大きな鳥が飛んでいる。猛禽類だと思ってカメラを向けたが、飛んでいる姿を撮影するのは至難の業だ。なかなか上手く撮れるものではない。それこそ大きな望遠レンズと三脚が必要だ。

 見ていると林の方へ飛んでいった。急いでその方向に行ってみた。そうっと探してみると、高い木に2羽が止まっている。残念なことに、逆光でその姿がはっきりしない。カメラを向けてみたが、種類が分からない。しかし、これまで出会ったオオタカではないし、ノスリでもなさそうだ。



 と言うことは、新しい出会いか。何枚か撮影したが、上手く撮れたものがない。家に帰って調べてみたが、種類が特定できなかった。パンフレットによると、渡良瀬遊水池には「チュウヒ、ハヤブサ、オオタカ、チョウゲンボウ、ノスリ、サシバ」等がいるそうだ。

 一つ一つ図鑑で調べてみたが、はっきりしない。どうやらチュウヒのような気がするが…。

 湖岸に出て見ると、セキレイの幼鳥がいた。セグロセキレイだろうか。低木に止まっているのもいた。湖を渡る風が涼しいので、湖岸の木陰で昼食にする。周りに人の姿はなく、鳥の声も聞こえない。

 食後、谷中村史跡保存ゾーンを歩いてみた。広い葦原の中に雷電神社跡や延命院跡、共同墓地などがあった。

 ー以下、インターネットからー

◆足尾鉱毒事件により地図から抹殺された悲劇の村

 明治10年以降、足尾銅山から排出された鉱毒のため洪水のたびに、渡良瀬川の流域の村々では、作物が枯れ、豊富な魚介類が死滅するという被害が出ていた。明治33年に被害民が大規模な抗議行動を起こした川俣事件、明治33年の田中正造の天皇直訴事件等で、社会の耳目を集め国会でも大きな問題になった。

 明治政府は鉱毒事件の解決のため、毒の水をためる調節池(渡良瀬遊水地)の建設を行うことを計画した。その犠牲になったのが谷中村の住民である。谷中村では村ぐるみで「藤岡村との吸収合併」「土地の不当買収」「住民の強制立ち退き」に反対したが、施政権のある当局には勝てず明治39年、谷中村は藤岡町に合併され法律上、消滅した。結果的に土地は不当に安い値段で当局に買い上げられ、被害民たちは近隣の村々に、遠くは北海道の荒涼地へ移転していった。


仮小屋での生活を続ける

 その後も387戸、2,500余人の住民のうち16世帯約100名は、谷中村の遊水池化に反対し買収に応ぜず提内に留まっていた。これに対し、西園寺公望内閣は明治40年に土地収用法の適用認定を公告、谷中村を隣接の藤岡町に吸収合併させて、谷中村を地図上から、更には公の資料から全て抹殺しようと謀り、明治40年6月29日より7月5日までの7日間にわたって谷中村残留民家16戸の強制破壊を強行した。
 強制破壊後も谷中村残留民は、仮小屋を作り悲惨な生活を強いられながら抵抗を続けたが木下尚江らの勧告もあって大正6年、強制破壊から10年におよぶ反対運動を断念、全ての戦いが終わり谷中村は名実ともに消滅した。

 田中正造の話は教科書にも載っている。足尾銅山跡にも何度か足を運んだが、社会が忘れ去ってはいけない事件だ。

 野鳥との出会いは少なかったが、ちょっぴり複雑な思いで帰路についた。家に帰ると123kmのドライブと9,893歩のウォーキングの一日だった。