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毛津有人の世界

毛津有人です。日々雑感、詩、小説、絵画など始めたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

Small world スサーナのこと その1の3

2025-03-22 08:32:59 | small world

カオサンロードでのスサーナとの出会いは数時間の出来事に過ぎなかったのでその後すっかり忘れていた。それから半年ばかりして僕は台湾の首都台北の頼太太のゲストハウスに泊まっていた。そこで顔馴染みになったアメリカ青年とよく話す機会があった。彼は台北で英語を教えてのんきに暮らしていた。僕はその後のバックパッカーの旅の途上大変多くの英語のネイティブ達が東南アジア各地で英語を教えながら旅を楽しんでいたのに出会った。後述する機会があるかもしれないが、シンガポールで出会ったイギリス人女性のエリザベスは僕の生まれ故郷である西宮の有名な女子大で英語を教えていた。その大学は僕の生家と目と鼻の先にあった。だから僕はエリザベスとも生まれ育った街ですれ違っていたかもしれないのである。small worldを感じるのはこういう体験からだ。

ある時そのアメリカ青年がとても興奮しているのに出くわした。事情を聴くと今日スペイン語の教師と初めてのデイトなんだと嬉しそうに語った。とても頭がよくて美人なのそうだ。それは良かったね、楽しみだね、と相槌を打つと、彼は彼女がコロンビアから来ていると話し出した。それで僕はひらめくものがあって、彼女の名前はスサーナと言わないか、と訊くと彼は非常に驚いて、どうして彼女の名前を知っているのかと目を丸くするのだった。それで半年前のカオサンロードでの出来事を話すと、彼はsmall worldといって感嘆するのだった。僕も不思議な巡りあわせだと思ったので彼女の電話番号を訊き、その日の午後の便で帰国した。その後アメリカ青年とは会っていないが、僕はスサーナにはある懐かしさから電話を架けていたのだった。30分ばかり話しただろうか、その翌月の請求書が1万円に近かったことを憶えている。

以上は本当に体験した記憶なのだが、どうしても今考えて判然としないのは、どうしてあの時僕は台北を訪ねていたのかという点なのだ。台北には何度も足を運んでいるのだけど、この時点ではもう台北に行く必要はなくなっていたはずなのだ。それなのになぜ僕は台北にいたのだろう。その点がどうしても思い出せないのである。今考えても不思議なのはこの点である。

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Small world その1の2

2025-03-13 06:22:04 | small world

外国を旅している時に日本人だと思って日本語で話しかけたら日本語が通じなかったという経験は、誰しも一度は体験するもののようで、かの漱石先生まで体験している、というあたりまで前項で書き出したのだけど、この時点ではその相手の名前を忘れていた。もう30年も昔の話だから当然なのだけど、この文章を書き始めたら不思議と彼女の名前が脳裏に蘇ってきた。彼女はスサーナという名前で南米のコロンビアから来ていた。明日の台北行きで台湾にいる親せきを訪ねる予定になっていた。話してみると昔日本人のボーイフレンドがいて日本まで行ったのだけどビザがないので入国を拒絶され、数日施設に入れられその後強制送還された過去があるのだと話し出した。それは単に旅行会社がビザは要らないものと勘違いしていて彼女にビザの収得を説明しなかった手落ちに拠るものだった。僕は余りに気の毒な話だったので深く同情を覚え、日本政府の態度にも腹を立てたりした。そんなことを話しているうちに夕食の時間になったので食事に誘うと、彼女には別に予定があってやはり一人の日本人男性と会うことになっていた。その日本人は昔の彼ではなく昨夜知り合ったばかりの旅人であった。スサーナは良かったらその食事の席に同席を勧めてくれた。それで僕はその言葉に甘えてのこのこと彼女に従ってカオサンロードに出た。

最初に言っておくべきだったのだけど、スサーナの両親は華僑の2世か3世であってそれで日本人と見まがうほど東洋的な容姿であったわけだ。年令は20代後半で本当に女優のように美しかった。おそらく彼女の一族はコロンビアでも成功したものと見えてスサーナの物腰には育ちの良さが感じられた。カオサンロードで待ち構えていた日本人男性はそれほどの背丈ではなかったが筋骨たくましい身体つきだった。聞くとお兄さんが建設会社の社長をしていて、ひと工期彼は重機を運転して御兄さんの現場で働き、その工期が終了すると半年一年とバックパッカーの旅に出るのだそうな。もう百数十か国を旅してきたらしい。どこが一番良かったかと訊いたらイスラエルだという。キブツで働けば食事とベッドが保証されているかららしい。

ともかくもその夜僕たちは楽しく歓談し早朝に空港へ向かうというスサーナにも別れの言葉を交わしてベッドに就いた。ところがこのインド人経営の宿屋でもまたしても南京虫の被害に遭ってしまったのだ。もうたまらないというのでカオサンロードから少し離れた新築に近いホテルに移動した。そこは清潔にできていて毎日何度も冷たいシャワーを浴びて、一寸刻みに噛まれた後のかゆみと闘う生活を余儀なくされた。この経験があるので以後はカオサンロードから離れたホテル、日本流に言えば土地の連れ込みホテルに逗留することにした。

スサーナとの出会いはそれだけで終わるはずのものだったけれど、これがひょんなところでまた復活するのだから全く人の世というのは面白い。続く。

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small world

2025-03-02 21:24:06 | small world

犬も歩けば棒に当たるというけれど、世界中をあちこち旅していると、世界を股にかけたsmall worldの出来事を体験することがある。僕は5回ほどそれを体験したが今覚えているのはそのうちの3回だけだ。これも老化と一緒にやがて忘れてしまうかもしれないから書き留めておこう。

***

まだバックパッカー生活初心の頃の話だ。僕はタイのカオサンロードの古い木造のゲストハウスに泊まった。70バーツでドミトリーだ。安さだけに惹かれて宿泊を決めたのだけど、壁を見ると、「いくら安くたって南京虫に噛まれて治療代を払ったら割に合わねえや」という日本語の落書きがあって驚いた。しかし僕はまだ初心者で南京虫の被害にも会ったこともなかったので、気にもとめなかった。ところがその夜きっちりと南京虫の集団攻撃に遭遇した。様子がおかしいので夜半に目覚めてみると僕のベッドのシーツの上には百匹ほどの血をすって真っ赤に膨れ上がったダニがぞろぞろと行進を続けているのだった。その様子を僕は同室の若い男性のポケットライトで確認した時には、本当に信じられないものを見る思いでいっぱいだった。

夜中に騒ぎ立ても出来ないから僕は静かにベッドを離れ着替えをし、背中などにまだダニがくっついていないかその若者に確認してもらい、これで無事だということが分かると、ベランダに出てそこにあった別の空のベッドに潜り込んだ。翌朝目覚めると全身に噛まれた跡が見つかり、それが次第にかゆみを増してきた。それでもうこのゲストハウスにはいられないと思って別の今度はインド人経営と思われるゲストハウスに宿替えをした。

その日の夕暮れ時、ベランダでポストカードにペンを走らせていた美しい日本人女性に話しかけた。すると彼女は一瞬戸惑うような表情を見せたので、僕はとっさに、あ、これは日本人じゃなかったな、と悟ってすぐに英語に切り替えた。日本人だと思って気軽に話しかけたところ相手が日本人じゃなくて驚いたという経験は、夏目漱石がロンドン留学にいく船舶の上で経験していて、その折のことを文章にして残しているが、日本人が海外へ一人旅に出ればだれしもそのような体験をする可能性が大いにあるというものだ。

というのも日本人は外国のことはテレビのバラエティー番組で見るくらいで実体験は無きに等しいのが実情で、ましてや外国人との個人的な接触は超貧困なのだから、外国で自分と同じ顔つきをした人間を見ればすぐに同類だと早や合点して日本語で話しかけるものなのだ。文部省推薦の英語学者漱石先生だって同じ過ちを犯すのだから、これは島国日本の大きな特徴だといっていいだろう。この僕だってバックパッカー初心の頃はその間違いを犯したのだから。続く。

 

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