ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【民族分断の経過】難波先生より

2017-01-31 19:05:29 | 難波紘二先生
【民族分断の経過】
 日本による韓国併合は110年以上前のことである。韓国1/29「朝鮮日報」は、今になって
「世界史に類を見ない強制と欺瞞、韓国併合は国際法上無効」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170127-00000578-chosun-kr&pos=2
 という記事を掲載している。
 理由は条約文書に国璽は押してあるが、署名が国王のものと違うからだとしている。ならば戦艦ミズリーでの日本の降伏文書も「国際法上無効」という理屈が成り立つだろう。天皇の署名がないからだ。

 1910年朝鮮併合時の「国際法」というものも不明確だ。
 朝鮮を日本の「保護国」とすることは、米国が仲介したロシアとのポーツマス講和条約(1905/9)で締結され、日本が朝鮮を「保護国」とすることが承認された。1905/11に締結された「第二次日韓協約」では韓国は外交権を日本に委ねている。南洋ミクロネシアを日本の「委任統治国」とすることは第一次大戦後に国際連盟で決められた。これらのどこに「国際法違反」があるのかと問いたい。

 1907/6オランダで開かれた「第2回国際平和会議」に朝鮮国王高宗は密使を送り「日本が韓国の主権を侵している」と提訴した。だが議長国ロシアは「朝鮮にはすでに外交権がない」として朝鮮密使の会議への出席を拒否した(ハーグ密使事件)。これは議長国がポーツマス講和条約と「第二次日韓協約」を国際法上「合法」と認めていたからだ。
 この事件の責任を取らされて国王高祖(李太王)は退位し、閔妃との間の息子、純宗が次の国王となった。純宗は1926(大正13年)死亡し、ソウルで国葬が行われている。

 純宗後任の皇太子は第二王妃厳妃との間にできた李垠で、彼は日本軍の将校として勤務し、1940年には陸軍中将に昇級している。その弟の李ぐう(金へんに禺)は、1945年、広島市の陸軍第二総軍司令部中佐として勤務中のところ、8月6日出勤途上に、現平和公園付近で原子爆弾を浴び、直ちに似島陸軍病院運ばれたが、その日のうちに死亡した。
 侍従武官の吉成中佐は責任を感じて、即日拳銃自殺している。
 敗戦間際の混乱期にも関わらず、日本政府は李ぐうの遺体を8月8日ソウルに空輸し、8/15の「終戦」の玉音放送の後に、ソウル市内で「陸軍葬」として葬儀が行われている。(当然ながら、これらは朝鮮・韓国の本にはいっさい書かれていない。)

 1910の「日韓併合」により、朝鮮王家そのものが廃止されるのは時間の問題だった。
 「日韓併合条約」は1910/8に日本政府が「条約案」を提示し、朝鮮側の李完用内閣が閣議決定し、8月22日、李完用総理と寺内朝鮮総督府統監との間で批准が行われている。このプロセスのどこにも瑕疵はない。「国際法上無効」などと虚言をまき散らさないでもらいたい。
 朝鮮の「旧王家」は日韓併合に伴い、「朝鮮公家」となった。身分・歳費とも皇族と同じ扱いになり、1919年に死去した李王家の李太王(旧大韓帝国王=閔妃の夫)の葬儀はソウルで国葬として行われている。

 1945/8に日本帝国が敗北した時に、朝鮮人はなぜ「李氏王朝」を復活させなかったのか。日本による朝鮮併合以前は李氏王家が朝鮮を支配していた。「代議制民主主義」の思想は日本経由で朝鮮に持ち込まれたものにすぎない。

 だが、終戦に当たってすでに35年以上「日本皇室」と同等の扱いを受けてきた、李王朝の王族は誰一人として朝鮮に帰国しなかった。(新城道彦「朝鮮王公族」中公新書)
 生活に困った旧朝鮮皇族の中には、家屋敷を売った人物もいる、そのひとつが今もある「赤坂プリンス・ホテル旧館」だ。李王朝最後の直系子孫である李玖の孤独死した遺体は2005/7にこのホテルの一室で発見されたという(前掲書P.1)。酷いことだ。

 要するに1945年の日本敗北後、無能無策で朝鮮半島の南北分割を許したのは、日本ではなく朝鮮民族の責任だ。1910年にまで遡って日本に責任転嫁をするのは、やめてもらいたい。


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