【国崎定洞】4/18「産経」が「スターリン大粛清」における日本人犠牲者数を「確認されたもの26人」と報じている。1937~38の「大粛清」時代に、ソ連には新聞記者や商社員とは別に、約100人の日本人がいたという。そのほとんどが処刑されたとみられる。
記事の中で久しぶりに国崎定洞の名前を見た。彼は東京帝大医学部を卒業後、「社会衛生学教室」(今日の公衆衛生学)助教授となり1926年9月、国費でドイツに留学した。順調に帰国すれば、教授に昇任する予定であったが、ドイツで「ドイツ共産主義運動」に接触し、ドイツ共産党に入党、助教授を馘首され、ナチス台頭にともないソ連に亡命したことから、大きく運命が変わり、やがてスパイとしてソ連で銃殺された。なんとも気の毒な話だ。(川上武『流離の革命家:国崎定洞の生涯』, 勁草書房, 1976)
この時、仲間を「スパイだ」と密告し、一人ずつ殺すことで、自分の生き残りを図ったのが、後の日本共産党議長野坂参三である。後に日本共産党がソ連と対立するようになって、野坂も「ソ連のスパイ」として除名された。
川上武も共産党系の開業医だが、よくこの本をまとめてくれたと思う。
しかし「大粛清」以来、70年が経つのに、まだ行方がわからない日本人が70人以上もいるとは…
記事の中で久しぶりに国崎定洞の名前を見た。彼は東京帝大医学部を卒業後、「社会衛生学教室」(今日の公衆衛生学)助教授となり1926年9月、国費でドイツに留学した。順調に帰国すれば、教授に昇任する予定であったが、ドイツで「ドイツ共産主義運動」に接触し、ドイツ共産党に入党、助教授を馘首され、ナチス台頭にともないソ連に亡命したことから、大きく運命が変わり、やがてスパイとしてソ連で銃殺された。なんとも気の毒な話だ。(川上武『流離の革命家:国崎定洞の生涯』, 勁草書房, 1976)
この時、仲間を「スパイだ」と密告し、一人ずつ殺すことで、自分の生き残りを図ったのが、後の日本共産党議長野坂参三である。後に日本共産党がソ連と対立するようになって、野坂も「ソ連のスパイ」として除名された。
川上武も共産党系の開業医だが、よくこの本をまとめてくれたと思う。
しかし「大粛清」以来、70年が経つのに、まだ行方がわからない日本人が70人以上もいるとは…
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