ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【2年後に韓国建国百年?】難波先生より

2017-08-29 11:57:52 | 難波紘二先生
【2年後に韓国建国百年?】8/16「朝鮮日報」が8/15「光復節」での文大統領演説を報じている。<1919年の臨時政府樹立を「大韓民国建国」と見なすべきとの立場を明確にした>という。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/08/16/2017081600726.html
 つまり2020年に建国100年が来るということだ。ウソも休み休み言ってもらいたい。
その前の韓国大統領たちはこう言っていた。
<李明博(イ・ミョンバク)政府は朝鮮半島の南側に政府が樹立された1948年8月15日を「建国節」として押しつけようとした。朴槿恵(パク・クネ)前大統領は昨年、光復節の祝辞で最初から8月15日を「建国68周年」と呼んだ。>(8/18「ハンギョレ」新聞)
http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/28205.html

 1894/7〜1895/4の日清戦争とその後の「下関講和条約」(1895/4)で、朝鮮に対する清の宗主権の放棄が約定された。朝鮮が国号を「大韓帝国」に変更し、国王が「皇帝」と改称したのは2年後の1897/10のことである。
 1910/8、「日韓条約」により日本が韓国を併合したのち、地名を再び「朝鮮」に戻した。この後1919〜20年になって、漢城(ソウル)、シベリア、上海の三箇所に別々の「臨時政府」が作られた。ソウル臨時政府は間もなく幹部が逮捕投獄されて消滅した。シベリアの臨時政府は親ソ連派となり、後の北朝鮮となった。

 上海臨時政府はフランス租界内に組織され、米国に亡命中の李承晩が「国務総理」になっている。この時の十箇条憲法(大韓民国臨時憲章)には「大韓民国」という国号が使用されている。またここには「第八条 大韓民国は皇室を優待する」という条項があった。この「皇室」は旧李王家のことである。だが実際に建国(1948年)した時、誰もこの条項を守らなかった。
 当時上海に朝鮮人は700人ほどしかいなかった。うちフランス租界に住み「臨時政府」に関与したものが20人程度。(朝鮮総督府の公安警察文書が残っている)。小さな木造二階建てが政府の所在地で家賃が月10円だった。肝心の統治すべき土地も人民もなかった。(佐々木春隆「朝鮮独立運動の研究」、 国書刊行会, 2012)
 1910年の「日刊合邦」後に、旧朝鮮皇族に「公族」として日本の皇族なみの待遇を、旧両班の有力者には華族としての称号と待遇が与えたのは日本である。朝鮮側から見ると彼らは民族の裏切り者であろう。大韓帝国の首脳部は丸ごと民族を裏切ったのだ。
 だから日本が戦争に負けたあと、1948年に亡命先の米国から戻った李承晩という大統領が支配する「大韓民国」が成立し、初めから独裁制が始まったのである。臨時政府と大韓民国政府との間に「法統上のつながり」はない。「光復節」というのは言葉の彩(あや)で、大韓帝国や大韓民国臨時政府が「光り輝いていた時代」などない。真の「光復」とは南北に分断された朝鮮半島を統一し、自由で民主主義的な国家の樹立に成功することだ。ドイツのように。

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