ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

行政の強大さについて あるいは、あの局長さんのつらさ

2017-05-01 23:56:50 | エッセイ

 最近の国会での財務省官僚の答弁は、ひどいものだと思う。よくあんな答弁で通していられるものだと、むしろ感心するくらいだ。あの局長さん、よっぽど心臓に毛が生えている、というより、ほんとうは、相当につらいのだろうな、とも思う。あんな、道理に合わない言葉を語り続けなければいけないということは、尋常の神経では耐えきれないことのはずだ。これから先の人生において、PTSDのように、深刻な影響を残すに違いない。

 ごく普通に見て、文書が残っていないとか、名指された当人に確かめることすらしないなどというのはあり得ない話だ。

 たとえば、皆さんのまちの市役所、役場で、ここ数年の間の払い下げとか契約とかの文書が残されていないなどということは想像できるだろうか?その担当者がまだ現役の職員の場合、その職員に事実関係を質さないなどということは想像できるだろうか。あり得ない話でしかない。

 一般市民も、議会の議員も、それでハイ納得しました、などとは言うはずがない。市長が、これで、ハイ幕引き、などと強弁できるはずがない。

 しかし、ここまでのところ、財務省は、知らぬ存ぜぬ訊かない存在しない、で通してしまっている。

 あの答弁は、現在の日本の強大な行政の権力を表している。

 三権分立などとは言うが、立法部、司法部に比べて、行政部は圧倒的な力を持っている。日本の社会全体に対して、圧倒的な権力をふるっている。あの答弁はその表れである。

 この行政の強さというのは、国の話だけではない。地方においても、行政が圧倒的に強い。県においても、市町村においても、議会の力は、ほとんどない、と言っては言い過ぎともなるが、実際のところ、そう言っても間違いとは言えない状況がある。(ただ、まあ、そうとは言っても、今回の国会での財務省の振る舞いほどではない。)

 市町村の行政の強さは、ひとつには、県・国とつながる行政部のピラミッド構造によるところがある。議員の言うことを聞くよりも、県の担当・国の官僚組織の言うことを聞く体制になっている。法令に違反しない、ということが金科玉条で、違反しないかどうかとは、国の官僚組織が決めることになっている。(地方分権の進展によって、そうではないことになっているのだが、現実的には、まだまだそういうことになっている。)

 いくら議員に言われても、法令違反の可能性があるなどといって馬耳東風である。

 中央省庁は、言ってみれば、さらにそのうえに後ろ盾があると言うわけではなく、自ら強さの体現となっていると言える。あの局長さんは、まあ、孤立無援にあの答弁の場で強く存在しているわけである。

 もちろん、内閣があり、総理大臣がいる。しかし、彼らが、財務省の後ろ盾になっているわけではない。いや、法的な権限という意味では、後ろ盾(だったり命令権者)ではあるはずだが、むしろ、財務省が懸命に内閣を、総理大臣を守っている。

 あの局長さんは、(恐らく事務次官を除いて)だれのバックアップもなく、孤立無援にあの国会委員会の場に立っているように見える。現時点において、日本の強大な行政の象徴となっている。彼こそは、ミスター中央省庁、ミスター行政部、ミスター官僚である。

 行政という言葉は、立法・司法に対して言われる、内閣を含む行政というのと、国会や内閣を含む政治部門に対する、中央官庁の事務次官以下の官僚を指す行政というのと2種類を、厳密には区別しなければならない。しかし、いずれにしろ、行政の中核は、中央省庁の官僚組織である。

 ここに、いまの日本で最大最強の権力がある。

 ただ、それは、全く悪いことばかりだということはない。必要なかたちであるとすら言える。

 政治の横暴に対して、法令を順守する官僚組織としての行政が毅然と筋を通す、ということも、実際、戦後日本の歴史のなかであったはずである。

 毅然とした、安定的な官僚組織がない国は、世界にいくらでもあって、そういう国の実情はひどいものだとは言えるだろう。

 だから、日本の安定した官僚組織は、日本の貴重な財産であるといってかまわないものでもある。

 では、どうあるべきか?

 ここは、しっかりと考えるべきところである。

 この続きは、もう少し、考えてみたい。

 日本の政治の、日本の社会の根本となる問題である。

 ただ、ひとつこの時点で期待したいことはある。内部告発である。

 日本を支える気概のある官僚のなかに、真実を語る勇気のあるものはいないのか、ということである。胸のつかえのおりないまま、官僚たちは、立ち続けるのだろうか?ごく普通の感覚でもって見える風景のもとで、ごく狭い範囲で特殊化された奇妙な感覚を抜けだし、自浄作用を発揮するということもできないまま居座り続けるのだろうか?

 狭い世界の正しさに固執して、世の中の普通の正しさに背を向け続けるのだろうか?世の中の普通の正しさに気づいている内心の声に背を向け続けるのだろうか?

 世の中普通の意味での常識ある官僚はいないのか、ということである。

 さらに言うと、マスコミである。そういう真実の心の声を、引きずり出そうとする気概のあるジャーナリストはいないのだろうか?

 さて、一晩置いて、文章としての理路を見直し整理すべきなのだろうが、とり急ぎとりあえず、このまま、アップすることにする。


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