ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

高橋源一郎 動物記 河出書房新社

2015-11-30 21:28:13 | エッセイ

 今話題の明治学院大学教授・高橋源一郎の最新小説、だと思う。ことしの4月初版。高橋源一郎教授と言うよりも、このひとは基本的には小説家である。

 しかし、そうだな、現代詩と小説の批評家でもあり、その批評家的なスタンスにおいて小説家である、みたいな。回りくどい言い方をしてしまった。現代の詩だとか他の小説家の小説を読み込んで批評する、そういう批評に基づいて自分の小説を書く、そういう小説家と言える。

 たとえば、村上春樹は、アメリカの小説家はよく読んでいるとして、現在の日本の小説家の作品は、ほとんど読んでいないのだと思う、たぶん。それに比して、高橋源一郎は、よく読んでいるようだ。

 最近の村上春樹は、そういう意味で、孤高であったり、日本の中では独特であったり、みたいな雰囲気が漂っているような気がするが、高橋源一郎は、日本の文学の中に開かれたみたいな感触はある感じがする。あ、文壇みたいなものを排除していない感じと言うか。

 (文壇と言ったからといって、これは全然悪い意味合いは込めていない。)

 正直に言ってしまうと、現時点において、日本最高の小説家は高橋源一郎だと思っている。

 現代日本最高の、というと、もちろん高橋、と言ってもよいのだが、村上春樹であるかもしれず、だが、まあ、このふたりのうちのどちらかと言ってしまって良い、と思う。

 現代といったときには、時期的に少し広いスパンでみるということになるし、現時点で、と言ったときには、瞬間最高風速みたいな、そこまで一瞬ということでもないが、まさにいま、昨年、今年くらいの中で、と言う感じになるだろう。

 で、この動物記。見事だと思う。短編連作ということになるのだろう。最後の一篇を除いて、登場人物に人間が出てこない。(「人物」に、人間が出てこない、というのは矛盾してるな。)おとぎ話のような、馬とか猿とかパンダとか、動物が擬人化された物語だ。絵本とか、子ども向けの読み物の設定を借りて、小説に仕立て上げている。パロディと言うのか、パスティーシュというのか。

 だが、もちろん、おとぎ話でも、子ども向けの読みものでもない。絵本でないことは、表紙カバー以外に絵はないから、間違える心配もないわけだが。

 冒頭はこんな感じ。「動物の謝肉祭」という題名。

 

 「森閑とした森、いや、森だから森閑は当り前だ。森の静けさのような状態を森閑と言うぐらいなのだから。とにかく、その森の真ん中あたりの広場に、動物さんたちが現れる。/まずはタヌキさん。それからキツネさん。シカさんにクマさん。なんとオオカミさんまで。当然のことながら、すべて森の動物さんたちである。」(9ページ)

 

 なんとまあ、ワクワクとする、その後の展開を期待させる出だしである。

 すぐ続けて

 

 「それから不思議なことに、動物さんたちが出現すると、その場所が、お月さまの夢幻的な光でスポットのように照らしだされる。」(9ページ)

 

 これは言うまでもなく、舞台演劇、子ども向けの動物さんたちの着ぐるみが登場する演劇のパロディにほかならない。

 というわけで、こんな調子で、最後まで読みとおさせてしまう。たいした力量である。

 このひとの小説は、常に何かのパロディであり、ふざけているようで、実際、ふざけてもいるのだが、何重かに折り込まれた襞の深さ、奥の豊かな読書の楽しみを味わわせてくれる。

 この前の大塚信一さんの松下圭一氏についての本は、実は、読み終えるまで半月ほど時間がかかったのだが、この本は、270ページほどの短い分量でもあり、休みの日に一日のうちに読み終えてしまった。で、今は実は村上春樹の「職業としての小説家」を読んでいるところだ。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 11月29日(日)のつぶやき | トップ | 11月30日(月)のつぶやき »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

エッセイ」カテゴリの最新記事