ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

野口裕二 ナラティブと共同性 青土社

2019-12-01 10:25:05 | エッセイ
 副題は「自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ」。
 野口氏は、1955年生まれ、東京学芸大学教授。専門は臨床社会学、医療社会学とのこと。ナラティブ・アプローチについて、研究を進められてきたようだ。
 ナラティブ・アプローチは、社会構成主義に基づくらしい。社会構成主義とは、では、どういうものか、ということになるが、ウィトゲンシュタイン、カント、デカルト、と哲学史をさかのぼって、こういうものだ、と論じることはできるようである。そこを確認していくことに深い意味はあるようだが、とりあえず、そういう原理論はカッコに入れて置いておいていいのかもしれない。
 ちょっとだけ言っておけば、哲学の経験論と合理論という二項対立を乗り越えていくものとしての社会構成主義というものがあり、そこからナラティブ・アプローチ、さらにオープンダイアローグと進んできた。そのオープンダイアローグの可能性に着目する。そういう流れがある。そういう流れの中で、野口氏がこの本を著したということになるのかもしれない。(少々、大雑把過ぎるか。)
 冒頭は、こういう言葉から始まる。

「ナラティブという言葉が多くのひとに知られるようになって二〇年が過ぎた。この間に、ナラティブ・アプローチはどんな課題に取り組み、どんな成果を生みだしてきたのか。何をしてきて、何をしてこなかったのか。そしてこれから何ができるのか。これらが本書を貫く問いである。」(9ページ)

 ナラティブというのは、日本語に訳すと、語ること、語った事柄、物語。ナレーションとかナレーターと同じ語源である。ストーリーと同じようなことだが、ストーリーのほうが空想的なフィクションとしての物語と受け取られるニュアンスが強いのかもしれない。ナラティブのほうは、ノンフィクション的な感じというか、現実に生きられた物語みたいなニュアンスというか。ただ、フィクションだろうが、ノンフィクションだろうが、そんなに厳密な違いはない、のだと思う。過去のことを正確に語るというよりも、未来の現実を語ろうとすることに主眼を置く。
 しかし、英語で、歴史(history)は、語源的に物語(story)と同じだというが、歴史とは物語、語られたものだとすると、このあたり、含意は深いものがあることになる。
 野口氏は、ナラティブ・アプローチという方法は、大きな成果を上げてきたのだという。

「臨床の領域では、「外在化」、「無知の姿勢」、「リフレクティング」といった革新的な方法が臨床の場面を確実に変えてきた。…私たちを取り巻いている言葉や物語が想像以上に大きな影響力をもっていることにより鋭敏になり、その支配や呪縛から脱することを臨床上の大きな目標とするようになったといえるだろう。」(9ページ)

 野口氏は、長くナラティブ・アプローチの紹介に努めてきたし、もっと広く社会に受け入れられその手法が活用されることを願ってきてはいたが、とりあえず、自分ができる紹介としては一段落したという思いを抱かれてきたようである。しかし、最近、オープンダイアローグという方法に出会って、大きな衝撃を受けられたらしい。

「ここで大切なのは、オープンダイアローグがナラティブ・アプローチに刺激されて生まれてきたものでありながら、それを乗り越える視界を拓いている点である。ナラティブ・アプローチに魅了され、それを紹介し、展開することに専念してきた者にとって、それは、ナラティブ・アプローチの特徴と限界をあらためて理解する重要な経験となった。そして、ナラティブ・アプローチがこれまでしてきたこととこれからすべきことが見えてきた。」(11ページ)

 オープンダイアローグの衝撃は、私も共有しているところだ。そこからさかのぼって、この書物を手にすることになったわけである。

 第1章「言葉による癒し」はこう始まる。

「あの言葉に救われたという経験はおそらく誰にでもあるだろう。言葉が癒しの力をもつことは誰でも経験的に知っている。一方で、言葉が時として人を傷つけるものであることもわれわれは知っている。誰かの心ない一言に傷ついた経験、その傷を抱えながらいつかそれが癒えるのを待った経験もおそらく誰にでもあるはずである。言葉は人を傷つけもすれば癒しもする。では、なぜ、言葉はそのような力をもつのか。
 言葉は世界をつくる。それがこの問いに対する端的な回答である。」(17ページ)

 言葉は世界をつくる。
 これが、社会構成主義の要諦であるらしい。
 そして、言葉は癒しの力をもち、傷つける力も持つ。薬であって、毒薬でもありうる。

「もともと、精神医療や臨床心理学の世界では、言葉の力を大切にして様々な療法を工夫し実践してきた。しかし、それらの多くは、言葉の力によって心的状態を変容させるという図式のうえに成り立ってきた。家族療法から生まれたナラティブ・アプローチはこうした図式から離れ、言葉や物語が心的状態を変容させるのではなく、言葉や物語こそ心的状態そのものであり、言葉や物語によって構成されているそうした現実にどのようにしたら揺さぶりをかけて、新たな物語の展開を生みだせるのかについての実践を重ねてきた。」(21ページ)

 このあたりは、少し分かりづらいところがある。「新たな物語の展開を生みだす」というのは「心的状態の変容させる」ことに他ならないはずである。ここで言いたいのは、専門家の技術、医療やセラピーの専門的技法によって、事態を改善する、治療するというモデルから、ひとの自然治癒力が発動することを、専門家が手助けするモデルへの転換というふうにも言えるところだろうと思う。
 あ、そうか。というよりも、前者は、心的状態と言葉とが別物で、後者は、心的状態と言葉とが物語という形でひとつのものであるというところに、文章としての対比のポイントがある、ということか。
 専門家たる治療者が能動的に振る舞い、患者は受動的に治療を受けるというモデルから、患者自体が主体的に物語を編みなおすことで治癒していくというモデル。専門家は、その手助けをする、良き支援者であるというモデル。

「物語がひとを癒すのは、われわれ自身が物語によってできているからである。」(22ページ)

 私たちは物語を紡ぎ、同時に、紡がれた物語こそが私たちであるということ。言葉が世界をつくり、同時に、私たちをつくる。
 世界史は物語であり、個人史も物語である。
 文学を志し、哲学や精神分析の書物を読み続けてきた人間にとって、なんと、魅力的な言葉だろうか!
 この書物は、ナラティブ・アプローチの観点から精神医療にかかわる最近の動向を、自助グループ、当事者研究、オープンダイアローグと続けて論じている。この書物を読むことで、このところの流れを、整理して把握することができたということになる。
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