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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

斎藤環 著+訳 オープンダイアローグとは何か 医学書院

2015-07-27 16:50:09 | エッセイ オープンダイアローグ

 斎藤環は精神科医であり、ラカン派の精神分析理論を学んで多くの著作をあらわす著述家でもある。しかし、精神分析家ではない。精神分析の手法を用いて治療を行おうとするということではない。精神科医であることと著述家であることの間には、断層がある。そういうことを本人がどこかで書いている。

 オープンダイアローグという言葉は、現代思想2014年5月号「特集精神医療のリアル」で、斎藤自身が書いた文章で知った。そのまま英語で「Open Dialogue」というタイトルである。一読、これはすごい、のではないかと思った。精神医療に全く新しい可能性を切り開くものに違いないと。(これは、斎藤環の本を読んで、斎藤環と同じ様な驚きを感じた、ということなのだが。)

 今回の本の帯の表にはこう書いている。

 

 「フィンランド発、精神医療を刷新するアプローチ。シンプルきわまりないこの手法がなぜ驚くほどの効果を上げるのか!?」

 

 裏には、斎藤の言葉として

 

 「経験を積んだ専門家ほど、その手法と思想を聞いて「これは効かないほうがおかしい」と感じてしまうのは無理もありません。私自身が文献を読んだだけで、これほど入れあげてしまったのもおわかりいただけるでしょう。それほどこの「開かれた対話」には確たる手応えがあったのです。」

 

 といささか舞いあがったともいい得るくらいの書きぶりである。

 斎藤にとって、著述家としての側面と医師としての側面、これまで必ずしも一致することがなかった両面が、ここで、折り合う、というよりも、融合しより高度の達成を見ることが可能になる、そんな局面が開けた、というようなことのようである。

 実は、この斎藤の高揚感のようなものは、私も共有している、というと精神科医でも臨床心理士でもない、専門家ではまったくない素人が何を言っているのだ、とお叱りを受けかねないところでもある。

 しかし、小難しい現代思想、現代哲学と、精神医療の実際が結びつくなどということは、想像すらできないようなことであった。私も、哲学の一端はかじり、一方で、フロイトや河合隼雄を中心に精神分析に深い興味と関心をいだき続けてきたものではある。(産業カウンセラーなどという、実利的にはあまり役立ちそうにはない資格を取ったのも、この興味と関心の故である。)

 

 さて、斎藤によれば、オープンダイアローグの理論において、「最も重要な位置を占めるのはグレゴリー・ベイトソンのダブルバインド理論です。」(28ページ)

 

 ベイトソンは、高名な文化人類学者であるが、「ダブルバインド」の理論で家族療法の開始の理論的なきっかけを作ったひとでもあるという。

 (余談だが、私は、いっとき、素人ロックバンドのリーダーシップを取った時期があって、ほんとうに短期間で終わったのだが、名まえは「ダブルバインド」としたのだった。もちろん、ベイトソンにちなんで。)

 さらに、バフチン。

 

 「詩学、対話、ポリフォニーといった用語から予想されるようにオープンダイアローグの哲学は、思想家であり、文芸評論家であるミハイル・バフチン…に大きな影響を受けています。」(28ページ)

 

 ミハイル・バフチンのポリフォニーという概念は、言うまでもなく、ドストエフスキーの小説の分析に深くかかわるものだ。

 ベイトソン、バフチン、ドストエフスキー、このあたりの人名が登場する理論が、実際に効果ある精神療法であるらしいこと。これは、私としてもとても喜ばしいことである。信じ難い、というほどに。ここには、言葉の重視がある。

 言葉とは何か。人間にとっての世界は、言葉なしには存在しないといえるほど、人間にとって根源的なものが言葉であること。

 

 「言葉を用いて精神病を治療すること。それは長らく精神療法家の夢でした。フロイトからラカンに至る精神分析の系譜においても、一貫してその可能性が追求されてきました。」(52ページ)

 

 現在、日本の精神科医療の世界では、薬物によらない「精神療法」は、あくまで傍流であって、特に精神分析はほとんど相手にされていない、というような状況のように思われる。斎藤環や、北山修といった精神分析を用いて著作を著す精神科医は存在するし、ユング派の河合隼雄らのちからで臨床心理士が医療現場で大きく活躍している、というふうに私などは思うのだが、精神医学の主流にはなり得ていないということのようなのである。

 特に統合失調症に関しては、薬物使用が必須で、精神分析は禁忌とすらされていたと。

 

 「しかし、知られるとおり、精神分析は言葉をメスとして用いつつ、無意識にひそむ秘められた欲望や外傷を探り当てるための技法です。それはときとして侵襲的であり、とりわけ統合失調症に対しては、精神分析は実質的に禁忌とされてきました。

 オープンダイアローグもまた、言葉を道具として用います。ただ、用いる方向性が精神分析とは真逆なのです。精神分析が言葉をメスとして用いるというのなら、オープンダイアローグは言葉を包帯として用いるのです。」(52ページ)

 

 私に言わせれば、このオープンダイアローグの手法も、広い意味での精神分析の範疇のこと、と思うのだが、確かに、「言葉をメスとして使う」というところはあったかと思う。

 まあ、広く精神療法と言ってよいのだろう。薬物による治療に主眼を置くのでなく、言葉とか人間の交流とか人間関係、社会関係のなかで治療を行って行こうとする精神療法。

 このオープンダイアローグという方法が、統合失調症にも効く、ということ。精神科の医療が、薬物療法中心主義みたいなものから脱却していく可能性を持つ、ということは私としても、大変に興味深いことであるし、悦ばしいこと、望ましい方向ということではある。

 斎藤は、オープンダイアローグを、高度なテクニックのフリージャズのアドリブに例える。

 

 「さしあたり、私の感想はこうです。「まるでジャズのアドリブのようだ」。」(73ページ)

 

「クラシックでは譜面を弾き損なうミスタッチが問題となります。しかし、ある演奏家の言葉によれば、ジャズにはミスタッチが存在しないということです。彼の説明はこうでした。うっかりコードにそぐわない音を弾いてしまったとする。なんの問題もない。それがまた、新たな即興の始まりになるのだから。カッコいいですね。/オープンダイアローグもそれによく似ています。そう、間違った発言など存在しないのです。それはつねに、ポリフォニックな言語空間を豊かにしてくれる存在なのですから。」(74ページ)

 

 ただし、フリージャズは、だれでも簡単に演奏できるわけではない。相当に高度なテクニックが必要であるわけで、「徹底的なトレーニングが、自由な即興を創造する背景にある」(73ページ)ということになる。

 言うまでもなく、オープンダイアローグも同様で、素人が簡単に取り組めるわけではない。

 医師や臨床心理士で、精神療法を詳しく究めた専門家。

 この本の後半、第2部は、フィンランドにおいて、先駆的に取り組んできたセイックラ教授を中心としたグループの3本の論文の紹介である。

 

「西ラップランド、トルニオ市の精神科病院であるケロプダス病院」の「家族療法を専門とする臨床心理士であり、ユバスキュラ大学教授のヤーコ・セイックラ氏が治療の中心人物です。」(はじめに 11ページ) 

 

 ということで、斎藤環氏は、オープンダイアローグという方法の日本における紹介者ということになる。私としては、大いに興味をもってその進展を見ていきたいものだし、なんらかの関わりを持てる、さらにはいささかでも貢献ができる、などということになったら、私の人生においてもこれ以上のことはない、とすら言えるようなことでは、実はある。

 なお、念のため言っておけば、ここでの対話は、専門家サイドからいえば、まず傾聴があるのであって、専門的知見からの指示、指導が先にあるのではない。クライアントの側の語りにいかに耳を傾けるか、というところから出発するものである。この本を読むにあたって、カウンセラーとしての訓練は役に立ったといえる。また、中村雄二郎、河合隼雄、そして、最近では鷲田清一らの臨床の知、受動の知に関する知見も大いに役立つところである。



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