ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

神野直彦 経済学は悲しみを分かちあうために 私の原点 岩波書店

2018-11-07 23:08:27 | エッセイ

 神野直彦氏は、日本を代表する財政学者、東大の元経済学部長、第一次地方分権改革の際の、地方分権推進委員会のメンバーであり、私も、自治体学会や、宮城県市町村職員研修所での講演など、なんどか直接謦咳に接する機会に恵まれている。学識のみならず、心優しい人格者であることは衆目の一致するところであろう。

 ここでいう経済学は、新自由主義的なお金儲けの学ではない。本来の意味での経済学、「経世済民」の言葉の意味を踏まえた経済学である。

 神野氏の生きてきた個人史を振り返りつつ、それが同時に経済学の原点を探る旅でもあった、その両面を描いた書物である。

 難しい数式が並んだ難解な書物が理論書というわけではない。こういう、個人の生き様を踏まえた考察こそ、真の経済学の名に値するのではないだろうか。

 

「人間は優しさを与え合い、悲しみを「分かち合い」ながら生きていく。悲しみを「分かち合う」と、悲しみに暮れている人だけではなく、悲しみを分かち合った人々をも幸福にする。人間が幸福を実感できるのは、自己が他者にとって必要不可欠な存在だと実感した時だからである。」(4ページ 序章 自分の「生」と「思想」に向き合う)

 

「社会科学は事実認識に徹するべきで、価値判断から自由でなければならないと、没価値性を主張したのは、マックス・ウェーバーである。マックス・ウェーバーはこの没価値性を、19世紀の後半に、ドイツで形成された新歴史学派への批判として唱えている。

私の専攻する財政学は新歴史学派の形成とともに誕生している。

…社会科学は価値判断に手を貸してはならないというウェーバーの批判は、財政学に向けられていたといってもいいすぎではないのである」(5ページ)

 

 科学は価値判断に手を貸してはならない、科学は価値中立であるべきである、これは、現在、世の常識なのかもしれない。ウェーバーが、というだけでなく、社会科学者たる者、個人の価値判断に左右されない客観的な事実、客観的な法則を追い求めるべきである、ということが常識であるのかもしれない。

 しかし、神野氏は、こう述べる。

 

「とはいえ、事実と価値判断を弁別し、社会科学は事実認識に純化すべきだという主張自体も、一つの価値判断であることは間違いない。自然科学と相違して、観察者自身も観察対象であるという性格の濃厚な社会科学では、価値判断の問題が宿命的に問い返されることになる。

 自己の存在と自己の生きている状況を理解しようと、財政学の森を徜徉(しょうよう)するうちに、私は社会科学では、研究者は茫漠としてではあれ、自己の人間観なり、社会観なりを選び取らざるをえないのではないかと考えるようになった。…

 財政学の学びを通じて、私が形成した人間観は、人間とは悲しみを「分かち合い」、優しさを「与え合い」ながら生きていくものだという人間観である。」(5~6ページ)

 

 神野氏は、単に感情論で語っているわけではない。上を見てもわかる通り、理路の通ったことを語っている。いささかでも哲学を学んだものであれば、事実と価値判断の弁別ということが、それほど単純にわかりやすい問題ではないということは自明のことでもある。

 

「本書は私の研究してきた経済学を経糸に、私の歩んだ「生」を緯糸にして、私の「思想」を錦として織り上げることを企図している。私の研究してきた経済学とは財政学である。というよりも、佐藤進先生が受け継いだ大内兵衛先生を始祖とする東京大学の伝統的な財政学である。それはメイン・ストリームの経済学に異議を申し立てる異端の経済学だといってよい。」(8ページ)

 

 しかし、東大の伝統的な財政学とは、メイン・ストリームから外れた異端の経済学なのだという。これは、確かに驚くべきことではある。しかしながら、読む者に深く納得できる行論であることも間違いないことだろう。

 神野氏が教えを受けた先達の中に、玉野井芳郎がいるという。

 

「私の経済学の先達は、玉野井芳郎先生である。」(70ページ)

 

 玉野井芳郎は、いま、本棚に「エコノミーとエコロジー」がある。

 みすず書房刊1978年の初版で、2002年の新装版第1刷。

 読んだのは、そんなに前ではないと思うが、まだ、ブログに感想を書きはじめるまえであったようだ。大変に感銘を受けた書物であった。いま、ぱらぱらと冒頭をめくってみると、文脈的にもここに引用したいところだが、それは、置く。ただ冒頭に「経世済民」の本来の意味が語られていたことだけは記しておきたい。

 

「人間の長い歴史を通じて、市場が個人と個人との間で存在したことはない。市場は共同体と共同体との間で発生し、共同体を外側から包み込んで、小さく分裂させていく。共同体は現在では「最後の共同体」としての家族にまで分裂しているけれども、人間の生命は共同体に抱かれる必要がある。そう玉野井先生が共同体について語り始められると、そこに未来の視点からの共同体に対する熱き視線を感じ取ることができたのである。

 私がゼミナールに参加していた時には、未だ鮮明にはされていなかったけれども、後に玉野井先生は「地域主義」を宣言される。私が後に地方分権の運動に携わっていくのも、玉野井先生の共同体への熱き眼差しを継承したからにほかならないのである。

私は玉野井先生から未来に向かって、共同体を含む非市場組織をも考察対象とする経済学を追求していく必要性を教示されたといってよい。マルクス経済学にしろ近代経済学にしろ、経済学は市場組織に考察対象を絞り込んできた。しかし、現代が遭遇している危機は、「経済というサブ・システムのなかの解決だけによって片付くものではないということは明白である。」と玉野井先生は指摘されている。こうした考えに後を押され、私は教養学部から経済学部へと進学すると、むしろ非市場組織に焦点を絞った経済学を求めていくようになる。…玉野井先生が非市場組織をも経済学の考察対象とする必要性を説くのは、経済学の考察対象たる経済を、自然・生態系の土台のうえに位置付け直す必要があると考えられるからである。」(73~4ページ)

 

 生態系を踏まえた経済、地域の共同体の中での経済、現在の社会のありようが地方分権を必然的に求めるのだということ、このあたりの行論は、まさしく、現在の私の考えていることなのだが、それは、別にわたしひとりが考え、発見したことなどではない、ということを再発見させてもらえる。単純に言って、私が読んできた書物の中に繰り返し説かれていることなのである。

 第5章は、「経済学は何をなすべきか」と題されるが、もともと共同体のもとでは三位一体となっていた経済・政治・社会という三つのサブ・システムが、市場社会では分離してしまった。この分離が極限まで推し進められたかのような現在、システム改革が求められている。しかし、このシステム改革は、ふつうに想像されるような新自由主義的な改革ではないのだという。

 

「しかし、「システム改革」にはアングロ・アメリカン諸国が目指す、競争原理にもとづく「市場領域」を拡大するシナリオだけではなく、「ヨーロッパ社会モデル」のように、地方分権という「非市場領域」の改革によって、中央集権的な「参加なき所得再分配国家」としての福祉国家を、地方分権的な「参加する所得再分配国家」に改めて克服しようとするシナリオもあることを、私は注目した。」(174ページ)

 

 この「システム改革」の文脈の中で、改めて地方分権の意義ということを、政治の世界のみのことではなく、社会・経済全般にわたる改革という視点の中で捉え直して行く必要がある。

 地方分権推進委員会の議論の中で、神野氏の関わったところが下記の記述から明らかになる。

 

「私は『中間報告』の策定過程で、機関委任事務を廃止する事務区分の再編と、補助金・負担金の整理・合理化を結びつける私案を作成していた。…行政面の分権化と、補助金・負担金の整理という財政面での分権化とを結びつけなければ、財政面での分権化が進まないと判断していたからである。…その私案は日の目を見ることはなかったのである。…日本の地方分権改革では機関委任事務の廃止と税源移譲が車の両輪とならなければ進まない。機関委任事務の廃止は実現したけれども、税源移譲どころか、補助金の一般財源化すら思うように任せない状態にとどまっている。それはすべて私の力量のなさによる結果だといってよい。」(190ページ)

 

 決して神野氏の「力量のなさ」の問題ではない。大きな流れの中で、今回の改革はそこまでしか届かなかったのである。しかし、そう言ってしまう氏の責任感はあきらかである。

 

 終章にこうある。

 

「経済学が機能不全を起こしているのは、「それで人間は幸福になるのか」という問いを、自らに突きつけていないからだと、私は考えるようになっていた。というよりも、経済学は社会科学である以上、追求も続けなければならない「人間とは何か」という根源的な問いを、忘却の彼方へと追いやってしまったといってよい。

経済学は、間化しているが故に危機に陥っている。」(240~1ページ)

 

 まことに神野氏らしい言葉であり、われわれがかみしめるべき言葉である。

 現在、うやむやのまま沙汰やみとなったかに見える、地方分権改革を、もういちど根底からやり直す、地方分権推進委員会の歴史的な宣言である、中間報告に立ち還ってやり直す、ということがぜひとも必要である、と改めて思わされた一冊であった。

 先般読んだ、山本義隆氏の「近代日本一五〇年」における文明、科学、技術、経済についての捉え方と合わせ読むとき、それは、このブログで紹介している多くの書物と共通の問題意識であるはずであるが、これからの日本の、世界のありようについて、心ある識者は、同じことを語っている、という思いをまた強くしたところである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿