ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

糸井重里氏のドローン的自由からの逃走

2020-03-19 00:26:53 | エッセイ
 糸井重里氏は、主宰するほぼ日刊イトイ新聞に、毎日かかさず「エッセイのようなもの」として「今日のダーリン」欄を執筆している。朝日新聞で言えば、天声人語、気仙沼で発行される三陸新報であれば万有流転のようなコラムであり、また、同時に社説でもあるようなものでもある。もちろん、糸井氏の書くものであるから肩ひじ張った主張とか、口うるさいお説教ではなく、非常に柔らかい、しかし、どこか筋の通った物言いであり、ああ、そうそうとぽんと膝を叩きたくなるような文章である。訳知り顔のうんちくやら雑学やらとも、また、違う。
 私は、糸井重里は、偉大な思想家である、と思っている。平成の時代を作った偉大な人物の最右翼に挙げられるような実績を残したひと。
 思想家といっても、明確な主張を掲げ、論理的な筋道を通した思想書、理論書を現した学者、というわけではない。
 ひょっとすると、吉本隆明の100倍以上の影響力を、現代の日本の社会に与えた人物だと思う。この影響は、もちろん、言葉の力によって。
 余談だが、気仙沼図書館の新館オープンにあたって、糸井氏から贈っていただいた二つの言葉は、気仙沼にとっての財産であるのみでなく、のちに、糸井氏にとってもマスターピースとなるべき優れたキャッチコピーである、と思う。
 さて、3月15日付の「今日のダーリン」は、「まったく自由みたいなものには、人間は、たぶん弱いのだ。」と書き出され、自由に空中を飛んで様々な映像を手軽に見せてくれるドローンを引き合いに出して、人間の自由について論じている。いや、論じているのではなくて、いっけん自由に連想の赴くまま随想を書いている。
 「今日のダーリン」の欄は、前の日の分までは、HPからリンクをしているが前々日以前の分は、基本的には隠されているようなので、いま、直接は参照できないようだが、読んでみて、大きな違和感が残った。
 この違和感の正体はなんだろう、と、考えている。
 ツイッターを見ていたら、大きな懸念を示す論調が目立つ。いちぶ、糸井氏の真意を推し量って擁護する人々もいるようだ。糸井は、ソフトな顔をした現体制擁護派だ、と断罪する人々も一定数いる。
 人間が全くの自由を恐れる、というのは、古くから言われていることだ。ことわざで言えば寄らば大樹の陰だったり、サルトルだって、自由はむしろ苦しいものだ、みたいなことを言っている。まあ、この際には、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を引き合いに出すのが順当なところである。
 フロムは、ひとびとが与えられた自由におののき、恐れ、そこから、逃走して自ら自由を手放した、それが、ヒトラーのナチズムを生んだ、みたいなことを言っていたはずである。
 糸井氏は、今回のエッセイで、現代人が自由から逃走しようとしているのではないか、なんとなくそんな雰囲気になっているのではないか、というようなことを、ドローンを引き合いに出しながら語る。ちょっと、いま、原文には当たれない状態なので、明確なことは言いづらいのだが、その雰囲気を、必ずしも明確には否定していない。現在の大衆は、自由から逃走したがっている、それでよいのだ、と糸井氏が主張している、というふうにも読めてしまう。権力を持つ為政者は、その雰囲気を読んで、うまいこと、自由を奪ってしまえ、と暗に促しているのだ、と読めないこともない。
 確かに、文章の分量としても、そういう全体の雰囲気の描写が多いことは確かだ。
 一方、文章の最後は、ドローンではなく、鳥が登場する。同じく空を飛ぶものとして。そして、機械のドローンではなく、生物である鳥のことを肯定的に描写している。たったの一行ではあるが。
 さてさて、糸井氏は、自分はどんなふうに感じたかは語っているかもしれないが、どうあるべきだとか、こう対処すべきだとかは、いっさい語っていない。だから、懸念派の懸念は、確かに当たっているかもしれない。断罪派のいうことも、ひょっとするとその通りかもしれない。擁護派は、擁護したいがあまり、言ってもいないことを深読みしているのかもしれない。
 私は、左右なのか、上下なのかよくわからないが、今回の糸井氏のエッセイは、大きな議論を巻き起こしてしかるべきものだと考える。もっと、大々的に炎上したり火消ししたりすべきだと思う。この自由ということに関して、日本人は、いま、もっともっと議論すべきなのではないかと思う。
 で、私の感じた違和感というのは、ここまで書いたところとは、少々、違うところにある。
 このところ、個人個人の自由ということを、大きく問題として語っている論客は、ほとんどいないんじゃないか、と。若者の身勝手な自由が行き過ぎて、現代社会の様々な問題が引き起こされていると主張する保守論客は、あまり見かけないような気がするのだが、どうだろう?
 むしろ、若者たちは、社会の中でイジメられ、生きる場所を失っていると、もっと人間として大切にされるべきと擁護されているのではないか。現実には、擁護されていない現状であり、これからは、もっと大切に守られて行くべきである、と語る人のほうが多いのではないか?
 人間の自由の行き過ぎを論難する論客は、現状、ほとんど見当たらないのではないか?
 どうだろう、私の感じ方は間違っているだろうか?
 こういう現状の中で、糸井氏が、自由の危うさを語るというのはどういうことだろう?
 糸井氏は、現代のテクノロジーの到達点としてのドローンを引き合いに自由の危うさを語り、生き物である鳥の空を飛ぶ自由は別物であるというような感じを最後に語った。
 いま、ひとびとが、その自由さを懸念するものといえば、AIであったり、原発であったり、ドローンも含むテクノロジーの自由さであり、グローバルなマネーの自由さではないだろうか?
 懸念されるのは、決して、個人個人の自由さ、ではないのではないだろうか?基本的人権である人それぞれの自由の行き過ぎを心配しているひとはあまりいないのではないだろうか?
 行き過ぎたテクノロジーやグローバルなマネーの自由さを、注意深くコントロールしつつ、ひとりひとりの生存と生活をしっかりと守っていくことこそ、いま求められていることではないだろうか?そういうことを語っている論客はたくさんいる。ここで名前を挙げれば何人でも挙げられる。
 世界中のひとびとの「おいしい生活」が成り立っていくように希いつつ。それは確かに到達の困難な「理想」ではあるにしても。
 糸井氏は、ここで、明確な主張は決して語っていないので、断定はできない。私はこう思う、というひとつの仮説を述べたに過ぎない。
 糸井氏のこのエッセイをきっかけに、建設的な議論が湧き起これば、面白いな、と思う。

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