柄谷行人という人は、時代遅れの、孤立した思想家である。
もっとも、先ごろ亡くなった吉本隆明も、孤立無援な思想家であった。
そもそも思想家は、宗教家ではない。親密な結社の中にいる、あるいは、親密な結社を創設し教祖としてふるまう宗教家ではない。近代の思想家は、むしろ、宗教家であることを止めた宗教家である。共同体を脱出して、自由な個人として存在することを求めたひとびとである。孤立無援であることこそ、思想家の所以と言って過言ではない。
「哲学の起源」(岩波書店1992年)は、彼の最新の著作である。
帯には、「イオニア的なものとは何か 古代の自然哲学に秘められたイソノミアの記憶」とある。
イオニアとは、小アジアの沿岸部、今のトルコの、地中海に面した沿岸部であり、古代ギリシャの植民ポリスが点在した場所。ギリシャの叙事詩「イーリアス」や「オデュッセイア」の作者とされるホメロスは、イオニアの出身とされる。「万物は水である」と唱えたというタレスや「万物は流転する」と語ったというヘラクレイトスなど、ソクラテス以前の自然哲学は、イオニアの地に興ったとされる。
さて、「デモクラシー」といえば、古代ギリシャの都市国家・アテネの地にその起源を持つと言われる。現代のわれわれが、政治的なことをあれこれと考えるとき、参照すべきは、その起源、一般的には、アテネの民主主義、デモクラシーである。
しかし、この本で柄谷は、アテネ以前、そのもっと前のイオニアにこそ注目すべきであるという。「デモクラシー」よりもっと前に、イオニアに成立した「イソノミア」にこそ、これからの世界のあるべきモデルを見いだすべきであると。
では、現在の世界とはどういう世界か?
気鋭の社会学者・開沼博は、「漂白される社会」(ダイヤモンド社2013年)の冒頭、こう言う。「今日も日本は『自由』で『平和』だ。/確かに、『そんなことはない!』『様々な抑圧や困窮のもとで苦しんでいる人が、世の中にはたくさんいるじゃないか』と言う人もいるかもしれない。/苦しんでいる人がいることには同意する。」「一方で、…多くの人が『何か』に不自由を感じており、また身の回りには争いや穏やかではない『何か』を抱えているようにも思える」(同書「はじめに」から)
自由で平和でありながら、何か問題を抱えている社会。ひとびとを苦しめる抑圧や困窮を廃絶できない社会。
開沼の議論は、現在の日本が、「自由」で「平和」であることに力点があるように見えるし、そこに柄谷などに対する批判があるように見えるが、その点は、ここでは、先送りにして置く。
さて、「イソノミア」とは「無支配」である。「デモクラシー」とは民主主義、民衆による支配であるが、無支配は支配ではない。それは、イオニアにこそ生じたものである。そこには、自由でかつ平等な社会が出現した。
「実は、ギリシャに特徴的であると思われているものは、ほとんどすべてイオニアに始まっている。」(哲学の起源20ページ)ギリシャの文字、ホメロスの叙事詩。
「ギリシャの民主政をもたらした要因のひとつだといわれる」、「価格の決定を…市場に任せたということ」「もイオニアに始まった。」
「イオニアの諸都市には、エジプト、メソポタミアなどアジア全域の科学技術、宗教、思想が集まった。それらを積極的に受け入れたイオニアの人々は、しかしながら、アジア的専制国家で発達したシステムのいくつかを決して受け入れなかった。たとえば、官僚制、常備軍、ないし、傭兵である。彼らはアジアの専制国家のように国家官僚による価格統制を行わず、それを市場に任せた。」
「ギリシャのポリスは、それまでの氏族社会が血縁によって規定されるのと違って、各人の自主的な選択によって成り立つといわれる。…それはイオニアの植民都市に始まり、…その後にギリシア本土のポリスにも広がったのである。」(同じく、20~21ページ)
なぜ、イオニアなのか。それは、旧来の共同体の拘束が無い社会であるから。そして、自由でかつ平等という二律背反とされるふたつの価値が実現してしまった社会であるから。
「イオニア諸都市…では、植民者たちがそれまでの氏族・部族的な伝統を一度切断し、それまでの拘束や特権を放棄して、新たな盟約共同体を創設したからである。…イオニアでは、人々は伝統的な支配関係から自由であった。…人々は実際に経済的にも平等であった。…貨幣経済が…貧富の格差をもたらすことがなかったのである。」(25ページ)
アテネのデモクラシーとは、失われたイソノミアを回復する試みであった。血縁共同体などの旧来の拘束が続き、貨幣経済の進展により経済的な格差も生じていたアテネにおいて、理想化された形態。ひとびとが支配されることなく、自由で平等であるような社会。それが、今後、現実に実現しうるかどうかは別として、理想的な形態であることは論をまたないと思う。自然状態において、社会契約すら必要でないかたち。万人の万人に対する闘争など起こらない社会。支配の正当な根拠であるような一般意志など想定する必要のない社会。
ところで、「植民者たちがそれまでの氏族・部族的な伝統を一度切断し、それまでの拘束や特権を放棄して、新たな盟約共同体を創設した」といえば、歴史上、想起されるもうひとつの例は、北アメリカである。アメリカ合衆国に繋がる、イギリスの植民地。「アメリカ独特の市民社会のシステム…タウンシップはイソノミア的であるといってよい。」(46ページ)柄谷も当然、目配りしている。しかし、それは「タウンシップにあった、多数決原理を認めない直接民主主義は、独立革命以後、中央集権と代表制民主主義の下で消滅した。」(50ページ)「タウンシップがもたらしたアメリカ革命の意味が…アメリカ人自身によっても忘却された…」(52ページ)というようなものである。
「イソノミア」は、ギリシャにおいて忘却され、北アメリカにおいても再び忘却されたものである。繰り返し忘却される「イソノミア」に、われわれはどれほどの意義を見いだすべきであるか?
しかし、もう一方で、デモクラシーにおいて想起され、常に参照されるものであることにも間違いはない。
ところで、柄谷は、マルクスのように生産様式に着目するのでなく、交換様式に着目するのであるが、それには4つの様式があるという。
「世界史の構造」(岩波書店2010年)によれば、交換様式Aは、贈与とお返しの「互酬」、交換様式Bは支配・被支配の「再分配」、交換様式Cは、売ったり買ったりの「商品交換」、そして、交換様式Dは、交換様式Aの互酬を、高次元で、想像的に回復するものだという。自由でありながら、相互的であるようなもの。おおざっぱに言って、Aは、原始的な共同体、Bは専制国家、Cは資本主義、市場経済的な社会。現在は、Cがもっとも大きな力を占めているということになる。もちろん、現在でも、お祝いをして、そのお返しをして、という互酬的な贈与は広く行われ、国家が徴税して、社会保障その他のサービスを分配するBも、大きな役割を果たしている。
それで、現在の問題の多い社会から次のかたちを求めるというときに、交換様式Dが現れるわけである。昔風の束縛の多い共同体に戻るのでなく、国家による財やサービスの再分配を経て、自由な市場経済も経験したうえで、みんなが自由でかつ平等に暮らせるDの世界。ひとびとが絆により連帯し、お互いに助け合い幸せに暮らせる社会。
しかし、交換様式Dは、世界宗教(ユダヤ教、キリスト教やイスラム教、仏教)が生じた時点で、すでに現れたものという。これから全く新たに創造されるべき社会というのではない。いや、これは、想像的に回復されるものであって、現実に実現したものではないから、何度でも、再び、想起されるものなのだ。
交換様式Dが実現した社会とは、つまり、「イソノミア」が実現した社会である。ひとびとが皆自由で平等で、支配が必要のない社会。
(イソノミアは、実は、一切の交換すら必要でなく、無償の贈与のみがある社会であり、交換様式Dが実現した社会とは、デモクラシーがきちんと実現した社会というほうが良いようで、互酬は、無償の贈与の記憶により成立し、デモクラシーはイソノミアの記憶により成立するということのようだが、さしあたり、同じことにして置く。)
交換様式A、B、C、Dという流れ、共同体的互酬⇒国家的再分配⇒市場主義的等価交換、そしてその先にもういちど、共同体の取り戻しによる互酬的な絆の回復が必要であるという流れは、現在の識者の議論の前提であり、ごくシンプルで、当然の分かりやすいものである。この流れは、だれも異論の挟みようがないと思われる。
イソノミアにしろ、交換様式Dにしろ、その中身は、柄谷が初めて言ったものではない。これまでの歴史の中で、すでに、何らかの形では存在し、また、語り続けて来られたものである。そういう意味では、新発見の万能薬ではない。ウイルスを撃退し、インフルエンザを完治するような新薬ではない。とくだん、柄谷の立派な著作として出版されるような新しい価値のある知見ではない、とも言えるのかもしれない。良くできた世界史、倫理社会や公民の教科書であること以上の意義は持たないのかもしれない。
イオニアとは、古代ギリシャの一部であって、アテネと並ぶ重要性を持つ、といえば、ページ数に限定がある場合に、あえて、イオニアを切り分ける必要性はないと言えるし、イソノミアを前提としないデモクラシーはないのであってみれば、あえて、分けて論ずる必要もないと言える。
たとえば、杉田敦「政治的思考」(岩波新書)などという簡明で優れた新書版を一冊読んでしまえば、政治的な一市民、国民として、より良く政治に関わっていくうえで、必要充分なのかもしれない。
だが、しかし、なんというか、遇直に、不器用に、原理論を根掘り葉掘りして語ろうとする柄谷行人のような存在は、現時点でこそ、必要なのである、と私は思う。ヘーゲルとか、マルクスとか、ギリシャ哲学とか言い続けること。さらに言えば、デモというものにも参加するべきなのではないかとも思う。
もっとも、先ごろ亡くなった吉本隆明も、孤立無援な思想家であった。
そもそも思想家は、宗教家ではない。親密な結社の中にいる、あるいは、親密な結社を創設し教祖としてふるまう宗教家ではない。近代の思想家は、むしろ、宗教家であることを止めた宗教家である。共同体を脱出して、自由な個人として存在することを求めたひとびとである。孤立無援であることこそ、思想家の所以と言って過言ではない。
「哲学の起源」(岩波書店1992年)は、彼の最新の著作である。
帯には、「イオニア的なものとは何か 古代の自然哲学に秘められたイソノミアの記憶」とある。
イオニアとは、小アジアの沿岸部、今のトルコの、地中海に面した沿岸部であり、古代ギリシャの植民ポリスが点在した場所。ギリシャの叙事詩「イーリアス」や「オデュッセイア」の作者とされるホメロスは、イオニアの出身とされる。「万物は水である」と唱えたというタレスや「万物は流転する」と語ったというヘラクレイトスなど、ソクラテス以前の自然哲学は、イオニアの地に興ったとされる。
さて、「デモクラシー」といえば、古代ギリシャの都市国家・アテネの地にその起源を持つと言われる。現代のわれわれが、政治的なことをあれこれと考えるとき、参照すべきは、その起源、一般的には、アテネの民主主義、デモクラシーである。
しかし、この本で柄谷は、アテネ以前、そのもっと前のイオニアにこそ注目すべきであるという。「デモクラシー」よりもっと前に、イオニアに成立した「イソノミア」にこそ、これからの世界のあるべきモデルを見いだすべきであると。
では、現在の世界とはどういう世界か?
気鋭の社会学者・開沼博は、「漂白される社会」(ダイヤモンド社2013年)の冒頭、こう言う。「今日も日本は『自由』で『平和』だ。/確かに、『そんなことはない!』『様々な抑圧や困窮のもとで苦しんでいる人が、世の中にはたくさんいるじゃないか』と言う人もいるかもしれない。/苦しんでいる人がいることには同意する。」「一方で、…多くの人が『何か』に不自由を感じており、また身の回りには争いや穏やかではない『何か』を抱えているようにも思える」(同書「はじめに」から)
自由で平和でありながら、何か問題を抱えている社会。ひとびとを苦しめる抑圧や困窮を廃絶できない社会。
開沼の議論は、現在の日本が、「自由」で「平和」であることに力点があるように見えるし、そこに柄谷などに対する批判があるように見えるが、その点は、ここでは、先送りにして置く。
さて、「イソノミア」とは「無支配」である。「デモクラシー」とは民主主義、民衆による支配であるが、無支配は支配ではない。それは、イオニアにこそ生じたものである。そこには、自由でかつ平等な社会が出現した。
「実は、ギリシャに特徴的であると思われているものは、ほとんどすべてイオニアに始まっている。」(哲学の起源20ページ)ギリシャの文字、ホメロスの叙事詩。
「ギリシャの民主政をもたらした要因のひとつだといわれる」、「価格の決定を…市場に任せたということ」「もイオニアに始まった。」
「イオニアの諸都市には、エジプト、メソポタミアなどアジア全域の科学技術、宗教、思想が集まった。それらを積極的に受け入れたイオニアの人々は、しかしながら、アジア的専制国家で発達したシステムのいくつかを決して受け入れなかった。たとえば、官僚制、常備軍、ないし、傭兵である。彼らはアジアの専制国家のように国家官僚による価格統制を行わず、それを市場に任せた。」
「ギリシャのポリスは、それまでの氏族社会が血縁によって規定されるのと違って、各人の自主的な選択によって成り立つといわれる。…それはイオニアの植民都市に始まり、…その後にギリシア本土のポリスにも広がったのである。」(同じく、20~21ページ)
なぜ、イオニアなのか。それは、旧来の共同体の拘束が無い社会であるから。そして、自由でかつ平等という二律背反とされるふたつの価値が実現してしまった社会であるから。
「イオニア諸都市…では、植民者たちがそれまでの氏族・部族的な伝統を一度切断し、それまでの拘束や特権を放棄して、新たな盟約共同体を創設したからである。…イオニアでは、人々は伝統的な支配関係から自由であった。…人々は実際に経済的にも平等であった。…貨幣経済が…貧富の格差をもたらすことがなかったのである。」(25ページ)
アテネのデモクラシーとは、失われたイソノミアを回復する試みであった。血縁共同体などの旧来の拘束が続き、貨幣経済の進展により経済的な格差も生じていたアテネにおいて、理想化された形態。ひとびとが支配されることなく、自由で平等であるような社会。それが、今後、現実に実現しうるかどうかは別として、理想的な形態であることは論をまたないと思う。自然状態において、社会契約すら必要でないかたち。万人の万人に対する闘争など起こらない社会。支配の正当な根拠であるような一般意志など想定する必要のない社会。
ところで、「植民者たちがそれまでの氏族・部族的な伝統を一度切断し、それまでの拘束や特権を放棄して、新たな盟約共同体を創設した」といえば、歴史上、想起されるもうひとつの例は、北アメリカである。アメリカ合衆国に繋がる、イギリスの植民地。「アメリカ独特の市民社会のシステム…タウンシップはイソノミア的であるといってよい。」(46ページ)柄谷も当然、目配りしている。しかし、それは「タウンシップにあった、多数決原理を認めない直接民主主義は、独立革命以後、中央集権と代表制民主主義の下で消滅した。」(50ページ)「タウンシップがもたらしたアメリカ革命の意味が…アメリカ人自身によっても忘却された…」(52ページ)というようなものである。
「イソノミア」は、ギリシャにおいて忘却され、北アメリカにおいても再び忘却されたものである。繰り返し忘却される「イソノミア」に、われわれはどれほどの意義を見いだすべきであるか?
しかし、もう一方で、デモクラシーにおいて想起され、常に参照されるものであることにも間違いはない。
ところで、柄谷は、マルクスのように生産様式に着目するのでなく、交換様式に着目するのであるが、それには4つの様式があるという。
「世界史の構造」(岩波書店2010年)によれば、交換様式Aは、贈与とお返しの「互酬」、交換様式Bは支配・被支配の「再分配」、交換様式Cは、売ったり買ったりの「商品交換」、そして、交換様式Dは、交換様式Aの互酬を、高次元で、想像的に回復するものだという。自由でありながら、相互的であるようなもの。おおざっぱに言って、Aは、原始的な共同体、Bは専制国家、Cは資本主義、市場経済的な社会。現在は、Cがもっとも大きな力を占めているということになる。もちろん、現在でも、お祝いをして、そのお返しをして、という互酬的な贈与は広く行われ、国家が徴税して、社会保障その他のサービスを分配するBも、大きな役割を果たしている。
それで、現在の問題の多い社会から次のかたちを求めるというときに、交換様式Dが現れるわけである。昔風の束縛の多い共同体に戻るのでなく、国家による財やサービスの再分配を経て、自由な市場経済も経験したうえで、みんなが自由でかつ平等に暮らせるDの世界。ひとびとが絆により連帯し、お互いに助け合い幸せに暮らせる社会。
しかし、交換様式Dは、世界宗教(ユダヤ教、キリスト教やイスラム教、仏教)が生じた時点で、すでに現れたものという。これから全く新たに創造されるべき社会というのではない。いや、これは、想像的に回復されるものであって、現実に実現したものではないから、何度でも、再び、想起されるものなのだ。
交換様式Dが実現した社会とは、つまり、「イソノミア」が実現した社会である。ひとびとが皆自由で平等で、支配が必要のない社会。
(イソノミアは、実は、一切の交換すら必要でなく、無償の贈与のみがある社会であり、交換様式Dが実現した社会とは、デモクラシーがきちんと実現した社会というほうが良いようで、互酬は、無償の贈与の記憶により成立し、デモクラシーはイソノミアの記憶により成立するということのようだが、さしあたり、同じことにして置く。)
交換様式A、B、C、Dという流れ、共同体的互酬⇒国家的再分配⇒市場主義的等価交換、そしてその先にもういちど、共同体の取り戻しによる互酬的な絆の回復が必要であるという流れは、現在の識者の議論の前提であり、ごくシンプルで、当然の分かりやすいものである。この流れは、だれも異論の挟みようがないと思われる。
イソノミアにしろ、交換様式Dにしろ、その中身は、柄谷が初めて言ったものではない。これまでの歴史の中で、すでに、何らかの形では存在し、また、語り続けて来られたものである。そういう意味では、新発見の万能薬ではない。ウイルスを撃退し、インフルエンザを完治するような新薬ではない。とくだん、柄谷の立派な著作として出版されるような新しい価値のある知見ではない、とも言えるのかもしれない。良くできた世界史、倫理社会や公民の教科書であること以上の意義は持たないのかもしれない。
イオニアとは、古代ギリシャの一部であって、アテネと並ぶ重要性を持つ、といえば、ページ数に限定がある場合に、あえて、イオニアを切り分ける必要性はないと言えるし、イソノミアを前提としないデモクラシーはないのであってみれば、あえて、分けて論ずる必要もないと言える。
たとえば、杉田敦「政治的思考」(岩波新書)などという簡明で優れた新書版を一冊読んでしまえば、政治的な一市民、国民として、より良く政治に関わっていくうえで、必要充分なのかもしれない。
だが、しかし、なんというか、遇直に、不器用に、原理論を根掘り葉掘りして語ろうとする柄谷行人のような存在は、現時点でこそ、必要なのである、と私は思う。ヘーゲルとか、マルクスとか、ギリシャ哲学とか言い続けること。さらに言えば、デモというものにも参加するべきなのではないかとも思う。
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