ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

御手洗瑞子 気仙沼ニッティング物語 いいものを編む会社 新潮社

2015-09-01 00:40:16 | エッセイ

 ということで、「赤本」である。

 御手洗さんの本は、「ブータン、これでいいのだ」についで、2冊目。

 御手洗瑞子(みたらいたまこ)さんは、1985年東京生まれ。そうか、熊谷育美さんや佐藤千晶さんと同い年になるんだな。フェンシングの千田健太、ラグビーの畠山健介選手は、まあ、男だけど。もちろん、気仙沼生まれ、育ちの皆さんとは、最近まで接点があったというわけではない。

 東京大学経済学部を出て、有名なコンサルティングの会社マッキンゼー&カンパニーに勤め、その後、ブータン政府の首相フェローとして観光産業の育成に尽力した。ブータンでの仕事(や暮らし)は、その著書「ブータン、これでいいのだ」に詳しい。

 この本を読むと、ブータンはとても魅力的な場所と思え、一度は行ってみたいと思わせられることになる。

 御手洗さんは、2012年に、気仙沼にやって来て「高品質の手編みセーターやカーディガンを届ける「気仙沼ニッティング」の事業を起ち上げて、2013年から代表取締役に」なった。

 何故、気仙沼にやってきたのだろうか。

 あるひとから「気仙沼で編み物の会社をやりたいんだけどさ。たまちゃん、社長やんない?」と言われたのだという。そのひとは、にやにやしながらそう言った。御手洗さんは冗談、と一瞬思ったが、そのひとはいたって真剣だったのだと。

 いろいろと悩んで考えた末に、

 

 「『よしやろう』と心に決めて、糸井さんに返事をしました。」(14ページ)

 

 ということで、あるひととは、あの糸井重里さんにほかならなかったわけだ。

 でもそれは、糸井さんに声をかけられたから、というだけではない。

 

 「でも、そもそもなぜ私自身が気仙沼に興味を持ち、そこで仕事をしたいと思ったかといえば、それは、気仙沼に友達がたくさんできたから。さらにいえば、気仙沼であう人たちがみな魅力的で、こんなに面白い人の多い街をもっと知りたいと、魅かれていたからです。」(16ページ)

 

 この辺の人物が、たとえば具体的にだれかは、本の中にも登場する。で、気仙沼人は、ふつうの日本人とは、ずいぶん違うらしい。

 

 「ところが、気仙沼の人はこの「いわゆる日本人像」のことごとく逆をいくのです。いつも外に目が向いていて、感覚がグローバル、リスクをとって、どーんと大きなことにチャレンジできる。堂々としていて、どんな相手でもまっすぐに目を見て話す。もちろん私の印象にすぎないかもしれませんし、個人差はありますが、それでも外から気仙沼に来た人は、「日本にこんな人たちがいる街があるんだ!」とおどろくことが多いと思います。私もそのひとりでした。」(17ページ)

 

 「いわゆる日本人像」とは、「水稲文化に基づく農村文化」に染まったひとびと。気仙沼人は、それにあてはまらないのだという。まあ、確かに、近辺の内陸の人々とは、どこかメンタリティみたなものは違う感じはする。仙台平野の穀倉地帯の農耕民族とは違う、みたいな。

 

 「グローバルな感覚は、遠洋漁業の港町だからでしょう。なにしろ、気仙沼から出る船は、世界中の海で漁をします。」(17ページ)

 

 農耕民ではなく、狩猟系、というか漁労民にほかならない。

 (ちなみに私自身は、漁労系というよりは、職人の山師系の系譜が強いと言える。)

 で、この気仙沼人は、カッコいいことが好きだ、ということになっている。実際、たぶん、そうなのだろうと思う。(というか、去年、そういう詩を書いた。)

 御手洗さんも、「「世界で一番かっこいい」、王道のものをつくろう」(41ページ)と思ったという。もちろん、見た目だけの表面的なカッコよさではない。

 

 「福井さんが何度も糸を撚りなおしてサンプルの糸をつくってくれ、三國万里子さんが実際に編みながら。今回のカーディガンに合うものを探していきます。…(中略)…つくりはじめて数か月、ついに、毛糸ができました。じんわりと広がる静かな満足感。この糸の開発にたずさわった全員が、胸を張って言えると思います。

 「これは私たちが信じる、最高の毛糸です」

 世界のどこにもない、気仙沼ニッティングのためだけにつくられた毛糸。この冬気仙沼市ニッティングがお届けしたカーディガンは、この毛糸で編まれました。」(46ページ)

 

 ほんものの、最高のカッコよさ。

 三國さんは、気仙沼ニッティングの作品のすべてをデザインする編み物作家、福井さんは、京都の老舗の手芸糸専門店の前社長。

 

 「気仙沼ニッティングは、世界中のひとに「かっこいい!」「素敵!」と思われる会社になりたいと思っています。世界中に知られるブランドになりたい。今そういうと「えー、またそんな夢みたいなことを」と思う方もいるかもしれません。でも、今私たちが知っているブランドにも、それそれにはじまりがあり、小さいけれど頑張っていた時期があります。たとえば、エルメスはもともと馬具をつくっている会社でした。」(118ページ)

 

 夢を持つ。そして、夢が実現していく。

 世界最高級のブランドであるエルメスにも、始まりはあった。それは、ひとつひとつのものを大切につくる職人の仕事から始まった。大切につくるからこそ、第一級のブランドに育った。気仙沼ニッティングもまた、その夢を始めて、実現していく。

 

 「エルメスの斎藤さんは「これから、日本の地方から世界に出て行くという流れがもっと出てきてほしいし、それはできると思っているのです」ともお話してくださいました。ありがたい、勇気の出るお言葉!」(130ページ)

 

 最初の製品MM01は、三國さんのデザイン、福井さんの毛糸を、気仙沼の編み手が手で編みあげる「王道を行くかっこよさと存在感のあるカーディガン」(60ページ)に仕上がった。価格は15万円。完全受注生産で、その都度抽選で4点のみの生産となる。

 ある購入者からのメッセージであるが、

 

「自分のクローゼットを開けてみると、一生着たいと思える服が一着もないことに気が付きました。次に買う服は、ずっと長く着られるものにしようと思っている中でこの『MM01』に出会い、申し込みました」(162ページ)

 

 当初、ネットの通販と東京での展示会のみで販売していた気仙沼ニッティングであるが、小売りの店舗「メモリーズ」を開店することになる。

 

 「2014年の秋。気仙沼の海を見渡せる丘の上に、小さな青い建物ができました。」(147ページ)

 

 場所は、気仙沼プラザホテルのすぐそばであるが、ホテルから直接には、けもの道のような道を通れば行ける。ごく狭い坂道を迂回して行くが、車も途中までしか入らない。気仙沼の人間なら、決して店を開店しようなどとは考えない場所である。

 御手洗さんは、その建物の下見に行って、

 

 「窓の前まで歩いてきたところで立ち尽くしました。海側に大きく開いた窓はまるで額縁で、その窓越しに見える景色に釘付けになってしまったのです。眼下には波の穏やかな深い青色の気仙沼の海が広がり、ゆったりとフェリーが航行しています。海の向こうの正面の遠景には、対岸となる山と、そこに立ち並ぶ家々。その奥には、海の色を映した澄んだ空が続きます。…(中略)…しばらくの間、窓の前から動けなくなり、ぽかんとその景色を眺めていました。」(149ページ)

 

 ということで、その場所に開店することを決めてしまう。

 実際、この窓の眺めは、写真をこの本に紹介してあるし、ネットでも見られる。

 

 「この小さな建物は、気仙沼の海と同じ、少し緑味の入った済んだ青色です。」(152ページ)

 

 この小さな建物「メモリーズ」は、ほんとうに夢のような場所である。建物自体も、立地も、窓からの眺めも、私にとっても夢そのものであるような。

 

 御手洗さんは、東京でなく、気仙沼でこの会社を起こしたことについて次のように語る。

 

 「でも実は、「せっかくなら、気仙沼まで行きたいな」という方も多かった。メモリーズにも、オープン日には遠方からたくさんの方がいらしています。…(中略)…あらためて「便利」だけがすべてではないのだと思います。…(中略)…地方の小さな街で会社を始めると、つい「ここは不便だし人も少ないからモノは売れない。東京で売らなくちゃ」と思いがちですが、まず自分たちがいる場所こそを魅力的にするということが大切な目標になりそうです。」(175ページ)

 

 気仙沼において、種をまき、森を育てたいという。

 

 「ですが、「暮らしのサイクルを取り戻す」ということは、トップダウンで実現できることではありません。/それは、たくさんの人の暮らしや会社間の取引が複雑に絡み合いながら、互いに便益をもたらして成立している生態系を、もう一度つくりあげることだからです。津波で建物が流されて、何もなくなってしまったその土地に、だんだんと下草が生え、小さな木々が顔を出し、また大きくて豊かな森が育っていく。暮らしのサイクルは、そんな風に回復していくしかないのだろうと思います。そしてそのために自分ができることはなにかと考えると、「種をまくこと」でした。自分にできることはあまりに小さいのですが、それでも誰かが種をまかないと芽は出ないのです。」(203ページ)

 

 求めることは地域の暮らしをつくることであって、利潤優先、もうけ優先の事業ではない。

 

 「先日、とあるIT企業の創業社長の方とお話しする機会がありました。…(中略)…「気仙沼ニッティング、もっと大きな利益を出せるようになりますよ。…(中略)…革小物やアクセサリーなんかを調達してきてオンラインで販売する。SEO(検索エンジン最適化)とSEM(検索エンジンマーケティング)をガンガンにやり、流入者を増やす。そうすればいっきにスケールアップができるよ」/たしかにそうすれば1~2年は売上が急増するかもしれません。しかし、100年続く事業には育てられないでしょう。それは、気仙沼ニッティングがこれまで丹念に仕事をすることでお客さんから得てきた信頼を、短い期間で使い切るような話だからです。」(208ページ)

 

 最後の方に、つつじの山を育てた人の話が出てくる。気仙沼の人間には常識と言っていいが、これは佐々木梅吉さんのことで、気仙沼西部の北上山地にそびえる徳仙丈山のつつじを守り育てた人である。

 梅吉さんにも倣いながら、

 

 「私は、この気仙沼にこそ、100年続く会社をつくりたいと思っています。」(218ページ)

 

 と、御手洗さんは語る。

 そうそう、魅力的な人物と言えば、気仙沼でずっとお世話になっている斉吉さんのおばあちゃん、おじいちゃんの話も印象的である。

 と、まあ、そういうことで、これが、赤本。なんか、夢のような話。私自身、ずっと夢に見てきたことが、ここに書かれている。正直に言うと、読みながら結構泣いていました。

 この本を読んだ人は、たぶん、すぐにでも、気仙沼に来てみたくなるに違いない。


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