安住さんは、宮城県詩人会の会員。今年8月発行の詩集を贈っていただいた。
一読、読みやすい。しかし、読みやすいだけでなくて、どこかひっかかりがある。そのひっかかりが、魅力になっている、と思う。
「むかしむかし」を引く。
むかしむかし
おじいさんとおばあさんが
子どもの頃に
かわるがわる読んでもらった
二冊だけの絵本
書き出しはどちらも同じ
むかしむかし
おじいさんとおばあさんが
夕焼けが見えないくらい
立て込んだ住宅街の小さな台所で
ご飯をつくっていると
山から戻ってきたおじいさんの
たきぎを置く音がする
川の水がだいぶ冷たくなって
おばあさんがつぶやく
むかしむかしの
おじいさんとおばあさんが
どんな言葉をかわしていたか
わからなくても
なぜか雰囲気はおぼえている
それはお話を超えた自分の奥の記憶
二人はいつまでもいつまでも
仲良く暮らしましたとさ
のために
いそいそとなつかしく
おばあさんになる支度をしよう
昔話の世界と、いま詩人が生きている日常が交錯する。むかしと今、山里と建て込んだ都会の住宅街。ほとんど正反対の世界。ただ、詩人の年齢は、おじいさんとおばあさんに近づいていく。思い起こせば記憶も、確かに奥底に現存している。
「マリオネットの街」を引く。
糸を引き上げられると
びっくりした顔で起き出した
娘さんの人形
「私はいままでどうしてたの
子どもの頃なんてあったのかしら」
「いいんですよ
ともかくも若くて美しいのだから」
おじさんの人形はすまして言う
「私はおばあさんになりたかった
いっぱいしわくちゃで
何でも持っているみたいだから
素敵だわ」
「いいじゃないですか
若いままで
なんとか僕もおじさんくらいでよかった」
「私たちには変化していく時間がないのね
若ければ過去もほとんどない
息がつまりそう」
「さあさあ、はじまるよ
動いている限り
自分たちの時間さ」
(中略)
マリオネットの娘さんは
また明日もびっくりした顔で
起きあがる
人形劇において、私たちが物語として楽しむ際には、人形の娘は、人間の娘であり、人形のおじさんも人間のおじさんである。しかし、それが、人形遣いに操られる無生物の人形であることも間違いがない。人形ではあるが、ほんものの娘、ほんもののおじさんとして、フィクションを楽しむ。しかし、人形であるから、娘はいつまでも娘のままで、逆に過去に遡っても赤ちゃんであった時代も持たない。
色川さんは、フィクションと現実を、わざと混同することによって、詩を成り立たせる。
メタ・フィクションを導入して書く、一個の詩の技法ではある。
しかし、それは、技法であることを超えた何ものかでもある。何かの真実のようなものがそこにはあるのだと思う。
現実というもの自体が、そんなに明晰で合理的なものではない。不可知なものが潜んでいる。もちろん、私の中にも。
私も何かに操られているのかもしれない。
「黒い人」を引く。
わたしのなかで起き上ったひとがいる
永い眠りから
ようやく醒めたというように
わたしの内面の淵にゆっくり手をかけ
闇をしたたらせて立ち上がった黒い人
わたしは一人称ではなかったのだ
(中略)
黒い人からは
光のにおいがするし
足は
私の底に根付いている
黒い人
黒い人
聞きたいことが
たくさんある
私の中に、何か不可知な恐ろしくさえあるようなもの、でも、あたたかいのかもしれないものが潜んでいるのだ。
もちろん、あなたの中にも。