ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

安住幸子詩集 夜をためた窓 土曜美術社出版販売

2018-09-02 12:57:06 | エッセイ

 安住さんは、宮城県詩人会の会員。今年8月発行の詩集を贈っていただいた。

 一読、読みやすい。しかし、読みやすいだけでなくて、どこかひっかかりがある。そのひっかかりが、魅力になっている、と思う。

 「むかしむかし」を引く。

 

むかしむかし

おじいさんとおばあさんが

 

子どもの頃に

かわるがわる読んでもらった

二冊だけの絵本

書き出しはどちらも同じ

 

むかしむかし

おじいさんとおばあさんが

 

夕焼けが見えないくらい

立て込んだ住宅街の小さな台所で

ご飯をつくっていると

山から戻ってきたおじいさんの

たきぎを置く音がする

川の水がだいぶ冷たくなって

おばあさんがつぶやく

 

むかしむかしの

おじいさんとおばあさんが

どんな言葉をかわしていたか

わからなくても

なぜか雰囲気はおぼえている

それはお話を超えた自分の奥の記憶

 

二人はいつまでもいつまでも

仲良く暮らしましたとさ

のために

いそいそとなつかしく

おばあさんになる支度をしよう

 

 昔話の世界と、いま詩人が生きている日常が交錯する。むかしと今、山里と建て込んだ都会の住宅街。ほとんど正反対の世界。ただ、詩人の年齢は、おじいさんとおばあさんに近づいていく。思い起こせば記憶も、確かに奥底に現存している。

 「マリオネットの街」を引く。

 

糸を引き上げられると

びっくりした顔で起き出した

娘さんの人形

「私はいままでどうしてたの

子どもの頃なんてあったのかしら」

 

「いいんですよ

ともかくも若くて美しいのだから」

おじさんの人形はすまして言う

 

「私はおばあさんになりたかった

いっぱいしわくちゃで

何でも持っているみたいだから

素敵だわ」

 

「いいじゃないですか

若いままで

なんとか僕もおじさんくらいでよかった」

 

「私たちには変化していく時間がないのね

若ければ過去もほとんどない

息がつまりそう」

 

「さあさあ、はじまるよ

動いている限り

自分たちの時間さ」

 

(中略)

 

マリオネットの娘さんは

また明日もびっくりした顔で

起きあがる

 

 人形劇において、私たちが物語として楽しむ際には、人形の娘は、人間の娘であり、人形のおじさんも人間のおじさんである。しかし、それが、人形遣いに操られる無生物の人形であることも間違いがない。人形ではあるが、ほんものの娘、ほんもののおじさんとして、フィクションを楽しむ。しかし、人形であるから、娘はいつまでも娘のままで、逆に過去に遡っても赤ちゃんであった時代も持たない。

 色川さんは、フィクションと現実を、わざと混同することによって、詩を成り立たせる。

 メタ・フィクションを導入して書く、一個の詩の技法ではある。

 しかし、それは、技法であることを超えた何ものかでもある。何かの真実のようなものがそこにはあるのだと思う。

 現実というもの自体が、そんなに明晰で合理的なものではない。不可知なものが潜んでいる。もちろん、私の中にも。

 私も何かに操られているのかもしれない。

 「黒い人」を引く。

  

わたしのなかで起き上ったひとがいる

永い眠りから

ようやく醒めたというように

わたしの内面の淵にゆっくり手をかけ

闇をしたたらせて立ち上がった黒い人

わたしは一人称ではなかったのだ

 

(中略)

 

黒い人からは

光のにおいがするし

足は

私の底に根付いている

黒い人

黒い人

聞きたいことが

たくさんある

 

 私の中に、何か不可知な恐ろしくさえあるようなもの、でも、あたたかいのかもしれないものが潜んでいるのだ。

 もちろん、あなたの中にも。


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