ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

柄谷行人 遊動論 柳田国男と山人 文春新書

2014-07-22 10:16:49 | エッセイ

 柄谷行人は、非常に分かりやすい。難解なことはひとつも言っていないとおもう。このところの「世界史の構造」、「哲学の起源」など読んでみて、とてもシンプルで、あたり前のことを言っている。

 このところ報道が続いている地方議員の悪しき例、昔からどうこうというばかりでなく、いま現在ならではのひどい問題もあるわけだが、いわゆる津軽選挙、票を金で買うみたいな話があい変わらずあるというのも、まあ、驚きではある。

 民主主義の確立、というのは、遠い未来の理想、われわれや近い子孫が生きているあいだには到底実現できないたぐいの理想であるのか、と嘆息せざるを得ないというところでもある。

 もっとも、民主主義の実現というのは、不断に目指されるべき理想であて、地球上のどこにも、完全に実現された民主主義などない、走り続ける馬の目の前にぶら下げられる人参みたいなもので、そういうものとしてこそ意味がある、とも言われる。それはまさにその通りのことだ。

 一方、共同体というものが成り立っていくためには、お互い様、ということが大切で、何かを与えられれば、逆に何かを与えなければいけない。世話になったら、お礼をする。これは、都会であろうが、田舎であろうが同じ話である。ただ、田舎町のほうが、人間関係が濃いとは言える。あれは、どこの家の誰だ、あそこの親父は酒飲みだとか、真面目に稼いだ人物だとか、金には細かいとか、そこの何番目息子で、学校時代の成績はどうだったとか、そういう氏素性みたいなものが、あからさまに分かってしまう。都会でも、下町などという場所は、似たような傾向、となるだろう。

 選挙において、大事な一票をいただくためには、相応のお礼をしなければならない。

 もちろん、正しき論法でいけば、議員であれば、議会において、議案の審議にあたって正統な議論を行い、原案の正すべきを正し、つまり、質すべきを質し、税金の正当な使い道を保持していく、ということが、最も正しい職務であり、一票への対価であり、返礼である、ということは言うまでもない。しかし、安易に、現金を渡すというのは、分かりやすく手っとりばやい返礼であることもいうまでもない。かつ、それは、公職選挙法に違反する犯罪であることももちろん言うまでもないことだが。

 民主主義の理想と、現実のまちやむらで展開してきたひとびとの暮らし、社会の在り方、その関係はいかがなものなのか。

 この柄谷の本が、ダイレクトに、津軽選挙の問題に解答を与えているわけではないが、広くいえば、そんなふうな問題を、原理的に、論理的に、歴史的に考えてみようという本であるといって、間違いはないだろうと思う。

 柄谷は、柳田国男が、1928年に実現された普通選挙(男子に限るが、所得制限など撤廃され、はじめて日本のすべての成人男子に選挙権が与えられた。)の結果に大きく失望したという。

 

 「選挙がどういうわけでこの国ばかり、まっすぐに民意を代表させることができぬかというような、さし迫った一国共通の大問題なども、必ず理由は過去にあるのだから、これに答えるものは歴史でなければならぬ。」(11ページ 柳田国男「実験の史学」からの孫引き)

 

 「まっすぐに民意を代表させる」などということがほんとうに実現した国はあったのかと言えば怪しいものであり、「この国ばかり」などというのは、今になってみれば、柳田の情報不足にほかならないわけだが、もちろん、こんなことは、今だから言える後知恵にほかならない。

 選挙のことを言うのは、選挙を通して、日本の国がずんずんとよくなっていくことを期待しているのにほかならない。柳田は、明治以降の日本を、よりよい国にしたい、そういう思いを抱いていた。

 

 「彼は、農商務省に就職し、その後民俗学を志したきっかけをつぎのように述べている。《飢饉と言えば、私自身もその惨事にあった経験がある。その経験が、私を民俗学の経験に導いた一つの理由ともいえるのであって、飢饉を絶滅しなければならないという気持ちが、私をこの学問にかり立て、かつ農商務省に入る動機にもなったのであった》。」(47ページ)

 

 日本の国民が、飢えに苦しむことなく、日常の生活を心配なく送れる、そういう国を作りたかった。

 経世済民である。世の中をうまく経営して、民の生活が問題なく送れるように取り計らっていく。もともと経済という言葉は、この経世済民を略した言葉である。柳田国男は、優秀な官僚として、政策を通して国民を救う、経世済民を志したのだ。そして、そのために民俗学を追求したのだという。

 明治以降の日本の国の成り立ち、明治国家を作った構想、でっちあげられた理念、といっては言い過ぎなのだろうが、明治政府がひとつの構想のもとに創り上げられたものであるということは確かなことである。

 その出来上がりかたが、良かったのかどうか。大筋ではよかったはずであるが、当然のことながらそこにはさまざまな問題がある。たとえば、天候が悪ければ飢饉は起こる。選挙で、必ずしも選良が選ばれない。そういう様々な問題に対して、いちど、過去を振り返って、組み立てなおそうとする。江戸時代以前の日本のありようを参照しようとする。明治の当時の統治のありように疑問を呈する、その材料を、維新以前の時代に求めようとする。

 明治国家を作った理念の一方は、西洋からきている。欧米列強の政治的軍事的圧力を背景にした西洋の科学、哲学、思想、学問。もう一方で、日本古来の伝統の見直しもあった。江戸将軍の幕藩体制を超える統治の正統性を天皇に求めた。天皇制と神道の純化、確立。江戸時代よりもっと前、武士が実権を握る中世よりももっと前、古代からの面々と続く日本の伝統、日本らしさ。

 そういう意味で、明治国家を作った構想の原作者のひとりは、江戸時代の神道学者平田篤胤であるといって間違いないようだ。かれは明治以降の神道の確立に大きな影響を与えた人物であり、その基礎を作ったといってよい。その平田篤胤であるが、

 

 「たとえば、平田篤胤は漢訳聖書を読んで、神道の改革を行った。」(170ページ)

 

 現在の神道は、決して神代の昔から、自然に形成されたというようなものではないらしい。仏教の影響は言うまでもないが、キリスト教の影響も大きく受けて、神道は創り上げられた。神代の昔から、というように、古来から自然の経過でもって形成されてきた、そういう側面は確かにあるのだが、江戸時代に、平田篤胤らによって、仏教やキリスト教の影響を受けて創り上げられたもの、教義が整えられたものなのだ。

 柳田は言う。

 

 「要するに神道の学者というものは、不自然な新説を吐いて一世を煙に巻いたものであります。決して日本の神社の信仰を代表しようとしたものではありませぬ。」(170ページ、柳田「神道私見」から孫引き)

 

 柳田は、当時の民俗を、民衆の生活をもういちどよく見直して、さらに歴史をもういちど見なおして、平田篤胤流の日本神道の見かたを見直そうとした。それを通して、明治の政府のありようを変革しようとした、ということらしい。

 江戸期にルーツがあり、明治期に確立され創造された日本神道は、必ずしも、実際の民衆の生活の中で連綿と続いてきた信仰ではない。新たに構想され、作られたものなのだ。その神道をもとにした明治の統治機構は、だから実際の生活とは合わないところが多い。不都合が多々ある。

 日本の実際の歴史に根差し、現実の庶民の生活に根差した統治を実現するためにこそ、民俗学は必要だ、ということになる。

 21世紀の現在において、われわれが、柳田にならうということは、明治以降戦前の統治の在り方にならうのでなく、江戸以前中世以降の日本に倣うということになる。古代からの日本に倣うということでもあるが、古代は遠すぎて、現在の民俗にはほとんど残っていないという。(明治期には、古事記など文献の古代を研究して、そこに倣うという素振りが前面に出た。)

 そこで、取り上げられるのが遊動民である。ノマドである。現代の政治の在り方を変革するためのキーワードとも捉えられる。柳田と言えば「常民」であるが、それに相対する「遊動民」。

 実は、柄谷によれば、この遊動民、ノマドには、2種類あるのだという。

 それは何かと言えば、そこはこの本を読んでもらうことにしよう。

 ちょっとだけ言っておけば、一方のノマドは、新自由主義のイデオローグとなったという。

 

 「ソ連邦が崩壊し、資本主義のグローバリゼ―ションが生じた90年代以後、それは「資本の帝国」、あるいは新自由主義を正当化するイデオロギーに転化した。たとえば、日本でノマドロジーが「現代思想」として流行したのは、1980年代、バブルの頃である。そのとき、それはラディカルな思想に見えた。国境を超え、ネーション、さらには企業共同体を超えるものであったから。しかし、同時に、これは企業にも歓迎される思想であった。…(中略)…90年代に入ると、それは新自由主義のイデオロギーと区別できなくなる。」(191ページ)

 

 もう一方のノマド(真のノマド?)は、全く別のものであると。

 ところで、以下は、ちょっと筋が別の話。

 柳田がこんなことを言っているらしい。

 

 「東北地方は物質上の特徴あると共に住民の精神生活の上にも他地方とのあいだに差がある。東北の住民の中には二種の別があるらしい。先住者と移住者のあいだには目に見えぬ階級が存しこの二者が巧く調和なし兼ねているらしい。」(94ページ、柳田国男「東北研究者に望む」から孫引き)

 

 東北の二種類の民?これは何のことだろうか?

 わたしとしては、内陸部、平野部のひとびとと、われわれ沿岸部のものは、ずいぶんとメンタリティが違うようには感じるところがある。(常民と海民、みたいな。)そういうこととは、また別のことかもしれず、ひょっとすると、通じていることかもしれない。

 ま、これも、謎として、そのまま置いておきたい。基本的には、先住者と移住者は、血縁的にも文化的にも混血しきって区別など付かなくなっているはずだ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿