某歯科医の独り言

日ごろ感じる事を素直に書いてみました。

平成30年度「歯の作文」中学校 優秀作文

2019-03-19 15:34:18 | Weblog
   茜色に染まった空  練馬区立中村中学校 2年 山尾 海

 私の曽祖父の猫・空は、歯の病気だった。
『野良猫だから、しかたなか』
庭にある空の墓の前で、曽祖父は独り言のようにつぶやいた。
その歯の病気というのは、どんどん歯が使えなくなっていく病気だったらしい。
最後は体重が二分の一ほどになり、おかゆのようなやわらかい物しか食べることができなくなっていたという。ある日、曽祖父が出掛け誰もいなくなった昼、丸まって亡くなっていた。空手の大会が終わって疲れていた私は空を一目も見ることもなく寝てしまった。夜、そのことを知った私は墓の前で静かに涙を流した。空の温もり、灰色と白色の毛、青い首輪は私にとって忘れがたい物だった。
 あれから二年。曽祖父は九十一歳になった。今は家の近くの病院に入院している。何歳になっても変わらない、力強い握手に安心した。十二月に、一時年を越せるかどうか危ぶまれた時があったが、その片鱗を少しも見せず笑っていた。
「久しぶり、元気?」
『ぴんぴんしとるけん。大丈夫よ。』
 そう言った曽祖父のベッドの横には空の写真が置いてあった。それに気づいたのか、曽祖父は、笑って言った。
『九○年生きてきたけん。失って大切だったと気付いたものはたくさんある。』
 曽祖父は、第二次世界大戦のとき特攻隊で敵の基地に突っ込む二日前に戦争が終わったと言った。長崎に帰ると、そこは一面焼け野原だったそうだ。七〇年前は、こんな未来になるとは予想もしていなかった。曽祖父はぽつりと言った。私は、曽祖父が生きていたから生まれたんだな、と思った。今私が持っている日常、この体は、多大な人の歴史の上に成り立っているのだと、幼い私でも、そう考えずにはいられなかった。
『生き物は、誰だって生きとるときには病にかかる。しかたんなかときも、自業自得のときもある。それを背負いながら、皆生きてるけんね。』
「限りある命を大切にしろってこと?」
私は数多くの歴史を刻んできたひとみを見つめた。
『海、八○二○運動って知ってる?』
突然の問いに、私は四つの数字の意味を探った。腕をくんでだまってしまった私に、曽祖父は笑って言った。
『八○二○運動はな、要するに八○年まで歯を二○本保っとけばいいというもんよ。』
「それって、けっこう難しいと思うけど。」
 私がそう言うと、曽祖父は机にあった空の写真を手に取った。
『誰だって生きてるときゃ、食べ物を口から入れる。力強い体、骨をつくるためには歯でかんで飲み込む栄養が大事けん。』
 私は、いつも睡魔と戦いながら歯をみがいていることを思い出した。
「あなたは歯肉炎なんだから、どれだけ眠くても直さないと歯が抜け落ちるわよ。」
 うるさいと思っていた母の言葉はとても大切なことだった。
『空は、病気があっても生き抜いたよ。自分たちは、空の分まで病気せず、あと一〇年は生きる事だと思うね。』
 そう言った曽祖父は今はもう数える程しかない歯を見せて軽快に笑った。いつのまにか茜色に染まった空に、猫の泣き声が響きわたったような気がした。



最新の画像もっと見る