たこ焼き頭:加倉井義忠の言いたい放題!一級さん(^O^)

父が酒乱でDV、イジメ、不登校、高校も1年遅れて進学。落ちこぼれ、透析で障がい1級。負けてはいられない!まだまだ!

家庭不和・DVの後遺症!

2014-05-03 22:36:37 | いじめ
昨日は、私の中学校でのイジメの内容を知っていただきました。
その記事を読んだ卒業生たちからも「先生の育った家庭のことも話して欲しい!」と連絡がありました。「その話を聞けば驚く人もいるけど、私も元気になれたし、きっと元気になれる人がいるから」と。
家族にもOKをもらいました。

恥の上塗りになりますが、お付き合いください。
酒乱で手がつけられなくなった親父から逃げるために、真冬の夜に母親の実家(歩いて1時間)に逃げようと 母と小学1年の私と3歳の弟で玄関を出る直前でした。母親だけが捕まって、髪の毛を掴まれて奥に引きずられていきました。
その時に母が最後に叫んだ言葉が「義忠!慎治連れてお逃げ!」でした。夜中です。
7歳と3歳で、当時の田舎の那珂町・・・。街灯も家もほとんどなく畑と沼・田んぼ・森しかありませんでした。
騒乱がおさまるまで暗闇の畑のどまん中で泣きじゃくる弟の手を握り、立ち尽くしていた記憶がしっかりあります。今思えば110番すればよかったですね。そこまで頭が回りませんでした。

高度経済成長の終わりの頃です。親父は日立市で一族経営の株式会社の専務をしていて羽振りはよかったです。市内では結構有名な中小企業だったようで・・・会社の名前でツケが効くような。

周囲の家で白黒テレビしかない時代に、我が家にはカラーテレビが2台ありました。
誕生日やクリスマスは、高級店のどこぞのシェフとパテシエが夕食を作りに来て、バターケーキが主流の時代に、生クリームのケーキでした。

従兄弟や親戚からはいつも羨ましがられていました。 本当の内情を知らんから・・・「養子になりたい」なんて気軽に語る従兄弟もいましたね( ´▽`) 逆に、私は裕福でなくてもその子の家の子に本気でなりたかったです。 泊まりに行って、争いがない夕食が素敵でした。

幼い頃は、父親が母親を血だらけになるまで殴るのが、家庭だと思っていました。
小4の時に友人の誕生会に誘われて、初めて自分の家庭の方が異常だと知った時のあの衝撃!あれから「怒り」から「憎しみ」へ、「憎しみ」から「殺意」に変わっていきました。

私の誕生日には、親から1ホール、会社会長の祖父から1ホール、社長のおじさんから1ホール!子供にケーキがホールで3つ豪華でしょ!? 家族で食べきれると思います?
これが結構簡単に消費されるんです。食べるんじゃないんです。親父の酒が回り始めると、ブチ切れて、そのケーキが宙を飛びます。 投げるんです。即廃棄物の出来上がり。
UFOのようにケーキが飛び、べちゃと壁、無残に床に落ちたぐちゃぐちゃを弟と泣きながら食べたことも忘れられません。

結婚し、娘が生まれ、娘の誕生日やクリスマスにケーキ・・・お皿から綺麗なデザインを楽しみながらケーキを食べる。そんな当たり前に不思議な感覚を覚えたときがありました。「これが本当にケーキなの?」
ある晩、家族が寝静まった夜中に、余ったケーキをまな板の上で、包丁でトントン、ぐちゃぐちゃにした時がありました。クリームと具とスポンジが渾然一体となった・・・



懐かしい!思い出深いケーキの出来上がりです!私にとっての懐かしい懐かしい?家庭の味ですね。
こんな見るも無残にしてから美味しくいただきました。(8年前の写真より)

家も大きかったです。敷地が300坪以上、建家で100坪ありましたから。廊下も長かったです。でもこれが・・・廊下を走る音が大大大嫌いでした。廊下を走る音は「母親の逃げる音・父親の追いかける音」ですから。

幼い娘が実家の廊下を走る音を聞いただけで、争ってるわけではないのですが、鳥肌・硬直・冷や汗で、ものすごい気分が悪くなりました。娘が、歩きトコトコ走れるようになってから、丸6年・・・私は実家には全く行かなくなりました。その6年間・・・父母と一度も会えなくなりました。

実家からも電話がきましたが、実家からだとわかると電話もすぐに切りました。電話線も外しました。
親父が肺ガンになって手術だと・・・妻に言われても、絶対に見舞いにも病院にも行けませんでした。

何も知らない娘には、何度も泣かれたこともありましたが、絶対に行きませんでした。
親父が肺がんで亡くなる2週間前に、弟に「最後に会っとけよ」って頼まれて 最後に2~3回だけ実家に会いに行きましたが・・・
10年前の12月23日の夜中の2時に、弟から「危篤だ!あぶない」と連絡が来ました。病院に向かいましたが、家族誰もが間に合いませんでしたが・・・

親父が亡くなって遺体が火葬場に入れられるときは、親族と違う?語りかけをしていました。「親父・・・よかったな~普通の死に方で・・・」「一歩間違えば、もっと早い時期に俺に殺されて遺体になってたかもな・・・」って。

18~19歳の頃は精神的におかしくなっていました。夢遊病に近かったのかもしれません。
夜中に気づくと親父の寝室の前に包丁持って立ち尽くしている自分に気づいたり、 ある晩は酔っ払って熟睡している親父の首に紐を巻きつけている自分に驚きました。 

当時考えていたことは、自分を含め一家皆殺しです。ワイドショーの息子による家族殺しの事件が羨ましくてあこがれでした。でも最後の最後の決断ができずにいました。まだ冷静さが残っていたんでしょう。
何よりものストッパーは年老いた祖母のことが・・・「孫は人殺し」と呼ばれる祖母が不憫で最後の一引っ張り・一刺しができませんでした。

今住む家は1階が16坪の総二階・・・狭いので走りたくても走れません。親父の経済力とは雲泥の差ですが、この家庭が大好きです。 (妻にはやりくりで迷惑をかけています(^_^;))
豪華な食事や簡単に海外旅行ができなくても、ずっとずっとず~と幸せです。
家族3人での食事が、それも楽しく冗談を言ったり、娘の学校での出来事を聞きながら、たった1杯の味噌汁が味わえる。これが私の何よりものかけがえのない幸せです(^_^;) 

娘が成長していく過程で、誕生日・クリスマスなど、その度ごとに自分のこととしてやり直しをしています。やり直しができることが、私の心に大きな平安を与えてくれているのでしょう。
最近はどこかで廊下を走る音を聞いても、鳥肌や硬直、冷や汗はなくなりました。

最後に、家庭不和で苦しむ若者たちとの出会い・・・これも私には大きな意味を持っているように思えます。(許可済み。紹介する子はプライバシーの関係で編集アリ)

●「先生はなぜ奥さんと一緒に食事をするの?」と泣き叫ぶ塾生。
  冷え切った家庭で、家族3人で食事をした記憶が全くないそうです。それがたまたま私たち夫婦と食事  をしたことがものすごい衝撃だったのでしょう。娘が生まれる前の悲しい思い出です、

●「我が家は形だけの仮面家族。」「家に帰りたくない」と、リストカットしながら淡々と話す娘。

●何が理由かは知りませんが、10年間自宅には全く近づかない父親。家庭不和が不登校のまさしく原因に  なっていました。

●父親のDVに夜逃げしてきた母と子。父親への殺意むき出しの小学生。

●家庭不和の原因を幼い妹まで知ってしまって、何よりも妹を心配して苦しむ女子中学生。

●大学受験2ヶ月前の長女を筆頭に、中3・小2の3人の子供を残して、去ってしまった母親等。

こんな子供たちと心の痛みを共有することも、一緒に涙を流すことも、私の人生・存在意義なのかな?と・・・

ある子からは「先生に会えてよかった!」「同じ経験をしている人に話せてよかった!」「私ももっと強く生きるね!」と言われることが、彼らにも意味があるようですが、私にもものすごい意味を含んでいるんです。

この長い文章を最後まで読んでくださった中で、私と同じに家庭不和で苦しんでいる方!人生はまだまだこれからです。何が起きるのかがわからないのが人生です。悲しみが多かった分、どんな喜びが来るのかも・・・
私も苦しみの真っ最中は、未来はすべてが真っ黒に見えました。何の希望もありませんでした。

でも、今があります。今があるから未来もあります。心の闇もきっと光が指す時が来ます。

僅かでもいいですから、少しでも未来やこれからに期待をもって下さい。

今の苦しみのままで人生を諦めたら、つまらなすぎます。きっといいことありますから、あきらめないでください。

PS、お読みいただいた方の中で、親の立場の方!その中でDV・不倫・仮面夫婦・虐待・言葉の暴力など子供に不必要な心の傷を与えている方は、反省して謝ってください。あなたが与えた不幸は、あなたに必ず返って来てあなたを苦しめます。
私の父は、ものすごい寂しがり屋でした。でも最後は病院で誰にも看取られずにたって一人でこの世を去っていきました。

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