思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

唯物弁証法の不思議な世界観

2015-05-21 11:40:38 | Weblog
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物質と運動との不可分性
物質を、なにか死んだもの、怠惰なもの、自分では運動しないものというように考えてはならない。現実に、物質は運動するものとしてあるのであって、運動を不可欠の属性としている。「運動」とはすべての変化をいう。運動しない物質はなく、物質を離れて運動はない。運動は、物質の永遠の存在の仕方にほかならない。これは弁証法的唯物論の基本認識である。小は素粒子から大は銀河系また超銀河系に至るまで、全自然界において万物が絶え間ない運動・変化のうちにあり、生成消滅をしていることは、自然科学の全成果が証明している。また社会生活においても絶え間ない運動・変化がおきている。人類社会が原始の時代から今日の段階まで発展を遂げてきたことを、生活の明証と社会科学の立証とに背いて否定できるであろうか。物質の運動は質的に多様な形態をとり、この諸形態は、低次なものから高次なものへの転化・移行という階層的構造をもちながら、全体として歴史的な合法則的な発展過程のうちにある。[秋間 実]



http://y-ok.com/philosophy/philosophy-1/contents-5.html


2、物質と運動とは切りはなせない

次に、物質はすべて運動している、運動しない物質というものはない、物質と運動とは切り離せないのだ、ということを認めることが大切です。

「運動」というと、空間のなかで物体がその位置を変えることだけを考える人達がいると思います。だが、このような位置の変化、つまり場所の移動は、「力学的運動」と言って、運動の一つの種類ではあるけれども、これだけが運動では有りません。
哲学で「運動」という場合には、もつと広い意味でいっているのであって、物質のあらゆる変化のことです。
例えば、物体の温度が変化するのも運動ですし、水素と酸素とが化合して水になるというような化学的変化も運動です。物質は常に、このような広い意味での運動をしているのです。

静止ということは、相対的な意味でだけ言うことができます。人びとは、地上にある石を静止している(じっとしている、動いていない)と言います。
だが、これは、その石が地球の表面にたいして(相対的に)静止している、すなわち位置を変えないという意味であって、地球は自転し、また太陽にたいして公転しているのですから、その石も、太陽にたいしては位慣を変化させている訳です。
また別の面からいえば、目には見えないけれども、その石を構成している諸分子は常に小さな振動運動をしています。こういう訳で、絶対的に静止している物質というものはないのです。

■ ニュートンと「神の一撃」

かっては、始めに絶対的に静止した物質があって、それがいつの日か、なにかの原因によって運動を始めた、という考え方がありました。大物理学者のニュートン(1642-1727)もこういう考え方をした一人でした。
そこで彼は、この静止していた物質を動かした最初の原因はなんだろうか、と考えました。
この最初の原因は、物質的な運動であることは出来ません。と言う訳は、もしもそれが物質的な運動であれば、この運動を引き起こした原因が更に別になければならないことになり、したがってそれは最初の原因では有り得ないことになるからです。
そこでニュートンは、この最初の原因になるものは神だと考えました。すなわち、神が物質に「最初の一撃」を加えた、これによって、それまで静止していた物質が運動するようになり、それ以来ずっと物質は運動しつづけている、というのです。
神の「最初の一撃」という奇妙な考えが出てこざるをえなかったのは、そもそも、物質と運動とを切りはなして、始めに静止した物質があった、と考えたからです。こういうまちがった前提をおいたので、奇妙な結論がでてきたのです。

これに対して、ほぼ同じ時代のイギリスの唯物論者トーランド(1670-1722)は、運動は物質に必ず属している性質であって、物質から引き離すことが出来ないと主張しました。
彼は、物質は原子から成りたっており、更にこの原子は能動性を持っていて、物質のあらゆる変化はこの原子が持っている能動性の現われである、と考えたのです。
トーランドの時代以来、唯物論者たちは、物質を運動とは切り離せないと言うこの正しい考えを守り育ててきました。
弁証法的唯物論は、エンゲルスが『反デューリング論』で言っているように「運動は物質の存在の仕方である」と考えます。物質は運動するという仕方以外の仕方では存在しません。
レーニンがいっているように、「世界には運動する物質以外のなにものもない」(『唯物論と経験批判論』)のです。

それは分かるんだけど、ではその運動する物質と言うものがどうして出来たのか、と考えると分からなくなっちゃう。

これは困った質問ですね。物質は不生不滅です。物質はいま現にある。このいま現にある物質は、前に述べたように、決してなくならない、つまり不滅である。それと同じように、いくら過去にさかのぼっても、物質はあったのです。無から生じたわけではない。
静止から運動が生じたと考えると、ニュートンのように、神の「最初の一撃」が必要だと言うことになったでしょう。同じように、無から物質が生じたと考えると、神の「創造行為」が必要になります。
そうではなくて、物質は最初から有ったのです。いや「最初」という言い方も良くない。時間にはじまりがあったようにとられるから。
時間に始まりも終わりもない。そして物質は、永遠の過去から永遠の未来に渡って存在し続けるのです。

3、 物質の運動形態と運動法則

さきに、哲学で「運動」という場合には、力学的運動だけでなく、もつと広い意味の運動を意味するのだ、ということを述べました。
物質はさまざまな運動をしています。そしてこれらのさまざまな形態の運動は、勝手気ままにおこなわれているのではなく、それぞれ一定の法則に従っておこなわれています。
ですから、物質にはどのような運動形態があるか、それらの運動形態の相互間には、どのような関係があるかを知ることが大切です。そのことを知らないで、ただ「世界には運動する物質以外のなにものもない」ということだけを主張したのでは、世界の多様性を単純化してしまう誤りに陥ります。

■ 弁証法的、物質の運動観

更に、弁証法的唯物論は発展の見地にたつ唯物論ですから、さまざまな運動形態が有るといって、それらを並べたてるだけでなく、運動形態にも低いものから高いものへの発展があることを認め、それがどのような発展過程であるかを説明します。
次にその概略を述べましょう。

力学的運動すなわち空間の中での物体の位置の変化は、最も低い運動形態です。
位置の変化と言うことは、例えば地球の表面に対して人間が動くと言うように、二つ以上の物体の相互関係としてのみ意味を持ちます。

二つの離れた物体が位置を変えた結果、衝突する場合があります。又二つの物体が部分的に接触しながら位置を変えると、摩擦がおこります。衝突と摩擦は熱を生じ、又ある条件のもとでは、音、光、電気、磁気を生じます。
つまり、力学的運動形態から物理的運動形態への移行が起こります。

力学的運動は力学の法則に従っています。だが電磁気学的現象は、もはや力学の法則では説明できません。運動形態が変わると、物質は新しい法則によって運動するようになるのです。
それ以前の運動形態で作用していた法則(今の場合には、力学の法則)が、相変わらず作用し続けますが、それだけでなく、その運動形態に固有の法則(今の場合、物理学の法則)が付け加わるのです。

さて、炭素と酸素を高温にすると、化合して炭酸ガスになるように、物理的運動(この場合、加熱)形態にある物質は、一定の条件のもとで化学的運動形態に移行します。
複雑な化合・分解の過程で高分子の化合物が作られてゆき、原初的地球の海の中で、淡白体が合成されました。蛋白体は、物質代謝という生物体に特有の機能を持つ高分子化合物であって、こうして極めて初歩的なものではあるが、最初の生物が生まれました。
すなわち、化学的運動形態から生物学的運動形態への移行がなされたのです。

地球上にひとたび生物が生まれると、それから後は進化論でよく知られているように、下等の種から高等の種への進化が次から次へとおこり、ついにはある種の類人猿から人間への進化が行われました。
これは同時に、サルの集団が人間の社会になったことを、すなわち生物学的運動形態から社会的運動形態への移行が行われたことを意味します。

社会的運動形態で運動している物質とは、人間に他なりません。
人間は生物であり、したがって生物特有の諸法則(物質代謝の法則、細胞分裂、生殖の法則、遺伝の法則など)に従っています。又人間の体内で行われている消化などの過程では、化学の法則にも従っていますし、熱伝導や電気伝導の法則のような、物理学の諸法則も人間の身体内で作用しています。
更には、歩いたり腕でものを持ち上げたりする場合には、力学の法則も作用しています。
つまり、人間は社会的運動形態よりも低次の、あらゆる運動形態で作用している法則に従います。だがそれだけでなく、社会的運動形態に特有な諸法則、すなわち社会法則にしたがっているのです。

このように、高次の運動形態では、それよりも低次の運動形態には現れなかった新しい法則の作用が現れます。
このことを理解しないで、高次の運動形態における物質の運動を、それよりも低次の運動形態における運動法則だけで説明できると考えるのは、間違いです。

■ 低次から高次への運動形態への理解

他方、様々な運動形態が、先ほど述べたように、低次のものから高次のものへと次々に発展してきた、物質の運動形態である、と言うことを理解する必要が有ります。
例えば、生物には「生命」と言う物質以外の「もの」がある、或いは物質以外の「原理」が必要である、などと考えると、物質以外のもの、原理と言えば観念的なもので有らざるを得ないことになり、無生物に関してはは唯物論だが、生物に関しては観念論的であるという中途半端な世界観を持つことになります。
とりわけ、社会的運動形態を上述の一連の物質の運動形態の発展の最も高次の段階として捉えることが重要です。
このように捉えて、始めて、マルクスが「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える、私の立場」(『資本論』第一版の序文)と言っている、その立場に立つことが出来るのです。

弁証法的唯物論は、物質の運動形態と運動法則を以上に述べたように理解することで、一方では機械論に反対し、他方で観念論に反対しています。
そして、世界の物質的統一性を、すなわち世界には実に多様な現象があるにも係わらず、その全てが運動している物質であると言う点で統一されている、と言うことを主張しているのです。



............................

>世界の物質的統一性を、すなわち世界には実に多様な現象があるにも係わらず、その全てが運動している物質であると言う点で統一されている、

これは

世界の物質的統一性を、すなわち世界には実に多様な物質現象があるにも係わらず、その全てが運動している物質である

と言うことですから、統一されているのではなく当たり前のことですね。



一言でいうと物質が自発的に運動し発展し世界を形作る、という世界観のようですが

現代物理学ではそのようなことは認めていません。ニュートンを嫌う理由もここにあるようです。

神を否定した結果、物質そのものに神の役割を与えるしかなかったのかもしれません。



現代物理の認識   http://blogs.yahoo.co.jp/sennkakunakamura/12979449.html

(4)運動の原因は全て受動的である

 ニュートンの運動方程式から物体の運動に変化が起きるのは、つまり加速度を引き起こすのは、全て外部の力によるものであり、科学的立場というものは物体の内部からの運動の変化の原因は物理的にはあり得ないという観点に立つのである。

 つまり物理的認識とは運動の変化は外的に力が作用した結果受動的にのみ引き起こされるということが前提の世界認識である。これは量子力学や相対性理論や素粒子理論になっても変わらない根本的認識態度である。


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