思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

SEALDsくんたちはもっとこうしたら支持上がるよ

2015-09-09 19:13:57 | Weblog

永江一石
2015年09月09日 12:17
SEALDsくんたちはもっとこうしたら支持上がるよ



最近、政治的なエントリーが多いと言われますが、仕方ないじゃん、いまが旬で、マイブームなんだもんさ。このブログは前にも書いたように「エッセイ」ですので、自分が興味あることを書くのであります。

さて、最近、主にネットで話題の安保法案反対デモの学生集団SEALDsくん。どんな組織かといいますと

反対派の急先鋒・SEALDs(シールズ)の正体とは? ラップ調で抗議活動、ネット活用…


《国民なめんな》《言うこと聞かせる番だ おれたちが》《安倍はやめろ》
安保法案が激しい議論となる中、国会前では毎週のように反対するグループが集まり、ラップ調の抗議を連呼したり、演説を行ったりしている。その中心にいるのが、シールズだ。関係者らによると、シールズは特定秘密保護法に反対する学生有志の会として平成25年に結成された「SASPL(サスプル)」を前身に、今年5月に結成された。サスプルは首相官邸周辺などで同様の抗議活動を行ってきたが、同法の施行で取り組みを終えた。その後、「平和憲法と立憲主義を守り、対話と協調に基づく外交・安全保障政策を求める」ことなどを新たな課題に、名称を変えて再結成された。首都圏の大学生ら30人程度が中心メンバーで、単体で数百人の動員力があるとされる。

共産党系の民青の別組織かと思ったら、公安関係者が「メンバーは基本的に無党派」って言ってるそうなので、しかも↑は産経のネタなので本当なんでしょう。もし共産党系ならボロクソ書くはずだし。

特定秘密保護法に反対する学生有志の会として発足したそうだが、あれだけ「治安維持法の再来」とか「これで日本に自由はなくなる」と言ってた割に普通にデモができているという不思議・・・

デモに参加したら就活できないの?と思った時に読む話

まあ、自分もあえて面接で「SEALDsで頑張ってデモやってましたぁ」とかは言わない方が良いと思うが、顔くらい晒したって別に落とされはしないでしょ。採用担当はいちいちチェックしていられないから。ただし固い金融とか、社長が右系のとこ(どことは言えないがけっこうあるよ)とか、労働組合に嫌悪感示す企業とかは厳しいかなと思いますが、IT系とかはまず平気でしょう。

あんなデモくらいで世の中を動かすことができるなら、僕の今までの労力はなんだったんだ?世の中そんな甘くない。

と、橋下さんもツイートしておりました。3万人規模のデモといっても、実は台湾や香港のデモと比べると非常に規模が小さく、しかもそもそものデモの根拠が全く違う。台湾の「ひまわり運動」、香港の「雨傘革命」の2つに共通するのは、一党独裁で基本的人権を軽視する中国共産党の横暴に対して、若者たちが「自由と民主主義を守ろう」と立ち上がった運動ということだ。つまり両方とも

一党独裁の軍事国家「中国に対するデモ」

なわけで、日本の安保法案反対デモとは根本的に違うわけですよ。中国に対して圧力をかけるためのデモなわけですよ。でもって中国政府はこのデモにたいして激しく反発したけど、今回の日本のデモについてはなんの反応もない。そりゃそーだろ、普通は安保法案通らない方が中国には嬉しいからデモ歓迎が本音。

しかし、中国や香港のデモは一般の人の心にも響いたけど、日本では全く響いてない。その証拠に

内閣支持率43%に回復 首相談話「評価」57% 安保法案「必要」58%
これは産経新聞だから話半分として
内閣支持率46%に回復、70年談話「評価」42% 本社世論調査
日経新聞のほうが支持率高いやんけ

と、内閣支持率は上昇しております。つまりはデモは残念ながら響かなかったのです。これについては非常に素晴らしい分析がこちらに

「ネットの声」を世論と錯覚する愚。五輪エンブレム問題から考える”ネット世論”追認の危うさ


ところが実際には、そうしたネットの声は、特定のクラスタ、特定のネット階層といういわば亀の甲羅に似た「島宇宙」の中の声を代弁したものにすぎない。上記の例で言えば、例えば次世代の党の価値観に共鳴する保守的なネット上のクラスタの声がネット世論調査に強い影響を与えたが、それは世論とイコールではなかった。或いは、現在、安保法制を巡る集会や抗議行動が盛んに繰り広げられている。特に8月30日には国会前に3万とも10万ともされる参加者が集まり、「反安倍」の声を上げた。しかし一方で、直近の世論調査では、7月に4割を割った内閣支持率は40%台に軒並み回復していることを伝えている(日経・テレビ東京=46%、産経・FNN=43%)。政党別支持率をみても、NHKの政治意識調査では、自民党の支持率は34.3%と一位を堅持しており、二位の民主党(10.9%)を大きく引き伸ばしている。国会前での「反安倍」の絶叫と世論は必ずしもイコールではない。「狂騒」のただ中にいると、どうしてもその中心が世論であり世界の全てであると勘違いする。或いは、「狂騒」を近くで観察しても、まるでそれと同じ現象が日本中で繰り広げられているという錯覚を生む。それらは、両方共大きな間違いであると自覚しなければならない。

どうしたらもっとSEALDsくんたちは支持を広げられるのか

長々と書きましたけどここからが本題です。本当に日本の安保法案を廃案にしたいのなら、もっと支持を集めないといけないわけです。そのためには今のデモは逆効果です。賛成派、容認派も「馬鹿がデモやってる、これはヤバい」と言うことで結束してしまいますからね。

あまりに短絡的な主張は馬鹿に見えるので止める

自分の主張を拡散していきたいなら、必要なのは顧客視点です。相手がどういう印象を持つのか想像して「いい印象」を持ってもらえないと支持が広がりません。


「安保法制=徴兵されて殺される!」という短絡思考は、安保法案を全く読んでいないことがバレバレ。反対するのであれば「そもそも憲法違反だからダメ」というそもそも論も、「憲法学者はそもそも自衛隊も憲法違反でダメといってわけで自衛隊自体がいらないと?」と逆そもそも論で突き返されるだけなので、法案のどこがダメかきちんと言った方が良い。

また、とりま廃案とか、遊び半分で書いたようなプラカードも止めましょう。ふざけてお祭り気分で参加しているようにしか見えないので反感を食います。ラップも止めた方がいいでしょう。自己表現のためにデモしているようにしか見えないからです。全員で静かに蝋燭でも持っている方がずっと「平和を愛している」感じがします。

汚い言葉使いはしない

[安倍、死ね」とか「馬鹿か、安倍」みたいな汚い罵声を使うと、普通の大人は引きます。全然平和を愛してるように見えません。こんなチンピラみたいな奴らが力を持ったら大変だと思われますので、台湾の「ひまわり運動」、香港の「雨傘革命」のような、毅然として美しく礼儀正しいスピーチをしましょう。論理的に語ることがポイントで、感情的になるのは意味がないのです。これはネトウヨも同じで、民族差別的な発言も自分の品格を貶めるだけです。

考えが違う人たちと交わろう

デモの中にいると、みんな同じ考え方です。これだと連帯感とか仲間意識で気持ちはいいですが、他の考え方を全否定するようになってしまいます。毎回同じ顔ぶれでデモしてもしかたないでしょう。よって積極的に他の考え方をしている人たちとも交流しましょう。

ソーシャルを運用するなら、自分と違う考え方の人をブロックしたりしていると自己満足で終わります。「デモをするなら日の丸を掲げて」とツイートすると一瞬でブロックされるそうですが、そういうのは愚の骨頂。そういう人たちを取り込まないと運動は広がらないので真面目に対応する。相手が罵声で来ても冷静に対応しているうちに周囲は「あれ、こいつらしっかりしている」と思うのです。違う考え方の論客も積極的にフォローして、相手の主張を理解しましょう。

実名でブログ書いたりしよう

3万人でスゲーとかいってはいけません。このブログだって1日2万人以上は読んでます。だったら影響力のあるブログを書けばもっとたくさんの人に響きます。その場合は実名でないと影響力が発揮できません。そのうちに朝生に呼ばれたりしてさらに影響力が出てきたら、選挙に出るという選択もあるでしょう。ある意味、馬鹿ですけど山本太郎が評価できるのはそこだけです。他人にボロカス言われても主義は貫いています。馬鹿だけど。

バランスを取ろう

なんで中国の軍事パレードについては黙認して誰も反対しないんでしょう。逆に「中国や北朝鮮の核兵器は善」といってる人たちまで安保法案に反対していることを知りましょう。村山元首相は軍事パレードまで参加に行きました。最後はひよって現地で入院したらしいですが。「戦争反対」ならば、いちばん危険性の高い独裁国家、自国の国民を1000万人も虐殺した中国に対してもデモを行いましょう。

「あんたらが海洋権益とか、軍事パレードするから日本も対抗せざるを得ないんだ」というデモを中国大使館に35万人くらいかければ、多くの安保法案容認派もSEALDsくんたちを認めて評価します。こうして支持を広げて行った方がいまよりずっと浸透するんですよ。これ、何回も書いてますが。本当です。本当に戦争反対なら絶対やった方が良い。



共産主義はユダヤ人が作った

2015-09-09 18:46:22 | Weblog
日本人に謝りたい


~ あるユダヤ長老の懺悔(ざんげ) ~


──ユダヤ長老が明かす戦後病理の原像──

 

 




■■■第5章:共産主義はユダヤ人が作った


■■日本共産党を育てたのは我々の最大の誤りだった


ユダヤ人が日本人に謝らなければならない最大の問題は、戦後日本共産党を育て残置諜者として残していったことである。これは具体的にはニューディーラーが全て行なったことである。共産主義者群から成っていたニューディーラーは社会主義革命こそ行なわなかったが、戦前の日本にあった類い稀な長所をすべて破壊したのである。それ以上に大きな誤りは、残置諜者として日本共産党を育て、残したことである。

我々が戦後改革によって犯した誤りも、この残置諜者=日本共産党なかりせば、もうとっくに賢明な日本人は本来の日本民族に蘇生したであろう。東京裁判、日本国憲法、その他の戦後改革による悪弊も、この病理をタブーにして一指だに触れさせじとする日本共産党なかりせば、とっくに払拭されたであろう。

東京裁判の場合は、これにニューディーラーが持ち込んだ論理が戦前からの日本共産党の講座派史観と一致することにより日本共産党をとらえたのであるが、日本国憲法の場合は、教科書的マルクス・レーニン主義しか知らない日本共産党を捉えるべき要素はほとんどない。あるとすれば、第28条の勤労者の団結権の保障ぐらいのものである。あとはすべてマルクス・レーニン主義の教科書からは出てこないものである。





では何故に、それにもかかわらず日本共産党はこれほどまでに日本国憲法を溺愛するのか、不思議に思われるであろう。

その答えはユダヤ教の宗教的呪縛力なのである。いきなりこういっても日本の皆様にはピンとこないだろうということは私にもよく分かる。

いや何よりも、日本共産党自身が全く意識していない。一般の戦後改革、例えば国家意識、民族意識の去勢にしても、果たして日本共産党がどの程度この意味を知っているだろうか。恐らく、プロレタリア国際主義という教科書にある線からこれを考えているのであろう。しかしそれでは、わかっているとはいい難い。マルクス主義の国家論までくればまあまあであろう。つまり、国家を破壊するには愛国心の如きものが最大の障害物になるわけである。もし日本共産党がこの辺まで分かっていたというなら、次はどうだろう。家族制度は国家転覆のやはり大きな障害物なのである。憲法にある自由、平等、男女同権等はすべてこの目的に添ったものであるが、日本共産党はそこまで知っていて日本国憲法を死守しているのだろうか。私にはそうは思えない。

とすれば、日本共産党が日本国憲法改訂をタブーとして死守する根拠は、マルクス・レーニン主義からは導き出せないだろう。ではこれはどう説明すればいいのか。それはユダヤ教の呪縛力としか説明できないようである。擬似宗教性といわれるものである。


〈中略〉

 

■■マルクス主義は「ユダヤ民族解放」のための虚構理論だった


戦後の日本の混乱に最大の責任があるのはマルクス主義である。

マルクス主義の害毒といった場合、普通は表面に現われたもの、例えば安保騒動の如きものとしか捉えず、日本共産党の民主連合政府綱領を見て、革命というマルクス主義の現実的脅威はなくなったと考えるかも知れない。だが、問題はそんな生易しいものではない。というのは、マルクス主義とは単なる「革命理論」ではないということである。

マルクス主義の戦後における影響の最たるものは、この稿でとり上げる戦後の病理、虚妄性、日本歴史の真の構築を阻む跛行性をつくり出したということにあるといわねばならない。

これらを具体的にいうと、国家・民族意識、愛国心の去勢、道徳観の失墜、拝金主義の培養、家族制度の崩壊、その他、戦前の日本が世界に誇った冠絶した長所を失墜せしめたことにあろう。マルクス主義はこの病理の精神的支柱となっているのである。これは根拠のないことではない。何故ならば、日本共産党は戦前の日本の長所をすべて「絶対悪」として否定するものである。そして、日本共産党はマルクス主義を唯一絶対の世界観として信奉する政党である。

戦後の病理のすべてがマルクス主義と密接な関係があることはわかったが、これらはただ単に散在していただけではこれほどの影響を及ぼせたかどうか疑わしい。それにはやはりこれらをひとまとめにパックして、しかも日本国民に強制する力をもった何物かがなければならない。それがアメリカ占領軍中のニューディール派であり、その所産である日本国憲法とその擁護者としての日本共産党なのである。

 

■■マルクス主義成立過程の種明かし


さて、これほどまでに多大の影響を戦後日本に及ぼしたマルクス主義とは一体、如何なるものなのか。

日本のみなさんは、虚構論理というものを信じられるだろうか。それは一見学問体系の如き体裁を整えているが、事実は真っ赤な虚構論理であるというものである。世界には、大変手の込んだ虚構論理というものが存在するのである。それがマルクス主義なのである。

そういう仮設を設定するには、2つの前提が要求されるであろう。1つは一体誰が、もう1つは何の目的でそんなものを構築したのか。この2つの前提に答えなければ、そのような仮設は持ち出せないであろう。しかるにそれの答は、私にいわせれば、すこぶる簡単に出せるのである。ユダヤ民族が自己の解放事業のために、というのがその答である。

 


ユダヤ人カール・マルクス

 

だが、恐らく日本は世界で一番このことを理解しにくい国ではないだろうか。というのは、日本は世界最高水準のマルクス主義研究を誇っている国だからである。これは逆説である。戦前の日本資本主義論争の如きものは他の国にはない。「資本論」の研究も日本が世界一であろう。つまり虚構論理を真理と勘ちがいしている最たる国が日本であるということである。これは日本にユダヤ問題が存在しないということとも関係がある。

では何故ユダヤ民族が虚構論理を構築したかについて述べよう。ユダヤ民族の苦しい悲しい迫害の歴史については今さら説明の要はないと思う。この歴史的苦難から逃れるには逆転劇しかありえない。この逆転劇はユダヤ人だけの力では困難である。どうしても多数の非ユダヤ人の協力者を募らねばならない。フランス革命はその第一弾であったが、これで西欧のユダヤ人はかなり解放されたのである。しかるに、中東欧のユダヤ人は依然として中世と変わらぬ存在であった。そのため19世紀に入って第二弾の反撃プログラムを考えることになった。それが虚構論理の構築により歴史を自己の思う方向へ流すという雄大なロマンであった。これがマルクス主義である。

フランス革命の第一弾では、有名な「自由」「平等」「博愛」のスローガンで非ユダヤ人の不満分子をうまく利用したのであった。19世紀はそれを一歩進めたわけである。だが、虚構論理を構築してもそれを真理、科学として信じ込ませることは並み大抵ではない。しかるにユダヤ人は宗教民族である。ここで宗教的呪縛力を最大限に活用した。

 

■■資本・共産両建て主義とは何か


さてこれが20世紀に入ると、戦争という手段が19世紀的な革命という手段以上に有効なものと考えられるようになった。これがレーニン主義である。と同時に、神経戦、心理戦ともいうべき革命、戦争の如き組織性を必要としない手段も考えついた。

近世史はこの我々の逆転プログラムによって創られたものである。教科書的な歴史観では何も分からないだろう。これらを要約して我々は両建て主義と呼んでいる。


革命による変革を共産主義──マルクス──共産党宣言、戦争による変革を資本主義──レーニン──帝国主義論、マルクス・レーニン主義とはこのようなユダヤ民族解放の「手段」「道具」にすぎないのである。

これを歴史の発展法則として売り込んだのは、勿論ユダヤ人である。そのため近世史は今日見る如く救い難い混乱に陥ってしまった。典型的な訓話学者の上田耕一郎氏や不破哲三氏にはにわかに信じ難いことであろう。

第一期のプログラム、フランス革命における変革の手段は、感性的なスローガンだけであった。「自由」「平等」「博愛」である。このスローガンを日本国憲法の骨子として持ち込んだのも我々ユダヤ人である。弱者解放のためのスローガンが高度な理性的国家日本へ持ち込まれると予想だにしなかった混乱を引きおこすことに、我々は気がつかなかった。

それでは第二期の反撃プログラムであるマルクス主義の成立過程について種明かししよう。マルクス主義はマルクスが構築した論理であるからマルクス主義と呼ばれている、とこう解釈するのが当り前と考えられているようである。しかし現実には、マルクスにかくかくしかじかの虚構論理の構築を依頼した注文主がいるのである。この注文主がマルクスに送った手紙、発注書ともいうべきものが第二次大戦前に世に出たのである。これは日本でも知られているようである。ただ、これがマルクス主義の源流であるとは全く理解されていないようである。

次に紹介するのが、発注者のユダヤ人バリニッシュ・レヴィーのマルクスに宛てた手紙の一部である。

 

■■虚構仮説構築の依頼書


「メシアは団結せるユダヤそれ自身である。宇宙の支配は他人種の統一に、各個独立主義の城壁たる国境及び君主国の廃止と、ユダヤ人に対し随所に市民的権利を認むる世界共和国の建設によって保たれるであろう。全然同一種族でかつ全く同一の伝統的陶冶をうけているイスラエルの子孫、しかも特殊国家を形成していないイスラエルの子孫は、爾後地球の全表面に拡がりこの新しい人類社会の組織の裡に到るところ何らの抵抗なく指導要因となるであろう。殊に彼らの中のある学者の賢実なる指導を労働大衆に課するに至ったならば尚更のことである。

世界共和国を建設したならば、国家の統治権は無産者の勝利によって何らの努力を要せずしてイスラエル人の手に移る。ここにおいて私有権は到るところ公共財産を管理するユダヤ人の支配によって廃止せらるるに至るべく、かくてメシアの時代の到来せる時、ユダヤ人は全世界の人民の財産をその鍵の下に掌握すべしというユダヤ伝統の約束は実現せらるるものと信ずる。」

この手紙の意味するところを概略すると、自己のメシア思想の実現には先ず、非ユダヤ人、つまりキリスト教社会の現状維持の砦である国家を転覆する必要がある。しかもその国家転覆の最大の障害は君主制である。これを実現して人類社会に新秩序を建設する。つまりユダヤ王国による逆転劇である。

これだけで十分とも考えられるはずだが、さらにもう一つの考えが附随しているのである。それはユダヤ民族固有の唯物思想である。既存の秩序を転覆すれば協力者たるプロレタリアートによりなんなく全財産がユダヤのもとに転がり込んでくるであろうという。しかも、そのことはユダヤ民族の伝統的約束であるということである。

 

■■「メシア思想」と「タルムード」がマルクス主義の源流


さて、ここにはユダヤ的思考の最も大切な2つの要素が含まれている。

1つは、メシア思想の基本パターンである。選民たるユダヤ民族が、異教徒との葛藤に勝利を収め、至福千年王国を建設するという終末論である。これが唯物史観の原型である。選民とはプロレタリアートであり、異教徒がブルジョアジーである。

これこそユダヤ的思考法の二元論の原型である。これに宗教的倫理観が加味されるので、善悪二元論と呼ばれるわけである。

ロシアから亡命した哲学者ベルジャーエフはすでに、マルクス主義は出発点において黙示録的性格を有すると分析していたのであった。

また、日本では鈴木成高氏がその著書『歴史的国家の理念』において、「唯物史観はその最後の帰結においてプロレタリア独裁を想定し、歴史の弁証法的発展を止揚することによって、一種のエスカトロギー終末論に陥っているといわなければならないのである。発展的力学の論理はそこにおいて停止し、階級対立の消滅、国家の解消とともに歴史もまた終止する。それは、ユダヤ的終末観とその外形において極めて酷似するものがあることを思わせる。すなわち、プロレタリアートは神の選民に該当し、ブルジョアは異邦人に該当する。歴史はエホバの代わりに、同じく人間意志と能力を超越した、経済的必然によって支配されるのである」と述べ、かなり克明に本質を突いている。日本では恐らく唯一人の仮設論者であろう。

 

《 ユダヤ・キリスト教とマルクス主義史観の基本構造 》



上の図を見れば、ユダヤ・キリスト教(いわゆるヘブライズム)とマルクス主義の
歴史観が、その基本構想において、いかに同じものであるかが、お分かり頂けよう。
マルクス主義とヘブライズムがいかに同じ土壌に立ち、同じ延長線上にあるかは
賢明な有識者がしばしば指摘しているところである。

 

さて、もう一つの要素たるものは、ユダヤの民法ともいわれるタルムードの思想である。

これはユダヤ人たるもの、生まれてから死ぬまで信念としているものである。タルムードは5、6世紀ごろ完成された実に膨大な法であるが、また日本では戦後いろいろのユダヤ人、日本人によって紹介されているようであるが、不思議なことに、何故かこの最も肝心なところが紹介されていないようである。

肝心なところというのは、「シュルハンアルクノショッツェンハミツバッド第348条」である。すなわち「非ユダヤ人の所有する財産は本来ユダヤ人に属するものなれど一時彼らに預けてあるだけである。故に何らの遠慮もなくこれら財産をユダヤ人の手に収むるも可なり」とするものである。

これの意味するところは大別して2つある。1つは、「一時預けてあるものであるから、何時なん時でも代償を払わずに取り返して然るべきものである」ということであり、もう1つはユダヤ人の財産は故なく非ユダヤ人に奪われたものである」ということになる。

前者がレヴィーのマルクスヘの手紙の骨子となっているものである。つまり、私有財産の奪取という思想はここから来ているのである。さらにもう1つの後者の解釈はマルクスの大作「資本論」の根本思想をなしているものなのである。つまり、「ユダヤ人の財産は故なく非ユダヤ人に奪われたものである」からかの有名な剰余価値説が生まれているわけであり、「搾取」とマルクスが強調するものである。

 

■■宗教的呪縛力こそマルクス主義の本質


短絡的なマルクス主義の論理的飛躍は、本来なら日本のインテリ層が見ぬけないはずはないと思う。しかるに何故、そのような論理的飛躍があるにも拘らず、これだけの信者を集められるのかという問題である。

これは宗教的呪縛力としか説明できない性質のものである。マルクス主義の真の素顔は宗教ということである。日本共産党の態度を見ればこのことはすぐわかると思う。科学といいながら、実際は決して経験科学の実証を受け入れようとしない態度がしばしば見受けられよう。

さてここで、共産主義者のいう、科学的社会主義の「科学」という形容詞がどこから出たかということである。以上説明した如きマルクス主義が何故「科学」といわれるのか、この答もこの際明らかにしておこう。これは、レヴィーらの熱烈な民族主義グループが宣伝のため吹聴したものである。唯物史観のいう「社会の必然的な発展法則」ということを強調するためである。人間の意識から独立した物質的、客観的条件により歴史は動かされる。しかも一定の法則に従って一定の方向性をもって動くと、これを弁証法的唯物論を社会へ応用した唯物史観であると宣伝しているわけである。虚構の大きさ故に、かえって多くの人々は自己陶酔に陥るのであろう。アカデミックな真摯な態度と宗教的呪縛力の奇妙な混合といえよう。

以上のようなことから、日本で行なわれているマルクス主義論争は不毛の論争といわねばならない。もっとも、日本のインテリ層は恐らくマルクス主義の成立過程をご存知なかったのだろうから、無理もないことかも知れない。

完全な虚構論理であれば、共産主義の矛盾を衝くのは易しい。虚構を現実に無理にあてはめようとするのであるから、すべてその矛盾は露見する。だが、それでもなお現在もマルクス主義が生き続けるのかということを解明しなければならないだろう。

もっとも、このような虚構論理を科学と誤認させるだけの根拠はあるにはある。それは「絶対的貧困化」という仮設である。物質的、経済的にこれより悪くなることはないところまで行きつけば、社会は根本的に変革されるという仮説は説得力があろう。複雑なメカニズムをもつ人間社会である。設備や機械の如く古くなったからそっくりとりかえるというわけにはいかない。しかしそれでも、絶対的貧困化の必然性を説けば人間社会の変革に対しても説得力をもとう。このマルクスの考えは、ものの見事に図に当たったのである。

 

《 ユダヤ・キリスト教とマルクス主義の相似性 》



上の表を見て頂ければ、マルクス主義がいかに宗教的なものかが
お分かり頂けよう。有神論か唯物論かの違いを除けば、明らかに
一神教的思想(ユダヤ的世界観)のコピーに過ぎないことが分かる。

しかもその唯物論は、有神論のもつ“矛盾”と“限界”に対する反動
として出てきた一つのイデオロギーであり、キリスト教が効力を失った
時代の「代替宗教」(擬似宗教)に過ぎない。つまり一言で述べるなら、
マルクス主義とは、19世紀のヨーロッパを時代背景にした、
特定地域における、一時的に発生した宗教であるといえる。

イギリスの有名な世界的歴史学者であるアーノルド・トインビー博士は、
「マルクス主義はキリスト教の亜流だ」と言ったが、中世の「神」の力が喪失していく
時代に、ヨーロッパ人は次なる「福音」として、マルクス・共産主義を受け入れ、
マルクスの「理想郷=共産制社会の実現」という“予言”を信じたのである。