東方のあけぼの

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西南戦争に学べ、東条英機再説

2008-05-02 22:00:31 | 社会・経済

東条英機が愚将であったことは衆目の一致するところである。代表的なものとして兵站の無視をあげよう。日本軍の戦死者の相当部分は餓死であったといわれる。敵の銃弾に斃れるよりも味方の糧秣不足にやられたのである。

前回は南北戦争がアメリカのアジア侵略の速度を遅くしたことを述べた。今回は西南戦争が日本のアジア進出に貢献したことを述べよう。

明治10年に半年間にわたって九州各地で行われた日本最後の内戦がもつ意義は大きい。よく言われることは町人や農民から徴兵した兵士が昔からの武士階級を中心とする薩摩軍を打ち破って近代兵制への転換が成功したことである。

そのほかにも使用する近代兵器の評価を定める実験場となりその経験が日清、日露の戦争に役立ったことである。

これ等に比べると語られることがないことで、西南戦争の最大の貢献(その後の日本軍にたいする)は兵站およびそれをサポートする通信、輸送システムを学んだことであろうとわたしは考える。

西南戦争は東京から千キロ以上はなれたところが戦場である。半年間のあいだ戦闘を支えた兵站の経験は、その後の日清、日露の戦役の勝利に直結している。日清事変の戦場は日本から千キロか千五百キロの距離、日露戦争の戦場もせいぜい二千キロだろう。しかもその大部分は当時では大量輸送、高速輸送に一番適した海上輸送である。

日露戦争では最後には兵站が切れ掛かったが、とにかくロシアを追い詰めて講和条約に持ち込むまで戦線を持ちこたえた。西南戦争の経験なくして両戦役の勝利はなかったであろう。それも主として兵站に関して。兵站に必然的にともなうものとして大規模な無線電信通信網も西南戦争中に完成した。

日露戦争後、日本軍のなかでは兵站に関する重要性の認識は失われたようだ。現代戦では日露戦争とは比較にならない規模で戦争がおこなわれる。兵站の重要性は飛躍的にましているにもかかわらずである。

現代戦争は総力戦である、とは日本の軍部も声高にとなえたが、総力戦の意味を理解していない。日本の職業軍人、革新官僚(その代表は岸信介)のいう総力戦とは戦争に関する国民の議論を封殺するという意味であった。ちょうど、現代のチャイナに似ている。

また、国内(満州、朝鮮を含む)の産業生産能力を最高度に高めても兵站、輸送力(それを維持する防衛力と通信)が欠如していればまったく意味がない。

日本の軍部にもたとえばニューギニア戦線やインパール作戦では兵站の問題から東条のやり方を批判するものがあったが、東条はことごとく反対意見をしりぞけ、彼らを最前線にとばすか予備役にまわした。

その日本国民に対する大罪は斬に値する。明治維新以来80年の大業を烏有に帰せしめた罪をどうわびるのか。