裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

陸前高田ボラ紀行・7

2011年10月06日 08時36分30秒 | 被災地ルポルタージュ
翌日には、超大型台風が関東から東北までを縦走してくことになるわけだが、テレビもラジオも(携帯も)ない陸前高田ベースキャンプでは、このことを知る由もない。
が、翌日から二日間続けての作業中止が決まった時点で、ここに滞在する意味はなくなった。
5日間の予定で被災地入りしたのに、半日×2日間働いただけで、無念の撤退を決意した。
そのことはさておき、雨足がますますひどくなる中、この夜は鍋宴会。

つか、正午に作業が終了したので、みんなやることがない。
長い午後は、酒でやり過ごすしかないのだった。
それにしても、おびただしい蛾、ね。
ハエはいないが、この巨大な蛾、こいつが気色悪い。
あまり愉快な画づらじゃないけど、貼っとくよ。

でかい!

門柱にびっしり。

トイレでも出くわす。

網戸にも。
「住田基地ってどんなとこ?」と問われたとき、この子たちを思い出すんだろうな・・・
そんな中、こよなくやさしいボランティア仲間たち。
お疲れさん、短い間だったけどがんばったな、お互いの地域でできることをしような、で、またどこかの現場で会おうな・・・
忸怩たる思いは残るものの、大切ないろいろを確認し合えて、うれしかった。
名残惜しい、とはこんな夜のことだね。
さて、朝。
日に二本きり、この周辺を走ってる路線バスが、早朝6時半に基地前を通りかかる。
そいつをつかまえないと、オレは本当に流浪の身と成り果てる。
早起きし、身支度を整え、間抜けな傘差し姿で基地を後にする。

思えば、徒歩行でこの場所というのは、いかにも無茶だった。
車ってのは便利なもんだなー、などとひとりごちつ、雨の中たたずむ。
山道でひとりきりバスを待つ、ってのは不安なもので、「ほんとに来んのか?」と懐疑的になってみたり。
しかし、やがて時間通りにオンボロバスは通りかかり、無事につかまえて、乗り込めた。
とりあえず盛岡(これもまた気まぐれ)まで出たかったんで、バスの運ちゃんに話しかける。
「だったら、このへんで降りるといいよ、盛岡往きのバスが通りかかるから」と、キテレツな返答をたしかに聞いた。
信じられないが、バス停もなにもない、山中の街道脇で降ろされる。
今思えば、あのバスはタヌキが化けてたんじゃねっかな?
とにかく、そこに盛岡往きのバスがくるなど、あり得ない感じなのだった。
案の定、待てども待てども、バスはこない。
雨は降ります、私の胸に、としゃれてる場合じゃない。
びしょ濡れでさぶい、ひとりぽっちでさびしい、こんなとこで死にたくない。
しかたない、ヒッチハイクをするしかない。
こういうこともあろうかと、あらかじめヒッチ用に用意してたスケッチブックに「→盛岡」と書き込んでみる。
と、そのとき、どうやらこの哀れな姿を遠目に見てたらしき人物が傘を片手に現れ、話しかけてきた。
近くの農家のじいちゃんだ。
「盛岡往き?ここでか?そんな話は聞いたことがねえ」
「でしょうね・・・」
「ずっと先の『向こう川口』ってところから、盛岡便なら出てるから、そこまで送ってやる」
「マジっすか?」
さっきのバスの運ちゃんがタヌキなら、このじいちゃんは天使の化身にちがいない。
じいちゃんの運転する軽トラに乗っけてもらい、盛岡往きが出るというバス停まで無事にたどり着くことができた。
感謝、感謝、感謝の連続。
ずっとずっと、ずーっと助けられてばかりのボランティア行だった。
が、またもじいちゃんに深々と頭を下げられた。
「ありがとうね。わざわざこんなところにまできてくれて、ありがとうね」
「そんな・・・」
「がんばるからね、がんばるから。ありがとうね、ありがとう・・・」
かえりみれば、身にあまる感謝の言葉を、地元に住む誰も彼もががかけてくれる。
そんな立場のわが身に、納得したり、自信を持ったり、誇らしく思ったり・・・してる場合じゃねーっ!と、今一度自分に、喝。
なんにもできなかった・・・
またこなきゃ・・・
それだけを噛みしめて、盛岡往きの立派な長距離バスのふかふかソファに尻を沈めた。

おしまい

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

陸前高田ボラ紀行・6

2011年10月05日 10時00分39秒 | 被災地ルポルタージュ
住田基地は、午後10時に消灯。
ホールには50近い寝袋が敷かれ、みんなで雑魚寝する。(女子には別の部屋も用意してあるから、安心)
床は硬いけど、泥のように眠れた。
考えてみれば、前夜は夜通し深夜バスの座席だったし、まともに寝ることもなくそのまま現場に出たんで、へとへとになってるのだった。
さて、翌朝は6時起床。
外は、この日も雨。
超大型台風が近づいてるらしい。
しかし、8時半のマッチングに向けて、戦士たちはおのおのに朝飯を食らい、準備を怠らない。
8時近くになると、誰もが次々とボランティアセンターへと車を向かわせる。
バスも電車もないし、徒歩行ではとても無理な距離。
車を持たない者は、相乗りさせてくれる車をつかまえなきゃならない。
オレは、前夜の酒盛りで盛り上がった、太々としたまゆを持つ沖縄青年にお世話になることにした。
国家公務員さんらしいが、大きな有給休暇を取り、南の島からはるばる飛行機で仙台入りし、そこでレンタカーを借りて、ボランティアに参加してる剛の者だ。
同じ志しを持つ人物とは、車内での会話もたのしく、ためになる。
約30分で、ボラセンに到着。
付近は、ボランティア参加者たちの車で大渋滞で、ひろびろとした駐車場は満車状態。
雨降りにも関わらず、そして平日にもかかわらず、ヒトビトのこの熱さには打たれる。
さて、仕事のマッチング開始。
オレはこの日も、側溝掘り起こし作業(別の現場)をゲット。
新たに、京都で建設業をやってるというかっこいい青年に相乗りをお願いし、移動手段を確保した。
この青年は、三日がかりで被災地入りし、車中泊しつつ、いろんな現場を渡り歩いてるという。
南三陸、気仙沼、大船渡・・・この辺りにもたくさん現場はあるからね、いろんな状況を目で見て、肌で感じて歩くのも悪くない。
さて、昨日に増して雨足の強いこの日の現場は、側溝からのドロドロの泥出し。

たまった海砂に根深い草がはびこってるので、なかなかしんどい。
掘り起こしては、掘り起こしては、泥を土嚢袋に詰め、ネコ移送し、傍らに積み上げてく。
冷たい雨に叩かれつつ、カッパを泥まみれにしつつ、60代と見えるようなおっちゃんから、20代の女子まで、メンバーはみんな一生懸命だ。

「台風が接近中なので、作業は午前中で切り上げて」と、この日はあらかじめボラセンから言い渡されてたが、体力的にもそのへんが限界。
側溝を10数メートルほど復元した時点で、現場を後にした。
途中、別の現場を何ヶ所も通りかかった。
「なんとか大学」だの、「かんとか会社」だの、バス参加の団体組が、ひろびろとした平野に展開して、がれき処理をしてる。
誰もが心痛めてて、なんとか力になりたいと思ってて、だから一生懸命なのだった。
新たな意欲が湧いてくる。
さて、相乗りをお願いした京都の青年は、この夜の住田基地泊に興味を持ってたが、帰り着いた陸前高田ボラセンで「翌日は作業中止」の報を聞いて、仙台方面へと舵を切り、求職に向かった。
えらい子だ。
そして、熱いぜ。
ボラセンの道具の洗い場で、たまたま太々としたまゆを見つけたので、帰りの足もこの沖縄さんにお願いした。
さらに山深くにのぼった温泉にまで連れてってもらい、いい湯も満喫。
お世話になりっぱなし。
冷えたからだをあっためて、夜のためにビールを大量に買い込み、ベースキャンプに戻る。


つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

陸前高田ボラ紀行・5

2011年10月03日 09時58分30秒 | 被災地ルポルタージュ
ボランティアセンターに、スコップやネコなどの装備を返却し、さて、今夜の寝ぐらさがし、となる。
陸前高田には、ボランティアたちが無料で寝泊まりできる公共の施設「住田基地」がある。
・・・と、ネットに出てたので、そこにたどり着かなきゃならない。
ラッキーなことに、現場まで乗っけてもらったワゴンのおっちゃん二人組が、住田基地を拠点にしてるというので、再びご一緒させてもらうことに。
基地は、ボラセンからさらに30分ほども山深くに入った場所にある。
基地の周囲数キロ圏には商店もなにもないので、途中、街道に一軒きりのスーパーで、今夜と翌日分の食べ物、飲み物を買い出しし(このあたりも、ボランティアはすべて自己責任で準備する。そして、ゴミはすべて持ち帰る)、さて、基地着。

そこは、元小学校で、その後に公民館に改築されたらしい、けっこう立派な建物だった。
おっちゃん二人組は、校庭でテントを張り、数日間、そこをベースキャンプにして動いてるという。
小雨模様だったが、テントの外で煮炊きをし、折りたたみイスでくつろいで、実にフリーな雰囲気だった。
こんな生き方もいいなあ。
オレはというと、基地事務局で簡単な手続きをすませ、ホールのようなところで小さな一区画を確保し、テリトリーとした。



まだ誰も帰ってきてないので、施設内の探険開始。
キッチンルームがあって、冷蔵庫には「地元のひとたちが差し入れてくれる」食材が入っており、自由に調理していいらしい。
トイレも水洗、洗濯機も数台あり、使用自由。
即席に設置されたらしきシャワールームや、驚いたことに、風呂場まである。
ボランティアで滞在した器用な人物が大工仕事で建てた、と聞いたが、実に本格的なつくりで、恐れ入った。
こんな快適さは想像してなかったので、逆に拍子抜けする。

事務局の気のいい人物に、「お風呂に入りな」と声をかけてもらったので、試してみた。
実によろしく、まるで温泉場にきた気分。
湯舟で知り合った20代のワカモノは、長崎から三日間も車を走らせて、ボランティアに参加してる、という好青年。
職場の考え方が寛大で、「そういうことなら」と、盛大な休暇をもらえたらしい。
お互いに経験してきた現場の情報を交換したり、思いを語らったり、いい裸の付き合いができた。
こういう会話はたのしいし、気が引き締まるし、力になるね。
風呂から上がると、各現場から徐々にボランティアたちが帰ってくる。
数人で参加してる組もあるが、一匹狼が多い。
みんな、驚くべき多方面から参加してる。
埼玉、東京、京都、奈良、岡山、山口、沖縄・・・
誰も彼もが屈強の勇者・・・というわけでもなく、普通に生活を営む市井のひとだ。
日本人の意識の高さと、強い思いには、誇りを感じるよ。
ひとりひとりに気さくに話しかけ、仲間の輪をひろげてく。
この基地には、なんと「飲酒コーナー」まである。
極めて禁欲的で、ぴりぴりと緊張感がひしめいてた、前回のRQベースキャンプ(石巻・河北地区)とは、えらく雰囲気がちがう。
酒盛り場ともいうべきその場を取り仕切るオモロい「関西のオッサン」がいて、「おう、おまえも、どや?いける(酒を飲める)顔つきやないか」と誘ってくれる。
完全な酔いどれのクチで、面倒なことになりそうな予感もあるのだが、これが実に興味を引く酔漢なので、思いきって飛び込んでみた。

「おう、なんでも食え。酒もおごりや。なんぼでも出してきたるで」
この特殊な人物は、基地内に自分専用の酒庫を確保してるらしく、酒もツマミも多種多彩、無尽蔵に出してくれる。
住友金属かなんかを定年退職し、数ヶ月の単位でここを住み処にし、毎日、被災現場に通ってるという。
浪曲師のようなダミ声で、語り口は昭和時代の漫談師、といった風情のこのオッサンは、酒の場でのオレの心のお友だちとなった。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園