地理講義   

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80.富士山が世界歴史遺産にほぼ決定。自然遺産はすでに却下

2013年02月03日 | 地理講義

富士山の神様 

富士山の8合目から山頂の奥宮までは、浅間神社に所有権がある(2004年最高裁判所)。富士山麓の富士宮市には全国1300の浅間神社の元締めとして、浅間神社は「富士山本宮浅間大社」と名乗り、特別の地位が与えられている。富士山は国有財産ではない。

富士山頂への登山目的は、浅間神社への信仰心が厚いから、とか、富士はやっぱり日本一世界一だから、であろう。しかし、富士登山の体力・資力のない者のために、富士山の見える土地に、小さな祠をこしらえて拝み、それで富士山に行った満足感に浸った。富士塚をこしらえ、無理に浅間神社に行かずに拝んだ者が多かった。 国内外、どこの山も富士山と外見が同じコニーデ型火山がある。その山容に神々しさを感じたのか、爆発被害を打ち止めにしてもらいたくて神にしたのか、爆発の大きさに感動して神にしたのか。単なる火山とは別に、コニーデ型火山には何らかの霊感を感じるようである。

富士山南東部は1707年(宝永4年)に大噴火、江戸にも火山灰が降り注いだ。この時は溶岩(マグマ)の噴出はなかった。なお、その1~2か月前には、宝永大地震があった。東海・四国の海岸では大地震。大津波が連続発生し、死者2万人とされた。地震と火山との関係は不明だが、しかしこの時の史実から、2011年3月11日の東日本大震災が富士山の噴火の前触れとのデマが飛んだ。しかし、江戸時代の富士山の宝永噴火と地震は、フィリピン海プレートの活動であり、2011年の東日本大震災は太平洋プレートの活動である。2011年3月11日の地震が、近い将来、富士山大噴火の原因にはならないだろう。

 富士山は30万年前から小規模・大規模の噴火をくり返して、大きな火山になった。それに関与したのはユーラシアプレート、北アメリカプレート、フィリピン海プレート、太平洋プレートである。地殻の弱い点に富士山と箱根ができたのである。

  

富士山南東部に、宝永火山活動による大きな窪地がある。富士山は世界自然遺産登録ができなかった。火山活動のためではない。スバルライン終点の土産物屋が、村田秀雄の歌謡曲をエンドレステープでかけていたのがうるさいし、山頂にいくまでの山小屋が汚くてたまらなかったこと、山頂には鳥居があったり、郵便局があったり、気象レーダーの残骸があったりしたこと。そして、富士山麓にはゴミの不法投棄の山が富士山のようにそびえていたこと、米軍の富士演習場が広い面積を占めていたことなど、マイナス面がいっぱいあったから、のようである。富士山の山頂と山麓には、江戸幕府から富士山をもらった浅間神社があるから、富士山の山の神は、次の富士山大噴火まで、浅間神社でゆっくりとお休み中であろう。

世界各地には、富士山と形のよく似たコニーデ型火山が多く、日本の富士山が全人類に尊敬されている訳ではない。日本には、地元名を含んだ「何とか富士」も多い。下の富士は、順にペルー富士(ミスティー山)、津軽富士(岩木山)、蝦夷富士(羊蹄山)、タラヌキ山(NZ )、スンビン山(インドネシア)、アララト山(トルコ)、伯耆富士(大山)である。

        

神の山アララト山。5,137m)  アルメニア正教のシンボルであったアララト山は、トルコ領である。ユダヤ教旧約聖書創世記では、ノアの方舟が大洪水の後、アララト山に流着したことになっている。この話はユダヤ人が旧約聖書に編集するよりも2,000年前に、古代メソポタミアの叙事詩「ギルガメッシュ」に書かれている内容と同じものである。アルメニア人は神の山アルメニア山を失った。アルメニア人は19~29世紀前半にオスマン帝国支配下にあった時、隣国アゼルバイジャンに強制連行されたり、残留アルメニア人が虐殺にあったりした。そのため、危害を逃れてアメリカに移住した者が多い。なおアルメニア人とはアルメニア教信者のことだが、海外居住者の増加や他宗教との混合にともない、この定義が曖昧になりつつある。

保呂羽山 誰も知らないかもしれない。岩手県一関市藤沢町保呂羽山(434m)山頂近くにある。創建882年。現在の宮城県気仙沼市本吉町大谷金山、岩手県一関市小梨黄金山鉱山が近い。9世紀から金が採掘され、昭和51年まで採掘されていた。金の売買が平泉の藤原3代の栄華を支えた。その金鉱山の守り神である。

 

保呂羽神社の創建時(882年)には保呂羽山大権現別当派宝院の名称があったが、明治維新後の神仏分離により、保呂羽神社となったものである。大谷鉱山も黄金山も金の採掘がなされず、本来の役割を失った。富士山あるいは浅間神社の参拝に行くことには、何らかの意味があるだろうが、434mの山を拝んだとしても、とてもご利益の期待できる山体ではない。どこぞの名家裏山の守り神程度のものである。金を産出していた頃の正月元旦には、雪の中を近郷近在から男どもが二年参りに来たもので、参道は提灯の列が続いた。保呂羽参拝は、富士山参拝よりも、はるかに重要であった。しかし、今は元朝参りには誰も行かない。寒くて、雪の深い夜中に何のご利益もない神社に行くよりは、面白くもおかしくもないNHK紅白歌合戦を見ている方が、3%程度はましである。特に爆発する山でもないし、木材が高く売れる時代でもないし、観光客が来ることもないし、地元には存在感のない神社である。こんな神社には、山の神が果たして実在するのか、しないのか。

富士山のような全国的知名度を誇る山とも、近郷近在でも知らない保呂羽山とも無関係に、柳田国男は遠野の村の森羅万象を遠野の山の神で説明した。山の神とは、山に住む女神である。農林官僚であった柳田国男がしばしば遠野を訪れ、現地の青年佐々木喜善に遠野の昔話や作り話を聞いてまとめ、遠野物語を自費出版した(明治43年。1910年)。その続編とみいうべき遠野物語拾遺に山の神が詳しい。なお遠野物語拾遺は佐々木喜善の死から2年後、遠野物語宇治拾遺が昭和10年(1935年)に出版された。 

柳田国男「遠野物語」と山の神(89) 山口より柏崎へ行くには愛宕山の裾を廻るなり。田圃に続ける松林にて、柏崎の人家見ゆる辺より雑木の林となる。愛宕山の頂には小さき祠ありて、参詣の路は林の中にあり。登口に鳥居立ち、二三十本の杉の古木あり。その旁にはまた一つのがらんとしたる堂あり。堂の前には山神の字を刻みたる石塔を立つ。昔より山の神出づと言い伝うるところなり。和野の何某という若者、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上より降り来る丈高き人あり。誰ならんと思い林の樹木越しにその人の顔のところを目がけて歩み寄りしに、道の角にてはたと行き逢いぬ。先方は思い掛けざりしにや大いに驚きて此方を見たる顔は非常に赤く、眼は耀きてかついかにも驚きたる顔なり。山の神なりと知りて後をも見ずに柏崎の村に走りつきたり。 

○遠野郷には山神塔多く立てり、そのところはかつて山神に逢いまたは山神の祟を受けたる場所にて神をなだむるために建てたる石なり。

「遠野物語拾遺」の山の神(237) 遠野地方では産婦が産気づいても、山の神様が来ぬうちは、子供は産まれぬといわれており、馬に荷鞍を置いて人が乗る時と同じ様にしつらえ、山の神様をお迎えに行く。その時はすべて馬の往くままにまかせ、人は後からついて行く。そうして馬が道で身顫いをして立ち止まった時が、山の神様が馬に乗られた時であるから、手綱を引いて連れ戻る。場合によっては家の城前ですぐ神様に遭うこともあれば、村境あたりまで行っても馬が立ち止まらぬこともある。神様が来ると、それとほとんど同時に出産があるのが常である。                         

 遠野の山の神様(山神の文字が彫り込まれている) 。

遠野物語(55) 川には河童多く住めり。猿が石川ことに多し。松崎村の川端の家にて、2代まで続けて河童の子を孕みたる者あり。生れし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。その形きはめて醜怪なるものなりき。女の婿の里は新張村の何某とて、これも川端の家なり。その主人 人にその始終を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀にうづずくまりてにこにこと笑ひてあり。次の日は昼の休みにまたこの事あり。かくすること日を重ねたりしに、しだいにその女の所へ村の何某という者夜々通うという噂立ちたり。始めには婿が浜の方へ駄賃附に行きたる留守をのみ窺ひたりしが、後には婿と寝たる夜さえくるやうになれり。河童なるべしといふ評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れどもなんの甲斐もなく、婿の母も行きて娘の側に寝たりしに、深夜にその娘の笑う声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなはず、人々いかにともすべきやうなかりき。その産はきはめて難産なりしが、ある者の言ふには、馬槽に水をたたへその中にて産まば安く産まるべしとのことにて、これを試みたればはたしてその通りなりき。その子は手に水掻きあり。この娘の母もまたかつて河童の子を産みしことありといふ。2代や3代の因縁にはあらずといふ者もあり。この家も如法の豪家にて何の某といふ士族なり。村会議員をしたることもあり。


遠野物語(56) 上郷村の何某の家にても河童らしき物の子を産みたることあり。確なる証とてはなけれど、身内まつ赤(まっか)にして口大きく、まことにいやな子なりき。忌(いま)はしければ棄(す)てんとてこれを携へて道ちがへに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思ひ直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立ち帰りたるに、早取り隠されて見えざりきといふ。


遠野物語(57) 川の岸の砂の上には河童の足跡といふものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などはことにこの事あり。猿の足と同じく親指は離れて人間の手の跡に似たり。長さは3寸に足らず。指先のあとは人ののやうに明らかには見えずといふ。


遠野物語(58) 小烏瀬川の姥子淵の辺に、新屋の家といふ家あり。ある日淵へ馬を冷やしに行き、馬曳きの子は外へ遊びに行きし間に、河童出でてその馬を引き込まんとし、かへりて馬に引きずられて厩の前に来たり、馬槽に覆はれてありき。家の者 馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば河童の手出でたり。村中の者集まりて殺さんか宥さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯をせぬといふ堅き約束をさせてこれを放したり。その河童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりといふ。


遠野物語(59) 外の地にては河童の顔は青しといふやうなれど、遠野の河童は面の色 赭きなり。佐々木鏡石氏の曾祖母、幼かりし頃 友だちと庭にて遊びてありしに、3本ばかりある胡桃の木の間より、まつ赤なる顔したる男の子の顔見えたり。これは河童なりしとなり。今もその胡桃大木にてあり。この家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。


遠野物語(178) 橋野の沢檜川の川下には、五郎兵衛淵という深い淵があった。昔この淵の近くの大家の人が、馬を冷やしにそこへ行って、馬ばかり置いてちょっと家に帰っているうちに、淵の河童が馬を引き込もうとして、自分の腰に手綱を結えつけて引っ張った。馬はびっくりしてその河童を引きずったまま、厩にはいり、河童はしかたがないので馬槽の下に隠れていた。家の人がヤダをやろうとして馬槽をひっくりかえすと、中に河童がいて大いにあやまった。これからはけっしてもうこんな悪戯をせぬから許してくださいといって詫び証文を入れて淵へ帰って行ったそうだ。その証文は今でもその大家の家にあるという。


  老年期の北上山地(岩手県葛巻町)

隆起の停止した山が老年期である。準平原になるまで、侵食が続くので、山地はなだらかな高原風の形になる。

いくら東北電力が42円という破格の高値で風力発電を買い入れても、建設費用・土地代金・保守費用を加えれば、風量発電が赤字になるであろう。故障した風量発電機を修理しないで放っておくのも、一つの判断であろう。東北電力にすれば、電圧・波長の異なる電流が、東北電力に流れ込み、その電流の量が増えると、東北電力の電気の質の低下が起こる。コンピューターが狂い、時計が来るわないようにするためには、東北電力が大規模投資を国にお願いすることになる。

 

 壮年期の山(北アルプス立山)

北アルプスの立山である。谷は深く、山頂は鋭い。山地が隆起傾向にあるから、山頂は竜気分は崩れ、常に鋭角的な山頂になる。谷は鋭い侵食谷V字になるが、積雪期には埋もれて見えない。地球温暖化の影響で、山岳氷河が縮小傾向にある。

 

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