地理講義   

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223. 南三陸町 巨大津波被害の復興は難航

2015年06月01日 | 地理講義

南三陸町志津川(2012.4.8 震災から1年後)。

南三陸町の人口は、2011年東日本大震災(巨大津波)前は18,000人、5,300世帯であった。
巨大津波による南三陸町の死者・行方不明合わせて900人近い大惨事になった。
志津川の中心市街地は20mを越える巨大津波により、大きな被害を受けた。
下図は津波からほぼ1年後だが、復興が始まっていない。
高台に仮設商店、仮設役所、仮設住宅の建設が始まったばかりであった。

1年後の志津川  

 

 

 


南三陸町志津川(2015年5月18日 震災から4年後)。
津波被害を受けた志津川の象徴と警告として、防災対策庁舎の永久保存が決定した。周囲には、津波被害を受けないように、商店街には20mの土盛り工事が進行中である。鉄骨だけの防災対策庁舎も復興道路も、土盛りの谷間に消えてしまいそうである。

4年後の志津川

  

 

  

 


復興庁による国費投入。
復興庁による事業は、市街地の宅地造成(土盛り)、上下水道の整備、復興アパートの建設などが主体である。個人の住宅建設分譲はしない。国道・鉄道の再建も国土交通省の縄張りである。個人の生活再建が復興庁の主たる業務である。
南三陸町で直接の津波被害を受けた者は、半数の約8,000人である。復興庁が、これまで11回に分けて南三陸町に配分した事業費総額は約240億円である。宮城県からの80億円と合わせると、320億円である。単純に計算すると、被災者一人当たり400万円の配分である。

この一人当たり400万円とはこれまでの事業費であり、被災者の生活復興を名目とした事業費である。九州・北海道の土建会社までも南三陸町に集結、山を削り中古ダンプを走らせて海岸に土砂を運んで土盛りをしているが、そのような経費なのである。
南三陸町は、復興事業で儲けを企むゼネコンとその下請け・孫請けの草刈り場である。南三陸町だけではない、どの被災地も似たようなものである。復興事業費の多くは、地元外の事業者が持ち帰る。

南三陸町の被災者の多くは他市町村に仕事を求めて、出稼ぎあるいは転居した。被災後、4,000人が家族とともに南三陸町から去った。もとろん、隣町の仮設住宅で生活する年金生活者もいる。将来、土盛りによる市街地ができた段階で、どれだけの被災者が戻って来るのか、分からない。戻るのは、仮設住宅に住む年金生活者が大半であり、南三陸の将来を背負う世代は戻らない。すでに東京・仙台などでの新たな生活が確立した。このため、復興庁は被災地の復興事業の縮小に乗り出した。

1人400万円とすると、5人家族で2,000万円になる。この金額で土木工事をせずに被災者に均等配分すれば、仙台あるいは東京に中古住宅を買い、新たな生活のできる金額ではある。

復興庁の配分した国費で住宅取得の資金ではない。市街地や住宅団地をつくる土木工事分である。南三陸町を去って仙台・東京でアパートを借り、新たな生活を始めた人たちの多くは、南三陸町には戻らないだろう。2,000万円の金額に複雑な心境である。

残った人たちも2,000万円を手にしたのではない。自分の住宅は自力で建設しなくてはならない。土盛りで埋もれた元の自宅宅地補償金とこれまで貯えたカネを頼りにし、足りなくては借金で、自宅を建設しなくてはならない。復興住宅は主として年金生活者用であり、生活可能の収入のある者には高家賃にされて、入居が難しい。日本政府は「被災者には十分ではないが、相当の援助をした」と言っているが、援助の減額と回収を始めることである。
これからの南三陸町の被災者の方々には、僭越ながら「去るも地獄、残るも地獄」にならないことを祈るばかりである。

 

 



2013年6月梅雨模様の夕暮れ。
瓦礫の撤去集積は進んだが、建物・鉄骨の大半は残った。住民の多くは集会所などの集団生活から、町内外の仮設住宅での家庭生活が始まったばかりである。

静側 

 


 2012年4月。災害対策庁舎のことが、あまり世間に知られていなかった。
災害対策庁舎。結婚間近の遠藤未来さんが町内への臨時放送で、津波の襲来と緊急避難を叫び続け、自らは津波で生命を落とした。周辺の瓦礫撤去の終わった2012年4月、訪れる者は少ないが、次第に慰霊のための訪問者が増えて、2015年には残った鉄骨は永久保存されることになった。なお、この庁舎では24人が死亡あるいは行方不明になった。

 災害庁舎

 

  

 


2012年4月。災害対策庁舎のことが、あまり世間に知られていなかった。
災害対策庁舎。結婚間近の遠藤未来さんが町内への臨時放送で、津波の襲来と緊急避難を叫び続け、自らは津波で生命を落とした。周辺の瓦礫撤去の終わった2012年4月、訪れる者は少ないが、次第に慰霊のための訪問者が増えて、2015年には残った鉄骨は永久保存されることになった。なお、この庁舎では24人が死亡あるいは行方不明になった。

2015年6月。震災遺構としての保存が決定。
休日に限らず、合同庁舎跡には慰霊の人波が絶えない。団体バスも来る。聖地のような存在である。

聖地


 

 


2015年5月、復興庁は復興計画の縮小と予算の削減を決定。
被災地の人口減少が著しく、津波以前の町に戻ることは不可能と判断したものである。現実には、日本の社会福祉費用の急膨張のため、政府が財政難に陥ったことの影響である。また、東京電力福島第1原子力発電所事故の終息と、被災住民への補償費用が天文学的金額になりつつあるためでもある。
復興庁は南三陸町の人口は減少することを予想し、宅地造成面積を縮小した。もともと志津川は志津川湾の養殖が中心であり、商店街と呼べるほどの市街地も存在せず、酒のともなわない食事を提供できる店はなく、食事に四苦八苦する小さな町であった。土産物を売る店も、強固なカルテルが存在するような価格で売られていた。よそ者には住みにくい半農半漁の地域であった。
土盛りをした旧商店街では買い物どころか、高低差の大きな市街地には容易に行くことさえできないだろう。
土盛りのために削った山地には新たな住宅団地が造成される予定だが、人口減少を理由に、復興庁はそれを縮小しようとしている。従来の国費投入を減額し、地元負担を少しずつ増やす計画である。政府による被災地切り捨てが始まった。

計画縮小案

 

  


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