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西條山は、斎場山である!:川中島の戦い(妻女山里山通信)

2008-07-11 | 歴史・地理・雑学
 斎場山? 初めてだなあと思われる方も少なくないはず。妻女山じゃないのと思われる方がほとんどかと。しかし、川中島の戦いで上杉謙信が布陣した西條山は、斎場山なんです。では、なぜ斎場山という言葉が400年以上も史料や軍記物、はたまた歴史研究家の文章に出てこなかったのか。不思議に思われるかもしれません。ここでは、それを解説していきましょう。

 西條山の初出は、『甲陽軍鑑』です。もちろん、これは斎場山と間違えた西條山のことです。間違えたのは、武田信玄の愛人であった高坂弾正忠昌信(こうさかだんじょうのじょうまさのぶ)その人(後に春日弾正虎綱)。高坂は、香坂とも書かれるように、戦国時代において書状は必ずしも大将が書くわけではなく、家臣が口述筆記することが多かったといいます。ですから読みが合っていれば漢字が異なっていても、それを殊更に問題にすることはなかったわけです。ですから、『甲陽軍鑑』の元となった文章を高坂弾正の元で口述筆記していた家臣が間違えたとしても少しも不思議はないのです。

 そこで斎場山(さいじょうざん)は、編者といわれる小幡景憲によりそのまま西條山と書かれてしまい、それが後世まで伝えられてしまったというわけです。(江戸時代の木版本では、「妻女山」と書き換えられています)第四次川中島合戦に関する軍記物は、ほとんど全てが『甲陽軍鑑』を参考にしていますから、西條山が必然的に流布することとなりました。また、それらを書いた者は、越後か甲斐の人々。西條山が本当は斎場山と書くなどということは、全く知らなかったとしても不思議ではありません。後世の歴史家もそれらを読むわけですから、当然斎場山ではなく西條山となります。

 ところが、江戸時代になり、太閤記などの秀吉に関する本がご禁制になると、川中島ブームが起こります。世の中には西條山と書かれた講談本や浮世絵、絵図などが出まわりました。これが松代藩の癇に障ったわけです。なぜなら松代には、西條山という斎場山とは全く別の山が存在するからです。一般的には、村上義清の家臣西條氏の西條城があった象山を西條山といいますが、明治の埴科郡誌を見ると、外部の人が西條山というときは、特定の山頂名ではなく、狼煙山から高遠山辺りの山域をいいます。
 西條山が、象山と呼ばれるようになったのは、江戸時代中期以降、明から承応3(1654)年に来日した 隠元禅師僧の故郷の地名をとって、山号を「象山(正しくは臥象山)」としてからです。佐久間象山の名は、この山号に由来します。よって佐久間象山は、しょうざんではなく、地元では「ぞうざん」と読むのが正しいのです。しかし、象山本人が、「しょうざん」と呼んでくれと書き残しているので、「しょうざん」が正しいともいえるのです。地元では、「ぞうざん先生」といいます。

 松代藩にとっては、この全く別の山である西條山が斎場山に成り代わって広まっていくことが我慢ならなかったのでしょうか。斎場山(さいじょうざん)を妻女山(さいじょざん・さいじょやま)」と読みも漢字も変えてしまったと思われます。そして、1838(天保9)年、幕府が各大名に作らせた『天保国絵図信濃国』に、正式に妻女山と記載されました。

 ところが、松代藩の思惑とは別にこの妻女山という名称が全国に全く広まらなかったのです。以後も江戸や上方の浄瑠璃や歌舞伎、浮世絵などは全て西條山のままです。地元で書かれた『甲越信戦録』や土産物で売られた川中島合戦絵図には、妻女山と書かれるようになりましたが、というか書くように藩が奨励、あるいは命じたのでしょう。それでも全国区にはなりませんでした。松代藩の大誤算です。

 ではなぜ松代藩は、斎場山を流布させずに、新たに妻女山と命名したかというと、それは斎場という意味が、古代と江戸時代では違うということだと思うのです。古代において斎場は、単なる墓場という意味ではなく、神聖な神を祀る祭事の場でもあったのですが、仏教が普及し神道本来の意味が失われると、忌避すべき言葉に変容してしまったのだと思います。明治の土口村誌には、「妻女山は、斎場山、または祭場山であって、近俗作なる妻女山はもっとも非なり」と書かれています。

 妻女山が一般的に出まわるのは、『甲越信戦録』が出てからですが、戊辰戦争後に松代藩が、赤坂山に妻女山松代招魂社を建立してからは、地元でも赤坂山を妻女山というようになり、大正時代に日本陸軍参謀本部陸地測量部制作5万分の1地形図に山頂表記もなく妻女山と記載されるに至っては、斎場山という名は次第に地元の人々の記憶からも消えていくこととなりました。地元が赤坂山を妻女山とか妻女というのは、山頂名ではなく小字名や、その下の地名にそういう名前があるからなのです。旧清野村にも、旧岩野村にも、妻女山とか妻女という小字名や地名があるのです。

 では、どこに斎場山の記載があるかというと、地元の村誌や郡誌、県史、古文書などです。しかし、歴史研究家は軍記物は読んでも地元の村誌などは読まないでしょうから、斎場山の名が世に出ることはありませんでした。もちろん、地元の人で斎場山を知っている人はたくさんいます。またいたはずです。しかし、声高に唱える人はいなかったのです。上記のように非常に込み入った話ですし、表現手段もありませんし……。大河ドラマ『天と地と』の時に、長野市が建てた古い妻女山の看板が間違っていても、まあしょうがあんめえという感じでした。

 ところが昨今の『風林火山』ブーム、来年の『天地人』と紹介されるに至っては、訪れる人も昔は考えられないほど増えました。これは見過ごせないと、私は研究を始め、長野郷土史研究会に「妻女山の真実 -妻女山は往古赤坂山であった。本当の妻女山は斎場山である-」という原稿用紙20枚の文章を寄稿したのです。

 というわけで、現在斎場山を国土地理院の地形図に掲載してもらうべく活動研究中です。では、現在の妻女山は?と思われた方もおられるでしょうが、既に地元でも赤坂山を妻女山と呼んで100年以上経つので、妻女山は現行のままでいいということなのです。お年寄りの中には、いや赤坂山だと譲らない人もいますが・・。
 妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
 
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