行徳生活日記

「行徳雑学館」作者の日記。

2014年2月10日(月)の日記

2014年02月10日 | 日記

飛び石連休の谷間だから、今日は定時を過ぎたら早めに退けて、飲みに行こうかと思っていた。すると、定時をちょっとすぎた頃に急にデータを調べる仕事が入り、午後7時半過ぎまでかかる。

ちょっと遅めだったが、行徳まで乗って駅前公園そばのみなとやへ行く。12月上旬以来、久しぶりだ。

午後8時半頃だったから、もしかしたら満員かもしれないと思ったが、意外に空いていた。小上がりは埋まっていたが、カウンターはまだ人がいなかった。そのあと、午後10時頃にはカウンターにも結構、人が入ったが。 

お通し。それと、まずは生ビールジョッキ。

最初の食べ物はサーモンの刺身

ビールのあとは地酒にして、九十九里の地酒・梅一輪の生酒。

2つめのつまみは、マグロとアボガドのサラダ。これは初めて食べる。

みなとやのメニューはボリュームがあるものが多い。このサラダもボリュームがあるし、パンも付いているからお通しとサーモンの刺身とこのサラダで食べるものは十分だ。これ以上食べると、また痛風の恐怖が待っている。

それで、あとは緑茶ハイを1杯。

みなとや店内の入口そばにある棚。

右の白い4冊は、去年、自分が写した行徳の祭り画像のプリントを入れて持ってきたもの。それ以外は、この店のほかのお客さんが持ってきたものだが、左端の3冊は去年の四ヶ村祭礼ので、今回、初めて見る。

それを見せていただく。

行徳駅の高架下での写真。

2007年の四ヶ村で、本社神輿が湊へ渡されたときに行徳駅のほうまで行ったから、去年もそうなるのではないかと思っていたが、本社神輿はバイパスを渡らず、旧道側だけの渡御だった。本社神輿が休憩に入ったときに、みなとやのマスターをつかまえて聞くと、午前中に湊の町神輿が行ったということだった。上の写真がそのときのもののようだ。

自分が持ってきたもの以外の、その前からあったアルバムも、この四ヶ村の写真も、写したのはマスターが前にやっていたバーのころからお客さんだった女性だという。

自分がデジタル一眼レフを買ったのは2011年の9月だったが、その年の秋の祭礼で最初に行われた関ヶ島の祭礼に、「今年から一眼で撮影だ。」と勇んで行くと、自分が買ったのと同じキャノンのEOS 60Dで撮影しているカメラ女子がいる。 しかも、地すりのときなどは低い姿勢で神輿に接近して、バシャバシャ写している。

それを見て、
「俺より、ずっと上手なんじゃないだろうか?」
「ずっとセンスのいい写真を撮っているんじゃないだろうか?」
と思った。

カメラの機種が同じでなければ、つまり、機種がかぶっているのでなければ、そうは思わなかっただろう。

女性は服やアクセサリー(のような着飾るもの)が、かぶると嫌だと思うらしい。男は着飾るものより、道具とか機械類がかぶると、どうしても相手を意識する。これは、動物の雄の本能から来ているものだと思う。

雄は外敵と戦う役割があるから、意識するものは牙とか爪とか角とかといった武器。人間の男の子が好むおもちゃも、やはり武器のおもちゃ。自分も子供のころは、テレビのヒーローものに出てくる光線銃のような武器のおもちゃを持っていた。

その延長で、道具や機械も一種の武器として、無意識の領域かもしれないが、そう捉えていると思う。カメラのような小さな機械・道具でもそう。キャノンのデジタル一眼を買ったら、キャノンの赤いラインが入ったストラップのカメラを持っている人がいると、どの型式のかが気になるようになった。中級機以上の機種には、ストラップに型式のロゴが入っているから、余計に気になる。同じ型式なら、つまりは条件が同じなら、それを持っている相手が自分より上手だと嫌だなという気持ちが湧いてくる。スポーツで使う道具・・・野球のバットやグラブ、テニスのラケット、ゴルフのクラブetc.も、もし、同じメーカーの同じ型式のものを持った相手がいたら、条件が同じなのだから、その相手に負けたくないと思うだろう。

今日、この話をみなとやのマスターにしたら、やはり男の感覚として分かるのか、うんうんとうなずいていた。

そして、不思議なことだが、同じ条件の道具を持つ相手がいたら、それが女性でも対抗意識が出てきてしまう。

みなとやの棚に、祭りのアルバムが置いていあるのに気がつき、見てみたとき、EOS 60Dを持ってバシャバシャ写していたカメラ女子の写真ではないかと思った。神輿に接近して担ぎ手をアップで写した写真が多かったから。

自分がデジタル一眼を買うと同時に、神輿渡御の動画記録も始めたが、いろいろと写すと、中にはそのカメラ女子も映り込んでしまった場面がある。自分が撮影した動画をMP4形式にしてDVD-Rに焼いたものをみなとやへ持って行ったが、件のカメラ女子が映り込んだ場面で、マスターに、「あの女性?」と聞くと、「ええ、そうです。」と返事が返ってきた。やはりそのようだ。

それで、カメラがかぶっていることからだろう、どうもライバル意識が生じて、自分がこれまで写した行徳の祭りの画像をプリントしてアルバムにし、 みなとやへ持って行ったというのは否定できない。その割に、そのカメラ女子には未だ遭遇してはいないが。

 

カメラがかぶっているので、つい、自分より上手でセンスのいい写真を写しているのではと思ったが、アルバムの写真を見てみると、自分とは違うスタンスの写し方だと分かった。担ぎ手のどアップが多く、中には神輿を差しているときの手のアップなどもあった。つまりはディテールにこだわった写真。

自分のほうは、地元で行われている祭りをWebで紹介するのが目的だから、どうしても説明的な祭りの風景写真になる。説明なら、全体像が分かるようにしなければならない。その上で、徐々に細部に入っていく。つまりはトップダウン的にコンテンツを構成していく。祭りのような行事に公然と参加している人の場合は、プライベートを写すときのような肖像権は生じないと聞いているが、あまりのアップをWebで公開するのは気が引ける。だから、接近してアップで写すにも限界がある。

10年ぐらいまえ、地元在住の写真が好きな女性が作るWebサイトと相互リンクしたことがあった(そのサイトは、作者が忙しくて更新できないとかで閉鎖されてしまったが)。コンテンツに地元の神社を写したのがUPされ、それを見て驚いた。狛犬や庚申塔、庚申塔に彫られた見ざる、言わざる、聞かざるの三猿の彫り物等々、自分が目を向けたことがない、細かで小さな部分を写した写真には驚いた。(それと同時に、細かいディテールばかりを並べたら、情報の受け手にとっては、「群盲、象を撫でる」になってしまうリスクがあることも感じた。)

EOS 60Dのカメラ女子が写しているのを見ると、祭りの全体象などよりも、担ぎ手をアップで写す記念写真的な撮り方に思えたので、祭りの関係者ではないかと思えた。みなとやのマスターに聞くと、最初は多少、写真など写してほしいとお願いしたということで、たしかに、ある意味、関係者だった。

だけど、関係者であること以上に、対象の細かな部分に目が向くのは、すでにないWebサイトを作っていた女性の写真の例から類推して、そういうのが女性的な感性ではないかと思う。やはり、女性は小さなものや、細かいもの、それにかわいいものなどに目が向いてしまうようだ。トップダウンで情報を整理して、ものごとを伝えるということは、苦手な部分もあるのだろう。すべての女性がそうだというわけでもないだろうが。

そしてもう一つ、行徳揉みで放り受けのときの、神輿が宙に浮いている一瞬を写した写真がないことにも気づいた。自分は2001年ぐらいに初めて四ヶ村や五ヶ町の祭礼に行ったとき、誰かに言われたわけでもないのに、神輿が放り上げられて宙に浮いた一瞬を写していた。放るのに入る直前にシャッター半押しで神輿にフォーカスロックして、上がったところで全押しにするのだが、それほど難しいことではない。

放り上げて神輿が宙に浮く一瞬は、一種、技が決まる瞬間だ。そうした瞬間を好むのは、やはり男の感覚なのだと思えた。スポーツで技が決まる瞬間、格闘技で技が決まる瞬間、ヒーロードラマで主人公が必殺技を使う瞬間等々に興奮を感じるのと同じく、これも男のというか、動物の雄としての本能なのだろう。