この記事はあらBさんのじゆうちょう Advent Calendar 2021の21日目の記事として投稿されました。
新しく挑戦したことなど何ひとつない妙齢の女モラズです。
時に断食をし、時に禁酒をして臨むべきとされたこの聖なる4週間でありますが、私は今年のアドベント第一日目を、あらBさんたちとAmong Us をするなどして迎えました。すごい面白いんですけど、結局だましだまされ殺し殺されするゲームですからね。神の救いは遠のいた。
このように愉快に過ごしながらも、ここ2か月ずっと、この小文を書かねばならぬというプレッシャーが、のどに刺さった魚の骨のように私を苛んできたものです。私は元来文書を書くのは得手ではないし、締切は守れないタイプの妙齢だし、仕事はめんどうだしごはんはおいしいし夜は眠いし姪はかわいいしブラックフライデーで得したいしなんか最近ちょう寒いし世界は憎いし、それを思えばヤツをあと13回くらいはキルしたかった。
ともあれ、せっかくいただいた機会ですので、私も何かお読みいただいた方のよきおひまつぶしになるようなコンテンツをご用意したいものです。
野望に燃え闘志を湧かせ身を清め たらふく食べてつらつら考えておりましたが、あにはからんや本日12月19日(日)を迎えて進退窮まっております。言っておきますが、こうなることは私には分かっていたのです。自明だったのです。訪れるべくして訪れた今日なのです。なのになぜか自分が憎い。この際Bも憎い。
結局、当初から万人に勧められていたとおり「今まで読んで面白かった本(小説以外編)」のご紹介をするよりほかないという考えに至りました。私が面白くなくとも本は面白いのですから非常に安全な策と言えます。万人賢い。
私以外みんな賢いこの世界で何故この鉄板テーマを外そうと考えたのかと言えば、本の紹介するのが恥ずかしくてたまらなかったせいなのですがやっぱり最後はこうなるもうだめだじかんがない。
各位は私のこのせいいっぱいの真心を受け取り、ご親切にもおひまをつぶされてください。諸兄のご努力に期待します。私は一生懸命やりました。
ということで、よろしければしばらくお付き合いください。
美術に関する本
意外なことに美術に関する本が割と好きです。私の、美術品に対する鑑賞眼や教養はほぼゼロなのですが(だからこそ?)、美術についての本に惹かれます。数を挙げればきりがないので、おおむね3方面の本を挙げます。
(1)鑑賞技術について
(2)復元について
(3)美術品盗難などについて
「官能美術史」
絵画を鑑賞するには技術が必要だ、少なくとも知識があれば鑑賞の幅がずっと広がるんだということを知ったのは、私がすっかり大人になりきった後のことです。この本では、なぜヴィーナスの肢体はS字にうねるのか、横たわった肌もあらわな女性の足元に犬がいる場合と猫がいる場合では何が違うのか、たくさんの例を挙げて解説されています。絵画は、私が思っているよりずっとずっと綿密に計算され、情報を詰め込んでいたのです。
なお、この本の著者、池上英洋氏はたくさんの著作がおありです。中でも「西洋美術史入門」という固いタイトルの本は「高校生の関心に応えるような本」という目的で書かれたものです。絵画について系統だった理論面の説明をされていて、無味乾燥そうな見た目と裏腹に内容はとてもエキサイティングです。確かにタイトルどおりなんだけどタイトルが違えばもっと売れたのでは、などと下世話なことを思ったりしました。
「誤解だらけの日本美術」
美術の復元というカテゴリに入れるのも微妙、その上復元ものの代表みたいにとり上げるのはもっと複雑、という本を第一に入れてしまいました。もちろんこの本が力不足ということではなく、美術の復元とは……? というそもそも論が生まれるような本だからです。本書には、プリンターで出力した「風神雷神図屏風」や、現物の写真からスタンプツールで「修復」した阿修羅像の再現など、「美術品の修復」によらない復元について書かれています。
当時の作者が意図したまま屏風を屏風として鑑賞するとき、すなわち展開した屏風の正面に座って風神雷神をやや見上げ、室外からの自然光が横から(当時照明はありませんからね)差してくるとき、見えてくる二神の視線の方向や屏風の色合いこそが、当時の人々が見た風景です。そしてそれは今までの綿密な研究とはまた別の角度から、その美術品の力というものを見せつけてくれます(もちろん、ただのコピーをインクジェットで彩色しただけのプリントアウトではなく、そこに至る考察と試行錯誤も読ませる部分です)。
なお、美術品の修復の現場におけるご苦労を描いた本も少数ですが存在し、今なお日進月歩の技術なことも踏まえて、復元に関する考え方の変化もあるように見受けられます。小説は今回ご紹介しない予定だったのですが、柄刀一の絵画修復士を主人公としたシリーズなどでプロの仕事を感じるのも楽しいかも知れません。また、ちょっと昔の例ですが、一大プロジェクトであったシスティーナ礼拝堂の壁画修復の記録「システィーナのミケランジェロ」なども貴重です。
「失われたアートの謎を解く」
美術品というものは、人類の宝であるがゆえに人心に強い影響を与え、独占すれば権力の象徴ともなり得るし、象徴的な存在に留まらず現世で換金可能な財産でもあります。だから美術品は昔も今も略奪され上描きされ破壊されているのでしょう。
また、人の手のみならず、時の流れによって失われる色や形もあります。この本はそのような美術品の「数奇な運命」とでもいうべきものを取り扱っています。
美術品の盗難という話になると、本邦では寺社などが被害に遭うケースを思い浮かべますが、海外では美術館が結構な名画を盗まれるケースがたびたび起こっています。どうやら(時代にもよるのですが)海外の美術館ほど鑑賞者に親切であり、そこを窃盗者につけこまれてしまった形です。
もちろん盗まれ続けるだけでなく、欧米においては、美術品の奪還についても日本より一日の長があり、FBIに専門の部署があるとも聞きます。「FBI美術捜査官 」
バイオグラフィー
子供時代に与えられがちな本といえば偉人伝でありました。あれ、なんでなんでしょうね。いまだに「キュリー夫人」とかの挿絵を覚えています。ただし、あれらはおこさまにもやさしく配慮されている内容なので、伝記としては功罪が多い気もします。半面、子供むけの最初の本の最適解として伝記が挙がるのはむべなるかなで、人さまの人生を俯瞰するという経験はやはり面白いものと思います。
「シェイクスピアの正体」
シェイクスピアの生涯にはいまだ不明瞭な部分があります。片田舎の出身で、たいした素養も学歴もなかったはずなのに、なぜか突然大都会ロンドンで天才的な作家として花ひらくのです。そればかりか52年の生涯で残した戯曲と詩は、今なおこの遠い島国日本でも上演され出版されている。これをミステリーと呼ばずなんと呼ぶ。
というわけで、シェイクスピアの「正体」については、本国イギリスのみならず世界中から、本命対抗穴大穴各種取りそろえた説が提唱されています。シェイクスピアを名乗っていた人物は一体「誰」だったのか。著者は伝記作家ではなくシェイクスピア研究者で、諸説を取り上げつつ解説をしている本作は、当たり前ですがシェイクスピアの詳細なデータ付きバイオグラフィーです。
「君について行こう」
宇宙飛行士向井千秋氏のご夫君万起夫氏によるエッセイ。実は私はこの新装版ではなく旧版を読んだのですが、どうやらレビューを見るに、新装版も全編夫婦愛にあふれていることは変わってないみたいです。ご夫婦そろってお医者さん(ガチ理系)であり、しかもご夫君も宇宙好きでらっしゃるということで、宇宙飛行士の生活を解説するのには立ち位置も素養もぴったりの方ではないでしょうか。結局一般人が興味を向けるのは、宇宙飛行士に採用される試験の話とか、日常毎日どんなスケジュールをこなしているのかとか、宇宙に行く×日前は何をしているのかとか、割合細かい日常的なところだと思うのですよね。
「銀のボンボニエール」
オートバイオグラフィーです。著者は雍仁親王(秩父宮)妃勢津子。秩父宮は、比較的長命であった昭和天皇の四人の兄弟の中、ただ一人五十歳の若さで戦後ほどなく薨去された宮さまです。今は秩父宮ラグビー場にそのお名前が残っていますね。その妃の勢津子さまは幸い平成の時代をご覧になり、この本を1992年に上梓されました。
私は文庫本で読みましたので、ふとんの中でごろごろしながらかみつお方の人生をお手軽に読めるなんていい時代になったなあなどと思ったものでした。何しろ出てくる人たちの血筋がすごい。まあ旦那さまが宮さまなので当たり前なんですけど、勢津子妃自身も会津藩主松平容保の孫。イギリス生まれアメリカ育ち、生まれが上流階級なだけでなく、自身も当時最先端の知識や文化に触れてきた人です。やっぱり別世界を覗き見るかのような本の面白さは格別ですね。
考古学的なやつみたいな本
歴史の授業はさして得意ではなかったのですが、歴史の話、特に現物が土の下にちゃんと埋まっていて、掘り出したら再現できちゃうというような話は好きでした。皆さんもわりとそういうとこないですか?
「日本神話の考古学」
この先生は、考古学のものすごい先生であったにもかかわらず、さらに一般書をたくさんたくさん出してくれてもうほんまに好き(語彙力)。本書は古事記や日本書紀などの記述(の荒唐無稽さ)を、実際土中から発掘されるモノで解釈し、事実を見つけていくという試みの解説です。
意外なことに文献から歴史を読み解く文献学と考古学とは、それまでそんなに仲良くなかったらしいのです。なぜなら記紀の記述があまりにも荒唐無稽だったから。日本神話は時の為政者が圧をかけ都合の良いように作り出したおとぎ話であるので、歴史として鵜呑みにすることはできない、だから考古学と整合性がとれないのは当然だと考えられていた、のだそうです。この先入観を脱した先生の推論には、夢やロマンとともに、きっと真実も含まれているのだと思えます。
「ツタンカーメン」
ツタンカーメン、本当は「トゥトゥ・アンク・アメン」と呼ぶべき人なんだそうです。この音だと日本国内でしか彼の名前と認識されないらしい。本書の冒頭で、ツタンカーメンの研究者である著者が「まあここでは便宜(当然読者の)をとって全編通じてツタンカーメンでいきますけど……」みたいな感じをにじませておられ、一般書を書かれる専門家の困惑めいたものが伝わってきます。
このようにツタンカーメンは日本独自の音が与えられるほどに日本人の人口に膾炙していますが、遠い国の、しかも古代の、ごく短命の王です。それでも彼は本国エジプトにおいても、居並ぶファラオたちを制すほどの人気者であると言います。わかるー。
彼の未盗掘の王墓から発見された副葬品は、死後の世界でも不自由しないようにという信仰により、王の副葬品として新たに作成された華麗なものから使い慣れた実際の日用品に至るまで幅広いものでした。それらはツタンカーメンの嗜好や身体的特徴、そしてその死の有様についても現在に伝え得る証言となったのです。そういう情報を拾い集めては、我々は彼を偲ぶよすがとするのですね。尊い。
「死体が語る歴史」
書き進めるうちうすうす気づいていたのですが、そこそこ品切れ品が含まれる読書案内となり申し訳ありません。どれもめちゃめちゃ面白いのに惜しい。
先のツタンカーメンの話も、この後のポンペイやアイスマンの話もそうですが、ボディがあれば死因や当時の食生活や、場合によっては身分や職業の推察ができるというのは、当たり前のようで驚異的な学識(など)であるなあと思います。そしてそれはとても意義あることなのに、このような本が(それほど)売れていないことを鑑みても、果たして現場の学者先生たちに十分ペイされているのか、そもそも研究費は足りているのだろうかとか考えてしまいます。
この本は、著者が接した古病理学検体についての一般向けレポートです。ページ数350弱のそこそこの大部さなのですが、取り上げられている検体の数が多いせいもあって、一件あたりの言及がやや性急な印象を受けます。これはとりもなおさずこの先生の実績の多さと言えるものであって、次々と現れる遺体とその歴史における立ち位置の読み解きには迫力が満ちています。
「ポンペイの滅んだ日」
ポンペイの都市名を冠する、いわゆるヴェスヴィオ山の西暦79年の噴火関連の催し物については、日本でも大変人気があるように思えます。はるばるイタリアまで直接足を運ぶ人だって少なくないようなのですが、日本語で書かれた本はそう多くないのです。私が思い当たるところでは本村凌二氏の著作のほかは、たくさんの単発の写真(大型)本がヒットするくらい。たぶん。
写真本についてはちょっとキリがないのと、10年に一回は日本に来る「ポンペイ展」で発行される公式図録がデータ的に充実かつ最新のものなので(しまう場所には限界があることだし)、それで十分満足することにしています。(なお、ナショジオにおいてはたびたび記事として取り上げられているのでそれが楽しみ)
ただ、79年の噴火とポンペイ(そしてヘルクラネウムなどの近郊の遺跡)を知りたいとき、概説だけでもロマンを掻き立てられるあの町とその最後の日々が、それほど日本語で読めないのは寂しい限りです。
本書は30年ほど前の著作で、最新の発掘、研究結果の反映ではないところもありますが、「その日に何が起こったと考えられているか」が述べられています。また、小プリニウスの書簡が(おそらく)全文収められていることも大きいです。この書簡(の体裁をしたレポート)は、最近までヴェスヴィオ噴火の完全なレポートと信じられてきましたが、近年ではその噴火日に疑いが生じるようになってきました。エキサイティングですね。
「5000年前の男」
1991年に発見されたいわゆるアイスマンに関する最初期の本です。アイスマンについてもナショジオの記事により現在の研究動静に接することができます。
というわけで1997年に日本で文庫版が出た本書は、アイスマンの包括的なレポートというより、1991年に「冬山で遭難者を発見」という第一報を受けたところに始まる現場の混乱と、遺体の回収・保存や研究方法の模索、そして最初期の調査などについてのレポートということになります。こういうのは、研究が進んでからの解説ももちろん面白いのですが、後になると省かれてしまいがちな当時の空気なども知れるのがドキュメンタリー的で大変面白いと思います。
リンク先の書影にあるアイスマンはまだ発見当初の冬山に飲み込まれている状態であり、ここからも彼の着衣や持ち物といった遺物を含めた遺体の回収に大変な労力が払われたことがうかがえます。
事件についての本
悲しい事件がおこります。間違いなく悲しいと感じているのですが、知りたいとも思ってしまうのです。
大きい事件については、名作と呼べるようなルポが発表されることもあります。例えば「桶川ストーカー殺人事件」や「闇に消えた怪人」「魂の遍歴」など。
「死刑の理由」
タイトルが良い。内容の前にタイトルを褒めるのはいかがなものかと思うのですが、内容はシンプルに(死刑)判決文集です。まさに死刑の理由。判決文とは、起訴されたことについて、証拠があるものに限って拾い上げ、それだけを対象に量刑を決め、その理由を述べたものです。本書はこの判決文を抄録したもので、著者が書いた部分というのは実はとても少ないのですが、やはり日ごろ向き合わない判決文というものの微に入り細に穿つ迫力を目の当たりにすると、事件というものはこれほどたくさんの人に影響を与えるのだ、という素朴な感想が浮かびます。
迫力と言えば、裁判所の作文というのは実に独特で、なぜこんなにも句点(マル)を打たないのか、法務省はきっと文部科学省の目が届かぬとこで独自に文法指南書を発行しているに違いないと疑うほどに文章が長く、普通に一文が文庫本1ページ超えたりするのです。しかも結構泣かせるし。
被害者は色々なケースがあるにしろ、多くは社会人として真面目に生きてきたもので、社会にあっては良き上司、良き同僚であり、家庭にあっては善良な夫(妻)、善良な父(母)親、またかけがえのない愛息子(娘)として、或いは春秋に富み、或いは働き盛りで一家の大黒柱であった人たちなのです。定型と言ってしまっていいほど同じ語彙を頻出させながらも、噛んで含めるように、被害者たちの人生を、善良な得難い人であったと「認定」していきます。
「殺人者はいかに誕生したか」
著者は臨床心理士。精神科医ではなく、従って裁判で証拠となり得る精神鑑定書を作成することは出来ません。本書はそんな臨床心理士が、事件の被告人らと対話を重ねた際のレポートです。私はこの本に大変衝撃を受けました。
光市母子殺害事件や秋田児童連続殺害事件の加害者らの報道に接したときに抱いた印象と本書の内容は、私にとってそれほど乖離しないのです。光市の事件で死刑が確定した元少年は、決定的に無反省を社会へ印象づける手紙を書きましたが、あれは今よりちょっと子どもだった頃の私のメンタリティとそんなに違いません。目先のことに気を奪われてなかなかことの重大さに気づけず、さりとて自分の愚かさを認めたくなくて、身内だけに意味不明なほど調子づきます。おお、これワイやないか。
秋田の事件においては、逮捕前だった被告人が報道陣をにらみつける様子を撮影されました。あの顔もワイです。多感な女子中高生であったころ、絶対に間違いを認めない、認めたら負けだし後がないと思い込んでいるときの、狭量で思慮が足りない、そして余裕がない私の顔です。
だから彼らを許そうという話ではなく(尤も本書に告白したことがすべて真実であれば、秋田の事件のほうの被告人は争うべきことがあると思いますが)、彼らはこんなにも私に近い、今社会で無害ですという顔をして生きている私も別に善良でも何でもないのだと、そういうことを考えました。
なお、安心していただきたいのですが、ほんまこいつ何考えとんねん全然わからんわという人もいましたょ。
名著
「名画を見る眼」
絵のとこに入れようと考えていたのですが、岩波新書の復刊では必ずラインナップされる本なのでここに入れました。1969年の本です。残念ながらkindle化されておらず、復刊されても図版の印刷精度は当時のままのように思われるので(全部白黒だし)、何とかならんのかと不満を抱いております。
前掲の池上英洋氏が、中学生のときに同書に接した思い出に触れておられ、「おお、先生ワイもワイも!私もそうでした!」と思ったものですが、行きつく先が違いすぎた。すみません、全然ワイもじゃありません。私はこの本に優しく解説されて、絵って面白いんだなあって知りました。なお、「続 名画を見る眼」という続編もあります。
「私は赤ちゃん」
育児書です。ここでまさかの育児書ランクイン。そして驚きの1960年刊です。なぜここにあるかといえば、勿論岩波新書の復刊で毎回ラインナップされるからです。そしてさらにkindle化されています。これを名著と呼ばずに何を名著と呼ぶのか。
1960年と言えば、私の母もまだ小学校上がったところという頃です。現代の育児書として全編わたって実用に供するかと言われれば、それはやはり厳しいと思います。にもかかわらず、今も愛される理由というのは種々あると推察されますが、私は育児書として読んだことがあまりないので、それ以外に推す理由を述べておきましょう。
本書は、当時新聞で毎日一話ずつ連載されていた記事を一冊にまとめたものです。内容は、若いママが初めて出産し、赤ちゃんをつれて、核家族で暮らす団地へ戻ってきてからのおよそ一年間の日常の描写。
妙にニヒルな赤ちゃんの「私」が、ミルクがまずいのおなかが痛いの空気が悪いのと、饒舌に語ってくれながら(もちろんそれはママには伝わらないのです)、「こういう時はこう思って泣いているんだからこうしてほしい」と、紙面を読むお母さんたちに訴える話です。量的には一話がおよそ新書版の見開きページ分、すべてにいわさきちひろさんの挿絵がついています。
この本の魅力は、私の知らない1960年代の若い夫婦の生活が描かれている点です。彼らの生まれは1935(昭和10)年ごろとなるでしょうか。少年少女時代に戦争を経験し、今まさに高度成長期にある都会で、核家族だけで暮らす若夫婦の姿。テレビは(この本では)まだ生活になく、情報収集や娯楽はもっぱら雑誌かラジオです。
なお、こちらも続編「私は二歳」があります。
ネットから生まれた作家の本
どっから生まれたって良いし、むしろ木の股だろうが桃からだろうがいくらでも生まれて面白い本書いてほしい。自分がTwitterに張り付いているせいか、最近ブロガーやユーチューバー出身の著者が、その知識を本にされる事例も増えてきたように感じます。絵のとこでご紹介した青い日記帳さんもそのおひとりです。
「冤罪と人類」
著者は長年、少年犯罪データベースを主宰してこられた方。今回の著作は、直接少年犯罪にのみ焦点をあてたものではなく、冤罪事件(被疑者は少年であったが)をベースに、とにかく綿密に詳細に丹念に周辺事象を考察したものです。その範囲は当時の社会情勢はもちろん、内務省と司法省の立ち位置と日本国憲法の成立、鑑識の歴史と失われた神鑑識官の技術、精神鑑定を行った医師、取り調べを行った警部、弁護士、その他もろもろへと多岐にわたっています。
これの掘り下げが一つ一つ素晴らしい深さであり密度であるのですが、反面各論が強烈すぎて、総論となった「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」については弱くなった印象があり残念に思いました。これは著者がこの結論を見失ったわけではなく、(著者が意図したとおり)各論の結論を踏まえれば自然にひもがほどけるような自明さを以て示されているからであろうと思うのですが、もう少しアダム・スミスは脇役でよかったのではないかと、これは編集者への文句でもあって、そんな風に感じました。
とはいえ、この内容を物すに際し著者は徹底して原典にあたっており、また同時に過去の出版物の数々が、一次引用ではなく二次三次引用を用いていたことを明らかにしました。これによりおよそ70年を経て明らかになった事実も出てきました。なんという執念、なんという労作であろうかと感嘆した次第です。
「オカルト・クロニクル」
最初にお断りしておくと、2018年に上梓されたこの本は、残念ながら出版元の解散により絶版中です。したがってリンク先にプライム価格が表示されていたとしても定価ではない可能性があります。1,800円より高かった場合はポチる際よくご検討ください。
著者は同名のサイトオカルト・クロニクルの運営者。本書はもとよりサイト自体の評判もごく高く、かえすがえすも洋泉社の解散が惜しまれます。印税で取材費をたくさん稼いでほしかった。
私はオカルトと名の付くものが何でも大好きだし、別段すべてを懐疑の目で見ているわけでもないのですが、「おおお、それは興味深い、もっと詳しい記事をくれ!」となったとき、それに応えてくれるのは、たいてい懐疑派の立場をとる書籍でありサイトであるので困ったものです。
オカルト・クロニクルもそのような情報を与えてくれるサイトの一つです(懐疑派とかではいらっしゃらないようですが)。本作では、オカルトというよりやや「未解決事件」に寄った事案のレポートであり、ディアトロフ峠事件など、知る人は大好きな事件について、出来得る限り詳細なデータが示されています。なお、本書には、赤城神社主婦失踪事件についての貴重な画像が収録されており、私はこの一枚のためにこの本を買ったと言っても過言ではありません。見られてよかった(また余談ですがこの本の刊行後、ここに収録されている「坪野鉱泉肝試し失踪事件」については二十余年ぶりの解決を見ました)。
「奇書の世界史」
実はこないだ読みたてほやほやの本。著者はYouTubeやニコニコ動画に、世界の奇書の解説動画を投稿しておられる会社員さんとのこと。私は動画を拝見したことがまだないのですが、本書は語り口が平易ながら終始説得力を感じさせる筆致なので、たぶんめちゃ面白い動画だろうと確信しています。
内容はタイトルのとおり、多種多様な奇書についての紹介本です。簡単に多種多様と言いましたが、この多様さは、ためになるとかではなくて純粋に楽しい。奇書と聞いて一番に思い浮かべた「ヴォイニッチ手稿」からフラーレンの52Kでの超伝導論文まで、行き届いた解説が収録されています。まさかたのしいどくしょで超伝導を解説されてしまうとは。
本というものは、私のような者にとっては大変ありがたいものですが、反面一時の感情に流されて極端な意見を新聞に寄稿したり、嘘を書いたり、真実と信じて生涯を捧げ身を削るようにして執筆してもそれが誤りだと判ったりすれば、それがそこそこ残ってしまうものでもあります。後世の人間のジャッジというのはまことに無邪気で非情です。
さて、ここまでやみくもに書いて参りました。潮時を三回は超えた気がしております。
何冊くらい挙げればいいかとかバランスがとか系統だったとか、そういう思慮が何一つ感じられないままの25,000字。お察しのとおり上から順にただ思いつくまま書いてここまで来ました。こうなると書く方よりもむしろ読む方が疲れる域です。まさか冒頭(あれも結構長かったな)の「しばらくおつきあい」がよもや20,000字超を指すとは。
どれだけの方が最後までお読みくださったのか、果たしてこの謝罪が何人に届くのか、3,000字くらいで止めた人にも届けたいこの想い。いたずらにおひまをつぶして申し訳ありませんでした。お読みいただいてありがとうございます。
それではどうか皆さま、良いクリスマスをお迎えください。
また、新年が皆さまにとって素敵なものを運んできますように、心からお祈りしております。
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