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原節子さん死去:「…騒がないでと」

2015年11月26日 | 映画

   ご冥福をお祈りいたします

「わが青春に悔いなし」より。YouTubeなどでまだ多くの作品を見ることができます。

毎日新聞 2015年11月26日 00時49分(最終更新 11月26日 01時18分)

 小津安二郎監督の「麦秋」「東京物語」、成瀬巳喜男監督の「めし」など名作映画に数多く出演し、神秘的な美しさと気高さで日本を代表する女優として活躍した原節子(はら・せつこ、本名・会田昌江=あいだ・まさえ)さんが、9月5日肺炎のため死去していたことが25日分かった。95歳。

 神奈川県鎌倉市の原さんの自宅には多くの報道陣が詰めかけた。インターホンを通して取材に応じたおいの熊谷久昭さん(75)は、心境を問われると「95歳ですからね……。でも亡くなる前日まで意識ははっきりしていました」と名残惜しそうに語った。8月中旬まで熊谷さん方の敷地内にある別宅に住んでいたが、容体が急変して横浜市内の病院に入院し、9月5日に亡くなったという。また、3カ月間公表しなかったことについて、熊谷さんは「『騒がないようにしてくれ』と本人に頼まれていた」と説明した。葬儀は済ませ、東京都内に埋葬したという。【因幡健悦】

 ◇映画監督の山田洋次さんの話

 原節子さんが亡くなったなどという知らせを聞きたくありません。原節子さんは美しいままに永遠に生きている人です。半分は神様と思って手を合わせます。


 

 その美しさから映画ファンに鮮明な記憶を刻んだ原節子さんが亡くなった。42歳で映画界から引退した後はマスコミを一切シャットアウト、一市井人として過ごした後半生だった。 

 原さんの女優としての魅力を最大限に引き出したのが、小津安二郎監督(1903〜63年)だった。出演した小津映画は6本。いずれも数々の映画賞に輝いた作品だが、原さんはその中で「もう一人の女性」を鮮やかに生きてみせた。

 小津監督が原さんを初めて起用したのは「晩春」(49年)。「原さんを見たとたん、ボーッと小津さんの頬が赤く染まった。『節ちゃんて美人だなア』。小津さんはあとでそういった」(「小津安二郎−−人と仕事」より製作の山本武さんの証言)。原さんは当時29歳。美しさの絶頂期だった。小津監督は「彼女のように理解が深くてうまい演技をする女優は珍しい」と演技力も高く評価した。

 「晩春」から「麦秋」(51年)へと、原さんは「紀子」という役名で、嫁いでいく女性を演じた。彼女の結婚話を巡って、家族の亀裂が徐々に明らかになっていく筋立てだった。「麦秋」で映画賞を総なめした51年11月、小津監督は日記に次のように記した。「このところ原節子との結婚の噂(うわさ)しきりなり」。しかし、うわさだけ。2人とも最後まで独身を貫いた。

 小津映画の3本目が、最高傑作の定評がある「東京物語」(53年)だ。原さんは、同じ「紀子」ながら、戦争で夫を亡くした若い女性にふんした。亡き夫の父周吉の役が、笠智衆さん(93年死去)。上京してきた周吉夫婦が、実の子供たちに冷たくされる中で、血のつながりのない紀子だけが温かく義父母に接する。原さんは輝くような美しさだった。

 「紀子」時代は3本で終わり、「東京暮色」(57年)を経て、「秋日和」(60年)と「小早川家の秋」(61年)では、「秋子」に役名が変わった。両作品とも、秋子は随分前に夫を失い、再婚話が持ち上がるけれど、最後に1人で暮らすことを選んでいる。

 東宝専属の原さんを松竹映画に起用するのは、5社協定のある当時は大変だったが、小津監督はそれを実現させた。映画の中で原さんに1人で生きることを選ばせたのは、監督の思いからだったのかもしれない。

 原さんは引退後、鎌倉の自宅に引きこもったが、小津監督の墓参は続けた。写真週刊誌やテレビのワイドショーで隠し撮りされてから、ますます人目を避けるようになり、庭にも出なくなった。しかし、「永遠のマドンナ」を懐かしむ映画ファンは多く、86年には引退後24年ぶりに写真集が発行され、好評だった。

 ともあれ、原さんの優れた個性と魅力は、これからも小津フィルムなどの中で生き続ける。(客員編集委員・高橋豊)